続・MBAへの道

MBA卒業後の徒然を書き綴ってみようと思います。

生命の系譜

2007年01月31日 23時33分36秒 | 社会経済
また失言でもめています。もちろん、例の「産む機械」発言のことです。ああいう立場の方がどうしてこうも安易な発言をしてしまうんでしょうね。極端な比喩を示して話を印象付けようという作戦でしょうか。それならある意味大成功だったとも言えます。日本中がこの言葉を記憶しましたから。でも、その代償は大きく付きました。勘弁して欲しいですね。そもそも、こうした発言1つで国会の機能が不全になってしまうことも問題だと思います。もっと議論すべき重要なことが沢山あるだろうに…。でも、国民的にはこういう事件の方が面白いのかもしれません。
そんな失言に乗じてではありませんが、最近読んだ本の中に興味深い話がありました。「今生きている人の大部分の人の子孫は500年後にはほとんどいない」「逆に、今生きている人は500年前のほんのわずかな人たちの子孫である」。そんな話です。面白くないですか?。たまたま電車で隣に座った見知らぬ人も、実は遠い昔の親戚かもしれません。会社で仕事をしている同僚も、ずっと遡れば血縁関係があったかもしれない。そうなります。妙な感じですね。
今自分がいると言うことは、当然親がいます。親が入ればその親(祖父母)もいて
、さらにその親の親もいて…。どこまで妄想できますかね。大河ドラマで「風林火山」とかやってますが、あの時代にも自分の先祖がどこかで戦い生き抜いてきたわけです。鎌倉、平安、奈良、大和、弥生、縄文…。今よりはるかに生存が困難な世界を生き抜いてきた数少ない先祖の子孫が自分なわけです。本当に偶然の話ですよね。どこかの合戦で先祖が流れ矢にでも当たっていたら、自分はいなかったわけですから。不思議な感覚です。
想像を絶する数の生命の系譜が途絶えてきた中で、先祖が必死の思いで守り生き抜き伝えてきた生命の結果が今の自分です。誰もがそれぐらい重たい先祖の思いを背負って生きているわけでして、子供を生み育てると言うことはそれをさらに伝えていくことに他なりません。自殺なんてもってのほかなわけです。
かなり大げさに書いてみましたが、最初に戻れば、まぁ「産む機械」なんて言っちゃいかんということです。以上。

再びSPI

2007年01月30日 22時12分49秒 | 出来事
また出会ってしまいました。SPIに。筆記試験です、就活用の。この歳になって、速度の計算とか確率の問題とかやるのは文系人間にとっては難儀です。試験自体は別に難しいものではないです。ただ、時間に追われて脳みそを高速回転させるのが難儀なだけで。なんてこと言っていてはコンサル業など務まらなそうですが。
前回のSPIは試験センターでのWeb受験でしたが、今回は先方の会社にて紙とマークシートでの受験でした。ちょっとしたやり方の違いなんですが、これが精神的には結構違うんです。Web受験の場合は、当然PCの画面上で回答をしていくのですが、設問は前から1つずつ、しかも各設問ごとの制限時間が設けられています。画面の下のほうに時間を表すバーがあって、そのバーの色が段々延びて赤色になって、タイムオーバー。強制的に次の問題へといかされます。対する紙の場合は、国語30分、数学40分と分かれてはいるものの、設問ごとの時間設定は自由です。問題冊子も1冊なので、順番も自由に選べます。分からなければ飛ばして、後から戻ることも可能なわけです。
お気づきの通り、Webの方が焦ります。次の設問も分からないから、とりあえず目先の問題を解くしかありません。飛ばしたら、戻れませんし。押し寄せてくる敵をひたすらなぎ倒すイメージです。ですが、今日の紙バージョンは落ち着いて出来ました。全体構成を俯瞰して時間配分を考えながら回答できたからです。作戦を立てながらも臨機応変に戦うイメージでしょうか。
全体が見えるか見えないか。自分でペースを作れるか否か。あくまで私の場合ですが、このあたりがテストのパフォーマンスを大きく左右する要因のように思えます。当たり前かもしれませんね。でも、テストに限らず仕事でも何でもやるときに、意外と全体を俯瞰して自分でペースを上手く作っている人って少ない気もします。分かってるんなら、もう少し計画的にやればいいのに…。そういう方にはWeb受験の方が向いてるのかな…。
そう言いながらも今取り組んでいる白書の執筆。全体が全く見えない…。はぁ。押し寄せる敵をなぎ倒すのみ。頑張りましょね。

