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◆体験談◆

◆体験談◆

急性心筋梗塞、心停止から再起

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1990/10/06: ◆体験 急性心筋梗塞、心停止から再起 北海道 壮年部本部長 加藤栄さん

 *襲いくる「死」の不安を克服/どこまでも使命に生きる!/
発作性心室頻拍症→心筋梗塞/心停止から再起し第一線へ/青春時代の薫陶を
バネに前進
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 【北海道帯広市】いつ心臓の発作が起こるかわからない。そんな不安がいつも
去らない。ことは深刻である--。加藤栄さん(47)=西帯広支部、本部長=は、
発作性心室頻拍症の発作から急性心筋梗塞に。ひとたびは心停止にまで至ったが
幸いにも一命を取り止めた。だが、その後もひんぱんに発作が襲う。不安との
葛藤。「死」の恐怖。その闘いの中に、加藤さんの信仰のきらめきがあった。
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 *経過
 それまでも時折、動悸(どうき)があった。それが、激しい痛みを伴うように
なったのは、昭和五十五年ころから。朝起きたとき、圧迫するような胸痛がしば
しばで、ころげ回るほど。だが五分もすると、ピタリと収まる。
 五十六年、病院を訪れ検査を受けた。原因はわからなかった。その後、症状も
軽くなり、ついそのままにしていたのだが、五十八年が明けるとともに、連日の
ように激しい発作に襲われた。
 一月二十一日、国立療養所帯広病院に検査のため入院した。「
発作性心室頻拍症」との診断。心臓の心室が、異常に動悸を打つ病気である。
原因はわかっていない。
 その年の七月、職場で倒れた。貧血症状と胸の痛み。緊急に入院。再度、
カテーテル検査などの精密検査が行われ「虚血性心疾患」と判断された。
 栄さんの心の中に、次第に不安が込み上げてくる。いつ発作に見舞われるかわ
からない。そして、次も助かるという保証はないのである。その予感が、的中す
るのは、退院後、わずか十日目のことである。
 *幸運
 昭和五十八年八月二十一日、日曜日。当時、加藤さんは副支部長。朝九時半が
回ったころだろうか、支部長宅に用事があり、外出しようと御本尊に題目三唱し
たときだった。
 あの痛みだ。それも今までにない激しさ。耳が「ワァーン」と押しふさがれた
ように鳴っている。苦しい。いやな感じがする。妻の桂子さん(43)
=圏婦人部長=を呼んだ。「すぐ病院に電話してくれ!」
 脂汗を流しながら、必死でこらえた。電話のやりとりがかすかに聞こえる。た
またま、手術が終わったところ。医師がいる。準備も整っている。すぐに来れる
か。そんな内容のようであった。
 救急車を呼ぼうか、と考えたが、そんな余裕などないように思えた。桂子さん
が運転し、車を国立療養所へと急がせる。病院の玄関に医師と車イスを用意した
看護婦が待ち受けていた。
 “間にあった!”。そう思った瞬間、栄さんは意識を失っていった。
 --真っ暗な中を歩いている自分に気がついた。足元には、ドライアイスのよ
うな真っ白な霧が噴き上げる。向こうの方に一点の明かり。それを目指してただ
歩いていく。そのときだ。栄さんは、後ろから、まるで飛びげりでもされたよう
なショックを受けた。
 「動いた!」。どこからともなく、そんな声がした。
 栄さんが夢の中をさまよっている間、ICU(集中治療室)は緊張感でみなぎ
っていた。病院に運び込まれた直後、栄さんの心臓は心室細動の状態に陥ってし
まったからだ。これは、心臓の心室がけいれんを起こし、血液を送り出せない
状態をいう。
 血圧計がゼロに下がる。早く動き出さなければ極めて危険だ。強心剤が打たれ
、心マッサージが行われた。しかし、動かない。時間が刻々と過ぎていく。
電気ショックが講じられた。
 「よしっ、動いたぞ!」。
 栄さんが危機を脱したそのころ、桂子さんは治療室の前の廊下で気をもみなが
ら待っていた。いつもの発作だとばかり思っていたが、様子が違う。一時間がた
ち、二時間がたっても、医師は出てこない。あわただしく治療室に出入りする
看護婦に聞いても答えは返ってこない。
 昼過ぎ、やっと医師から説明があった。急性心筋梗塞で、一度心臓は止まった
が、何とか動き出した。今夜がヤマだと言う。その話を聞いたとき、桂子さんは
「来た!」と思った。一家の宿業との闘いだ。よし、必ず乗り越えよう、と心を
引き締めた。真剣な祈りが始まった。
 親せきが秋田から駆けつけたのは、夜半過ぎ。あわただしい一日が過ぎていっ
た。翌朝、栄さんは意識を取り戻した。「面会だよ」と言われ、ガラス窓越しに
、秋田の兄弟の顔がずらりと見えたとき、一瞬、戸惑った。なぜ? それが自分
の病気のため、とわかると改めて病状の重さを感じた。
 「もう、あと一、二分遅ければだめでしたよ」。医師からそう聞かされたとき
、栄さんは、守られた、と思った。あのとき妻がいなければ。日曜日で、たまた
ま専門医師がいたのも幸運だった。もし、救急車を呼んでいたら、自宅まで
最低二十分はかかっていた。きっと、手遅れになっていたことだろう。一つ一つ
が、すべて意味をもって浮かび上がった。栄さんは感謝の題目を唱えていた。
 *防衛
 予断を許さない状態が続いたが、栄さんは順調に回復していった。二十四日、
ナースセンター横の個室へ。二十五日、上半身を起こせるまでに。二十九日、
点滴を取りはずす。三十一日、大部屋へ。十一月七日、退院。
 だが、退院するとき医師は「長いお付き合いになるでしょう」と、今後の再発
を予測するような言い方をした。実際、その二日後に発作が起こっている。本当
の闘いは、退院してからだった。
 ひんぱんに起こる発作との対決の中で、栄さんはすべての意欲を失ったように
みえた。「人間、一度心臓が止まるということは、大変なことなんですね。まる
で病院に魂を置いてきたよう」(桂子さん)
 年内いっぱい休み、翌五十九年から出勤。だが栄さんの“自己防衛”の後遺症
はかなり重症だった。当時、酪農機具会社の管理課長の職にあったが、事情を申
し出て、職責をはずしてもらった。
 「私の頭の中には、極力、神経を使わず無理をしないこと、そして、いつでも
十五分以内に病院に駆け付けられること、という考えが占めていました」
 十五分というのは、あの日、間に合ったギリギリの時間である。
 単なる不安ではなかった。現実にひんぱんに発作が起こっている。いつ来るか
もしれない「死」との闘いであった。
 帯広の冬は厳しい。道内では雪は少ない方だが、横殴りに吹き付ける風雪、
零下二、三十度にも及ぶ寒気。その年の冬の寒さはいつになく身にこたえた。だ
が、この“逆境”の中で、栄さんの心に呼び起こされるものがあった。吹雪に
胸張り、全道を駆け巡った青年部当時の凱歌の青春だ。
 --郷里・秋田から帯広へ一人やってきた栄さんが仏法と出あったのは
昭和四十三年。何事にも、まじめに取り組んできた栄さんは「入信以来、一度も
勤行、会合は欠かしませんでした。ひたすら愚直に頑張ってきたつもりです」
 総ブロック長時代、全道の男子部が一つになって戦った。札幌はもちろん、
厚田、別海、根室……北海道狭しと駆ける。心に刻んだ学会健児の誇り。
 今こそ、その実証を示す時だ、負けられないと腹が決まった。「命限り有り惜
む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書九五五ページ)、「病によりて道心はをこ
り候なり」(同一四八〇ページ)。これまで肝に銘じてきた御文が浮かんだ。
 「学会活動に出ていくごとに、夫は前向きになっていったように思います」(
桂子さん)。その年の九月、支部長に、という話が持ち上がったとき、栄さんに
もう、ためらいはなかった。
 「いつ死んでも、どこで倒れてもいい、なんて悲壮な感じはありましたが」(
笑い)。疲れがこうじると、発作が起こったが、栄さんは広布の第一線を走った
。次第に薬も減少。現在は血圧を安定させる薬のみ。この三年ほどは、発作は起
きていない。
 現在、学会にあっては十勝本部の本部長として、また職場では技術課長として
活躍する栄さん。心には“恐れるものなし、生きて生きて生き抜くのみ”との強
い確信がみなぎる。
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 本部長として活躍する加藤さん(右から二人目)。家族が団結して広布に走る


急性心筋梗塞の危機から再起

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1990/12/29: ◆体験手記 急性心筋梗塞の危機から再起 東京 山本哲さん、敏子さん夫妻

