kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第132回 御国法

2016-09-25 09:43:00 | 説明
御国法


 甲府城下の職人や商人から役所に提出された訴状には「御国法」という用語が見られます。「御国法」あるいは先規先例に違反している商売が行われているので,これを禁止してほしいという内容です。当時の役所も「御国法」という用語に関心を持ったようで、甲府町年寄りにその内容を尋ねています(延享3年御公用諸事の留;1746)。

 町年寄は、「代々の支配者から認められた規則が伝わったもので、特に御国法という特別な文書は存在しない」と答えています。この場合、”国”とは甲斐国、甲府盆地内、甲府城下の事です。法とは決まりということです。さらに、御国法の例を挙げています。その代表的な内容は次の通りです。
◎年貢金に小切りが存在すること。これは甲州独特の年貢方式であること。
◎甲州金の存在。甲州金は甲州独特の通貨であること。
◎甲州升の存在。甲州升は甲州独特の升であること。
◎国中の秤は甲府八日町の仁右衛門が管理していること。
◎周辺の村々の髪結は下府中(土居内町)で商売ができない
◎他国の飴屋は甲斐国内で商売はできない。

 宝暦6年(1756)御用留には、「11月亥の日冬御幸と申す御国法にて町在共に奉公人出替り申し候」とあります。これは、奉公人出替りとは奉公人の交代のことです。

 商人はこの御国法を根拠に,役所に訴えることがありました。享保15年(1730)に飴屋から他国飴売停止の願書を役所に提出しています(享保15年町中御用日記)。の願書に「先期より御国法にて数代御セリ駒の内番人の御役義ただ今まで相勤め罷りあり候」という文言があります。御セリ駒の内番人とは甲府城下にあった馬の競り市の場所事で、飴屋はここの番人を務めていたことになります。飴屋が認められる代償(冥加)として番人を務めていることが御国法だということになります。
宝暦10年(1760)も飴屋が他国飴売停止の願書を役所に提出しています(宝暦10年御用留)。これは認められて停止の町触れが出されています。その後何回も同様な願書を提出いています。

第131回 甲府の人口2

2016-09-14 10:10:35 | 説明
甲府城下の人口2 

 
 第7回に甲府城下の人口について書きました。今回はさらにデータを追加したものを載せます。

 江戸の人口は100万人程度といわれています。では18世紀から19世紀の甲府の人口はどのくらいでしょうか。人口に関する記録が残っていますので紹介します。江戸時代は人別帳がありましたので、人口がわかります。ただし、武士は含まれていません。

◎寛文10年(1670年)の人口は、上下府中合わせて12772人(男6161人、女6611人)、下府中10420人、上府中2352人(万治延宝年間御用留)。
◎元禄2年(1689年)の人口は、上下府中合わせて14334人(男6938人、女7369人)坂田日記抄)
◎元禄6年(1693年)の人口は、上下府中合わせて13666人(男6801人、女686t人) (坂田日記抄)
◎元禄8年(1695年)の人口は、上下府中合わせて14253人(男6878人、女7357人) (坂田日記抄)
◎享保2年(1716年)の人口は、上下府中合わせて12655人(男6534人、女6121人)(享保2年御用留)。
◎享保10年(1725年)の人口は、上下府中合わせて14088人(男7126人、女6819人)(享保10年御用当座扣帳)。
◎寛延3年(1750) の人口は、上下府中合わせて13702人(男7087人、女6580人)という記録があります(寛延3年御公用諸事の留)。
◎明和1年(1763年)の人口は、上下府中合わせて12248人(男6212人、女5996人)、下府中9274人、上府中2974人(宝暦14年御用留)。
◎明和3年(1766) の人口は、上下府中合わせて11831人(男6062人、女5740人)、下府中9109人、上府中2812人(明和3年御用留)
◎明和5年(1768) の人口は、上下府中合わせて12103人(男6146人、女5937人)、下府中9236人、上府中2867人(明和5年御用留)
◎明和9年(1772年)の人口は、上下府中合わせて11348人(男5778人、女5836人)、下府中8544人、上府中2804人(明和9年御用留)。
◎安永5 (1776) の人口は、上下府中合わせて11358人、下府中8541人、上府中2817人(安永5年御用留)。
◎天明8年(1778) の人口は、上下府中合わせて10819人(男5349人、女5449人), 下府中8426人、上府中2393人(天明8年御用留)。
◎寛政2年(1790年)の人口は、上下府中合わせて10640人(男5261人、女5359人)、下府中8293人、上府中2347人(寛政2年御用留)。
◎寛政4年(1792年)の人口は、上下府中合わせて10648人(男5276人、女5353人)、下府中8298人、上府中2350人(寛政4年御用留)。
◎寛政8年(1796年)の人口は、上下府中合わせて10473人(男5230人、女5223人)、下府中8164人、上府中2309人(御用留)。
◎寛政10年(1798年)の人口は、上下府中合わせて11052人(男5507人、女5541人)、下府中8982人、上府中2370人(上下町中人別改帳)。
◎天保13年(1842年)の人口は、上下府中合わせて9946人(男5058人、女4888人)という記録があります(甲府上下町屋敷人別改)。下府中の住民は8127人(男4125人、女3982人)、上府中の住民は1819人(男913人、女906人)です。この人口は5歳以上で、町民だけです。このほか3500人程度の武士がいたようです。
 ◎安政5年(1858)の坂田家日記には、上下府中あわせて11992人(男6252人、女5739人、僧1人)とあります。
 ◎慶応4年(1868年)の坂田家日記には、下府中の住民は10802人(男5432人、女5363人)、上府中の住民は2212人(男1097人、女1124人)、合計13023人とあります。ただし2歳以上の人口です。屋敷数は下府中1352軒、上府中735軒とあります。
 ◎明治3年(1870年)の坂田家日記には、上下府中合わせて6508人(内子供1804人)とあります。下府中の住民は5203人(男1705人、女2052人、子供1446人)、上府中の住民は1305人(男1305人、女407人、子供358人) です。