仕組み化と自己否定

2007年01月29日 23時16分58秒 | 経営全般
今日は同窓会関係の引継ぎをしました。と言っても資料の引継ぎがメインでして、そんなに深い話をしたわけではありません。それでも何だかよく分からないままに同窓会活動に巻き込まれる1年生の皆様には、出来立てホヤホヤの同窓会の現状を少しだけお伝えできて良かったかなと思います。これで引退…。のはずなんですが、卒業後も同窓会の理事として責任は残るんですよね。将来の発展のためにこれからも頑張らねばなりません。
そんな同窓会活動について、昨日の夜も関西の別のMBAの同窓会関係の方と話をしていました。そちらは我々のようにフルタイムではなくパートタイムのため、現役生はほとんど同窓会活動に関わりません。あくまで卒業生がメイン。対する我らは現役生が同窓会の事務局となっているため、現役生が中心となって引っ張っていく形式です。どちらも一長一短あるのですが、共通して難しいのは継続して活動を行っていく仕組みを作ること。これに尽きると思います。
私のようなモノ好きが、ある時期にワーッと盛り上げても、継続して活動を行っていく仕組みがないと結局は続いていきません。東京の某MBAの同窓会では盛り上げ役が完全に固定化していて、特定の人への負担が大きくなり苦労していると聞きました。やっぱり仕組み化が大切なのです。
企業経営でも同じです。カリスマ経営者が一代でなした成功は、その後なかなか長続きしないものです。どこかで仕組み化しなければなりません。そこまでカリスマではない普通の経営者や管理者でも事情は似ています。でも、実際に仕組み化を成功させる人は少ないように感じます。なぜか?。仕組み化とは、特定の個人の力量に依存しない仕組みを作ることです。言い換えれば、カリスマが要らない状態を作ることです。カリスマならずとも、組織において自分の必要性を自ら否定することって結構難しくないですか?。どうでしょう。自分の必要性を否定する。そんな人ほど良い仕組みを作れる。だから、結局必要とされる。???。
随分と話が飛躍しましたが、我らが同窓会もまだまだ個人頼みです。ちゃんと仕組み化できると良いのですが…。

いつが買い時!?

2007年01月28日 17時41分29秒 | 関心事
先日、うちの実家に薄型テレビが導入されました。古いテレビは私が中学時代にお年玉年賀ハガキの1等で当てたもの。16年使ってきた懐かしいテレビになります。当時はBSチューナー内蔵の小画面付きという極めて優れもののテレビでした。20万円相当だったと思います。昔の小さい家に似合わず、29型テレビが妙に巨大な印象だったことを覚えています。その懐かしいテレビもついに音が出なくなり、画像が乱れる状況でして、ついに最新の薄型テレビへ移行したというわけです。
メーカーはシャープ。すなわちアクオスの液晶テレビです。大きさは32型。37型の導入も検討しましたが、テレビ置き場の関係で1cmだけ高さが足りない。残念ながら32型になったと言うことです。今回はフルハイビジョンの導入は見送りました。スペックを過剰信仰する父にしては珍しい決断でしたね。店頭価格にして10万円ぐらいの差がありましたから、懸命な選択だったと私は思います。第一、そんなに違いが分からんですし…(見る人が見れば全然違うんでしょうけど…)。
テレビの買い時。「いつが買い時か」と散々父に聞かれました。なにせプラズマと液晶の双方が闘っており、双方に利点・欠点があると言われています。最近は液晶が有利なようですが、次世代のテレビの登場も考えると結局何が良いのか分かりません。スペック重視の父ですから、とにかく一番良いものが欲しい。買ってすぐに新しい製品が出るのが我慢ならんのだそうです。でも、それを気にしていたら始まりません。待てば待つだけ価格は下がりますし、3年も待てば別の良い製品が今より安く買える可能性は高いです。じゃぁ延々と待ったらどうか。自分が死んでしまっては意味ありません。
「欲しいときこそが買い時である」。答えは極めてシンプルです。あとは買ったあとどれだけ使うかの問題。使わないなら、お店に置いといてもらう方が良いわけですから。欲しいときに買う、買ったら使う。それこそが後悔しない最善の選択かと思います。
と言いながら、買っても使わない(読まない)本の山に埋もれている自分は…。

