1990/10/06: ◆体験 急性心筋梗塞、心停止から再起 北海道 壮年部本部長 加藤栄さん
*襲いくる「死」の不安を克服/どこまでも使命に生きる!/
発作性心室頻拍症→心筋梗塞/心停止から再起し第一線へ/青春時代の薫陶を
バネに前進
### ###
【北海道帯広市】いつ心臓の発作が起こるかわからない。そんな不安がいつも
去らない。ことは深刻である--。加藤栄さん(47)=西帯広支部、本部長=は、
発作性心室頻拍症の発作から急性心筋梗塞に。ひとたびは心停止にまで至ったが
幸いにも一命を取り止めた。だが、その後もひんぱんに発作が襲う。不安との
葛藤。「死」の恐怖。その闘いの中に、加藤さんの信仰のきらめきがあった。
### ###
*経過
それまでも時折、動悸(どうき)があった。それが、激しい痛みを伴うように
なったのは、昭和五十五年ころから。朝起きたとき、圧迫するような胸痛がしば
しばで、ころげ回るほど。だが五分もすると、ピタリと収まる。
五十六年、病院を訪れ検査を受けた。原因はわからなかった。その後、症状も
軽くなり、ついそのままにしていたのだが、五十八年が明けるとともに、連日の
ように激しい発作に襲われた。
一月二十一日、国立療養所帯広病院に検査のため入院した。「
発作性心室頻拍症」との診断。心臓の心室が、異常に動悸を打つ病気である。
原因はわかっていない。
その年の七月、職場で倒れた。貧血症状と胸の痛み。緊急に入院。再度、
カテーテル検査などの精密検査が行われ「虚血性心疾患」と判断された。
栄さんの心の中に、次第に不安が込み上げてくる。いつ発作に見舞われるかわ
からない。そして、次も助かるという保証はないのである。その予感が、的中す
るのは、退院後、わずか十日目のことである。
*幸運
昭和五十八年八月二十一日、日曜日。当時、加藤さんは副支部長。朝九時半が
回ったころだろうか、支部長宅に用事があり、外出しようと御本尊に題目三唱し
たときだった。
あの痛みだ。それも今までにない激しさ。耳が「ワァーン」と押しふさがれた
ように鳴っている。苦しい。いやな感じがする。妻の桂子さん(43)
=圏婦人部長=を呼んだ。「すぐ病院に電話してくれ!」
脂汗を流しながら、必死でこらえた。電話のやりとりがかすかに聞こえる。た
またま、手術が終わったところ。医師がいる。準備も整っている。すぐに来れる
か。そんな内容のようであった。
救急車を呼ぼうか、と考えたが、そんな余裕などないように思えた。桂子さん
が運転し、車を国立療養所へと急がせる。病院の玄関に医師と車イスを用意した
看護婦が待ち受けていた。
“間にあった!”。そう思った瞬間、栄さんは意識を失っていった。
--真っ暗な中を歩いている自分に気がついた。足元には、ドライアイスのよ
うな真っ白な霧が噴き上げる。向こうの方に一点の明かり。それを目指してただ
歩いていく。そのときだ。栄さんは、後ろから、まるで飛びげりでもされたよう
なショックを受けた。
「動いた!」。どこからともなく、そんな声がした。
栄さんが夢の中をさまよっている間、ICU(集中治療室)は緊張感でみなぎ
っていた。病院に運び込まれた直後、栄さんの心臓は心室細動の状態に陥ってし
まったからだ。これは、心臓の心室がけいれんを起こし、血液を送り出せない
状態をいう。
血圧計がゼロに下がる。早く動き出さなければ極めて危険だ。強心剤が打たれ
、心マッサージが行われた。しかし、動かない。時間が刻々と過ぎていく。
電気ショックが講じられた。
「よしっ、動いたぞ!」。
栄さんが危機を脱したそのころ、桂子さんは治療室の前の廊下で気をもみなが
ら待っていた。いつもの発作だとばかり思っていたが、様子が違う。一時間がた
ち、二時間がたっても、医師は出てこない。あわただしく治療室に出入りする
看護婦に聞いても答えは返ってこない。
昼過ぎ、やっと医師から説明があった。急性心筋梗塞で、一度心臓は止まった
が、何とか動き出した。今夜がヤマだと言う。その話を聞いたとき、桂子さんは
「来た!」と思った。一家の宿業との闘いだ。よし、必ず乗り越えよう、と心を