 人別帳には幼児は記載されておらず、また武士の人口は不明なので、正確な記録とはいえませんが、1万人から1万2千人程度の町民が甲府に住んでいたことがわかります。また、下府中に人口が集中していました。

 寛文10年(1670年)から慶応4年(1868年)まで人口はあまり変化がありません。明治3年に人口が激減しています。この原因ついては検討が必要と思います。

「 静岡県の歴史」(昭和54年、山川出版)には、近藤恒次の「東海道・御油・赤坂交通史料」が引用されていますが、この資料によれば、1843年(天保14年)の駿河府中(静岡市)の人口は14071人になっています(p185)。甲府と同程度の人口になります。

甲斐細記という歴史に関する古文書があります(甲州文庫)。享保9年(1724)に柳沢家が甲府から大和郡山に転封した時の甲斐国の人口のデータがあります。このデータには、「国中家数合47888軒、人数〆264470人、内112088人男、112109人女」と記載されています。これは柳沢家から幕府に引き渡された書類と思われます。郡内地域(南北都留郡)は正徳3年(1713)に幕府領に戻っていますので、郡内地域の人口は除いてあると思われます。

第130回 下府中形成以前の様子

2016-09-06 09:58:08 | 説明
下府中形成以前の様子


 江戸時代の甲府城下は上府中と下府中に区分されることを以前書きました。上府中は武田時代の甲府城下の名残です。下府中は武田家滅亡後の甲府城築城に伴って形成された町です。

 図に武田時代の甲府周辺の様子を示します。武田城下は愛宕山と湯村山に囲まれた地域に存在しました。西側には貢川があります。ここは貢川が形成した扇状地に相当しています(図中記号1)。
現在の甲府城は愛宕山から続く低い尾根の先端です。当時は丸山といいました。武田城下は東,北,西が山で囲まれ,さらに南側にも山がありました。
この丸山の西麓に一蓮寺があり,この一蓮寺の周辺に門前町が形成されていたようです。甲府城築城によりこの一蓮寺と門前町は南の現在の位置に移されています。一蓮寺と門前町の跡は甲府城内になっています。


 図中記号2の位置にも扇状地があります。この扇状地は藤川により形成されたものです。藤川は愛宕山の西麓を流れる川で,丸山(現在の甲府城)と愛宕山の間を通り(現在でも深い谷になっています),中央線沿いに東に流れています。中央線沿いの現在の流路は甲府城の築城に時に付け替えられたようです。当時は南側に向かって流れていたようです(図中の青色の破線で示した流路)。下府中はこの扇状地に形成された町です。この扇状地の南側と東側には湿地が存在していました。

 現在甲府城が存在する場所は丸山といわれた場所です。この丸山の西のふもとに一蓮寺という寺があり、門前町が存在していました。甲陽伝記には、「かの山麓に温泉あり湯田村と号す。西一条町というも寺の大門内あり」とあり、天正宝永年間記には「一条町はすなわちこの寺の大門なり。」とあります。

 丸山の東側には藤川が流れていました。峡中古事記には、「この御普請は、御堀水藤川より引きとなり、右藤川は今の境町より八日町口流れ、御城御普請の時は長禅寺前の東より1所に切通城屋町へ流し申候。」とあります。甲府城の普請に伴い藤川の流路が変更されています。

 下府中がある場所はどのような場所だったのでしょうか。
跫(あしおと(昭和51年、宅間準造))という本には、「古くからの口伝によれば、教安寺の山門は旧三日町と旧柳町との十字路にあったという。」とあります。教安寺は今も存在します。この伝承が正しければ、下府中の大部分は教安寺の境内であったことになります。境内に町割りを行い、上府中から町を移動したということになります。
 
 図は甲府の下府中の形成以前の様子を推定した図です。


 町の移動には分町と町の移動があるようです。上府中と下府中には元柳町―柳町、元緑町―緑町、元三日町―三日町のように対応する町があります。これらの町は分町、すなわち元の町の住民の一部が移動してきた町です。これに対して、八日町、伊勢町(のちに山田町と改名)、鍛冶町など対応しない町があります。寛成9年の鍛冶町役義書付並朱印写(甲州文庫)という古文書には「永禄年中召し出され甲府上府中の節鍛冶小路に罷りあり」という記載があり、上府中から移動してきたと伝えられています。天正宝永年間記には「一条町はすなわちこの寺(一蓮寺)の大門なり。」とあり、また、甲斐国誌には「一蓮寺・・・寺門に市を成し商賈多く集まる。よりて一条町一蓮寺小路の名あり」とあります。一条町(上、下、西)も同様に移動したことが分かります。愛宕山西麓に八幡神社がありました。当時は八日市場という町がこの八幡神社の付近にありました(甲斐国誌)。甲府城築城時にこの八幡神社付近は築城のための石材の採取地になったため、八幡神社は金手町に移動し(山八幡)、八日市場は八日町として下府中に移りました。