ヒトの問題

2007年01月27日 13時34分53秒 | 経営全般
酒が飲めないくせに連日のように飲みに参加している今日この頃です。ところで、最近の飲み屋。昨日の店もそうだったんですが、料理やドリンクの注文が電子化しつつあります。テーブルに端末が置いてあってそこから注文する形式のものです。ついでにゲームなんかも出来ちゃったりして、そこでも収益を上げようという意図なんでしょうね。よく見かけませんか?。別にそれはそれで悪いことではないんだと思います。でも、昨日の店に顕著だったんですが、どうも店員さんの対応が芳しくありません。呼んでも来ないし、料理も遅いし、頼んだ品が来ないし…。これではサービスとしてどうかなと感じます。
サービス向上のための電子化が逆にサービスを悪化させている。ここにはそんな構図が見て取れます。恐らく、電子化した分だけ人は減らしているのでしょう。そうしないと採算に合わないでしょうし。でも、人を減らした分、いざ呼ぼうとすると捕まらない事態が生じます。店員の側の意識としても、他の仕事が多くなった分、客への気配りは少なくなるでしょうから、どうしても対応は悪くなります。まぁなんとも単純な話ですね。あとはその店がどこに注力して何で差別化するかの問題なんですが…。昨日の店はそれなりに雰囲気も良く質の高さで勝負しようとしていたから、余計にそこが目立ったと言うわけです。
企業のサービスで行き着くのは最終的にヒトの問題です。ヒトがどう動いて、どんなサービスを提供できるか。それが大切なのは自明です。でも、「ヒト」の問題だからと言って、それが必ずしも「人事」の問題とは限りません。むしろビジネスの仕組みの問題、企業の戦略の問題です。私のような人事屋がMBAを志す価値は、こうしたヒトの問題を包括的に考える枠組みを持つことにあるんだと思います。
就活を通じて、最近いろいろと考える機会も多いのですが、「人事」の問題を扱いたいというよりは、「ヒト」の問題を扱いたいと言うのが私なりの思いです。あとはどこでどう実現させていくか…。悩みは尽きませんね。

同情と非情

2007年01月26日 23時57分15秒 | 社会経済
不二家のひどい実態が次々と明らかになってきました。国の基準やなにやらを全て無視し、自社に都合の良いように勝手に解釈して運用して滅茶苦茶です。まさにやりたい放題。それでも自主再建と言い張る新経営陣の意向がこれまた不明です。どんなに頑張っても、ここまでやってしまうと信頼回復は不可能に近い感じがします。
そんな不二家の問題の裏では、続々と他社が不祥事を公表しています。今なら不二家の陰に隠れて大きく問題にはならないだろうと言う魂胆が明白です。恐らくニュースを見る側も不二家は覚えていても、その他大勢は覚えていないでしょうからその戦略は間違ってはいません。むしろ、この機会に将来に向かって良い方向への改善をしてもらえればと思います。
と書きましたが、やっぱり状況は深刻です。これだけ次々と問題が明らかになったとしても、恐らくそれらは氷山の一角に過ぎないでしょう。この際、ダンマリを決め込んで問題をもみ消し、こっそりと対応している企業は山ほどあるはずです。それを本当だと仮定すれば、それぐらい多くの企業がこうした問題を引き起こすインセンティブを持っているということです。なぜ?。
非情な言い方をすれば、痛みが軽すぎるからです。あれだけの不祥事でも、未だに企業が存続を続けられる現状があり、類似の不祥事はお咎め無しの雰囲気が漂っていることを考えると、痛みは軽いと言わざるを得ません。もちろん、再開の目途が立たず苦しい思いのFC店とか、失職寸前の従業員の方は大変でしょうけれど、そこにもっと痛みが生じないと本当に現場サイドからモラルを正すインセンティブは得られません。幹部が辞任して終了で済む問題にしてはならないわけです。
と言うのは簡単ですが、現実を考えると同情は拭いえません。ペコちゃんを助けたい。でも、そうした同情が結局痛みを和らげて、モラルダウンへの危機意識を甘くしてしまうことも考えられます。「あの不二家だって潰れなかったんだから、このぐらいの不祥事なら全然大丈夫」。そうならないためにも、非情に徹することも時には必要なのかなと。どうなるんでしょうね、不二家。

