ライン新聞と言っても、
のです、こういう新聞です。
1842年1月から43年3月までドイツで発行された急進ブルジョアジーの革命的民主主義的傾向の新聞。マルクスは、はじめ寄稿家としてまねかれ、1842年10月から編集長となって、きびしい検閲とたたかい進歩勢力の結集に努力した。マルクスは、同紙が政府によって禁止される以前に身をひかざるをえなくなったが、結局、同紙は禁止された。(新日本出版社『社会科学総合辞典』)
マルクスが編集長であった頃の話で、こちらの本に紹介されています。
ある夜、この検閲官は妻と年頃の娘ともどもライン州の長官が主催した大舞踏会に招待された。検閲はそのまえに終えておかなければならない。ところが、その日にかぎって見本刷りがなかなか出てこない。公務を無視するわけにはいかず、彼は待った。しかし、長官の舞踏会にも顔を出さないわけにはいかない。その舞踏会が年頃の愛娘を社交界に送り出す初めての機会という事情もあった。十時近くなって、もうそれ以上は待てず、彼は妻と娘をさきに送り出し、自分も会場に直行し、見本刷りは召使いに新聞社まで取りにいかせた。ところが、新聞社から戻ってきた召使いは、もう新聞社は閉まっていたと言う。慌てた検閲官は、舞踏会場からかなり離れたところにあるマルクスの下宿まで馬車を飛ばした。そのときにはもう十一時近くなっていた。
検閲官は何度も呼び鈴を鳴らし、ようやく三階の窓から顔を出したマルクスに階下から呼ばわった。
「見本刷りだ!」
「そんなものはないよ!」とマルクスも呼ばわり返した。
「なんだってーー」
「明日は発行しない!」
そう言って、マルクスは窓を閉めてしまった。屈辱と怒りのあまり、検閲官にはことばもなかった。が、それからというもの、彼はマルクスに対してより丁重な態度を取るようになった。