BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

漢字の概念

2022-01-21 | 日々新た


わが愛猫、ちゃちゃ、ハロウインに、茶々ブラウンとして、にゃあい出まする・・・



記号と文字 ―承前ー

すると、どうなるか。言語記号を知り、文字を知ると、とりわけそれは漢字のことになる、それを用いる日本語はどうなるか。概念と相当に、想到するのは漢字であるから、いわば言語記号のようにダイレクトに意味にならないということは、漢字を学習してのことだから万人共有というものでないことはそれはその通りで、仮名を編み出してきている日本語でもある。
これはまた文字というものの扱いがあって、意味を知るというプロセスにまずはあるものの、最近のカタカナ、外国語にはそれがないということも普通のことで、中国語のように音訳を含めた漢字語句にならない、電脳ときくが、でんのー それは何か、でぃえんのお という音を聞いて漢字をたずねることは日常であるし、冠毒とみても新漢字語はもはや流行することがないほど、発音とカタカナのままに、そうでないものは名前の記憶には便利となると、名を知るところにすでに漢字文字があったという、言語に移入された道具となっている。
概念を経る脳作用に漢字のプロセスがあることをだれが知ろうか、誰も知りはしないくらいに、眼前の事実に言語記号として言葉ならぬ記号いや言語なのである。誰も知らないことはないというのはみんなが知っているからそれをわざわざ考えだそうとすることもないというのに等しく、電脳応用のこの計算機を文書作成機とする、タイプライターを打ち続けるのに文字変換はそのままに行われるから、ここで開発者の労苦を思えと、漢字文字による言語すなわちことばは記号の存在をあらためていうようなことになる。
日本語は文字を学び書き記すことでまた学びの対象となる。それを同様に、しかしプロセスを簡略にした学びを行い続けている。










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