 *体験手記/急性心筋梗塞の危機から再起/東京・大田区 山本哲さん、敏子
さん夫妻/半年後に職場復帰果たす/救急医療の症例としてマスコミで紹介
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 <夫> 二年前の、昭和六十三年四月五日、急性心筋梗塞(こうそく)で倒れ
、七度に及ぶ心肺停止に陥りました。しかし、初診から、救急隊の処置、病院で
の治療など、一刻を争う時間との勝負のなか、どれもが実に適切に行われ、死の
淵から生還することができたのです。入信して二十七年、学会の庭でつちかって
きた信仰の力が、私の生命を蘇生させる環境をつくり出す大きな因になったので
はないかと、しみじみ実感する毎日です。
 胸のもやもや、締めつけるような痛み、冷や汗……。その日、一度は職場へ出
ましたが、上司に話し、午後からタクシーで帰宅、休みました。しかし、気分は
すぐれず、宿舎の人に車をたのみ、近くの診療所に行きました。自分の名前や
生年月日を記入したりしたそうですが、覚えていません。意識がなくなりかけ、
直後に発作に見舞われたのでした。
 <妻> 診療所のレントゲンで見たところ、心臓に異常があることがわかり、
専門の病院(東邦医大病院)へ連絡、救急車の手配もしてくれました。救急車を
待っている間、私は心の中で唱題をしていますと、先生があわててやってきて「
急激に血圧が下がり危険な状態になった」と知らせてくれました。
 その直後、主人の心臓が停止してしまったのです。先生は必死で
心臓マッサージをしてくれました。私はすぐに家族や肉親に電話をかけ、状況を
説明し、唱題してくれるようにたのみました。地区部長、地区担当員さんも急を
聞いて駆けつけてくださったのです。
 【医学専門誌「セラピューティック・リサーチ」に紹介された医師のリポート
(他医よりCPR下に搬送され救命しえた急性心筋梗塞の1例)から】
 <(診療所内で)持続点滴を行い、救急車を要請した。数分後、患者は突然
心肺停止となったためCPR(心肺蘇生術)を開始したが、ちょうど救急隊が
到着したため、初診医とともにCPRを行いながら、心肺停止から30分後の19時
30分に当院(東邦医大病院)に搬入された>
 <妻> 救急隊員の方がマッサージをしながら車に乗せました。私は、一瞬も
うだめかと思いましたが、付き添ってくれた先生が、まだ若いのでやるだけのこ
とはやってみると、自分自身に言い聞かせるように話してくれました。私は
救急車の中で“主人を死なすわけにはいかない、まだ使命があるはずだ”と必死
に祈り抜いたのでした。
 病院では、電気ショックなどの治療で心臓は動き始めましたが、何度か停止す
ることもありました。そのたびに、先生方の必死の治療が功を奏し、一時間後に
ようやく安定した状態に戻りました。呼吸停止が長く、脳への影響も考えられる
とのことで、睡眠のための薬も与えられたため、ひとまず家に帰りました。先に
帰宅していた高校二年生の息子が泣きながら題目をあげていました。私も“主人
をもう一度広布の役にたてる体にしてほしい”と必死に唱題。その日から、毎日
、数時間の唱題を続け、ときには寝る時間が明け方になることがありました。
 病院へは毎日通いましたが、一週間ほどたったころ、心臓が次第に回復してき
たと知らされました。その後、高熱を出すなど、危機もありましたが、それも乗
り越えることができたのです。
 【前掲の医師のリポート】
 <入院翌日、蘇生後脳障害によると考えられる痙攣(けいれん)が頻発(ひん
ぱつ)したため抗痙攣剤を投与し、4日間で改善した。その後は意識の回復も
順調で(中略)15日目に救命センターを退出した>
 <夫> “ここはどこだろう”--考えると、ひどい頭痛がして仕方ありませ
ん。病院だと気がつくまでだいぶ時間がかかりました。やがて二人部屋から
六人部屋に移り、リハビリテーションの歩行練習を始めました。ところが、最初
の一歩は気持ちだけが前に行き、足が動きません。“何としても歩けるようにな
って、広布に頑張るんだ!”と必死に自らを励ましました。半月ほどたつと一人
でトイレや食堂へも行けるようになったのです。こうして六月十日に仮退院、そ
の後、血管拡張術などを受けて、七月末には見事に退院できたのでした。
 思えば、中学を卒業後、西伊豆の郷里から上京、思ったような仕事もなかった
ときに、先に信心についていた妹たちから折伏を受け入信しました。その翌年、
思いがけず郵便局へ就職でき、生活も安定。和楽の家庭を築き、一人息子も、
コンピューター関係の仕事に就くまでに成長。その間に、息子が難病(
血小板減少性紫班病)を克服したり、私自身もメニエール病を乗り越えるなど、
信心への確信はつかんでいました。
 しかし、いつしか惰性に流されていたことに、病気を通して気づかせていただ
いたと感謝しています。その年の十月から再び職場復帰し、前とほとんど同じよ
うに働くことができる健康体を取り戻しました。
 昨年、テレビ局から取材を受け、救急医療の必要性を訴える体験例として紹介
され、その後、本にも取り上げられました(「救急医療にメス」黒岩祐治著)。
体験が医療機関の充実のために役に立ち、信心では無駄なことがないとの確信を
得ました。以来、日々少なくとも一時間の唱題を実践し、創立六十周年の今年は
、夫婦で機関紙啓蒙にも挑戦することもできました。「学会員でよかった」と
感謝の気持ちでいっぱいです。これからも、健康に十分留意しつつ、七十周年目
指し頑張ります。
 【前掲の医師のリポート】
 <本例はAMI(急性心筋梗塞)により心肺停止に陥った症例であるが、たま
たま初診医による治療中におきたこと、心肺停止直後に救急隊が到着したこと、
当院での除細動、ペーシング、IABP(各種の治療=編集部注)などがうまく
いったことなどが完全蘇生につながったと思われる>
      #
 *プロフィル
 やまもと・あきら としこ 東京都大田区在住。本羽田東支部。夫は
地区壮年委員。郷里の静岡県西伊豆から上京。昭和38年、先に入信していた妹の
紹介で入信。男子部隊長等を経て、ブロック長、大ブロック長として活躍。39年
から郵便局に勤務。52歳。妻はブロック担当員。29年に一家そろって入信。
女子部班長で活躍した後、44年に結婚。一人息子の雅之さんの交通事故や病気を
、夫妻で祈り抜き克服。確信をつかむ。47歳。
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 地域の友と健康を喜び合う山本さん夫妻(中央2人)


心筋梗塞の発作3度を克服

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1991/05/11: ◆体験 心筋梗塞の発作3度を克服 大阪府茨木市 支部指導長 小原輝さん

 *心筋梗塞の発作3度/闘病の中に“生きる輝き”を見つけた!/御本尊とと
もに日々新鮮、日々感動/冠状動脈の2本に病変/死への不安を克服し元気に
社会復帰
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 【大阪府茨木市】つい先日の厚生省の調査結果によると働き盛りの死亡者の
八人に一人が脳卒中、心不全、心筋梗塞(こうそく)などによる突然死=症状が
あって一週間以内に死亡=であるという。なかでも、男子の場合はより比率が高
く「突然死」と隣り合わせで生きている、といっても過言でない。小原輝さん(6
2)=鮎川支部、支部指導長=は、心筋梗塞の発作に三度も襲われたが、幸いにも
それらを乗り越えてきた。突然の発作の中で小原さんが垣間見たものは--。
 ###   ###
 *経過
 昭和六十年六月二十五日午後一時過ぎ、アイスクリーム製造会社に勤務する輝
さんは、午後の仕事についた直後、胸に激しい痛みを感じた。「胸の奥を握り締
められるような」強烈な痛みであった。
 異常に気がついた職場の同僚は、すぐさま病院に行くよう勧めたが、輝さんは
一度、家に帰っている。御本尊の前に端座し、深い祈りを込めた。そして、
妻・香さん(54)=支部副婦人部長=に付き添われ茨木市内の藍野病院へ。その間
、胸の痛みはやむことなく、全身が汗でグッショリと濡れていた。
 心電図を見た医師は、即座に心筋梗塞と判断した。「かなりの範囲の心筋がや
られており、心臓の機能が極度に低下しています。今夜がヤマだと思います」。
血栓を溶かす薬が腕の動脈から直接投与された。その治療が功を奏したのか、
発作当初、首の下から胸にかけて紫色だった輝さんの体に血の気が戻った。翌日
には元気を取り戻し、その後、状態は安定。三週間後、大阪医科大学付属病院で
心臓カテーテル検査を受けた。
 その結果、左冠状動脈の前下降枝の付け根のところが詰まっており、更に
右冠状動脈は狭窄(きょうさく)が激しく、心機能は半分以下に低下していた。
バイパス手術も難しい、との判断。
 八月十六日、退院。その後、通院治療を続けながら九月には職場に復帰してい
る。
 だが、明けて六十一年四月十八日、二回目の発作が起こった。発作を起こすご
とに、危険度は増加する。このとき、医師は心電図のモニターを香さんに見せな
がら「いつ心臓が止まってもおかしくない状態です」と宣告。電気ショックの
用意も整えられた。
 更に三回目は、その年の十二月十三日夜半。国立循環器病センターの緊急外来
へ。すぐさまCCU(冠動脈疾患集中治療室)で治療を受け、危険な状態をなん
とか脱した。だが六十二年一月二十七日、退院の日、医師はこう念を押した。
 「冠動脈の二本は既にダメで、残りの一本(回旋枝)だけで心臓が持っている
状態です。しかし、それも二カ所に狭窄が見られ、この次、発作が起こった場合
、最悪の事態を覚悟してください」
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 *確信の祈り
 最初の発作で今晩がヤマと言われても、妻の香さんはたじろがなかった。「
宿業を出させてもらえる信心になった、と瞬間、思いました。すると感謝の
気持ちがあふれてきて」
 “今こそ、家族全員が団結して乗り越えよう”。そう決意した香さんは、入院
の準備のため一度、自宅に帰り、御本尊の前に二人の子供を呼び「今、お
父ちゃんを死なすわけにはいかへん。あんたらも家でしっかり題目を唱えるんや
で」と言い残して、病院へと急いだ。
 応急の処置で、症状の落ち着いた輝さん。そのベッド脇でひたすら唱題を続け
る香さんの胸中には、絶対の確信があった。“必ず、乗り越えられる!”。それ
は、どん底の中で学会と出あい、その後、思いもよらないほど幸せへと人生が開
けていった自らの体験に根差していた。
 --大阪で電気製品の販売業を営んでいたが、人にだまされて倒産。転げ落ち
るように貧乏のどん底に。知人の紹介で見も知らぬ九州・福岡の炭鉱の町へ。夫
はボタ山でツルハシを振るい、妻は掘り出された低品位の石炭をより分ける毎日
。生活苦と戦う日々が続いた。
 “大阪へ帰りたい!”。それだけが支えだった。学会の話を聞いたのは、そん
なとき。何も信じられなくなっていた夫妻に、すんなりと信じられようはずがな
い。だが「必ず、幸せになるたい」との確信の言葉にひかれ、昭和三十九年、
入信した。
 初信の願いは“夫の給料だけで生活できますように”とのささやかなものだっ
た。それは、気が付かぬまにかない、それどころか、我が家までもてる境涯にな
っていたのである。そして四十五年、念願の大阪への“凱旋(がいせん)”。
都落ちするように、大阪を離れたあのときとは違い、香さんの心の中には“何が
あっても負けない”との確信があった。
 今晩がヤマ、と言われたその夜、香さんは一睡もせず唱題し続けた。
 夜が明けていくころ、輝さんの表情に生気が戻っているのに気がついた。“も
う大丈夫!”。その確信が、大きく広がっていた。
 *夫婦の絆
 一方、輝さんがショックを受けたのは、一回目よりも、むしろ二回目の発作の
時だ。「初めのときは、何がなんだかわからなかったし、こんなことでダメにな
るはずがないとの信念がありましたから」
 しかし二度目の時“あっ、あの痛みや!”と輝さんは、一瞬、不安に襲われた