ケース面接

2007年01月26日 01時05分51秒 | 出来事
ケース面接って受けたことありますか?。普通の面接は面接官と職務経歴を中心に質疑応答といった感じなんですが、そうではありません。パターンはいくつかあるらしいのですが、今日受けてきたのもその1つです。短めの文章が付いていて、設問が3つ。それを白紙に自由にまとめて60分。そのあと、そのアウトプットを見ながら面接官とディスカッションをするわけです。これがなかなか勝手が違って上手くいかないんですよね。とほほです。とほほ。
面接官が何を見たいかはハッキリしています。論理性。いかに論理的に分析を行い、論理的に説明できるか。ですから、ただ文章を読んで設問に答えるだけでは不十分です。もちろん面接でも答えを出した根拠とか思考のプロセスとかを突っ込まれますから、思いつき回答はNGです。でも、実際は沢山論点があるので、全ては網羅できません。で、突っ込まれる。それをいかに論理的に切り返すかも大切なようです。まぁ、実際のところはよく分かりませんが、そんなことが言われているわけです。
今日の設問は極めて真っ当でしたが、会社によっては奇抜な質問も多いです。ネットに転がっているところでは、「日本のガソリンスタンドの数を推計しなさい」「柔道の競技人口を2倍にするには?」のようなものがあります。正確な推計ができるかとか、本当に2倍になるかは極端な話、関係ありません。推計に用いた背後の論理に納得性があるか、2倍にするアイデアが思い付きではなく論理的な裏づけがあるか、そんなところが見られるわけです。勘弁して欲しいですね…。
ロジカルシンキング。MBAでこれは基本です。だから、こんな問題を出されても、うろたえずに論理的に答えられて当然なんだと思うかもしれませんが…。即興性があるかどうかはまた別物です。要は、慣れですよ、慣れ。
『ビル・ゲイツの面接試験』にも似たような話が書いてあります。興味のある方はチラッと眺めてみると良いかもしれません。「富士山をどうやって動かしますか?」

