人相書
テレビの時代劇のドラマでは、高札場とおぼしき場所に御尋ね者の似顔絵が掲示してあることがあります。この似顔絵を人相書と言っているようです。これは、現在の指名手配の写真の掲示をそのまま使用したもので、江戸時代は写真がなかったので似顔絵を使用したのであろうという考えでしょうか。実際は人相書として似顔絵が掲示されることもありませんでした。人相書は当人の特徴を文章で表現しています。
徳川百か条には、「人相書きをもって尋ねべき者の事」として、対公儀重謀計(公儀に対する反乱)、関所破り、主殺し、親殺しが挙げられています。これは全国指名手配といったところでしょうか。
貞享5年(1688)年9月の御公用諸事の留には、江戸での主殺しの犯人の人相書きが甲府城下まで回っています。これは、貞享5年(1688)年正月に武家の家来の子息を、山口儀右衛門という若党が殺害した事件です。主人の子を殺し欠落候とありますので、主殺しになります。
この人相書きには、「年頃二十八九、せい中の男、面体色浅黒く、ひたい開き、ほうずきおとがい細く、口少しうば口、しゃがれ声、眼さるまなこ、肩いかり、腰少し細く、尻太く・・・・」など顔の特徴、体の特徴が記載されています。この外、衣服の特徴なども記載されています。事件の発生したのが正月で、人相書きが甲府城下まで回った来たのが9月なので、この時点ではつかまっていないことになります。この人相書きの最後には、「不審なる者これあるは留め置き、その所の奉行あるいは地頭、あるいは御代官所へ訴え、それより江戸町奉行へ申し越べき候・・・・もし、隠し置き、後日にあらわれるにおいては可罪科者也」とあります。
宝暦7年(1757)9月に、江戸での主殺しの犯人の人相書きが甲府城下まで回っています。この人相書きは町触れとしてまわされています(宝暦7年御用留)。
天保8年2月に大阪で町奉行与力の大塩平八郎の乱が発生しました。平八郎はその時捕まらなかったので、人相書が回されました。甲府にもこの人相書きが回ってきています。
天保8年の甲府町年寄りの御用日記の3月7日の項に、2月19日に大阪で乱を起こした大塩平八郎の(大塩平八郎の乱)人相書が記載されています。甲府にも人相書きが回っていることから、おそらく全国的にまわったものと考えられます。大塩平八郎が捕まったのは3月27日なので、3月7日の人相書きは逃亡中の期間になります。その内容は次の通りです。
与力大塩平八郎、年四十五、六才、顔細長く色白き方、眉毛細く薄き方、額開き月代青き方、眼細きつり候方、鼻常体、耳同断、丈中丈中肉、言舌さわやかにして尖き方、その節の着用鍬形付甲着用、黒き陣羽織、その余の衣類わからず
同人倅大塩格の進、年二十七才計、顔短く色黒き方、丈低方、眼・鼻常体、眉毛厚き方、歯上2枚折れこれあり、言舌静なる方その節着用わからず
人相書の最後に、「右の通りの者共これあるにおいては、その所に留め置き、早々、大坂町奉行所へ申し出るべく、もし見聞き及び候はばその段も申し出べく、隠し置き脇より相知り候はば曲事たるべき」とあります。
この人相書は役所から町年寄りに町触れとして渡されたものです。
この全国指名手配以外にも、殺害に関する人相書きが回っています。天明8年(1788)の甲府三日町名主の日記(御用留)には、口論の結果の殺害された被害者の人相書きが記載されています。これは、山梨郡城古寺村百姓金左衛門が口論の結果殺害した被害者の住所と名前がわからないので、人相書きとして心当たりがあるかどうかを尋ねたものです。人相書きには次のように記載されています。
年頃三十四五歳、丸顔中せい中肉、眉毛細く薄き方、目常体鼻筋通り、歯常体月代常体、髪厚き方、・・・
この外着ている衣服の特徴、傷の状況が記載されています。この人相書きには、「心当たりの者これあるは来たる18日まで申し出べく候。右の趣町中漏れなきよう相触知もの也」とあり、触書として回っています。掲示されたものではありません。
これ以外にも人相書が回されています。寛延2年(1749)の甲府町年寄の御用留帳には、巨摩郡河原部村(韮崎市)の行き倒れ人の特徴が人相書として記載されています。この人相書きには次のように記載されています。
1. 年頃50歳位と相見え候男、並より立派かたちにて中丈、丸顔、色赤黒、中鬢よりからすき方、月代は8日斗以前に刺候様
1. 古浅黄木綿単物、但し無紋
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以下、来ているものと所持している物が記載されています。
心当たりの者がいれば早々河原部村へ行き見届けるようにとあります。
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