 しかも、このときの医師の判断は厳しかった。いつ、心臓が止まるかもしれな
い、と病室の脇に電気ショックの機械まで置かれた。
 “ひょっとしたら!”。そんな思いが頭をかすめる。点滴の種類と量が日ごと
に増えていくのも不気味なことだった。このとき輝さんを奮い立たせたのは、香
さんの夫への全面的な信頼であった。医師の話を包み隠さず伝えてくれた。
入信以来、苦楽をともにしてきた絆(きずな)があった。
 “今こそ、これまでの信心を発揮する時やないか”。心にそう言い聞かせる輝
さんの脳裏に、秋谷会長からの激励が浮かんだ。「この仏・不死の薬をとかせ
給へり・今の妙法蓮華経の五字是なり」(御書一四七九ページ)との御文が記されて
いた。
 更に、忘れられない一つの出会いがあった。昭和五十七年三月、支部長のとき
、関西で本部幹部会が行われた。その席上、真新しい墨で光る「鮎川」の支部証
を池田名誉会長の前で授与されたのである。そのとき輝さんが誓ったことは、今
もあざやかに残っている。「常勝関西の名に恥じない堂々たる勝利の結果を示し
ていきます!」
 その決意のもと、ともに歩んだ支部の友の顔が浮かぶ。多くの同志が見守って
いる。輝さんの心に、病との徹底抗戦の気概がみなぎっていった。二回目を乗り
越え、三回目の発作に襲われた時は既に動揺はなかった。
 *感謝と喜び
 “もう後がない”。三度目の退院をしたとき、輝さんは、医師の言葉からもそ
う覚悟を決めざるをえなかった。しかし、それは悲壮な決意というよりは、
さわやかなものといえた。「三度の発作のなかで、これまでになかった心境で
御本尊に向かうことができましたから」。御本尊に見守られた人生。日々、生き
ることへの喜びと感謝。それらのすばらしさは、闘病のなかで鮮やかな輪郭を見
せた。
 輝さんは退院後、一日五千遍の唱題を決意した。これは、輝さんの体力から考
えると大変なことだった。しばらくして、職場復帰するわけだが、朝は元気なの
だが、夜になるとグッタリとしてしまい、長時間、御本尊の前に端座することす
らできない。そのため、早朝に五千遍の唱題を行うようにした。
 「朝目覚めた時の感動! そして唱題できる喜び!」。それまでの経過から考
えても、退院後、一年以内に次の発作が起こることが予測された。普通であれば
、それは大きな心理的重圧であろうが、一日一日をかみしめるように生きる輝さ
んにとって、時間の流れはもう関係なかった。
 気がつくと三年がたち、四年がたっていた。服用する薬も、十数種類から今は
四種類にまで減少。以前の健康な状態には戻ることはないが、気持ちは違う。「
この病気があるから、惰性ってものがなくなりました。信心に対して、生きるこ
とに対して」
 病気よ、ありがとう! そんな気持ちすらわいてくる。日々新鮮に、仕事に、
活動にと頑張る輝さんの姿は、そう叫んでいるようだ。
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 地域の友とともに、日々、元気に活動に走る小原さん(左から3人目。5人目
が妻・香さん)

心筋梗塞から生還、地域の活性化に尽力

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1991/08/30: ◆体験 心筋梗塞から生還、地域の活性化に尽力 栃木県矢板市 林田孝さん


 *心筋梗塞から生還/感謝の思いで“人のために”走る/ベッドで聞いた妻の
題目に励まされ/区長(行政区)交通安全協会支部長として活躍
 ###   ###
 【栃木県矢板市】ひとことで地域に貢献といってもさまざまな形がある。町会
の役員になったり、趣味を通して近隣とのコミュニケーションを図るなど、いず
れもその推進には繁多な雑務と忍耐が要求される。林田孝さん(62)=矢板支部、
副支部長=は、本年四月、地元・矢板市の区長(行政区)に推せんされると同時
に、交通安全協会の支部長にも就任。(有)林田工務店を経営するかたわら、住民の
暮らしにかかわるさまざまな問題に粘り強く取り組み、地域の活性化に尽力して
いる。“人のために”と行動する林田さん。その心には「こうしてお役に立てる
のも、信心のおかげ」との感謝の思いがある。
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 人口約三万五千の地方都市・矢板。ここには六十三の行政区があり、林田さん
は市西部の合会(あいがい)と呼ばれる地域の区長である。
 地域住民の要望や苦情を役場に持ち込み、その実現や解決に向けて交渉するの
が主な役割。例えば、道路の補修、街灯の設置、公民館や地域施設の充実などに
ついて掛け合う。
 また、地元からボランティアを募り、道路の清掃や草刈り、さらには道路に突
き出た木の枝の伐採など、住民と汗を流しながら地域の環境整備に尽力。
 日ごろから献身的に活動する林田さんの呼び掛けには、地域の人々も気持ちよ
く応じてくれる。
 さらに、交通安全協会の西部支部の役員としても活躍。特に、交通安全運動の
時期には多忙な日々を送る。小学校での自転車の安全運転講習の準備、交差点で
の交通監視場の設置と運営、そのほかさまざまな役回りに一つ一つ地道に取り組
む。
 そんな林田さんの活動は県の警察本部でも認められ、本年三月、
交通安全管理者として表彰を受け、四月からは支部長としてさらに重責を担うよ
うになった。
 「小さな活動ですが、地域の人達と苦楽をともにしながら、社会に貢献してい
くことが私の使命です。御本尊様に命を助けていただいた私ですから」と林田さ
んは語る。
 入信は昭和五十三年十一月。その二カ月前、仕事中に心筋梗塞(こうそく)で
倒れたのがきっかけだった。
 それまで、妻や娘のやる信心に反対はしなかったが、自ら信心することはなか
った。
 妻の美恵さん(58)=支部副婦人部長=が入信したのは、昭和三十九年。だが、
入信したものの美恵さん自身、長いあいだ学会活動には参加しなかった。御本尊
だけあればいいと思っていた。
 そんな美恵さんに転機が訪れたのは八年後。
 久し振りの会合で、美恵さんがかつて何も分からずに折伏した友人が、堂々と
学会歌の指揮をとっている姿を見て驚いた。
 「人前じゃ絶対に話なんかしない人だったのに、どうしたんだろう」。そして
、私もあんなにハツラツと生きられるのならと発心。それからは座談会に、
唱題会にとフル回転の毎日が始まった。
 病弱で、何ごとにも腰の重かった美恵さんが、元気で快活になっていく様子に
、娘の京子さん(33)=地区担当員=も入信。
 会合から帰宅すると二人は楽しげにその様子を語り合いながら、しきりに林田
さんにも信心を勧めるようになった。
 だが、林田さんは「やかましい! 反対はしないからお前達だけやってろ。男
は仕事なんだ。信心は女がやってればいい」とつっぱねていた。
 美恵さんと京子さんは半ばあきらめていた。「こんなに楽しいのに、お父さん
もかわいそうにね」「でも、やらないって言ってるんだからしようがないよ」と

