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kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第138回 伊勢参宮-京都1

2017-01-26 12:51:06 | 説明
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strong>伊勢参宮-京都見物1


 八日町の商人の大津屋五郎右衛門は寛保2年旧暦3月(1742年)に甲府から伊勢参りに出発しています。一行12人の旅で、甲府から京都までの旅の様子は第66回と第119回に書きました。伊勢参りが済むと現地解散のようで,五郎右衛門は京都に向かいました。五郎右衛門は伊勢参りの一行と別れて、京都、奈良、和歌山、大阪を回る旅行をしました。今回は京都滞在の様子です。

 寛保2年4月13日(1742年5月17日)草津を立って昼時に京都に着きました。宿は富小路姉小路上る日野屋久兵衛というところです。4月24日(1742年5月28日)までここに滞在しています。4月24日には大和周りに出発しており,またここに帰ってきています。

 日野屋久兵衛の処に甲客井筒屋次郎右衛門が滞在していました。五郎右衛門の日記には薬種仲間の1人として井筒屋次郎右衛門の名前があります。次郎右衛門は商売として京都に来ていた可能性があります。井筒屋次郎右衛門と同道して京都見物に出かけています。寛保2年の御用留帳(甲州文庫)に京都日野屋糸世話人九兵衛という名前があります。古文書では久兵衛と九兵衛のように同じ人物でも字が異なって記載していることもかなり見かけます。日野屋久兵衛と日野屋九兵衛は同じ人物である可能性が高いと思われます。
糸世話人なので,日野屋久兵衛は生糸の取引先であった可能性があります。一方,大津屋五郎右衛門は旅籠屋と記載されています。しかし,手代を信州などに糸や太物を買い出しに派遣しています。副業として行っていたか,兼業していたかもしれません。また,日野屋久兵衛は五郎右衛門を京都案内していることから,おそらく商売上の関係があったかもしれません。

 京都に着いた13日の午後,井筒屋次郎右衛門と同道して,鴨川の東側の祇園社,高台寺,方広寺大仏殿,三十三間堂を見物しています。方広寺の大仏殿は現在ありません。五郎右衛門が見物した方広寺の大仏殿は寛政10年(1662)に地震により崩壊したものがその後作り直されたものです。
草津から歩いてきたのでこの日は宿の近くの見物に出かけたようです。帰りに,祇園新地先斗町の大和屋於三というところで古今という白人(しろうと)を呼んで遊んでいます。古今を気に入ったのかその後何回も読んでいます。

 翌14日から京都見物が始まります。大津屋五郎右衛門は寺社や芝居の見物だけではなく,京都在住の人ともあっており,様々な人の処に尋ねています。”きよの”という女性が残した文化14年(1817)の旅日記があります(「きよのさんと歩く大江戸道中記」,金森敦子,ちくま文庫)。”きよの”さんも京都を尋ねていますが,彼女は寺社見物と買い物が中心です。五郎右衛門とは様子が違っています。商売上の顔つなぎも目的の1つであったかもしれません。
寺社の見物には現在と同じようには拝観料が必要です。”きよの”さんの日記にも拝観料が記載されています。しかし,大津屋五郎右衛門の日記にはほとんど拝観料が記載されていません。五郎右衛門は伊勢参り以前にも2回富士川をまわって江戸に旅していますし,甲州街道を通って2回ほど江戸に旅しています。この部分にも寺社の拝観料が記載されていませんので,これは性格と考えられます。

 大津屋五郎右衛門か回った京都の寺社の位置を図に示します。



第137回 慶応4年(4) 甲府町民への対策

2017-01-11 10:15:35 | 説明
慶応4年(4) 甲府町民への対策


 慶応4年(1868年)は明治維新の年で、明治元年と改元されます。第71回に慶応4年の官軍進駐について書きました。

今回は官軍による甲府町人への政策について書きます。前回と同様に日付はすべて旧暦です

 3月17日と18日の両日,甲府町住民13754人に賑米423石7斗5升が支給されています。この米は甲府城の外御蔵場に保存されている米です。17日には5279人,18日には8475人に支給されており,出役として甲府代官中山誠一郎手代岡野金次郎,御蔵方,立会として松代藩1人が出ています。支給された量は1人京枡5升宛です。この米は町ごとに支給されています。例えば,柳町には126分63石1斗(88俵端米3斗5升)が支給されています。各町の町役人と家持総代が人足をつれて外御蔵場へ受取りに出向いています。各町内で各人に渡しています。
この支給の理由として,「この度東山道副総督府先鋒人数甲府滞留に付,諸民費用の儀もこれあり候間御賑米下され候」とあります(坂田家日記)。

 6月2日大赦が行われることが役所から町年寄に通知されています(坂田家日記)。この通知には,「朝敵を除き・・・逆罪且つ人を殺しその罪差難き者は別段の事にて,その余罪の軽重を分かたず免許の処致しべき置く候」とありますので,官軍に敵対した者と殺人を犯した者以外は大赦になりました。

 6月12日には,徳業があったもの2人,西一条町栄助と柳町1丁目の茂兵衛召使芳兵衛にそれぞれ米1俵が褒賞として支給されています。同日,寡婦孤独の者67人と80歳以上97歳以下の高齢の者28人(男10人,女18人)にそれぞれ米1俵が褒賞として支給されています。この徳業の褒章は幕府の時代から行われていたもので,引き続き行われています(坂田家日記,山梨県史)。9月17日には,極老の者に4人に養老扶持として1人2人扶持が支給されています。この養老扶持は一生支給されています。養老扶持も幕府の時代から行われていたもので,引き続き行われています(坂田家日記)。
山梨県史の会計の項に,養老扶持として甲斐国190人に米635石が支給されたという記録があります。この養老扶持は88歳以上の者に支給されたとあります。山梨県史には日付がありませんが,9月17日の養老扶持の支給に相当しているものと思われます。

 7月19日の大雨により片羽町,西青沼町,和田平町,城屋町,光沢寺地内町,一蓮寺地内町が被害を受けました。21日には片羽町,西青沼町の流出した家に手当として米4俵支給され,和田平町の浸水家屋54人へ手当として米22俵,城屋町浸水家屋61人へ米25表6斗,善助へ米3斗支給されています。光沢寺地内町浸水家屋128人へ米53俵6斗,常兵衛へ米3斗,一蓮寺地内町浸水家屋117人へ米49表が支給されています。以前に比べて,対応が早くなっています。