kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第135回 慶応4年の甲府

2016-12-14 11:01:40 | 説明
慶応4年の甲府
 慶応4年(1868年)は明治維新の年で、明治元年と改元されます。第71回に慶応4年の官軍進駐について書きました。

 慶応4年(1868年)年に関する資料には山梨県史,甲府町年の坂田日記、深沢氏見聞誌〈甲府市史資料編第2巻〉,甲斐鎮撫日誌〈甲府市史資料編第2巻〉があります。山梨県史には2種類あります。1つは昭和33年に山梨県立図書館から発行されてもので,もう1つは平成になってから発行されたものです。昭和33年に発行された山梨県史は明治初期の支配者側の記録を記載したものです。ここでは昭和33年発行の山梨県史を使用します。日付はすべて旧暦です。

 山梨県史,甲府町年の坂田日記、甲斐鎮撫日誌では藩という呼称を使用しています。深沢氏見聞誌では藩は使用されておらず,因州勢,土州勢のように○○勢という呼称を使用しています。

 今回は,官軍の甲府進駐と官軍側の動きを中心にまとめてみます。内容の一部は第71回と重複しています。
【2月】
 最初に来たのは公家の高松少進と先用小沢雅楽助の高松隊です。2月3日に小沢雅楽助が長野県側から甲府に入っています。公家の高松少進は少し遅れて2月11日に甲府についています。小沢雅楽助の宿舎は遠光寺、高松少進の宿舎は教安寺です。町年寄は麻裃着用で甲府の西の町境まで高松少進を出迎えに出向いています。
  2月21日小沢雅楽助は長禅寺前代官(甲府代官)により贋勅使として捕らえられて入牢になっています。小沢雅楽助は3月14日に甲府で処刑(打ち首)されています。
  2月に長禅寺前代官中山誠一郎が,甲府城代佐藤駿河守と甲府町奉行若菜三男三郎の代わりとして官軍の駐屯地である桑名に出向き,朝廷の命に違背しないことを誓っています。このため,甲府城は佐藤駿河守の預かりとされました。

【3月】
 3月になると、官軍側の甲府進駐が始まります。
3月4日に東山道総督府に属する土佐藩300人ほどと賄方として松島藩と高遠藩が到着しました。この日に甲府城引渡しが行なわれています。甲府城代佐藤駿河守は甲府城引渡しにより退去しています。3月5日には甲府町奉行の与力と同心が職を辞しています。この時点で,徳川任命の甲府城代と甲府町奉行は廃止されたことになります。
 3月6日、長禅寺前代官中山誠一郎は甲府奉行兼帯に官軍から任命されています。これまでの甲府奉行であった若菜三男三郎は江戸に帰ったようです。町奉行配下の与力、同心もこれまでどおりとされました。ただし,朝廷任命になります。町奉行の場所は長禅寺前の甲府代官所と同じ位置です。
 3月7日に松代藩の真田信濃守が甲府城預りに任命されています。松代藩は甲府勤番支配の山手役所に本陣を置いています。真田信濃守は1月19日に幕府から甲府城代に任命されましたが、辞退しています。官軍側についたわけです。
 3月12日 東海道副総督参謀海江田武次が浜松藩兵若干を率いて甲府に到着しています。海江田武次は,王政復古が行われたことを宣言しています。
3月13日に朝廷より甲府城代に任命された沼津藩主水野出羽守が甲府に到着しています。この時沼津藩兵も引き連れてきたようです。
 3月23日,東海道副総督柳原前光侍従が浜松藩兵500人余を連れて甲府に到着しました。柳原侍従の宿舎は尊体寺でここを本陣にしました。山梨県史には「職制を定む。其の制多くは幕府の旧による」とあり,幕府側の職制をそのまま受けついでいます。
3月26日柳原侍従一行は江戸に向けて出発しています。甲府に駐留していた各藩の兵隊も一部を除いて移動して入ったようです。
 この外,3月中に甲府に進駐したのは,掛川藩171人,4月に甲府に進駐したのは備後藩,閏4月に甲府に進駐したのは中津藩です。