 しかし「こうして信心できるのも朝から晩まで真っ黒になって働いてくれる
お父さんのおかげ。そのお父さんに感謝の気持ちがないと、いつまでたっても
お父さんは信心しませんよ」と先輩幹部に言われて猛反省。それからは感謝の
気持ちを込めて「お父さんにもこの楽しさを教えてあげてください」と母娘で
真剣に祈った。
 そんな矢先に、林田さんが心筋梗塞で倒れたのである。
 病状は厳しかった。救急車で駆け込んだ病院の医師も、親類縁者を呼んだ方が
いいとアドバイス。しばらくして親せきが狭い病室に集まった。
 美恵さんは、その人たちに題目をあげてくださいとお願いした。ややあって、
病室には小さな声だが力強い唱題が渦巻いていた。林田さんは身動きがとれず話
もできない状態だったが、意識だけははっきりとしていた。
 “医者はダメだといっている。しかし、みんながオレのために題目をあげてく
れている”ベッドに横たわり、その力強い声を聞きながら林田さんの胸に熱いも
のが込み上げてきた。“美恵、ありがとう。お前の信心はすごい。オレも今、心
の中で唱題しているぞ!”
 医師の懸命な治療もあって、三時間後、林田さんは小康状態を取り戻し、医師
からも「もう大丈夫」と言われた。そして、三十五日で退院。そのまま、入信し
たのである。
 自宅に戻った林田さんはいつか妻が聞かせてくれた御書の一節を思い返してい
た。「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(一一七三ページ
)。“そうだ、これからは、心の財を積んでいこう。そして、この信心の
素晴らしさを多くの人に語っていこう”と心に深く決めていた。
 それからは率先して学会活動にまい進。本紙の配達員がいないと聞くと、進ん
で配達をかってで、九年間、二十五キロの道のりを回り、聖教新聞を届けた。
 また、自宅を地区拠点、支部拠点として提供。映写運動が打ち出されれば、
映写機を抱えて地域を折伏に駆け回った。
 そんな林田さんに、信心のことに限らず、相談を持ちかける人も多かった。そ
うした実績が地域の信頼を生み、やがて、区長にも推されたのである。
 「健康だったのが、病気で倒れ、信心で立ち直ることが出来ました。仏法をた
もった者として、これからも、地域のためにできることなら何でもやります」と
、心の財を積みながら、地域の真っただ中で仏法理解の輪を広げる林田さんであ
る。
 ###   ###
 病を克服、地域の活性化に取り組む林田さん(中央)。和楽の家庭に笑顔が広
がる

急性心筋梗塞 24時間経過の治療で危機克服

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1997/06/07: ◆ファイル 急性心筋梗塞 24時間経過の治療で危機克服 東京 田久保義雄


 *ファイル/File/急性心筋梗塞/発症から24時間経過の治療/「あと
は本人の生命力に託すのみ」/勝利への執念で危機を乗り越える/信頼厚い
営業マンとして活躍
 ###   ###
 【東京・江戸川区】田久保義雄さん(63)=今井支部、副支部長=は、薄れる
意識のなかで、一心に家族、同志の顔を思い浮かべていました。自己を鼓舞する
ように……。“まだ死ぬわけにはいかない”と。平成3年1月、急性心筋梗塞(
こうそく)の激痛が彼を襲ったのです。心臓機能の停止にもつながりかねないだ
けに、1分1秒を争う病気。しかし、大学病院へ転送されたのは、発症から24
時間以上も過ぎたあと――。今回のファイルは田久保さんの生還への軌跡を紹介
します。
 ###   ###
 *“胸を突き刺す”激痛
 得意のアコーディオンを目の前で、一曲奏でてくれた。アコーディオンが、
田久保さんの胸で踊るように弾んでいる。
 「アコーディオンって、結構重いんですよ。だから“あの時”は、もう弾けな
いなと思ったりもしたんです……」
 田久保さんは、かつてバンドマンを目指した経験がある。十数年前には、
壮年部の「音楽隊春風」に所属、本部幹部会でも演奏したことがある。
 「今では座談会などで皆さんの希望に応えて、学会歌を弾いたりするまでに
回復しました。“アコーディオンおじさん”なんて言われています(笑い)」
 隣で妻のスイさん(60)=地区幹事=がうれしそうに夫の姿を見つめていた。そ
の麗(うるわ)しき絆(きずな)は、病魔と闘い、勝ち越えた証(あかし)だ。
 ――忘れもしない“あの時”。突然、喉(のど)に焼けるような痛みが走った
。痛みは三秒から四秒ほど続き、一時間後に、再び今度は胸に激痛が走った。
 外出をしていたスイさんが、戻ってきた時には、胸をわしづかみにするように
田久保さんがうずくまっていた。
 人騒がせなことはしたくないという夫を妻が説得。救急車で個人病院へ。
 医師が処方したニトロール(狭心発作を起こした時に使用する薬。冠状動脈を
広げて血液の流れを良くする)一錠を舌下(ぜっか)に含んだ。だが効かない。
二錠目を飲んだ。やはり効かない。
 「これは、心筋梗塞ですよ!」「家族を呼んでください」。医師の声はうわず
っていた。非常に危険な状態だという。重体。昨日、地元の会合で、頑張りまし
ょうとあいさつしたばかりなのに……。
 空きのベッドがなく、ようやく日本医科大学付属救命センターのICU(
集中治療室)に運ばれたのは、発症から一昼夜以上も過ぎた夕方であった。
 血圧は二百四十。田久保さんの心臓は、ほとんど「けいれん状態」だったとい
う。すでに意識は遠く、目の前は真っ暗に消えていた――。
 *息子が信心に目覚めた
 夜半、妻のスイさんは主治医に呼ばれた。心筋の何割かがすでに壊死(えし)
しており、それが広がっているという。「発作から二十四時間以上経過している
ので、薬の効果があまり期待できず、いつ心臓が止まってもおかしくない状態で
す。万が一のため、家族の方は、待機していてください……」
 救命センターの待合室は、何組かの家族が黙り込み、うつむいていた。看護婦
が名前を呼ぶと、そのあと、病室で号泣(ごうきゅう)がもれてくるのだ。今置
かれている状況が身に迫ってきた。
 スイさんの頬(ほお)を涙がぬらした。あの人は、何度も、手術を経験し、そ
のつど……。
 ――田久保さんは腸閉塞(へいそく)や交通事故などで七度、手術台に上がっ
たことがある。そのつど絶望の淵(ふち)に立たされたとスイさんは思った。だ
が、くよくよしても道は開けない。とにかく前に進むこと。それが“私たちが
信心で学んできたことじゃない”。
 長男・信一さん(36)=取手市在住、男子部部長=にとっても、信じがたいこと
だった。この三年間、まったく活動から遠ざかり、父とはほとんど会話もなかっ
た。“信心から離れちゃいかんぞ”と優しくさとすように話してくれた父の顔が
浮かび、涙で消した。「親不孝してきたな……」
 主治医は言った。「後は本人の生命力です」
 ICUの中に妻と息子が入った。ベッドに向かうと、なんと田久保さんはうっ
すらと目を開け、小さくしっかりとした声で題目を唱えていた。
 「この状態でこん睡状態から覚めること自体、奇跡です」と医師。
 スイさんは何も言わず、夫の手を握った。息子は、一言、「がんばれ……」と
。田久保さんが何か言おうとしている。“よくきたな。勤行しろよ。あとは頼む
ぞ……”。父と久し振りに交わした会話だった。
 「今晩が峠です」と医師。「親父(おやじ)は信心してんだから、絶対大丈夫
だから……」。目頭を熱くしながら、信一さんは思わず叫んでいた。
 朝まで題目をあげていた。待合室での不安をかき消すように……。
 待合室に朝日が照らす。医師が告げた。「まだ予断は許しませんが、峠は越え
ました……」
 *“怪物親父”は健在
 何ごともなく、朝を迎えることのうれしさ。病院からの連絡はない。昨晩も勝
ったね――と、スイさんは夫のことを思う。
 信一さんも活動に励み始めた。父の再生していく姿が信仰人としての強さを
証明していた。病室には、毎晩のように語らう父と息子の姿があった。
 田久保さんは危険な状態を脱して、十日後には、ICUを移動。だが、壊死し
た心筋が治るには一カ月かかる。その間は合併症が起こりやすく、絶対安静が
必要なのだ。
 だが、田久保さんは一人でトイレに行ったことがあった。看護婦からは「
あなたは自分の病気を何だと思っているの!」と叱(しか)られもした。早く良
くなりたい一心なのだ。そんな夫を妻は「家の方は心配ないから」と明るく振る
舞った。
 看護婦の手につかまって十歩、五十歩、百歩。
 「とにかく歩くんだ。歩いて健康になって、また学会活動に励むんだ」
 入院してから五十二日目に、退院。だが、右冠状動脈は五〇%、左冠状動脈か
ら枝分かれした回旋枝は七五%の狭窄(きょうさく)が見られたまま。心臓は
健康な人の七〇%程度の機能しか果たしていないという。徹底した食事療法、薬
を使っての内科的療法は欠かせない。
 そんなハンディを乗り越え、九カ月後には溶接工として鉄工所に復帰。だが、
会社から突然の“解雇”の通告。
 田久保さんは諦めなかった。時には、病気を隠して就職活動もした。二年間で
四度の転職。
 “戦い抜いた人生を、こんな形で終わってなるものか。勝利の姿で飾るんだ…
…”
 現在は、長男・信一さんと次男・祥治さん(26)=兵庫県在住、班長=が働く
塗装会社に勤務。営業マンとして、この一年間で六万二千キロを走破したという。
息子たちから“怪物親父”と言われるほどだ。会社の信頼も厚い。
 毎月の検査では「心臓は不思議なくらい、機能している」と主治医。
     ◇
 「アコーディオンはね。未練を断ち切ろうと、一度売ったんです。でもね。『
広布に走れ』や『人間革命の歌』が歌われだしたころかな。同志を喜ばせたくて
、もう一度アコーディオンを買い戻したんです」
 アコーディオンは、田久保さんの浮き沈みも、輝く瞬間も、頑張る同志の姿も
すべて見てきた。
 「この音が出ているうちは、幸せで明るい我が家です!」と、スイさん。
田久保さんは、再び得意のタンゴを奏でてくれた。
      #
 *メモ/心筋梗塞
 心臓の筋肉(心筋)に栄養を送っている冠状動脈が動脈硬化して、全身に血液
を送り出している左心室の心筋に壊死(えし)を起こす。急性期(
発病1カ月以内)の心筋梗塞は重症で、死亡率が高い。短時間のうちに病状が
急変することがよくあり、心不全などの合併症も起こしやすい。
 ###   ###
 アコーディオンの音色は、幸せのメロディー。命をとりとめ、広布に生きる
喜びを語る田久保さん
 家族の励ましと、祈りが田久保さんの活力となった(左から三人目が妻・スイ
さん)
 95年には、長男・次男夫妻とハワイ会館へ


