◆体験談◆

◆体験談◆

知的障害者と温かいふれあい続ける

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2000/05/12: ◆体験 知的障害者と温かいふれあい続ける 青森県・下田町 二階堂正美さん

 プロローグ/妻と娘に学んだ最高の人生
 【青森県・下田町】三沢市にある知的障害者の通所授産施設「ワークランドつばさ」に、元気な声が響いていた。木工の土産品や表札作りに忙しい。段ボール製品作りや廃品回収、個性を生かして分担。二階堂正美さん(71)=下田支部、副支部長(地区部長兼任)=は、ボランティアのメンバーと汗を流していた。
 「ほら見て。できたよ!」。電動の糸ノコギリで作った木工品を手に、喜びの声を上げる。「上手にできたね!」。二階堂さんがほめるとにっこり。「彼は自閉症ですが、この仕事が大好き。作品も見事でしょ!」
 あるメンバーが「会長、明日も来るの?」と。「明日もみんなに会いに来るよ」。二十年間、知的障害児(者)の親で構成する「手をつなぐ育成会」の三沢市の会長を務めた二階堂さんは、「会長」と親しまれている。
 十七年前、二階堂さんを中心に小規模作業所を設立。その後も協力者と力を合わせ、この社会福祉協議会運営の立派な施設に発展。長年、所長を務め、「ワークランドつばさ」では主任作業指導員をしていたが、県の育成会会長になり、後進に道を譲った。それでもボランティアで施設に通い続ける。
 「みんなの生きがいのためにと頑張ってきました。でも今は、みんなが最高の生きがいを与えてくれている。みんな心がきれいで、会うと元気になるんです。一緒に汗を流さなければ、この思いは分かりません」
 夜は地区部長として学会活動に。七十一歳とは思えぬはつらつとした姿。「実は信心も、障害者のための行動も、妻と娘が素晴らしさを教えてくれたんです」
 シーン1/悩む人々のために
 一九五八年(昭和三十三年)十一月、長女の紀子さん(41)=婦人部員=は仮死状態で生まれた。命は助かったが、脳性小児マヒと診断。足に障害があり、知的障害もあった。
 歩けず、言葉さえ出ない。だが、出産直前に入会していた今は亡き妻の和子さんは、同志の励ましのなか、悲しみを吹き飛ばしていく。懸命に祈り、娘を背負って学会活動に。二女・雅子さん(39)=地区副婦人部長(ブロック長兼任)、長男・正和さん(35)=男子部員=を抱えながら、育成会の役員も務めた。
 母の祈りに包まれ、紀子さんにわずかだが言葉が出始める。小学五年には障害が重かった両足の大腿部(だいたいぶ)を手術。リハビリにも頑張った。
 「妻と娘の前向きな姿に感動しました。家庭の中は明るく、いつも笑顔があったんです」。それでも二階堂さんは信心をしなかった。「妻の信心には反対しませんでした。学会員の皆さんの生き生きとした姿も目にしました。でも、信仰は精神修養ぐらいにしか思っていなかった……」
 自宅を地区の拠点にしたときも、本紙の配達員を始めたときも、妻の情熱に心を動かされ応援した。「そんな妻に『あなたの力が必要』とうまく誘われ(笑い)」、育成会の活動に参加。七六年、会長になった。
 紀子さんは中学卒業後、肢体障害者の技術訓練所に。だが、他人との会話がほとんどできず、働く場所はなかった。“障害があるというだけで自分らしく生きられない社会なんて”
 育成会のメンバーからも「通所授産施設があれば」との声。“それなら自分たちで作ろう”。その後、紀子さんは入所授産施設に入れたが、悩む人々のために夫妻は立ち上がった。
 シーン2/本当の幸せとは
 思いが実った。八三年、育成会のメンバーが提供してくれた自宅の一室で手作りの授産施設がオープン。
 だが数カ月後、二階堂さんの心に、ある思いが渦巻いた。運動会や遠足で楽しそうに笑顔を見せるのに、作業中に寂しそうな表情をするメンバーが多い。
 “みんなは本当に幸せなのだろうか。施設を造ってあげればみんなが喜ぶと思ったのに……”。その思いを妻に語ったとき、信心の話を素直に聞けた。
 “施設や環境も大切だ。しかし、もっと大事なのはみんなの心に喜びと希望を送りゆくことだ”
 そのために自分の成長をと、八六年一月に入会。五十七歳。妻の入会から二十八年後のことだった。
 その秋、第二回「青森青年平和文化祭」の壮年部の演目に出演。だが、本番二週間前の練習中に捻挫(ねんざ)。多くの同志が励まし、一緒に祈ってくれた。その温かさに奮い立った。
 全治三週間の診断をはね返し、本番で見事な演技。感動の涙に濡(ぬ)れる出演者と抱き合った。
 “障害がある子たちも同じように無限の可能性を秘めているんだ。それを引き出してあげたい”
 三沢市内で働いていた二階堂さんは、毎日、昼休みに施設に向かった。「みんなと一緒に食事をし、語り合ったんです。心のふれあいが大切だと思って」
 自分の成長こそ第一と学会活動に。地区担当員(現在の地区婦人部長)だった和子さんとともに、地区部長として活躍。そんな矢先、和子さんにぼうこうがんの宣告。だが、妻は言った。「娘や施設のみんなのためにも必ず元気になってみせるからね!」
 必死に唱題するなか、手術は成功。だがその後、再発。和子さんは九二年に眠るように亡くなった。
 「最後まで娘のこと、育成会のメンバーや施設のみんなのことを祈り続けていました。経済的に苦しかった施設をもっと充実させたいとも。妻は使命に生き抜く人生の素晴らしさを教えてくれたんです」。妻の遺志は夫に受け継がれた。
 シーン3/体の続く限り
 “翼を広げて、親子ともに希望の大空に飛び立とう”――そんな思いが込められた「ワークランドつばさ」が九六年にオープン。みんなの汗と涙で実績と信頼を広げた十三年。ついに社会福祉協議会の社会福祉法人施設に。立派な施設が建ち、指導員の体制も充実した。
 四年前、二十年間務めた三沢市の「手をつなぐ育成会」の会長を後進に。
 その後、県の育成会会長の依頼。迷ったが、二階堂さんは受けた。その決断の陰に娘の姿があった。あれほど他人と会話ができなかった紀子さんが、人前で言葉が出るように。入所施設の園芸班の一員として責任を持って仕事をしている様子を楽しそうに語る。
 「多くの人に温かく支えられたおかげです。だから私も多くの人の笑顔のために、体の続く限り使命の道を走り抜こうと思って」
 県の育成会会長のほか、全国の育成会の評議員や県福祉事業団理事、県社会福祉協議会評議員等を兼務。昨年は全国知的障害者スポーツ大会「ゆうあいピック」の県選手団団長も務めた。
 二女の雅子さんも「姉を支え、人のために尽くしていた母に影響を受けて」と福祉の道に。介護福祉士、ケアマネジャーとして忙しい日々。地域ではブロック長として父を支える。
 二階堂さんは二年半前の厚生大臣表彰に続き、昨年十二月、県褒賞を受賞。
 地道に広布の最前線を歩む姿に地域功労賞、広宣流布貢献賞も。
 「すべて妻の代わりに受賞したと思っているんです。そして、娘が素晴らしい生き方を教えてくれたからです。池田先生は“広布即地域貢献”と。まだまだ青年の心で頑張ります」
 二階堂さんはみんなと一緒に大きく翼を広げ、希望の大空を羽ばたき続ける。