BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

記号と文字

2022-01-20 | 思い遥か

Saussure、ソシュール、この人名を始めて聞いた50年も前の、かの恩師は授業で言語学者泉井氏を語って、そすゅーる とか、難しげにそう言ってみせたのは、講義に印象に残っていたのだろう、学派の重鎮である師の師匠だったか。
さてその翻訳本を手にして原語原典の見ることを知らず、フランス語をわかるほどになく、言語学言論は訳者による所記、能記の言葉がそれと気づくまでには何十年かかったか。概念、聴覚映像もしかり。ランガージュ、ラング、パロールと使いわけ、言語と言とが、違うというのは何か、とか。通時、共時と、近代言語学の祖が見せた研究は用語の定義から学ぶことを知った。
それを評した国語学の理論は言語構成説と呼んでいた。国語学原論という著作は、その意味では難解だと思わせた言語学の指針となったのかと思う。もちろん、言語過程説と言語構成説となにほどの理解を持ったか。所記は記されしものと概念過程と、能記は記すに能うものと1次言語のことと思い合わせたように、入門は解説になるには難しすぎたかもしれない。
それでも記号とは、言語記号とは恣意性にあると理解してもなお、記号が言葉であるというのはどういうことかと思い続けてきた。
答えは、記号の実在にある。言葉は口の端からもれるから消えてなくなる、それを文字にするわたしたちにいわば記録する文字が記号なのである。すると文字の実在というところに共通する言葉を想うことになる。








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