授業終了

2007年01月24日 23時20分20秒 | MBA
今日はマクロ経済の授業の最終日で、先生を交えて飲みに行って来ました。当初は微妙な授業かなとも思ったのですが、先生のスタンスをそれなりに理解してみるといろいろ考えることも多い授業だったような気もします。まぁ、普通に考えたらMBAの授業ではないのですが。そんな話はさておき。
この授業で2年間のMBA生活の公式日程が全て終了しました。あとは修了式のみ。就活やら白書執筆やら私的なイベントはまだまだ続きますが、とにかく公式なものは終わりです。正規科目13コマ、古典1コマ、WS1コマ、研究者コース1コマ、学部聴講6コマ。こんな感じですね。履修したい科目は他にも沢山ありましたが、欲張っても身につかなければあまり意味がありません。自分的にはお腹一杯です。いい加減仕事したいなと。
2年間の振り返りなどは改めて書きたいと思いますが、端的な感想としては「あまりMBAらしくは無かったけど、役に立ちそうな学びはできた」というところでしょうか。人によって感じ方も違うでしょうから一概には言えませんが、世の中一般で喧伝されているようなMBAとはちょっと異質だった気がします。でも、これが日本的な独自のMBAだと言えば、そう言えないことも無い。そのあたりをこれから入ってくる方に上手く伝えられたら良いなとは思います。
とにもかくにも、これで勉強生活は終了です。でもそれはあくまで「学校で」という限定付きで、恐らくビジネスの現場での勉強は永遠に引退するまで続くのでしょう。その意味では勉強するための勉強をした感じでもあります。ただ、勉強したからって仕事で成果が出せるとは限りません。むしろ、その逆の方が多かったりします。じゃぁ、勉強は無意味かと言えばそうは思いたくない。思わせないようにしなければならない。そういう使命を少なからず負っての卒業となるわけです。
頑張りましょうね、自分。一度走り出してしまった以上は、行けるところまで行って見たいと思います。

労働ビッグバン②

2007年01月23日 13時42分00秒 | 人事組織
今日の読売朝刊の社説でもパート労働法の改正問題が取り上げられていました。パートの公正処遇問題。すなわち、正社員と全く同じ仕事をしているにもかかわらず、パートだからという理由だけで待遇の格差をつけるのはいかがなものかという話です。まぁ、言わんとすることはよく分かります。世の中には働かない正社員の方が、働くパートよりも格段に良い賃金を貰っている例なんてざらにありますから。公正処遇とか均等待遇とか言われるのも、そうした理不尽な状況が蔓延してきていることが背景にはあります。
ここで、まず1つ考えておかなければいけない点があります。それは、正社員とパートが本当に同じ仕事をしているのか否かという話です。正社員には転勤が合ったり、残業を拒否できなかったりと様々な制約が付きまといます。目の前の仕事は同じでも実は違う。それが待遇の格差を正当化する1つの理由になります。でも、それにしては格差が大きすぎる。そんな声は当然あります。じゃぁ何がその格差を生むのか。そこにあるのが既得権の問題だったりするわけです。
今の状況で本当に待遇格差を改善しようと思ったら、パートの待遇を改善する以上に、正社員の待遇を改悪する方がよっぽど現実的でしょう。でも正社員は守られています。だから今度は解雇ルールの明確化などが議論されるのですが…。正社員を守れば守るほど、パートとの格差は固定化します。守らなければ格差は埋まるかもしれませんが、どちらかというと上から下に流れていくイメージです。それを無理に引き上げようとすると、最低賃金の問題と同じで、引き上げられた人とそうでない人との格差が生じます。それすら無理すれば、企業の競争力に影響が生じて雇用自体が失われる可能性があります。
つまり、どこに線を引いて誰を守るのかの問題なのです。そして、今まで正社員のみを守ってきたラインをぶっ壊そうというのが労働ビッグバンの趣旨なのかなと。でも、どうでしょう。日本よりずっと安い賃金で良質の労働を提供する海外諸国との競争がある限り、そちらに向かって待遇が収斂していくのは避けられない気がします。難しい問題ですね。