引き締めた。真剣な祈りが始まった。
親せきが秋田から駆けつけたのは、夜半過ぎ。あわただしい一日が過ぎていっ
た。翌朝、栄さんは意識を取り戻した。「面会だよ」と言われ、ガラス窓越しに
、秋田の兄弟の顔がずらりと見えたとき、一瞬、戸惑った。なぜ? それが自分
の病気のため、とわかると改めて病状の重さを感じた。
「もう、あと一、二分遅ければだめでしたよ」。医師からそう聞かされたとき
、栄さんは、守られた、と思った。あのとき妻がいなければ。日曜日で、たまた
ま専門医師がいたのも幸運だった。もし、救急車を呼んでいたら、自宅まで
最低二十分はかかっていた。きっと、手遅れになっていたことだろう。一つ一つ
が、すべて意味をもって浮かび上がった。栄さんは感謝の題目を唱えていた。
*防衛
予断を許さない状態が続いたが、栄さんは順調に回復していった。二十四日、
ナースセンター横の個室へ。二十五日、上半身を起こせるまでに。二十九日、
点滴を取りはずす。三十一日、大部屋へ。十一月七日、退院。
だが、退院するとき医師は「長いお付き合いになるでしょう」と、今後の再発
を予測するような言い方をした。実際、その二日後に発作が起こっている。本当
の闘いは、退院してからだった。
ひんぱんに起こる発作との対決の中で、栄さんはすべての意欲を失ったように
みえた。「人間、一度心臓が止まるということは、大変なことなんですね。まる
で病院に魂を置いてきたよう」(桂子さん)
年内いっぱい休み、翌五十九年から出勤。だが栄さんの“自己防衛”の後遺症
はかなり重症だった。当時、酪農機具会社の管理課長の職にあったが、事情を申
し出て、職責をはずしてもらった。
「私の頭の中には、極力、神経を使わず無理をしないこと、そして、いつでも
十五分以内に病院に駆け付けられること、という考えが占めていました」
十五分というのは、あの日、間に合ったギリギリの時間である。
単なる不安ではなかった。現実にひんぱんに発作が起こっている。いつ来るか
もしれない「死」との闘いであった。
帯広の冬は厳しい。道内では雪は少ない方だが、横殴りに吹き付ける風雪、
零下二、三十度にも及ぶ寒気。その年の冬の寒さはいつになく身にこたえた。だ
が、この“逆境”の中で、栄さんの心に呼び起こされるものがあった。吹雪に
胸張り、全道を駆け巡った青年部当時の凱歌の青春だ。
--郷里・秋田から帯広へ一人やってきた栄さんが仏法と出あったのは
昭和四十三年。何事にも、まじめに取り組んできた栄さんは「入信以来、一度も
勤行、会合は欠かしませんでした。ひたすら愚直に頑張ってきたつもりです」
総ブロック長時代、全道の男子部が一つになって戦った。札幌はもちろん、
厚田、別海、根室……北海道狭しと駆ける。心に刻んだ学会健児の誇り。
今こそ、その実証を示す時だ、負けられないと腹が決まった。「命限り有り惜
む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書九五五ページ)、「病によりて道心はをこ
り候なり」(同一四八〇ページ)。これまで肝に銘じてきた御文が浮かんだ。
「学会活動に出ていくごとに、夫は前向きになっていったように思います」(
桂子さん)。その年の九月、支部長に、という話が持ち上がったとき、栄さんに
もう、ためらいはなかった。
「いつ死んでも、どこで倒れてもいい、なんて悲壮な感じはありましたが」(
笑い)。疲れがこうじると、発作が起こったが、栄さんは広布の第一線を走った
。次第に薬も減少。現在は血圧を安定させる薬のみ。この三年ほどは、発作は起
きていない。
現在、学会にあっては十勝本部の本部長として、また職場では技術課長として
活躍する栄さん。心には“恐れるものなし、生きて生きて生き抜くのみ”との強
い確信がみなぎる。
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本部長として活躍する加藤さん(右から二人目)。家族が団結して広布に走る
*襲いくる「死」の不安を克服/どこまでも使命に生きる!/
