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コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

「せりふの時代」休刊にこと寄せて

2010-07-06 22:29:22 | 
戯曲雑誌「せりふの時代」が休刊になる、という話は、パルコ劇場でたまたま隣に座った若者の会話で知った。
今月刊行された夏号(通巻56号)は、記念のつもりで購入した。
井上ひさし追悼号の趣もあって感慨深いのだけれど、戯曲はさておき、篠井英介のエッセイにはかなり響く物があった。

新刊の書物から引用するのは気が引けるけれど少しだけ。

 演劇作りのプロたちが、ほんの少し社会との関係に関心をもって仕事をしていたら『せりふの時代』は続いていたと思います。こじつけですかね。いえ、せめて演劇界全体のことをもっと感じようとしてみませんか。まず、自分も芝居を作っているのに、他の芝居に興味のないひとが多すぎますしね。
……
 で、無理してでも観に行って、よかったら喜んで満足して、ダメだったら「お前らなぁ」とか思って、何がダメだったか言葉にして考えてみて下さい。……

全文引用したいです。後半の「女優」の話も傑作。

ここで篠井が言ってることは、芝居だけの問題ではない。
学問とか、大学とか、自分の領域に引きつけて考えた時、みんな、何かしら思い当たることがあるんじゃなかろうか。





さて、大事なことではあるのだけれど、実はここまでは枕。
私の手元には「せりふの時代」春号もある。
これには永井愛「かたりの椅子」が掲載されているから。

この芝居は4/10に世田谷で観ているのだけれど、色々思いが強すぎて感想を書けないままになっている。

7/9に教育テレビで放送されるらしく、それならこの機会に多くの人に観て欲しいので、感想と言うより宣伝。



「永井愛3年半ぶりの新作」。
二兎社@世田谷パブリックシアター。
上に書いたように、私がこの芝居を見たのは4/10。
見終わって、出て行こうとしたら、永井愛御本人が、TVで拝見するのと同じような、ちょっと困ったような笑顔でそこにいた。
井上ひさしの訃報を我々が知ったのは翌日だったけれど、彼女は御存じだったのかどうか。そして、井上ひさし御本人は、この芝居をご覧になったのかどうか。

とおもって、サイトを確認したら、11日の公演ブログに、それが果たせなかったと書かれている。

あぁ。



永井愛を知ったのは、『ら抜きの殺意』から。
それも、鶴屋南北戯曲賞を受けたあとのこと。
そのあとの新作は、可能な限り観ているし、二兎社やテアトルエコー以外の再演も気づけば行くようにしている。

元々、井上ひさしを読むのが好きだった私にとって、問題のとらえ方も提示の仕方も、似通いつつ、乗り越えたなぁ、と思わせてくれる物があった。

一つ一つの戯曲が、アクチュアルな問題に対する仮想的“考察”であり、それが深刻で、泣けるんだけれど詰まるところ喜劇になるという。しかも、記憶にとどめたいシャープな言葉と、しっかり構成された戯曲の仕掛と。
同じ時代を生きて、この人の新作を観られる幸せ。

しかし、この作品は、今までとかなり様子が違う。
明らかに、“敵”の姿が見える。
あまりに近いテーマだったために、“演劇を通した考察”、から、“演劇を通した闘争”にシフトしてしまったのか。


あらすじは検索していただければ詳しい物もいくつかあるので省略。

背景などは松本上演に向けてのインタビューなど参照。


静岡という地方都市に住んで、そこそこ文化行政に関わる人たちとも知り合いになり、「芸術監督」や「財団理事長」という肩書きの人ともお話する機会もある身として、この芝居は他人事ではない。

否、文化行政だけの問題ではないのだ。
全ての“官僚的”なるものが、今の日本をこういう状態にしている。

政権交代しても何も変えられない、どころか、むしろ悪くなってしまう国。

我々は、いつまでも「沼瀬さん」でいるわけにはいかない。


必見です。
芝居見なかった人はテレビで。
テレビ観られない人は「せりふの時代」55号で。

そして、みんなで議論しましょう。
感想、というか、意見は、またあとで書くかも。



自分たちが、それぞれの場所で、「ほんの少し社会との関係に関心をもって仕事をしていたら」。


やれることを、やれる限り、やってみましょう。


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