心筋梗塞克服し小学校校長に就任した空手道場館長

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1997/10/31: ◆体験 心筋梗塞克服し小学校校長に就任した空手道場館長 大分 清原今朝勝

 *21世紀へ育て、伸びよとエール(声援)送る/校長は空手道場館長/
県スポーツ少年団空手道本部長/九州で2人の剛柔流8段、後輩の育成に汗!/
心筋梗塞乗り越え挑戦の人生
 ###   ###
 【大分市】県空手道連盟理事長、県スポーツ少年団空手道本部長、
大分市体育協会評議委員として、スポーツ振興の一翼を担(にな)ってきた
清原今朝勝さん(56)=富士見ケ丘支部、副圏長。地域の空手道場館長として
十七年間、後輩の指導に奮闘。今年の四月からは、小学校の校長に就任し、子供
たちの教育に全力を傾けている。三年前には、心筋梗塞の病魔を乗り越え、ます
ます自身のモットーの人間教育に磨きをかける、その活躍ぶりを追ってみた。
 ###   ###
 小学生や中学生の子供たちを相手に、空手の型を手取り足取り、額に汗をにじ
ませながら教える。礼に始まって礼に終わる空手道。敵に勝とうとする前に、己
に勝てるか。一つの型を習得するまでに、何千回も同じ動作を繰り返す。その一
つ一つの動作に惰性がないか、基本通りか、清原さんは子供たちの一挙手一投足
を真剣に見つめる。
 清原さんは市内の八幡小学校の校長。朝はだれよりも早く出勤し、子供たちの
通学路の点検や、明るい笑顔で一人一人に声をかけている。その一方、空手道場
の館長でもある。ともに未来を担う子供たちの育成、サポート役に徹する。
 空手のほうは剛柔流八段。今年の八月、三回目の挑戦でつかんだ資格である。
そのためにこの一年間、早朝三十分の練習を欠かさずやり通してきた。剛柔流で
、この段位を持つ人は、全国でも数えるほど。九州では清原さんを含め二人しか
いない。
 自ら道場を開いたのが十七年前。自宅の近くの道場には、風雨にさらされた「
仁武館富士見道場」の看板が掲げてある。多い時には、二百六十人を超える
練習生が集い、年齢別に三交代制で空手を教えた。
 学校の授業を終え、清原さんが道場に着くまでは、有段者でもある妻の萬里子
さん(55)=副ブロック担当員=が指導してきた。
 清原さんは空手道場で子供たちの育成に励むかたわら、県で初めての「
県空手道スポーツ少年団」を結成。県本部長として活躍してきた。また、大分市
の体育推進者として活躍する功績が認められ、三年前には市からスポーツ功労賞
が贈られている。
 入会は一九八二年(昭和五十七年)。「同じ道場で運営に携わっていたかたの
人間的魅力にひかれました」「そのかたは大所帯の道場運営のために駆けずり回
る一方、一人一人の子供たちの状況まで心にとめて、相談にのったり励ましてい
ました。自分のこと以外に、ここまで心を砕ける振る舞いに頭が下がったのです

 周囲からは、「なぜ清原さんに宗教が必要なの。あなたは何にも頼らなくても
強いじゃない」という声もあった。
 しかし、ちょうどそのころ、清原さんは、千八百人のマンモス小学校全体の
体育主任という重職にあり、空手道場の生徒たちを育成する責任をも痛感してい
た。そのためには、自分自身が、もっともっと人間的に成長したいと願っていた

 「空手も若いころは、表面的な強さやスピードに目を奪われがちですが、
外柔内剛でしかも安定感と粘りを身につけることが、この道の奥深さです。それ
には、自分の人格を磨かなければなりません。そしてやはり、他者に尽くす
献身的な心と行動が不可欠。学会で活躍する人の姿には、その心が感じられまし
た」
 入会後、徹して広布の庭で友と語り合った。地区部長、支部長を歴任し、仕事
や子供の教育まで、さまざまな相談に耳を傾ける毎日。その家庭訪問ぶりは、ま
さに“足で聞く”という表現がぴったり。県教育部長としても積極的に
教育セミナーを担当してきた。
 清原さんの転機は、三年前に学内の清掃中に心筋梗塞で倒れ、手術を余儀なく
されたことだった。
 幼いころから体が小さく、病弱で心臓も弱かった。それだけに“とにかく強く
なりたい”との思いが強かった。学生時代の四年間といえば、大学での練習の後
、更に町道場の門を叩(たた)き、家にたどりついてからも、月夜に照らされな
がら、薪(まき)ワラをがむしゃらに叩いた。病室のベッドの上で、そんな情景
の数々が走馬灯のようによみがえってきた。
 「ここで倒れてはいけない」と、心の声が叫ぶ。
 あの当時は、ただただ肉体的に強くなりたい一心で練習に取り組んだ。だが今
は、信心を知ったおかげで、心身ともの健康を考えられるようになった。だから
こそ“何としても病(やまい)に打ち勝ち、もう一度、広布の庭に立とう”。そ
う、清原さんは決意を固めた。「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義
なり」(御書九四七ページ)との御書の一節が何度も頭をよぎった。
 「不思議に死に対する恐怖感はありませんでした。それよりも、生きる勇気が
ふつふつとわいてきて、これが信仰の力なんだと確信することができたんです」
 術後、一カ月で退院。それから現在に至るまでの三年間、清原さんは朝五時半
に起床し一時間、本紙の熟読、御書拝読、書道の練習という日課を欠かさない。
 また月十部の新聞啓蒙を五年以上持続し、弘教も入会後十五年で、十二世帯を
達成。今年に入って、すでに二世帯の友の入会を実らせている。
 常に目標を定め、挑戦の人生。それが広布の庭で体で覚えた、清原さんの
生き方だ。
 「親が私のために“今朝勝”という名前をつけてくれました。朝に勝てば一日
に勝つ。一日に勝てば、一年に勝つ、一生に勝つ。名前が私のモットーですよ」
と、豪快な笑い声が周囲に響いた。
 ###   ###
 空手道を通し心身ともに立派な人間にと、いつも全力で指導に当たる清原さん

心筋梗塞乗り越え剣道場の館長として地域に貢献

2006年10月04日 | 心筋梗塞
1998/01/23: ◆体験 心筋梗塞乗り越え剣道場の館長として地域に貢献 岡山 河上幸男さん


 *寒に鍛える/心を磨き、人材と育て!/かくしゃく、70歳の剣道場館長/
心筋梗塞乗り越え県剣道連盟理事などで活躍
 ###   ###
 【岡山県・落合町】「オリャーッ! 面!」「胴!」――町の剣道場「有隣館
」では、今まさに寒稽古(かんげいこ)真っ盛り。長年、同館の館長を務めてい
る河上幸男さん(70)=東落合支部、副支部長=は、病魔を乗り越えながら、地域
に貢献するため、きょうも元気に活躍する。
 ###   ###
 気温四度。建物の中とはいえ、吐く息は白い。
 「始め!」。河上さんのハリのある声が道場に響き渡るや、掛かり稽古が始ま
った。竹刀(しない)と竹刀がぶつかり合うにぎやかな音。
 ここ有隣館には、週に二度、子供三十五人、大人九人の剣士たちが集い合い、
稽古(けいこ)にいそしむ。元は中学校の体育館だった建物が、一九七二年(
昭和四十七年)から剣道場として開放されている。そして、多くの剣士たちが、
ここから巣立っていった。
 「河セン」(「河上先生」を略して子供たちがそう呼ぶ)こと河上さんは、
同館が開かれて以来、館長を務める。
 県剣道連盟理事、真庭郡剣道連盟会長などを務め、七段の腕前である。
 「車で三十分も四十分もかかる道のりを稽古に通ってくる子もいます。そんな
子たちに、力の限り付き合おうと思ってます」。上気した顔で河上さんは言った

