◆体験談◆

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2人の自閉症の息子と歩んだ日々

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2000/04/07: ◆体験 2人の自閉症の息子と歩んだ日々 長崎市 高鍋陽子さん

 【長崎市】高鍋陽子さん(50)=浦上支部、地区婦人部長=は、三人の息子のうち、二人の“自閉症”の子供を抱えながら、夫の俊一さん(53)=副本部長(地区部長兼任)=と力を合わせ、強く、明るく歩んできた。重度の知的障害がある自閉症の長男・雄一さん(23)=男子部員=は、自然豊かな施設で元気に生活。同じ自閉症の二男・博幸さん(22)=男子部員=は、就職を勝ち取り、はつらつと働く。兄を支えてきた三男の貴志さん(18)=男子部員=も今春、高校を卒業して就職。苦闘を乗り越え、高鍋さんは勝利の春を迎えた。
 一人でさえ大変なのに…
 「行ってきます!」
 毎朝六時過ぎ、博幸さんは元気に家を出る。電車で大手の蒲鉾(かまぼこ)工場に出勤。入社して二年、ほとんど休んだことがない。
 本紙配達員の高鍋さんは配達を終えて、出勤するわが子を見送る。「まさかあの子が働けるようになるなんて、まるで夢のようです!」
 明るいお母さんだ。二人の自閉症の子供を抱え、自分も働きながら、地区婦人部長、配達員として駆ける。そのパワーに驚く。
 子供が小さかったとき、周囲から「どうしてそんなに明るいの?」とよく言われた。「私もつらく、悲しいことの連続でした。でも、同志が、子供が、教えてくれたんです。無限の可能性を信じ、明るく生きていくことの大切さを」
 ――一九七六年(昭和五十一年)十一月、待望の長男が生まれた。一歳の時、川崎病に。生死をさまようわが子を救おうと、懸命に唱題を重ね、乗り越えた。
 その喜びもつかの間だった。わが子の様子がおかしい。視線が合わず、“多動”が目立ち始めた。一日中、家の中を歩き回る。
 自閉症だった。「知的障害があり、言葉も出るかどうか」。医師の言葉に、夢も希望も音を立てて崩れていくような気がした。
 だが、悲しむ余裕もなかった。マンションのベランダから下に物を落とす。マヨネーズや卵を畳にすりつける。「キーッ」と耳をつんざくような奇声。一日中、目が離せない。
 さらに追い打ちを掛けるように、博幸さんも自閉症と診断された。“一人でさえ大変なのに……”
 深夜、近隣に迷惑を掛けまいと、奇声を発する長男を背負って外に出たことは数え切れない。“このまま闇(やみ)のなかに消えてしまいたい……”。心は沈むばかりだった。
 そんな高鍋さんを同志は、温かく包んでくれた。「この子たちは、お母さんのもとを選んできたのよ。大切な宝の未来っ子のために、私たちも応援するわ。頑張って!」
 少しでも体を休めるようにと、数時間、子供を預かってくれた友。会合に行くと、わが子に声を掛けてくれる。「立派な人材に育つんだよ」。その真心に心を打たれた。
 夫の俊一さんも「帰宅するとき、マンションの下で階段を昇るのが嫌になったことが、何度もありました」と。そんなとき、いつも同志の励ましを思い出し、“よし、頑張ろう!”と奮起した。
 “少しでも症状が良くなれば”と、高鍋さんは障害児教育の幼稚園に通った。二人の子供を連れて、電車で通うのは大変なこと。長男は突然、走り出したり、奇声を発したり。二男はいつも大泣き。それでも強き母は、わが子の未来のために努力を惜しまなかった。
 小さな一歩が大きな喜び
 長男が幼稚園に通い始めて二年が過ぎたころ、高鍋さんは新たな不安に心を覆われた。妊娠していることが分かったのだ。
