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Neser ty vole!

韓国生活あれこれ

2008 ヨーロッパ旅行記(9) モラヴィアの車窓から

2008-08-25 00:37:53 | ヨーロッパ旅行記

 

オストラバからオロモウツまで、「世界の車窓から」ならぬ「モラヴィアの車窓から」お楽しみください。ちなみに、モラヴィアとは、チェコ東部の地方のことで、プラハのある西部はボヘミアといいます。日本でいえば、「関東と関西」みたいな感じでしょうか?


 

まずはオストラバ・スヴィノフ(Ostrava-Svinov)駅からスタート。ヨーロッパの雰囲気漂う駅です。


 

次はオパヴァ・ヴィーホド(Opava východ)駅。木材を積んだ列車が止まっていますね。

 


オパヴァ・ザーパド(Opava západ)駅。パッと見、どこかの一軒家みたいです。

 


クルノフ・ツヴィリーン(Krnov-Cvilín)駅。クルノフは、ポーランドとの国境ギリギリのところにある町です。

 


クルノフ(Krnov)駅。こっちがクルノフの中心なのかな?クルノフ・ツヴィリーン駅より大きいみたい。

 


小麦畑かな?窓外に広がる、モラヴィアの風景です。

 


どこまでも続く畑。これはたしかトウモロコシだったと思います。

 


ミロティツェ・ナド・オパヴォウ(Milotice nad Opavou)駅。ここは人口400人弱の小さな村です。

 


ブルンタール(Bruntál)駅。ちょこっと突き出した煙突がかわいいですね。

 


どこまでも続く草原。牛たちがくつろいでいます。でも耳にはちゃんとタグが。チェコの牛もしっかり品質管理されています(笑)。

 


ヴァルショフ(Valšov)駅。リュックを背負ったお姉さんがひとり。どこかに行くのか、どこかから来たのか。来たとしたら、この村には何があるのかな?

 


ロムニツェ・ウ・リーマジョヴァ(Lomnice u Rýmařova)駅。何か山小屋みたい…。

 


ゲトジホフ・ナド・ビストジチー(Dětřichov nad Bystřicí)駅。すごく寂れた感じ。ひと昔前の東欧の駅といった風情が。

 


はるか地平線まで…。

 


モラヴスキー・ベロウン(Moravský Beroun)駅。このあたりはもう、オロモウツの行政区域です。

 


駅のトイレ。さて、どっちが男で、どっちが女でしょうか?

 


ドマショフ・ナド・ビストジチー(Domašov nad Bystřicí)駅。今はボロいけど、その当時は立派な駅だったんでしょうね。ちなみにここは、7年戦争の激戦地のひとつ「ドムシュタットルの戦い」の主戦場だったそうです。ドムシュタットルとは、ドマショフのドイツ語名。

 


列車は走るよどこまでも~。

 


フルボチュキー・マリアーンスケー・ウードリー(Hlubočky - Mariánské Údolí)駅。長い駅名だなぁ。このへんになると、家がだんだん増えてきます。オロモウツまでもう少し!

 


終着のオロモウツ(Olomouc)駅に到着!こうみると、オロモウツはやっぱり大きい街ですね!

 

いかがでしたか?モラヴィアの風景をちょっとは感じてもらえたでしょうか?

次回はオロモウツ探訪記です。


2008 ヨーロッパ旅行記(8) 再会

2008-08-24 14:15:08 | ヨーロッパ旅行記


8月6日(水)

この日はまず、オストラバ近郊のハヴィージョフ(Havířov)という町へ向かいました。オストラバから列車で数十分。もともとここに用事はなかったんですが、ちょうど本来の目的地であるチェスキー・チェシーンに向かう途中だったので、敢えて訪ねてみました。理由は、昨シーズンまでアニャンハルラでプレーしていた、フィリップ・シュテファンカ選手の顔を見るため。彼は今シーズンから、この町に本拠を置くHCハヴィージョフというチームでプレーすることになったんです。

ハルラ在籍時は、昨シーズン途中でチームを放出された、同僚のミラン・コペツキー選手とチェコで再会するまでは髪を伸ばし続けると言って、結構長くなっていたんですが、久しぶりに会ってみると、さわやかなスポーツ刈りになっていました。ミランと無事再会できたのかな?聞くのを忘れました…。

ちょうど午前中の氷上トレーニングが終わって、ミーティングかなにかが始まるところだったので、長話はできなかったんですが、この日の夕方、オストラバ市内で飲む約束になっていたので、とりあえずここでは簡単な挨拶だけ。チェコの2部リーグなんですが、それでも立派なリンクがあって、チェコのアイスホッケーの底辺の大きさを実感しました。