発作性心室頻拍症→心筋梗塞/心停止から再起し第一線へ/青春時代の薫陶を
バネに前進
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【北海道帯広市】いつ心臓の発作が起こるかわからない。そんな不安がいつも
去らない。ことは深刻である--。加藤栄さん(47)=西帯広支部、本部長=は、
発作性心室頻拍症の発作から急性心筋梗塞に。ひとたびは心停止にまで至ったが
幸いにも一命を取り止めた。だが、その後もひんぱんに発作が襲う。不安との
葛藤。「死」の恐怖。その闘いの中に、加藤さんの信仰のきらめきがあった。
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*経過
それまでも時折、動悸(どうき)があった。それが、激しい痛みを伴うように
なったのは、昭和五十五年ころから。朝起きたとき、圧迫するような胸痛がしば
しばで、ころげ回るほど。だが五分もすると、ピタリと収まる。
五十六年、病院を訪れ検査を受けた。原因はわからなかった。その後、症状も
軽くなり、ついそのままにしていたのだが、五十八年が明けるとともに、連日の
ように激しい発作に襲われた。
一月二十一日、国立療養所帯広病院に検査のため入院した。「
発作性心室頻拍症」との診断。心臓の心室が、異常に動悸を打つ病気である。
原因はわかっていない。
その年の七月、職場で倒れた。貧血症状と胸の痛み。緊急に入院。再度、
カテーテル検査などの精密検査が行われ「虚血性心疾患」と判断された。
栄さんの心の中に、次第に不安が込み上げてくる。いつ発作に見舞われるかわ
からない。そして、次も助かるという保証はないのである。その予感が、的中す
るのは、退院後、わずか十日目のことである。
*幸運
昭和五十八年八月二十一日、日曜日。当時、加藤さんは副支部長。朝九時半が
回ったころだろうか、支部長宅に用事があり、外出しようと御本尊に題目三唱し
たときだった。
あの痛みだ。それも今までにない激しさ。耳が「ワァーン」と押しふさがれた
ように鳴っている。苦しい。いやな感じがする。妻の桂子さん(43)
=圏婦人部長=を呼んだ。「すぐ病院に電話してくれ!」
脂汗を流しながら、必死でこらえた。電話のやりとりがかすかに聞こえる。た
またま、手術が終わったところ。医師がいる。準備も整っている。すぐに来れる
か。そんな内容のようであった。
救急車を呼ぼうか、と考えたが、そんな余裕などないように思えた。桂子さん
が運転し、車を国立療養所へと急がせる。病院の玄関に医師と車イスを用意した
看護婦が待ち受けていた。
“間にあった!”。そう思った瞬間、栄さんは意識を失っていった。
--真っ暗な中を歩いている自分に気がついた。足元には、ドライアイスのよ
うな真っ白な霧が噴き上げる。向こうの方に一点の明かり。それを目指してただ
歩いていく。そのときだ。栄さんは、後ろから、まるで飛びげりでもされたよう
なショックを受けた。
「動いた!」。どこからともなく、そんな声がした。
栄さんが夢の中をさまよっている間、ICU(集中治療室)は緊張感でみなぎ
っていた。病院に運び込まれた直後、栄さんの心臓は心室細動の状態に陥ってし
まったからだ。これは、心臓の心室がけいれんを起こし、血液を送り出せない
状態をいう。
血圧計がゼロに下がる。早く動き出さなければ極めて危険だ。強心剤が打たれ
、心マッサージが行われた。しかし、動かない。時間が刻々と過ぎていく。
電気ショックが講じられた。
「よしっ、動いたぞ!」。
栄さんが危機を脱したそのころ、桂子さんは治療室の前の廊下で気をもみなが
ら待っていた。いつもの発作だとばかり思っていたが、様子が違う。一時間がた
ち、二時間がたっても、医師は出てこない。あわただしく治療室に出入りする
看護婦に聞いても答えは返ってこない。
昼過ぎ、やっと医師から説明があった。急性心筋梗塞で、一度心臓は止まった
が、何とか動き出した。今夜がヤマだと言う。その話を聞いたとき、桂子さんは