労働ビッグバン①

2007年01月22日 21時24分49秒 | 人事組織
今日はひがしこくばる氏の記事でも書こうかと思ったんですが、帰り道で買った週刊エコノミストに反応してしまったので、そちらの話にしましょう。ひがしこくばる氏には地道に頑張ってもらいたいものです。
今週のエコノミスト。お題は「本当の労働ビックバン」です。相変わらずホワイトカラーエグゼンプションのお話だったりするんですが、もう少し広く労働法制の改革に触れていたので目にとまりました。最低賃金引き上げやパートの待遇改善、フリーター雇用の問題などがテーマです。今年の国会では働くことに関わるいろいろな問題が取り上げられそうな気配なので、働いている方は注目して議論の行方を見守ってください。まぁ参院選前はあまり厳しい議論はされないと思われますが。
さて、こういう内容の記事を読んで常に感じるのが、不毛な労使対立の構図についてです。どちらかと言えば労働側の主張に強い違和感を抱いてしまうんですが、それは自分が恵まれているからでしょうか。社会人としての6年間、本当の意味での時給に換算したら、恐らく最低賃金以下の月も多かったように思いますが、それでも恵まれていたのかな…!?。
例えば、最低賃金の改善。賃金が安すぎる結果、ワーキングプアが問題になっているのは多くの方がご存知の通りです。でも、最低賃金を上げることでそれが解決するのでしょうか。中には、それで救われる人もいます。でも、最低賃金を引き上げると費用対効果の観点から雇えない人が出てきます。高い時給でも雇ってもらえる人はいいですが、そうでない人は切り捨てられます。雇用は企業の責任だ。何て書いてありましたが、コストが上がれば製品価格も上がります。そうでなければ設備投資を減らす必要があります。どちらにせよ、競争力が低下します。そうなれば、守れる雇用も守れなくなります。結局、根本的な生産性を向上させずしての賃上げは無理があるわけです。
それでも賃上げを主張する連合など労働側の代表は何を考えているんでしょうね。一度経営をしてみたらよいと真剣に思います。ただ、企業側も一方的な労働条件の切り下げは賢くありません。大切なのは生産性の向上です。長いので次回へ。

良い嘘!?

2007年01月21日 23時31分54秒 | 社会経済
「あるある大辞典Ⅱ」のデータ捏造が波紋を広げているようです。日本中で納豆が品切れ続出するほどの影響力があった番組です。昼のラジオで聞きましたが、納豆関連銘柄の株価まで上昇しだしていたとか。それが全部真っ赤な嘘だったというのも、これまたビックリな話ですね。納豆買い占めて毎日食べまくった人はどうなるんでしょう。納豆食べすぎでむしろ太ったりするのかな…。大いに喜んだのは小売関係者ですが、それも明日から売れ行き激減で在庫が溢れかえることになるんでしょう。後始末が大変なことになりそうです。
短い納期で番組を制作しなければならなかった。その結果、調査が適当になってしまった。そんな理由が新聞だかに出ていました。まぁその背後にはゴールデンタイムの高視聴率番組にかかるとんでもないプレッシャーがあるんでしょうし、さらにその背後にはそうした情報番組に過度な期待を寄せる視聴者の存在もあるわけです。だからって嘘をついて良いとは言いませんけど。
今回の件だってバレなければ、皆ハッピーだったかもしれません。そもそも納豆ですから健康には良いでしょうし、小売店も喜べば生産業者も嬉しい限りです。TV的にも視聴率が上がって嬉しいですし、広告業者もありがたかったはずです。まぁ本気で納豆ダイエットを考えた人は効果が無くて残念だったかもしれませんが、別にそれで怒ることも無いでしょう。やり方が悪いとか、自分には合わないとか勝手に判断して別の方法に変えるでしょうから。とすると、嘘を暴いて得をしたのは誰なんでしょうね…。まぁ、それも彼らの嘘を正当化する理由にはなりませんが…。
他の回の放送はどうだったんでしょうね。今回がこれほど杜撰だとすると、以前も何度かやっていたように思うのは私だけではないはずです。でも、問題は起きず、皆ハッピーになってきたわけですから、これまでの嘘があったとしてもそれは良い嘘だったとも考えられます。たまたま今回は運が悪かった。見つからなければ、これからも皆ハッピーだったのに。今週から放送自体がなくなってしまったし…。TVってそもそもそんなに信頼性高いのかな…?。
ちょっと歪んだ見方をしてみました。