     ◇
 妻・マユミさん(64)=支部副婦人部長=と結婚後、母親の旅館業を引き継いだ
。かつては十人ほどの使用人を置いた旅館だが、次第に赤字経営に。借金はみる
みる膨らんでいった。心はすさむ一方。自分以外、信じられなくなった。
半ばヤケになって夜逃げも考えた。
 そんな折、兄の谷口勝さん(75)=副圏長、芳香さん(70)=圏婦人部議長=夫妻
から仏法の話を聞いた。今の苦しみから逃れられればと、ワラにもすがる思いで
入会(六六年)。言われるまま真剣に祈るなかで、借金問題は円満に解決。その
後、“裸一貫”からの再出発となったが、“初信の功徳”の喜びを胸に、夫妻し
て広布の活動に駆けた。
 忘れもしない、六八年の夏季講習会に参加した時のこと。池田名誉会長(当時
、会長)は「地域の第一人者に」と指導した。その言葉に、熱い思いが込み上げ
てきた。“一度は人生を捨てたおれだが、他人のため、社会のために何か貢献し
たい! 自分には剣道があるではないか”
 河上さんが、剣道を始めたのは二十九歳の時。決して早いスタートとは言えな
かったが、「人の三倍の努力は当たり前」とばかりに、懸命に竹刀を振った。
仕事に行く前や、学会活動を終えた時間などを使っての練習だった。
 旧習深い地域のこと。学会活動に励むほどに、周囲の目は厳しくなった。しか
し、「いつか、仏法の素晴らしさを証明してみせる!」と歯を食いしばって、
広布の道をまっしぐらに進んだ。
 そんななかで剣道の実力はメキメキ向上。昇段試験にも次々と合格していった

 そして、七二年の有隣館創設に尽力。館長に就(つ)いて、地域の剣道の振興
に奔走するようになった。それにつれて、周囲の河上さんに対する態度も変わっ
ていった。
 「なんとか、“地域の第一人者に”という目標に手が届いたかな、と思うたん
です。そんな折も折でした……」
 昨年の一月十五日。寒い夜だった。掛け持ちで稽古に出ていた河上さんは胸を
突き刺すような激痛に襲われ、倒れた。ただちに近くの救急病院へ。診断は「
急性心筋梗塞」。程なく岡山市内の病院に運ばれることに。「お父さん、お題目
しかないよ!」。薄らぐ意識の中、妻の声が聞こえた。と同時に、同じ病気で亡
くなった知人の顔が頭に浮かんだ。「死んでたまるか」
 病院でカテーテル治療が行われる間、地域の同志が唱題してくれた。その間、
心臓が停止したこともあったが、治療は成功。切除手術をせずにすんだ。
 「御本尊様が、“河上は、もっともっと頑張りなさい”と言われたんでしょう
な(笑い)」
 入院から一カ月目に退院。あきらめていた剣道だったが、四カ月後、医師から
許可を得るとすぐに道場に復帰した。
 「応援してくれた人たちにどこまでも応えていこうと決意したんです」
 道場での稽古の前に、御書の一節を拝して話をすることも。
 「話し始めると、子供たちは“また、『雪山の寒苦鳥』の話が始まるぞ”って
コソコソやり始める(笑い)。でも、何年もたってから“あの時の話は、ために
なった”と言うてくるんです」
 「剣道は強くなくてええと言うとるんです。絶対に他者との勝負に走るなと。
精神面を鍛えること、自分に勝つことが大切じゃと言うんです。ともあれ、一人
でも多くの子供たちの限りない可能性を引き出してあげて、二十一世紀に送り出
していきたいです」
 地域の踊りの会などを通して信頼も厚い妻・マユミさんとともに、“人生勝利
の花”をもっともっと咲かせようと、意気軒高な河上さんだ。
      #
 *声
 県市町村教育長会会長、落合町教育長/稲田晃さん
 河上さんは長い間、町のスポーツ振興に貢献してこられました。その誠実かつ
、まじめな人柄で、技術はもちろんのこと、人間性の向上を第一とした剣道の
指導に取り組まれています。病気を乗り越えられて、ますますのご活躍を期待し
ています。
 ###   ###
 面倒みのよい河上さん(左端)の指導には定評が
 妻・マユミさん(右)の支えがあってこそ


心筋梗塞、胃がんなど4度の手術乗り越える 

2006年10月04日 | 心筋梗塞
2001/04/24: ◆人生航路 心筋梗塞、胃がんなど4度の手術乗り越える 
兵庫 北原高太郎

 プロローグ/健康を医師も祝福
 浪速の“春の風物詩”「桜の通り抜け」が、財務省造幣局構内(大阪市北区)で始まった、今月十七日。当地から程近い大阪市立総合医療センター(同市都島区)で、一人の壮年が医師と向き合っていた。
 この日、半年ごとの定期検査を受けた北原高太郎さん(76)=山本支部、副圏長=に、担当医である同センター消化器外科の山崎修副部長が、にこやかに語り掛けた。
 「ここまでよう頑張りました。命が持つかどうか、心配した時期もあったけど、北原さん、良かったなあ」
 一九九〇年(平成二年)の心筋梗塞に始まり、足かけ十年の間に胃がん、肝臓がん、再び肝臓がんと、四回の大手術を経験。そのたびごとに、不屈の闘志で病に挑み、社会復帰を果たしてきた。
 桜に続けとばかり、街には春の花々が咲き競う。大病との闘いを勝ち抜いた今、北原さんは、小さな花一輪にも、ほとばしるような“命の輝き”を感じることがある。
 シーン1/車の運転中に発作
 北原さんが会長を務める昭和金属工業(株)本社(兵庫県尼崎市)から、宝塚市内の自宅までは車でおよそ三十分の道のりだ。九〇年一月、ハンドルを握っていたさなかに、突然、胸を締め付けられた。
 額に脂汗を浮かせ、息も絶え絶えで帰宅。妻のヌイ子さん(67)=支部副婦人部長=に伴われ、かかりつけの医院に転がり込んだときは、やや小康状態だった。翌日、宝塚市立病院で精密検査を受けた。
 「動いてはいけない!このまま入院です」。緊迫した医師の言葉が響いた。心臓を覆う冠状動脈が四カ所で詰まり、心筋の一部が壊死しかかっているという。
 「一週間で壊死の進行を抑えられなければ……、覚悟を決めてください」――そんな悲観的な状況でも、“「楽観」が服を着て歩いている”ような信念の人に、動揺はなかった。
 「あのまま死ぬなんちゅうことは、これっぽっちも考えまへんでしたな。なんでや言われても困りまんのやけど、“絶対に助かるゆう確信があった”としか言いようがおませんわ」
 血液の循環を促すニトログリセリンが効き、一命を取り留めた。入院二カ月後に、足の血管を移植する手術を受け、無事に成功する。
 医師は「フルマラソン完走は無理やけど(笑い)、日常生活には何の心配もない」と太鼓判を押した。北原さんの胸元に残る手術のあとは、病魔との第一ラウンドを制した“勝利のあかし”だ。
 中国東北部で終戦を迎え、三年間のシベリア抑留を経験している。あのつらさを思えば、どんな苦境でも希望を持てる。だが、筋金入りの楽観主義には“もう一つの根拠”があった。
 シーン2/何よりの功徳は…
 六坪のバラックから始めたプレス加工の仕事が、今や業務用食器洗浄機などを製造する機械メーカーに発展。不況下に広島工場を分社し、経営規模は縮小したが、かつては年間三十五億円の売り上げを計上した。
 技術を磨き、顧客の要望にこたえてきた、努力のたまものにちがいない。
 「その“根っこ”にあるのがこの信心ですわ。京都や和歌山にも折伏に行きましたで。百三十世帯以上、やってます。今の私があるのは全部、その福運のおかげです」
 入会は五七年。同年七月の「大阪大会」や、翌五八年の戸田第二代会長の学会葬に参列。生涯不退の決意を固めた。
 悩みの底に暗く沈んでいた人も、仏法を実践し始めると、次第に表情が明るくなり、はつらつと人生に立ち向かうようになる。そうした例を何十人、何百人と見てきた。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書二三四ページ)。自らを鼓舞し、同志を励ましながら、幾度となく拝した御聖訓は、今や北原さんの人生訓ともなっている。
 九五年十一月、胃に小さな「がん」が見つかった。妻のヌイ子さんが動揺した。夫の闘病を支えた五年前の日々が、まざまざとよみがえる。
 婦人部の先輩が励ました。「定期的に検査していたおかげで早期発見できた。症状がひどくなる前に分かったことが、何よりの功徳と確信すべきです」
 ヌイ子さんの心の霧がスーッと晴れ、夫の病気と闘う勇気がわいてきた。
 当の北原さんに動揺はない。焦らず、たゆまず、病室で唱題を続けた。二度目の手術も成功。病魔との第二ラウンドも、北原さんの勝利に終わった。
 シーン3/大阪城を見下ろして
 休む間もなく第三、第四ラウンドの“ゴング”が鳴る。九六年秋に肝臓がん。手術で一度は治まったが、九八年の年末に再発がわかった。
 前回の主治医が変わり、二度目は手術をしない治療法が試された。だが北原さんは一日も早く、がんを取り除くことを望み、周囲の人にも相談のうえ、病院を移ることにした。
 病室は十六階。眼下に大阪城を見下ろし、遠くに生駒の山並みがかすむ。その“常勝の空”を仰ぐと、関西をこよなく愛し、関西の同志の幸福を祈り続ける、池田名誉会長の数々の激励が、北原さんの胸中にわいてはこだました。
 “負けたらあかん。絶対に生きて帰ったる!”。執念の祈りは続いた。
 結果的には、病院を移した選択が正しかったと言える。九九年六月、十時間に及ぶ手術で、がん細胞を摘出。その後、二年近く経過したが、何の異常もない。
 肩甲骨あたりから右わき腹を通り、下腹部に至る手術あとは、背後からばっさりと切り付けられたように見える。病魔との長く、壮絶な死闘をほうふつさせる生々しさだ。
 同じ病室で励まし合った人も、すでに数人が亡くなった。それだけに、北原さんは、病魔を克服した自らの人生の一日一日が、掛け替えのない宝物に思える。
 「地域の同志からね、『北原さんが生きて歩いてること自体が、仏法の証明です』て、言われますが、まだまだこんなもんで終わりますかいな。生身の体のこと、何が起きるかわかりませんが、百歳まで元気に頑張ろう思うてまんのや」
 一昨年は近隣の人に、昨年は親せきに、弘教を実らせた。広布に生き抜く闘志は、いささかも衰えることがない。
 <取材後記>
 ○…北原さんの右手は、人さし指の第一関節から先が落ち、親指のつめは半分の大きさだ。「若いころ、プレス加工の機械に挟まれましたんや。職人に、けがは付き物やから」と、さらりと言う。
 ○…病気も含め、「痛かった」「苦しかった」「つらかった」という経験については、あまり多くを語らない。その寡黙さの中に、度重なる苦難を乗り越えた“人生の勇者”の風格を感じた。
 ○…名誉会長のスピーチに「大聖人は、妙法の功徳について『不老不死』と仰せである。……年とともに、いよいよ若々しく、強く、大いなる生命力で生き抜いていけるのが、大聖人の仏法なのである。『希望』が『若さ』を生み、『決意』が『人間』をつくる」と。北原さんの人生が、まさにそのことを証明している。(晴)


