甲府城下の人口2
第7回に甲府城下の人口について書きました。今回はさらにデータを追加したものを載せます。
江戸の人口は100万人程度といわれています。では18世紀から19世紀の甲府の人口はどのくらいでしょうか。人口に関する記録が残っていますので紹介します。江戸時代は人別帳がありましたので、人口がわかります。ただし、武士は含まれていません。
◎寛文10年(1670年)の人口は、上下府中合わせて12772人(男6161人、女6611人)、下府中10420人、上府中2352人(万治延宝年間御用留)。
◎元禄2年(1689年)の人口は、上下府中合わせて14334人(男6938人、女7369人)坂田日記抄)
◎元禄6年(1693年)の人口は、上下府中合わせて13666人(男6801人、女686t人) (坂田日記抄)
◎元禄8年(1695年)の人口は、上下府中合わせて14253人(男6878人、女7357人) (坂田日記抄)
◎享保2年(1716年)の人口は、上下府中合わせて12655人(男6534人、女6121人)(享保2年御用留)。
◎享保10年(1725年)の人口は、上下府中合わせて14088人(男7126人、女6819人)(享保10年御用当座扣帳)。
◎寛延3年(1750) の人口は、上下府中合わせて13702人(男7087人、女6580人)という記録があります(寛延3年御公用諸事の留)。
◎明和1年(1763年)の人口は、上下府中合わせて12248人(男6212人、女5996人)、下府中9274人、上府中2974人(宝暦14年御用留)。
◎明和3年(1766) の人口は、上下府中合わせて11831人(男6062人、女5740人)、下府中9109人、上府中2812人(明和3年御用留)
◎明和5年(1768) の人口は、上下府中合わせて12103人(男6146人、女5937人)、下府中9236人、上府中2867人(明和5年御用留)
◎明和9年(1772年)の人口は、上下府中合わせて11348人(男5778人、女5836人)、下府中8544人、上府中2804人(明和9年御用留)。
◎安永5 (1776) の人口は、上下府中合わせて11358人、下府中8541人、上府中2817人(安永5年御用留)。
◎天明8年(1778) の人口は、上下府中合わせて10819人(男5349人、女5449人), 下府中8426人、上府中2393人(天明8年御用留)。
◎寛政2年(1790年)の人口は、上下府中合わせて10640人(男5261人、女5359人)、下府中8293人、上府中2347人(寛政2年御用留)。
◎寛政4年(1792年)の人口は、上下府中合わせて10648人(男5276人、女5353人)、下府中8298人、上府中2350人(寛政4年御用留)。
◎寛政8年(1796年)の人口は、上下府中合わせて10473人(男5230人、女5223人)、下府中8164人、上府中2309人(御用留)。
◎寛政10年(1798年)の人口は、上下府中合わせて11052人(男5507人、女5541人)、下府中8982人、上府中2370人(上下町中人別改帳)。
◎天保13年(1842年)の人口は、上下府中合わせて9946人(男5058人、女4888人)という記録があります(甲府上下町屋敷人別改)。下府中の住民は8127人(男4125人、女3982人)、上府中の住民は1819人(男913人、女906人)です。この人口は5歳以上で、町民だけです。このほか3500人程度の武士がいたようです。
◎安政5年(1858)の坂田家日記には、上下府中あわせて11992人(男6252人、女5739人、僧1人)とあります。
◎慶応4年(1868年)の坂田家日記には、下府中の住民は10802人(男5432人、女5363人)、上府中の住民は2212人(男1097人、女1124人)、合計13023人とあります。ただし2歳以上の人口です。屋敷数は下府中1352軒、上府中735軒とあります。
◎明治3年(1870年)の坂田家日記には、上下府中合わせて6508人(内子供1804人)とあります。下府中の住民は5203人(男1705人、女2052人、子供1446人)、上府中の住民は1305人(男1305人、女407人、子供358人) です。
人別帳には幼児は記載されておらず、また武士の人口は不明なので、正確な記録とはいえませんが、1万人から1万2千人程度の町民が甲府に住んでいたことがわかります。また、下府中に人口が集中していました。
寛文10年(1670年)から慶応4年(1868年)まで人口はあまり変化がありません。明治3年に人口が激減しています。この原因ついては検討が必要と思います。
「 静岡県の歴史」(昭和54年、山川出版)には、近藤恒次の「東海道・御油・赤坂交通史料」が引用されていますが、この資料によれば、1843年(天保14年)の駿河府中(静岡市)の人口は14071人になっています(p185)。甲府と同程度の人口になります。
甲斐細記という歴史に関する古文書があります(甲州文庫)。享保9年(1724)に柳沢家が甲府から大和郡山に転封した時の甲斐国の人口のデータがあります。このデータには、「国中家数合47888軒、人数〆264470人、内112088人男、112109人女」と記載されています。これは柳沢家から幕府に引き渡された書類と思われます。郡内地域(南北都留郡)は正徳3年(1713)に幕府領に戻っていますので、郡内地域の人口は除いてあると思われます。