一難去って

2007年01月20日 22時01分50秒 | 出来事
一難去ってまた一難。昨日ついに始まりました。MBA生活2年間の総仕上げ。戦略白書執筆プロジェクトです。我らがMBAコースからは研究活動の一環として、毎年1冊戦略白書なるものを書いて出版しています。それを作るのがこのタイミング。2年生の論文終了後から卒業までの約2ヶ月間です。で、そのキックオフ(のキックオフ)が昨日だったわけです。最後の春休みぐらいのんびりと…。てなわけにはいきません。まずは就職を何とかしなければいけないのですが、それと並行してこのプロジェクトが動くわけです。はぁ。でもまぁ任意参加のプロジェクトに好き好んで突撃するわけですから、つべこべ言わずに頑張らないといけません。
ところで白書って何なんでしょう。辞書を引くと「政府の公式の調査報告書」と出てきます。じゃぁMBAコースが出す白書だとどうなるのか。実際はシリーズもののくせに、こうしたところから議論が始まるわけです。いろいろと考える癖がついているからなんでしょうね。何も考えずに前年踏襲とはいかないのです(でも、ごく普通の企業に戻れば、やっぱり前年踏襲型の頭に戻るのかな…)。その上で、06年の白書なんだから昨年の現象にフォーカスすべきだとか、特定のテーマから昨年の企業行動を分析していくべきだとか、様々なアイデアが出てきます。総勢13名ですから、下手をすれば「船頭多くして」になりかねません。気をつけたいです。
タイムリミットは修了式がある3月下旬。恐らくマシーンのように資料を読んでは分析するプロセスを繰り返すのでしょう。でも、全てを学んだ最後で昨年の企業行動を俯瞰するのは有意義なことです。2年間学んでは来ましたが、星の数ほどある企業の中、授業などで扱う企業って意外に少ないんですよね。有名な企業でも実は何にも知らなかったりします。そういう意味では貴重な機会かもしれません。
何を言いたいのかよく分からなくなりましたが、とにかく最後の春休みも暇なしということです。頑張りましょ。

メリハリ

2007年01月19日 09時45分51秒 | 関心事
年末年始は完全に引きこもり生活をしていましたが、今度は一転して連日面接の日々を過ごしています。別段に焦っているわけでもなく、性格的に集中してガァーッとやりたいだけ。早く決められれば引越しなど別のことにも手を付けられますしね。そんなわけで、論文終了と同時に活動が出来るように年末から調整していたということです。
私の場合、1日2件とか3件とか連続して面接を入れたがります。紹介会社の方からも「混乱しないように気をつけてください」とか言われますが、お構い無しです。むしろ、頭の中が面接モードになっている状態で連続してやった方が、落ち着いてわかりやすい話が出来るというものです。あの独特の緊張感の下で、自分自身のことを語るモードに頭を切り替えるのって結構面倒だし大変ですから。だから自分なりにメリハリをつけるように工夫しているということです。
そういえば、学部時代も同じでした。火木土はサークルの活動日だったこともあり、就活は可能な限り月水金に固めた記憶があります。説明会を1日4件ハシゴした日には、移動はダッシュで4月なのに汗をかきながらの就活でした。ただ、それでも1日1件で週に5件とかよりはいいかなと思っていたのは事実。お陰で気分をリフレッシュしながら(単に遊びながら)、大変な就活を乗り切ったわけです。
メリハリ。今回の就活を通じて自分自身の性格など考えてみると、どうもメリハリを大切にしている気がしてきました。働くにしても、毎日20時とか半端な残業をするぐらいなら、週4日は終電orタクシーでも週1回は17時ぐらいに撤収するとか、そんなメリハリがあったほうが好きです。3週間休み無く働いて1週間完全休養でもいいかな…。そう考えると人生もメリハリが必要なのか…。働くときは死ぬほど働いて、休むときは休む。でも、そんなに都合よくいくわけはありません。
なんて言いつつ、MBAではハリハリな生活をしていた感じもします。メリを作るのが下手なんでしょうね。「そのうち死ぬよ」って言われるので、気をつけたいです。でも、結局は忙しい仕事に就くんだろうな…。