限界に挑む不屈の芸術家魂!!

2006年10月04日 | 心筋梗塞
2003/02/21: ◆体験 限界に挑む不屈の芸術家魂!! 
東京・品川区 小金丸幾久さん

限界に挑む―不屈の芸術家魂!!
故郷の壱岐に常設展示室がオープン
自作の彫像・銅像は全国各地に700体
師と歩む人生に悔いなし
 【東京・品川区】玄界灘に浮かぶ島、九州の壱岐。中国の史書「魏志倭人伝」にもその名が見え、新羅や元など、大陸の強国が襲来したことでも知られる。歴史のロマン漂うこの島の「壱岐郷土館」の一角に、今月11日、新たに「郷土美術館」がオープンした。1階には壱岐出身の彫刻家・小金丸幾久さん(87)=東五反田支部、本部副壮年長、芸術部員=の「彫刻展示室」が常設されている。来賓を迎え、盛大に行われた記念式典には、車いすに腰掛けた小金丸さんの姿も。東京から飛行機と高速艇を乗り継ぎ、開館の式典に臨んだ老彫刻家の表情は、晴れ晴れと輝いていた。
元冦720年
 郷土美術館を建設した長崎県・郷ノ浦町の、渋村寛町長は言う。
 「小金丸先生の作品との出あいは、お父様のお墓に建てられている胸像を拝見したのが、きっかけでした。
 このたび寄贈いただいた彫刻には、おおらかな人間性を感じさせる温かな作品が多く、“文化の薫り高い町づくり”を目指している私たちにとって、このうえないお力添えをいただけたと、心から感謝しています」
 壱岐に生を受け、8歳まで島で暮らした。船大工をしていた父が、関東大震災の後、家族を伴い、職を求めて上京した。
 人生の大半を東京で過ごしたことになるが、小金丸さんの壱岐に対する思いは、深く、強かった。
 元冦(弘安の役)720周年となる2001年(平成13年)、島の東の玄関口・芦辺港に、一人の若武者のブロンズ像が設置された。
 壱岐に押し寄せた元軍を迎え撃ち、壮烈な最期を遂げた、少貳資時。奔馬にまたがり先駆ける、その雄姿が、700年の時を超え、壱岐の人々の眼前によみがえった。
 この「少貳資時像」も小金丸さんの作品だ。高さ3・5メートル、足場に上らなければ手の施しようのない大作だったが、着手した時点ですでに82歳。3年がかりの制作は、文字通り、命を削るような労作業だった。
 「故郷へのご恩返しのつもりで取り組みました。『あの年齢では完成は無理だろう』という人もいたようですが、不可能を可能にするのが、学会精神ですからね」
3カ月で実証
 戦中、そして戦後。とにかく貧しかった。栄養不足に小児ぜんそくが重なり、長男は2歳で亡くなった。
 葬式も出してやれなかった、あの日の悲しさと悔しさは、小金丸さんの胸中から終生、消えることはない。
 その数年後、白内障で左目が見えなくなった。彫刻家にとっては致命的な欠陥となりかねない。
 失意の底に沈んだ小金丸さんを、妻のノブさん(78)=婦人部員=や友人らが励まし続けた。
 姉の伴早子さん(90)=神奈川県、箱根支部、婦人部員=がすでに信心を始めていた。姉から折伏を受けたが、弟は頑として聞かなかった。
 ある日、近所で火事が起きた。火の粉を浴びながら、懸命に消火に当たる学会員のひたむきな献身の行動に、心が揺れた。
 「3カ月やってみて、何も変わらなければ辞める」という条件を付け、61年(昭和36年)2月、御本尊を受けた。
 忘れもしない、約束の3カ月まであと3日と迫った5月15日。思わぬところから胸像の注文が入った。
 「本当に不思議なことで……。この御本尊に祈っていけば、必ず人生が開けていくと、確信しました」
創大「学光の塔」
 「小金丸は彫刻刀より、かばんを持って営業に回っている」――そんな陰口がささやかれるほど、次から次へと、仕事が舞い込んだ。
 「私は、お聞きの通り弁が立つわけでなし、仕事を取って回るような器用な人間ではありません。結局、周りの“人”に恵まれたんです。多くの人に励まされ、支援していただいて、ここまで頑張ってこられました。皆さんが私を守ってくださる“諸天善神”に思えてなりません」
 確かな実績が認められ、67年から8年間、東京大学建築学科講師として教壇にも立った。
 一方、39カ国83大学と交流を続け、各界に平和の指導者を輩出してきた創価大学。その本部棟の前に立つ「学光の塔」も、小金丸さんが全魂を傾け、制作したものだ。
 高さ10メートル、幅6メートル。躍動感あふれる6人の若者の像は、世界へ飛翔する学生を象徴しているかのようだ。
 「あれを作ったのは、かれこれ30年ほど前のことでした。挑戦、情熱、歓喜、英知、行動、青春という六つのテーマを、6人の若者に託して表現しましてね。創立者である池田先生から助言をいただきながら、命懸けで打ち込んだ、私にとっても特に、思い出に残る作品です」
 東京・創価学園の「青年と鷲の像」、長崎県大村市の「天正遣欧少年使節顕彰之像」、同県佐世保市の浦頭引揚記念平和公園「平和の像」など、青森から沖縄、遠くハワイまで、小金丸さんの手になる彫像・銅像は、実に700体を超えるという。
師匠に続け!
 87年、72歳の時に、心筋梗塞で倒れた。“素晴らしい人生だった。良かったなあ……”。薄れ行く意識の中で、長女・鷹尾民江さん(52)=婦人部副本部長=の声が耳に残った。
 「お父さん、題目よ! 題目!」
 速やかな処置で一命を取り留めた。池田名誉会長から病床に、励ましの伝言が届いた。本紙に掲載されたスピーチを読んだ。
 「私は今、4年前の病気という“挑戦”を機に、本格的にスピーチに取り組み、“創造的応戦”を続けている。それもすべて後世の歴史家と人類に向かっての叫びである」――闘病を新たな出発点として、戦いに挑む名誉会長の心に触れ、惰弱な自分を猛省。
 “わが人生の師匠に続こう! 寿命を延ばし、さらに大きな仕事を成し遂げよう!”と、心に固く誓った。
 間もなく、小金丸さんは見事に復帰。その後、先の「少貳資時像」の大作に挑んだのだ。
 「学会に入り、池田先生と巡り会って、私の人生観は一変しました。いろんなことがありましたが、何があっても先生とともに――この決心で生き抜いてきた私の人生には、一点の後悔もありません」
 野蛮がはびこる世界だからこそ、文化の力、芸術の力を発揮しなければならない。
 “人よ、温かな人間性を取り戻せ! 勇気と希望を持って、野蛮に立ち向かおう!”――各地に立つ小金丸さんの作品は、優しくも力強く、叫び続けている。
<取材メモ>
 ○…「彫刻家として、一人の人間として、小金丸さんを尊敬しています」と語るのは、壱岐で「小さな美術館」を営む種田和夫さん。「文化の興隆は、一朝一夕では果たせません。小金丸先生の作品が公開されることは、今後の壱岐の文化にとって、大きな意義があると思います」
 ○…夢を抱かせ、見る人を鼓舞する作品を創り続ける小金丸さん。「そういうものが好きなんです。暗い、マイナス思考の作品は、芸術の本義ではないというのが、私の信念です」。柔らかな物腰の奥に、幾多の風雪に耐え、練り上げた、高潔な人格を感じた。(晴)
 今月11日、壱岐にオープンした展示室で、喜びに包まれる小金丸さん(中)(右は長女・民江さん、左は婿の鷹尾俊一さん)
 壱岐・芦辺港に建つ「少貳資時像」。高さ3.5メートル、台座を合わせると6メートルの大作
 郷土美術館の小金丸幾久彫刻展示室


