狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

バルテマイ

2021年03月05日 | 聖書
彼らはエリコに来た。 イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。 私をあわれんでください。 」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。 私をあわれんでください。 」と叫びたてた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。 」と言われた。 そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。 さあ、立ちなさい。 あなたをお呼びになっている。 」と言った。
すると、盲人は、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこで、イエスは、さらにこう言われた。 「私に何をしてほしいのか。 」すると、盲人は言った。 「先生。 目が見えるようになることです。 」
すると、イエスは、彼に言われた。 「さあ、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救ったのです。 」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
(マルコ10章46節~52節)

   
 私たち人間は、よく、「救い」は努力によって得るものだと考えます。 世間では「努力無ければ報いなし。 」とも言います。 確かに、仕事や勉強などには、これに当てはめることができるでしょう。けれども、天国に行くためには、これは通用しません。 なぜなら、「私たちすべての人間は、聖なる神様の前では、みな罪人である。 」と、聖書に書いてあるからなのです。私たちがどんなに努力しても、神様は、罪人を受け入れることはできません。

 神様は最初、人間を罪の無いものとして創造なさいました。 しかし、最初の人間、アダムが、神様の言いつけを破った時に、人間に罪が入り、神様から離されてしまったのです。 その結果、
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。 善を行なう人はいない。 一人もいない。 」 (ローマ3章12節)
と、聖書に書かれている通り、人間は、けんか、盗み、悪口・・・・・ありとあらゆる罪を犯すようになりました。 神様の前では、私たちは、あわれな罪人にすぎません。 聖書には、
「義人はいない。 ひとりもいない。 」
(ローマ3章10節)
と、書かれています。 ですから、残念ながら、これを読んでいるあなたも、その中のひとりだと言わなければなりません。

 神様は、罪を忌み嫌われており、地獄において罰します。 これは、私たち人間にとって、最大の問題です。 しかし、残念ながら、多くの人々は、「お金が無い。 」「家族とけんかをした。 」「子供たちが言うことを聞かない。 」などの日常の目の前の、小さな問題だけにとらわれてしまっています。 そして、「私たちは、いつか死ななければならず、この人生で犯した全ての罪を神様に裁かれる。 」という、目の前に迫っている大きな危険を見逃してしまっているのです。 そして、最後には地獄に行かなければなりません。 それは、明日かもしれないのです。
 
 さて、あなたは、どうでしょうか? まだ、あなたの目の前に迫っている、この大きな危険が見えませんか? だとしたら、残念ながら、あなたも、この聖書の箇所に出てきたバルテマイとおなじように、まったくの盲目であると言わなければなりません。 ですから、お願いします。神様とあなたの間にはだかる、この大きな問題について考えて下さい。 なぜなら、神様は、この問題に解決を与えてくださっているからです。

 今から、およそ2000年前に、神様は、この世に神様の一人子である、イエス・キリストを送ってくださいました。 イエス•キリストは、世を照らすために来られた、まことの光であると、聖書に書かれています。 そして彼は、

「私が道であリ、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」
(ヨハネ 14:6)

と、彼自身こそが、天国へいたる道であると、示されました。

 では、イエス•キリストは、一体どのように罪人を天国へと導いて下さるのでしょうか? その答えをバルテマイの話から、見つけてみましょう。

 彼は、盲目であり、自分の力では何もすることができませんでした。 彼にできたことは、ただ、誰かが彼をあわれんでくれるのを待つことだけでした。 けれども、イエス•キリストがこの村に来たとき、バルテマイは、彼を癒してくださるようにと、イエス様に向かって必死に叫び続けたのです。
バルテマイは、イエス様のことを「ダビデの子のイエス様。 」と呼んでいます。この「ダビデの子」という呼び方は、ユダヤ人にとっては、「神様が旧約聖書で預言者を通して示された、人類に送ると約束されていた救い主」を意味します。 ユダヤ人は、この救い主が来られることを待望していました。
イエス様が生まれる約700年前に書かれた旧約聖書のイザヤ書には、その救い主が来られた時、「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。 」という約束がありますので、ユダヤ人であるバルテマイは、それを知っていて、このイエス様こそが、救い主であると信じ、このチャンスを逃すまいと必死に叫び続けたのです。 ですから、大ぜいの人が彼を黙らせようとして、たしなめても、イエス様に気付いていただくまで、黙ろうとしなかったのです。
 盲人ですから、彼にできることは制限されていました。 ひとりで歩いてイエス様のもとに行くことさえできませんでした。 けれども、叫ぶことはできたのです。 イエス様はその声を聞かれました。そして、彼をイエス様の前に連れて来させたのです

「私に何をしてほしいのか。 」

「先生。 目が見えるようになることです。 」

「さあ、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救ったのです。 」


 すると、すぐさま彼は見えるようになりました。 彼がイエス様から受けた答えは、彼の想像をはるかに超えたものでした。なぜなら、イエス様は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。 」と言われたからです。 もちろん、目は、見えるようになりましたが、イエス様は、ご自身に、罪を許し、彼のたましいを救う権威があることも示してくださったのです。 これは、バルテマイが全信頼をイエス様に置いたからなのです。
 
 さて、このバルテマイと同じように、私たちも罪のために霊的な盲目状態にあり、離されてしまった神様との関係を回復することにおいては全く無能力です。どんなに望んでも、私たちはこの悲惨な状態から自力で立ち上がり、地獄の刑罰から逃れることはできません。 けれども、ただひとつだけ、私たちにできることがあります。 それは、バルテマイのように、イエス様に叫ぶことです。 自分の罪を認め、イエス様を、唯一、私たちを救うことができるお方と信じて叫ぶのです。

 イエス様は私たちの身代わりに、私たちの罪を負ってカルバリの十字架で死んでくださいました。 そして、死後三日目に死人の中からよみがえられました。 それは、私たちを地獄の刑罰から救うためでした。 イエス•キリストが、私たちの救いのために、すべてを備えてくださったのです。 そして、神様は、イエス様を救い主と信じる者すべての罪を許し、天国に入れてくださるのです。

 イエスキリストを信じることで他人に何か言われたとしても心配することはありません。 バルテマイは、人々がどんなに止めても、かまうことなく、あきらめずに叫び続けました。 どんなことがあろうと、彼にとっての唯一の救いであるこのチャンスを、逃すわけにはいかなかったのです。 あなたを地獄から救うことのできる唯一のお方はイエス•キリストです。 彼だけが、あなたが救われるために必要な光を与えることができるのです。
 
 あなたは、今までに、バルテマイのようにイエス様に叫んだことがありますか? 私たちひとりひとりがしなければならないのは、まさに、これなのです。 ここに、私たちの永遠、地獄からの救いがかかっているのです。 ですから、一日も早くイエス様に叫んでください。 救いを求めてください。 イエス様は、あなたに答え、救ってくださいます。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ10章9節)
 
 今、イエス様は、あなたが救いを叫び求めるのを、待っておられるのです。

(特別伝道集会メッセージより)



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