コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

はじまり。

2011-04-06 12:21:54 | 
いろんな事を積み残したままにしてしまって、申し訳ありません。
ご迷惑をお掛けしています。
全ては私の怠惰のせいです。


それはそれとして、新しい年度は否も応もなく始まっています。


今年は久しぶりに“新入生セミナー”を担当しますので主に、新入生向けにすこし。


“311”は、何かを根本的にひっくり返してしまった。
世界を見渡せば、私が生きてきた50年の中には、もっと悲惨なことだって存在するだろうけれど、悲しいかな、私の想像力はそれほど大きな翼を持っていない。

世界は、もう“復元”しないと思う。
そういう時に大学に入ってくる。
しかも、文系。
そして、静岡。

そのことの意味を、多分まだゆっくり考える余裕もないと思う(私だってそうだ)。

私は、次に新入生セミナーを担当する時はこんな事をやろう、と言うプランを幾つも用意していたんだけれど、今年は

311以降、文科系の学科に所属して学ぶこと


と言う、結構重い課題を一緒に考えていこうと思う。


それで、昔書いてリンク切れになっている文章を少し発掘して学校のサーバーにアップしてみた。

少し引用するので、全体を読んでもらえると有り難い。



「文学」が「芸術」なら、「何が出来るか」を問うのは意味のないことのような気がする。芸術に何が出来るだろうか。創作することによって自分を救った人が居たかも知れない。鑑賞することによって人生をよりよい方向へ向かわせた人が居たかも知れない。しかし、その逆だって大いにあり得た。死刑になった文士は、何も彼が最初ではないし、自ら命を絶った作家なら簡単に名前を挙げることができる。それでも「文学」は善なのか。読者を悪の道に誘うのが「有害図書」で、美しい人間の真実を描き、人を善に導くのがよい芸術なら、戦争に協力した文芸は善なのかどうか。そもそもよい芸術と悪い芸術というものがあるのかどうか。

「文学にできること」ができるために (掲載紙・刊年不明。多分『日本文学』)



詩を学ぶことを無駄だと思う人は、科学や政治や経済を学んでもやっぱり無駄だ、と、私は思う。

「文学」から「言語文化」へ(『静大だより』刊年不明)



敢えて極論すれば、人間が認識し表現しなければ「事実」は存在しないし、書かれていない「歴史」は無かったも同じこと。ならば、書かれてあるものは何か。書くとは何か。 「事実/虚構」:「歴史/文学」という対立項の設定そのものを根本的に考え直す必要がある。それは、従来「文学」圏外にあったノンフィクションを立派に「文学」として読もう、などという事ではなくて、そういう対立の軸そのものが存在し得ないということを認める必要があるのだ。でないと、結局また、「面白い」とか「技巧的」とか、果ては「人間が描かれている」とか言った「文学性」の評価による囲い込み、選別が繰り返されるだけで、言語による現実の認識と表現という、得体の知れない「文学」なるものの根源的な問題へ接近するチャンスを逃してしまうような気がするのである。

事実は虚構であり歴史は文学であること 『日本文学』43-6(94,6 子午線)



初期新聞の混乱と安定化の道筋は、客観的であること、正確であることを指向することそれ自体の矛盾、不可能性を見せつける。その事は、翻って、今、我々が受け容れている客観的で正確な、「まっとうな」新聞記事が、実は、我々の物語の実体化に他ならないことを示してもいる。万人を支配する史観の不在によって生じている現在の歴史や事実認識の混乱を、新しい「正しい」物語によってではなく、我々に内在する物語を意識化し、相対化する別の思考の枠組みを模索することで乗り越えることこそが求められる。

「ニュース言語の江戸・明治」(『文学』隔月刊 4-1(200301)



追々追加します。


あ、渡辺先生の贈る言葉も必読

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