バラバラ事件と粘着性

2007年01月18日 20時45分45秒 | 関心事
例のバラバラ事件も少しは落ち着いてきたでしょうか。それでも、電車の中吊りなどでは大々的に取り上げられているようで、人々の興味関心の強さを間接的に伺うことができます。全く別の事件でしたが、立て続けに起きたからそれだけ衝撃も大きかったんでしょうね。事件の再現・検証やら心理学者の分析やら色々とTVでも報道されていましたが、どこと無く共通するのはいわゆるエリート層に巣食う心の闇。カネとか地位とか名誉とか、何かが人を狂わせるのかもしれません。
まぁ、そういう分析は専門家に任せておきましょう。私はMBA学生なので、出来る限りその視点から考えてみようと思います。何を?って、この事件をです。年末年始で私が取り付かれていたワードが「粘着性」。年末に「情報の粘着性」という記事を書きましたが、その粘着性です。思い出しましょう。情報の粘着性とは、情報の移転費用が高いことでした。情報が人とか場所にくっ付いてしまっているから、引き剥がすのに高い費用がかかる。そんなイメージです。で、私は自分の論文でこれを人に応用しました。人の移転費用。???。この場合は、場所や集団からの離脱費用と考えた方が分かりやすいかと思います。いつもつるんでいる仲間達がいると、そこから離脱しにくくなる。そういうイメージです。私の論文ですと、これが会社や職場と個人の関係になります。上司の誘いを断りづらい。そんなのも粘着性の高さで説明されます。
さて、事件に戻りましょう。どちらの事件も身内の中での出来事でした。それが衝撃的でもあったんですが…。でも、良く考えると「家族」たるものは極めて粘着性の高い集団ではないでしょうか。勘当とか絶縁とかもありますけど、基本は逃れられない繋がりが家族です。夫婦なら離婚という手がありますけど、相手への依存度が高いとか、相手からの拘束が厳しいとかいう状況ですと、やはり粘着性は高まります。そうした状況で極めて激しい憎しみが生じたとすると…。バラバラにすれば、存在だけでなく実体もなくなります。その結果、ようやく粘着性が低下して…。
話に無理がありましたね。でも、高い粘着性を断ち切るには大きなエネルギーが必要なことは覚えておいて良いかと思います。

案の定、先送り

2007年01月17日 23時55分38秒 | 社会経済
結局、断念したようですね。ホワイトカラーエグゼンプションの法制化です。参院選を前にして、選挙に不利な政策はことごとく先送りされている感じがします。そういう姿勢が一番選挙には不利な気もしますが、実際はどうなんでしょう。年金改革とか消費税問題とか公共事業改革とか。抜本的な見直しは必要なんでしょうけれど、今の政権でこうした不人気政策に踏み込むのは無理がありそうです。かといって、他に出来そうな人もいないですし…。難しいですね、政治は。
ところで、冒頭の話ですが、もう少し深い議論をして欲しかったというのが私なりの感想です。「残業代が無くなる」「長時間労働が助長される」といった労働側の一方的な声だけが強調された感じがしておりまして、それで終わってしまったのがちょっと残念です。つい先日、面接でも聞かれました。「あなたはこの問題をどう思いますか?」「基本的なスタンスは賛成です」。私は一応そう答えてきました。残念に思うのも、だからなんでしょうね。
これが良い制度かどうかは微妙です。現状の人事の仕組みのままでこの制度を導入したら、恐らく労働側の主張どおりになるのかもしれません。ただ、思うのはこういう機に、経営側もマネジメントのあり方を考え直すべきかなということです。1時間あたりの労働が生み出す付加価値を把握して、そういう意味での生産性を本気で向上させようだとか、長時間労働から発生する見えないコストを把握して最適な資源配分を考えるとか。残業代を払わなくて良いからいくらでも働かせてよいとか考えるようでは、経営側もあまりに幼稚です。一方の現行法では労働時間を正確に把握するインセンティブがあまりありませんし…。よい機会だと思うんですけどね、マネジメントを見直すための。
働き方。結構奥が深い問題です。加えて、最も身近な問題です。でも、深い議論がされないのはなぜなんでしょうね。専門家のみならず、一般の労働者だってこの問題なら議論も出来そうですが…。また、どこかのタイミングでこの話が議論されることを願います。