ハヴィージョフからまた列車にのり、チェスキー・チェシーンへ。ここはひとつの町がふたつの国に分かれているという、日本ではなかなか想像のできないところ。駅を降りて5分も歩けば、そこはもうポーランドです。

歩いて国境を越えるのは、今回で2回目。最初はスロバキアとポーランドの国境を流れる川を下ったついでに、記念にとポーランドの森に足を踏み入れたとき。このときは国境の検問があったんですが、今回はそれもなし。西宮から神戸に行くような感覚です(笑)。

国境の橋から両岸を眺めてみると…。

川の左手がポーランド、右手がチェコです。

チェコ側は川辺に緑地が広がっていて、市民が寝転がって休息をとる姿がちらほら見えますが、ポーランド側にはそうしたスペースが見当たりません。また、チェコ側は全体的に平坦なのに対して、ポーランド側は坂道が多かったです。

どちらにもショッピング街のようなものはありましたが、歩き回って感じたところでは、ポーランド側のほうが賑やかで、見どころも多そうな感じがしました。ま、今回は町を歩き回る程度で、特に何を見た、というわけではないので、本当のところはどうなのかわかりませんが…。

ただひとつはっきりとわかるのは、チェコ側とポーランド側では、使われている言葉とお金が違うということ。当たり前の話ですが、チェコ側ではチェコの言葉と通貨が、ポーランド側ではポーランドの言葉と通貨が使われています。

ポーランド側から見た国境。橋の向こうはチェコです。

「ようこそチェコへ!」

 

ふりむくと、

 

「ようこそポーランドへ!」

 

実際、双方の住民が話すときはどうなんでしょうかね。実はみんな、チェコ語とポーランド語のバイリンガルだったりして…。

せっかくポーランドに入国したわけですから、記念にポーランド料理を食べようと、レストランに入りました。写真にあったおいしそうな料理を頼んだんですが、ここで問題が発生。僕はメニューを指さしてオーダーしたつもりだったんですが、ウェイターは単に質問しただけと勘違い。それがわかったのも、料理を頼んでから1時間以上経ってから。

お詫びということで、ビール1杯サービスしてくれたんですが、時計を見ると4時近く。7時からオストラバで飲まなければならないのに、こんなところで酔っ払っていたら、夜が持ちません!ふつうだったら大喜びなのに、今回だけはちょっと複雑…。

ちなみに、僕が頼んだ料理も、O氏が頼んだ料理も、偶然レバーの料理でした。ポーランドってレバーをよく食べるんでしょうかね。

そんなこんなで、予想以上にレストランに長居してしまったため、見物もそこそこにオストラバに戻ることに。オストラバ中央駅からトラムに乗り換え、待ち合わせ場所のストドルニーへ。ここは何と80以上ものパブやバーが軒を連ねる、チェコきっての「飲み屋街」。プラハにもこんなところはなかったような。

待ち合わせ場所には、午前中に会ったフィリップとその彼女ペトラが既に待っていて、少ししてパトリックの奥さんとふたりの娘も合流しました。ペトラは相変わらず美しかった…。僕が「クレオペトラ」と名付けただけのことはあります!5人とも韓国では何度もあったことがありますが、チェコでこうして会うのは初めて。ちょっと不思議な感じです。

これまでプラハ以外の街では東洋人をあまり見かけなかったんですが、ここオストラバ、特にストドルニーではよく見かけました。フィリップによれば、ほとんどが韓国人とのこと。韓国企業の工場が近くにあるのだとか。いいなぁ。僕も2~3年、こんなところに住んでみたい…。

1軒目のお店では、オストラヴァーというご当地ビールで乾杯!ところがこのビール、アルコール度数がきついのか、身体に合わないのか、グラスを空けるころにはこめかみのあたりがズキズキ…。ポーランドで飲んだ遅めの一杯もあってか、なかなかグイグイと進んでいきません。

それでも、タタラックを堪能しながら、久し振りに話も弾んで、楽しいひとときとなりました。

2軒目はバーでピルスナー・ウルケルを飲みました。本当はもっとたくさん話をして、もっとたくさん飲みたかったんですが、どうにもこめかみのあたりが痛かったのと、いっしょにいたO氏も疲れ気味だったこと、そしてパトリックの娘も遅くまでいられないことなどもあり、9時半すぎにはお開きに。

帰りはフィリップのスバルWRXで爆音を轟かせながら送ってもらいました(笑)。あっ、彼は翌日練習があったので、ずっとノンアルコールを飲んでました。飲酒運転ではないので、悪しからず^^;