【5月】
これから、官軍の甲府進駐の第二段が始まります。
5月2日に信州高島藩の藩兵200人が再び甲府に到着しています。3日には信州飯田藩60人余,讃州高須藩300人が到着,4日には尾州藩250人余が到着しています。
 5月6日に甲斐国一国鎮撫として東海道副総督柳原侍従と参謀海江田武次が浜松藩兵と加納藩兵を率いて再び甲府に来ています。一蓮寺を本陣としましたが、6月2日甲府城内に移っています。
 5月18日,官軍に帰順するかどうかの甲府勤番士の意向を確認しており,徳川氏家に復帰する者は江戸に帰ることを許しています。帰順希望の者は79名で,この基準希望の者を護衛隊に組織しています。護衛隊は甲府城の城門の警備や関所の警備にあたらせています。その後,徳川氏家に復帰する者の内,再び帰順を希望して帰甲した者を護衛砲隊及び新衛隊に組織化しています。12月10日に,護衛隊,護衛砲隊,新衛隊の3組織を統合して護衛隊としています。
 5月22日甲府町奉行が廃止され甲府町差配が置かれています。中山誠一郎は甲府町奉行兼帯を罷免され、町差配には浜松藩の名倉予何人(あなと)が任命されています。町差配は甲府奉行の職務を引き継いでいます。町差配の役宅は甲府城内の御目付小屋に置かれました。町奉行配下の同心そのまま町差配の配下として採用されたものと職を辞して徳川家に帰順した者に分かれました。中山誠一郎はその後甲府代官(長禅寺前代官)のみを行なっていましたが,6月8日に徳川家帰順の願いが受け入れられて江戸に帰っています。甲府代官は浜松藩の赤松孫太郎が任命されています。
 5月29日には甲府城代水野出羽守が罷免されています。甲府城代の職務は鎮撫府に引き継がれています。
 5月25日に芸州藩兵192人が甲府に進駐しています。
 これらの諸藩の兵士の一部は関所の警備や町在の巡邏にあたっています。
 この外6月に甲府に進駐した藩は,中津藩,彦根藩,日向飫肥藩で,7月に甲府に進駐した藩は,今治藩,大洲藩,延岡藩です。
 これらの諸藩兵はすべて甲府に揃っていたわけではなく,甲府から江戸や越後に移動しています。この移動による交代のために甲府に到着した藩もあります。また,移動先から甲府に戻ってきた藩もあります。
【7月】
 5月に徳川家に帰順希望を提出した元甲府勤番の者の内,再び甲府に帰ってきた者に官軍に帰順する意思があるかどうかを,7月9日に尋ねています。帰順の意志がある者を護衛隊に任命しています。
【8月】
 8月2日,三部代官を知県事に改めています。三部代官は甲府以外の地域を支配する3か所の江戸幕府の代官で,甲府,石和,市川に役所がおかれていました。これまでの代官の支配地域を県と称することになりました。
【9月】
年号が明治に変更されました。
【11月】
11月13日,鎮撫府が廃止され,柳原侍従(9月14日に柳原右小弁になっています)は帰京しています。浜松藩兵は柳原右小弁の護衛として国元へ帰っています。
11月12日,甲斐府が開かれ,さらに知県事は郡政局に変更されています。甲斐府は甲斐国一国を管轄し,府庁は甲府城内に置かれました。郡政局は甲斐府の下部組織となり,甲斐府の権判事補が郡政局の管長を兼務しました。知府事は滋野井侍従で,11日に甲府に到着しています。この時,甲府城下を管轄する町差配は市政局に改められたようですが,山梨県史にはその記載がありません。ただし,12月19日の「市政局に達する書」のあて名が町差配になっており,この文書には「市中の儀厳重取計らべく候事」という一文がありますので,町差配が市政局と改められたのは間違いないようです。


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