 “もしも三人目の子供も障害児だったら……”
 その不安を打ち破ったのは、俊一さんの言葉だった。「産もう。雄一も博幸も障害があるから不幸なんじゃない。大切なのは障害に負けないことだ。生まれてくる子も大事に育てよう」
 夫妻の懸命な祈りに包まれ、元気な男の子が誕生。三男の貴志さんは、二人の兄を優しく支える頼もしい存在になっていく。
 その三男誕生の直前、つらい別れがあった。重度の知的障害のために地元の小学校や養護学校に通えない雄一さんは入所施設に。入所の日、長男は高鍋さんの服をつかんで離さなかった。“離れたくないのね……”。自分が強くならなければ、と心に誓った。
 貴志さんの子育てが落ち着くと、高鍋さんは望んで配達員になった。“雄一も一人で頑張っている。私も新たな挑戦をして、一緒に成長しよう”と。
 「私が元気で明るいと、子供たちの反応も違うことに気付いたんです。そして、あの子たちの純粋な心が、感動と希望を与えてくれました」
 「パパ」「ママ」の言葉しか出なかった二男の博幸さんは、養護学校に入ってから、次第に言葉が出るようになった。一緒に御本尊の前に座ることを心がけてきた高鍋さんは、ある日、二男の声にハッと思った。「ナンミョウホウレンゲキョウ」。「はっきり聞こえたわよ!」。うれしくて、涙が止まらなかった。
 その後、数字や自分の名前を書けるように。五年生のときには、送迎のバスを降りて一人で帰ってくることができた。普通であれば小さな一歩かもしれないが、高鍋さんにとっては大きな喜びだった。
 養護学校創立十周年の記念誌に小学部を代表し、作文が掲載。中等部の入学式では新入生を代表してあいさつ。たどたどしい言葉だったが、立派なわが子の姿に夫妻は目頭を熱くした。
 「僕、仕事がしたい!」
 高鍋さんが常に心の励みとしてきた池田名誉会長のスピーチがある。「さまざまな苦難のときがあるだろう。しかし、そのときこそ、宿命を転換し、大功徳を受けるときと確信して、師子王のごとき信心を貫き通していただきたい」
 “宿命を使命に”と、ブロック担当員、地区担当員(現在の地区婦人部長)として、広布の最前線を駆けた。俊一さんは地区部長、支部長として活躍。夏休みや正月休みになると帰宅する長男の雄一さんを囲み、一家は笑顔でいろどられるようになった。
 博幸さんは養護学校中等部を卒業後、島原半島にあるコロニー(心身障害者などが社会生活を営み、治療・訓練・生産等の活動に励む施設)に入所。三年後には、施設の職員から、修了して能力開発センターに通うことを勧められた。そうなれば二年後には就職をしなければならない。状態が良くなったとはいえ、社会に出るには困難が多い。施設を修了すれば、二度と戻ることはできない。夫妻は迷った。
 だが、博幸さんの一言が決断させた。「僕、仕事がしたい! 家から通えるところで働きたい」と。わが子の思いを応援しようと、夫妻は「就職」を目標に祈った。
 そして、博幸さんはついに長崎市内の蒲鉾工場への就職を勝ち取った。給与面など、最高の条件だった。
 一昨年四月から博幸さんは働き始めた。「仕事の能力は低いのに、皆さんが“元気なあいさつが良い”って、ほめてくださって。優しい人たちに囲まれ、楽しく仕事に行っています」
 “最重度”の症状のため、施設の中にこもりがちだった雄一さんも、九六年四月、博幸さんが通った豊かな大自然に囲まれたコロニーに移ることができた。表情も「生き生きとしてきた」と喜ぶ夫妻。施設の育成会の役員も務めた。
 三男の貴志さんは、今春、高校を卒業して就職。
 「冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)――この御金言を胸に明るく、前向きに歩んできた高鍋さん。勝利の春は、幸せ満開だ。