心筋梗塞、肺塞栓 ICUで1カ月の闘い

2006年10月04日 | 心筋梗塞
2003/03/19: ◆生きるよろこび 心筋梗塞、肺塞栓 ICUで1カ月の闘い 岩手 狢沢弘子

勝利への執念で見事に蘇生!
心筋梗塞、肺塞栓を併発
ICUで1カ月の闘い
“創価家族”の温かさに包まれて
歓喜の姿に同病の友も入会
 【岩手県盛岡市】狢沢弘子さん(65)=陽光支部、支部副婦人部長=は、3年前、心筋梗塞で倒れた。さらに、心臓から肺に血液を送る肺動脈がつまる肺塞栓を併発し、20日間の意識不明で、約1カ月に及ぶICU(集中治療室)での闘病を強いられた。高齢の母と二人暮らしの狢沢さんにとって、“創価家族”の友の懸命な祈りと励ましが、何より大きな力だった。
病状が急変
 「しっかりして!」
 母・テ子さん(84)=婦人部員=の声が、遠のく意識のなかで、かすかに聞こえた。
 1999年(平成11年)11月3日、狢沢さんは自宅で倒れた。心筋梗塞だった。病院での懸命な治療の結果、快方に向かい始めていた。
 だが、その10日後、病状が悪化した。心肺停止。心臓マッサージなど、あわただしく処置が施される。
 急変の報に、病院に駆けつけた叔母の栃丸トモ子さん(67)=婦人部員、片山ハルさん(73)=城南支部、地区副婦人部長=は、心のなかで必死に唱題。その報は同志の間を駆けめぐった。“狢沢さん、負けないで!”と、同志も懸命に祈った。
 「心臓が動いた!」
 懸命な処置の結果、一命は取り留めた。
 肺塞栓を併発していた。予断を許さない状態だ。医師は「急変の危険があるため、身内の方は、病院に詰めていてください」と告げた。「会わせたい人に連絡を!」と、医師に言われたことも、数回に及ぶ。
 母のテ子さんは、その2年前に脳出血で倒れたこともあり、自宅で娘の回復を真剣に祈り続けた。
 “やはり助からないのか……”。誰よりも不安にさいなまれたのが、母だろう。長年、母子二人で歩んできた。「病院に行ってやりたい」と何度も腰を浮かすテ子さん。地域の同志は家族のように、懸命に励ました。
 「一緒に唱題しましょう。必ず元気に戻ってくるわ。狢沢さんが、お母さんを一人にするはずがない!」
 同志は、病院に詰めている親せきのもとへも足しげく通ってくれた。
 狢沢さんが倒れたころから、病院の窓の外に、雪の舞うのが目につくようになった。厳しい冬の訪れに、前途の厳しさがしのばれた。
 だが、叔母の栃丸さんも、片山さんも、「孤独な闘いではありませんでした」と口をそろえる。「同志の皆さんが、おにぎりを作ってきてくれたり、寒くないかと心配してくれたり。温かい励ましを力に、私たちも祈り、闘いました」
団結の祈り
 「創価家族」――狢沢さんは、この言葉が大好きだ。
 狢沢さんは、幼いころ父を亡くした。必死に働く母と二人で、懸命に生きた。叔母の故・藤原ミツさんから信心の話を聞き、母は61年、狢沢さんは翌年、入会した。
 座談会に参加したとき、「まるで家族のような温かい雰囲気に感動しました」と、狢沢さんは振り返る。「必ず幸せになれる!」と笑顔で励ましてくれる友は、姉のようであり、父母のようだった。
 東京の日大講堂で開かれた本部幹部会にも行った。宮城県仙台市での会合にも勇んで参加した。
 忘れられない原点は、夏季講習会での池田会長(当時)との出会い。キャンプファイアーを囲み、「人生の並木路」を歌った。「お父さんがいない人は?」と問い掛ける会長のやさしい声が、今も耳に残っている。“私が父であり、兄です。みんな、負けるな! 頑張れ! 最高の幸福者に!”との激励に感動した。
 心に刻んでいる大聖人の御金言がある。「甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず」(御書1468ページ)
 内向的だった狢沢さんは、「元気に活躍できたのも、多くの先輩がいたから」と。狢沢さんは未婚のため、母子二人の日々。だが、温かい“創価家族”がいたから、さみしさもなかった。市内の多くの親せきも信心しており、励まし合って歩んできた。
 1カ月に及ぶICUでの闘病にも、周囲の同志は“わが娘”“わが姉妹”のような思いで、蘇生を祈ってくれた。
 小島かつ枝支部婦人部長は、「この“団結”と、勝利を確信した“祈り”こそ、私たち陽光支部の誇りです!」と。
 昏睡状態は続き、ICUに入った叔母が何度、名前を呼んでも、反応は返ってこなかった。
 「あきらめず、希望を持ち続けましょう!」
 母も、親せきも、そして同志も、“勝利への執念”を持ち続けた。
 皆の思いが、昏睡状態で病魔と闘う狢沢さんに、ついに届いた。昏睡状態が20日を過ぎたころ、いつものようにICUに入った栃丸さんが、耳元で名前を呼んだ瞬間だった。手を握ると、かすかに握り返したのだ。
 「看護婦さん、体が動きました!」
 喜びの報は、同志を駆けめぐった。
ありがとう
 “どうして、こんなに薄暗いところにいるのだろう!?”。意識が戻った狢沢さんが最初に感じたことだった。20日以上の昏睡状態で、体も思うように動かなかった。
 ICUに運び込まれて1カ月、一般病室へ移った。叔母からICUでの闘病中、同志が温かく励まし続けてくれたことを聞いた。涙があふれた。“元気に皆さんのもとに帰り、再び広布の最前線に立つことが恩返しだわ!”
 だが、病魔はさらに襲いかかった。医師は「子宮筋腫が見つかりました。早急に手術が必要です」と。
 しかし、勝利へ向かって挑戦を始めた狢沢さんの歩みは、病魔も止めることができなかった。
 “悪いものはすべて出し、元気な体になって、広布に走り抜こう!”
 たくましい楽観主義で翌年2月7日、子宮筋腫の手術に立ち向かった。
 友の祈りに包まれ大成功。積極的にリハビリに挑み、3月17日、ついに退院した。拍手で迎えてくれた同志。「皆さん、ありがとう!」
 その後、胸を締めつけられるような発作に、何度も襲われた。しかし、あきらめなかった。勝利を信じ、祈り続けた。
 「この足で歩き、この声で友に語れる。当たり前のように思ってきたことが、本当はいかに素晴らしいことか」。この喜びが体力の回復へ、大きな力となったようだ。
 昨年1月2日、同じ心筋梗塞に立ち向かっていた生野和男さん(52)が、狢沢さんのはつらつとした姿に感動し、入会。それが、所属する正義地区の折伏の先駆となり、昨年は“地区9世帯”の弘教を達成。昨年12月、大歓喜のなか、地区総合最優秀賞に輝いた。
 同時期に入院していた友人とも対話・交流を深める狢沢さん。「今、行動せずして、今、語らずして、いつ戦うのか。信心の素晴らしさと学会、池田先生の正義を語っています!」
 母親のテ子さんも、脳出血の後遺症もなく、「同志の皆さんの励ましで、娘も、そして私も元気になり、楽しく活動に歩いています」と。
 盛岡は、日に日に春の足音が高鳴る。狢沢さんは、創価家族の輪の中で、愛する盛岡の天地にも“勝利の春を”と、元気に語り、歩み抜いている。
元気になった喜びを胸に、語り、行動する狢沢さん(前列左)。温かい創価家族に包まれ、母・テ子さん(前列右)と充実の日々を送る