「来た!」と思った。一家の宿業との闘いだ。よし、必ず乗り越えよう、と心を
引き締めた。真剣な祈りが始まった。
親せきが秋田から駆けつけたのは、夜半過ぎ。あわただしい一日が過ぎていっ
た。翌朝、栄さんは意識を取り戻した。「面会だよ」と言われ、ガラス窓越しに
、秋田の兄弟の顔がずらりと見えたとき、一瞬、戸惑った。なぜ? それが自分
の病気のため、とわかると改めて病状の重さを感じた。
「もう、あと一、二分遅ければだめでしたよ」。医師からそう聞かされたとき
、栄さんは、守られた、と思った。あのとき妻がいなければ。日曜日で、たまた
ま専門医師がいたのも幸運だった。もし、救急車を呼んでいたら、自宅まで
最低二十分はかかっていた。きっと、手遅れになっていたことだろう。一つ一つ
が、すべて意味をもって浮かび上がった。栄さんは感謝の題目を唱えていた。
*防衛
予断を許さない状態が続いたが、栄さんは順調に回復していった。二十四日、
ナースセンター横の個室へ。二十五日、上半身を起こせるまでに。二十九日、
点滴を取りはずす。三十一日、大部屋へ。十一月七日、退院。
だが、退院するとき医師は「長いお付き合いになるでしょう」と、今後の再発
を予測するような言い方をした。実際、その二日後に発作が起こっている。本当
の闘いは、退院してからだった。
ひんぱんに起こる発作との対決の中で、栄さんはすべての意欲を失ったように
みえた。「人間、一度心臓が止まるということは、大変なことなんですね。まる
で病院に魂を置いてきたよう」(桂子さん)
年内いっぱい休み、翌五十九年から出勤。だが栄さんの“自己防衛”の後遺症
はかなり重症だった。当時、酪農機具会社の管理課長の職にあったが、事情を申
し出て、職責をはずしてもらった。
「私の頭の中には、極力、神経を使わず無理をしないこと、そして、いつでも
十五分以内に病院に駆け付けられること、という考えが占めていました」
十五分というのは、あの日、間に合ったギリギリの時間である。
単なる不安ではなかった。現実にひんぱんに発作が起こっている。いつ来るか
もしれない「死」との闘いであった。
帯広の冬は厳しい。道内では雪は少ない方だが、横殴りに吹き付ける風雪、
零下二、三十度にも及ぶ寒気。その年の冬の寒さはいつになく身にこたえた。だ
が、この“逆境”の中で、栄さんの心に呼び起こされるものがあった。吹雪に
胸張り、全道を駆け巡った青年部当時の凱歌の青春だ。
--郷里・秋田から帯広へ一人やってきた栄さんが仏法と出あったのは
昭和四十三年。何事にも、まじめに取り組んできた栄さんは「入信以来、一度も
勤行、会合は欠かしませんでした。ひたすら愚直に頑張ってきたつもりです」
総ブロック長時代、全道の男子部が一つになって戦った。札幌はもちろん、
厚田、別海、根室……北海道狭しと駆ける。心に刻んだ学会健児の誇り。
今こそ、その実証を示す時だ、負けられないと腹が決まった。「命限り有り惜
む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書九五五ページ)、「病によりて道心はをこ
り候なり」(同一四八〇ページ)。これまで肝に銘じてきた御文が浮かんだ。
「学会活動に出ていくごとに、夫は前向きになっていったように思います」(
桂子さん)。その年の九月、支部長に、という話が持ち上がったとき、栄さんに
もう、ためらいはなかった。
「いつ死んでも、どこで倒れてもいい、なんて悲壮な感じはありましたが」(
笑い)。疲れがこうじると、発作が起こったが、栄さんは広布の第一線を走った
。次第に薬も減少。現在は血圧を安定させる薬のみ。この三年ほどは、発作は起
きていない。
現在、学会にあっては十勝本部の本部長として、また職場では技術課長として
活躍する栄さん。心には“恐れるものなし、生きて生きて生き抜くのみ”との強
い確信がみなぎる。
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本部長として活躍する加藤さん(右から二人目)。家族が団結して広布に走る