2008 ヨーロッパ旅行記(7) ひとつの町、ふたつの国

2008-08-20 00:19:37 | ヨーロッパ旅行記


チェコとポーランドの国境に、チェシーンという町があります。チェシーンの町にはオルザ川という川が流れていて、この川より西側がチェコ領、東側がポーランド領となっています。つまり、ひとつの町がふたつの国に分かれているんです。

もちろん、どちらの町もそれぞれの言語で名前がつけられているわけですが、ポーランド側はチェシーン(Cieszyn)と言うのに対して、チェコ側はチェスキー・チェシーン(Český Těšín)と、「チェコの」を意味する「チェスキー」が頭についています。

チェシーンの特徴は、何と言ってもポーランド色が濃い町だということ。国境の町なのに、どことなくチェコよりはポーランドの雰囲気が強く漂っています。

それもそのはず。1919年のオーストリア国勢調査によると、当時この町に住んでいた人が話す言語は、ドイツ語が約62%と圧倒的に多く、その次がポーランド語で約32%、チェコ語はわずか約7%だったそうです。つまり、9割以上の人たちがドイツ語かポーランド語を話していたことになります。

では、ポーランド語はともかく、なぜドイツ語を話す人がそんなにたくさんいたのでしょうか?

この町の歴史を紐解いてみると、チェシーンがこれまで実にさまざまな国の支配を受けてきたことがわかります。13世紀にはポーランド、14世紀から17世紀半ばまではボヘミア(現在のチェコ)、それから20世紀初頭まではオーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の支配を受けてきました。そして、支配を受けていたとはいえ、この町はテッシェン公国(「テッシェン」は「チェシーン」のドイツ語名)という国の首都でもありました。

2世紀以上もオーストリアの支配下にあったわけですから、町には多くのドイツ系住民が住んでいました。当時は町中でドイツ語以外の看板を探すのが難しいほど、ドイツ語が幅を利かせていたといいます。

その後、オーストリア=ハンガリー帝国の没落とともに、同じくその支配下にあったチェコとポーランドが、それぞれチェシーンの領有権を主張し始めました。そして軍事的衝突の末、1920年のスパ会議において、この町をチェコとポーランドの2国に分割することで合意しました。

と、こんな話を書いても「そうか、ヨーロッパではそんな出来事があったんだ」と思うかもしれませんが、実はこのスパ会議に参加したのは、三国協商各国にドイツ、チェコ、ポーランドを加えた国々。そう、三国協商とはもともとフランス、イギリス、ロシアを指しますが、当時日本もこの枠組みに加わっていたため、図らずもこの会議に加わることになったんだとか。

何がどこでどう繋がっているのか、わかったものではありません(笑)。

ところが、です。残念なことに、これで一件落着とはいきませんでした。新たな支配者が、この地にやってきました。ヒトラー率いるナチス・ドイツです。ナチスはミュンヘン会談でチェコのズデーテン地方を占領してしまうわけですが、その混乱の隙を突いて、ポーランドがチェシーンの奪還に成功します。1938年のことでした。

ポーランドにとっては念願叶ったり、といったところでしたが、そのわずか1年後、ナチスの矛先はポーランドに向かい、ナチス、スロバキア(ドイツの傀儡政権)、ソ連の3国がポーランドに侵攻しました。

こうなると、もうチェシーンどころの話ではありません。結局、チェシーンはナチス・ドイツの領土となり、ナチスが敗北する第二次世界大戦後になって、ようやくまた1920年のスパ会議で定められた国境を回復することになりました。

今回は、そんな「ふたつのチェシーン」にも行って来ました。


2008 ヨーロッパ旅行記(6) NAGANO ’98

2008-08-19 00:49:05 | ヨーロッパ旅行記


8月5日(月)

この日はT夫妻が日本に帰国する日、そして僕とO氏がオストラバに移動する日です。これまで何度も諦めてきた、プラハ城の聖ヴィート大聖堂を何としてもみようと、朝早くから列に並びに行きました。その甲斐あって、行列もほとんどなく、あっけないほど簡単に中に入ることができました。

いやぁ、すごいですね。とにかくまずその大きさに圧倒されます。建物の高さ、奥行き…本当に大きいです。そして建物を囲むように取り付けられたステンドグラス。一枚一枚、どれもすばらしいものでした。その中には、アールヌーヴォーの代表的画家、アルフォンス・ミュシャのステンドグラスもあります。

念願の聖ヴィート大聖堂を見学したことで、T夫妻の今回のプラハ観光も一応フィナーレを迎えることになりました。僕とO氏は、土曜日にまた戻ってきますが、「観光」という意味では、やはりこの日が最後。旧市街で昼食をとってから、荷物を取りにホテルに戻り、T夫妻がトラムに乗るのを見届けてから、僕たちもオストラバへ向かうべく、プラハ・ホレショヴィツ駅行きのトラムに乗りました。

プラハからオストラバまでは、特急列車で約3時間。オストラバはポーランドとの国境近くにあるので、チェコを西から東に横断することになります。ファーストクラスで行ったんですが、プラハを出発してすぐ、ビール、コーヒー、サンドイッチ、スナック菓子の無料サービスがありました。まさに至れる尽くせり、といった感じです。

オストラバ中央駅に着くと、そこからホテルまではトラムで20分ほど。このトラム、出発前にこのブログで紹介したあのトラムとまったく一緒でした!当たり前だけど、ちょっと感動♪

オストラバはチェコで3番目に大きな街で、工業都市。もっと正確にいえば、「鉄の街」です。僕らが乗ったトラムも、ヴィトコヴィツェ製鉄所の大きな敷地を貫通するように走り抜けていきました。「中世の香り漂う歴史的な国」という、チェコのイメージとはかなりかけ離れています。

近くには、HCヴィトコヴィツェというアイスホッケーチームの本拠地がありました。今回の旅は、何かとアイスホッケーと縁があるみたいです。というか、それだけアイスホッケーがチェコでは人気があるんでしょうね。

そうそう、ホテルのすぐ横に「NAGANO ’98」という、ボーリング場を併設した大きなレストランがあったんですが、このネーミングもやはりアイスホッケーに因んだもの。「NAGANO」はもちろん「長野」のことで、「’98」は「1998年」。長野オリンピックは、アイスホッケーチェコ代表が初めて金メダルを取った大会だったんです。このとき、チェコの人たちがどれだけ興奮したかっていうと…。



これだけで十分伝わってきますよね。社会主義時代に抑圧されてきたロシアを倒しての初の金メダル。見ているこっちまで感動してしまいます。

話がずれましたが、そんなこんなでホテルに到着しました。

ホテルは閑静な住宅街に位置し、ビアパブを併設していました。ここではオリジナルのビールも醸造しているようで、チェックイン後、早速飲んでみたんですが、味もなかなかのものでした

部屋は昔の屋敷を改造したよう感じで、ふつうのホテルとはかなり趣が異なります。僕たちは止まらなかったんですが、動物の剥製(首)が壁に並んで飾られている部屋なんかもありました。僕には怖くて泊まる勇気がありませんが…(ホテルのウェブサイトに、部屋の写真があります)。

とにかく、不思議な感じのする、ユニークなホテルでした。


2008 ヨーロッパ旅行記(5) Boris Becker meets…

2008-08-18 20:17:50 | ヨーロッパ旅行記


チェコのホテルは、プラハのホテル以外は日本語の放送がありませんでした。チェコ語、ドイツ語が中心で、あとは英語やフランス語などが数チャンネル。ポーランドに近いオストラバでは、ポーランド語のチャンネルがたくさんありました。

まぁ、どの言語を選んでも、何を言っているのかわかるわけではないので、面白そうな映像にチャンネルを合わせて、いろいろ見てみました。やっぱり、日本のテレビとはかなり趣が違いますね。

そんな中、懐かしい顔をブラウン管の向こうに見つけました。テニスのボリス・ベッカーです。僕が子どものときが彼の全盛期でした。イワン・レンドルやステファン・エドベリ、ジョン・マッケンロー…。女子だったら、マルチナ・ナブラチロワ、シュテフィ・グラフ、モニカ・セレシュ。どれも懐かしい面々です。

さて、ボリス・ベッカーですが、現在はどうやらタレント業のようなことをしているようです。「Boris Becker meets」というシリーズものっぽい番組でホストを務めていて、この日のゲストはアリシア・キーズ。彼女が滞在するホテルのスウィートルームを訪ね、いっしょに食事をし、ピアノを弾き、街を散策し、服を買いに行き…。

現役時代は、どちらかといえばコワいイメージでしたが、番組の中のベッカーは、とてもウィットに富んだ親しみやすいキャラクターでした。

ポーランド語のチャンネルでは、すごくコミカルな歌を歌うグループを発見。グループ名とか曲名はよくわからないのですが、ひたすら「ポルスカ(ポーランド)!」と叫び続ける、愛国心の塊のような曲。誰が歌っているのかすごく気になるんですが、Youtubeでもなかなか探せません…。

あとはやっぱり、北京オリンピックに関係した番組が多かったですね。それぞれ、お国の強い競技を中心に放送するんでしょうが、ドイツ語のテレビではカヌーとか水球をやっていました。韓国に戻ってきたらアーチェリーや水泳、柔道などが多いですね。

ということで、次回はプラハを経ち、オストラバへ向かいます