◆体験談◆

◆体験談◆

「音楽療法」について 全米公認音楽療法士

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1997/03/05: ◆こころ 「音楽療法」について 全米公認音楽療法士 寺崎陽子さん


 *こころ/心/KOKORO/「音楽療法」について/全米公認音楽療法士/
寺崎陽子さん
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 音楽を聴(き)き、楽器を演奏して、歌を歌う――。音楽によってストレスが
解消されたり、心が癒(いや)されたり、活力がわいた経験をもつ人は多いでし
ょう。古来、音楽が人間の心にさまざまな影響を及ぼす研究がされてきました。
今回は、この数年、注目を浴び始めた「音楽療法」について、
全米公認音楽療法士の寺崎陽子さんに聞きました。
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 *心身の健康の回復、維持、促進が目的
  
 ―音楽療法とは、どういうものですか。
  
 □…多くの定義がありますが、私がアメリカで学んだ音楽療法では、「系統的
に音楽を活用することによって、心身の健康の回復、維持、促進を図るもの」と
考えています。
 身近な例では、脳卒中の後遺症などで、身体を動かしたり、話すことが不自由
になった方の心を癒(いや)したり、痴呆(ちほう)症にかかった高齢者の方に
、生きる喜びをもってもらうこと――。「生活の質」の向上を目指しています。
 また、障害をもつ子供には、社会に適応しやすくなるような療法をしています

  
 ―たしかに音楽というのは、親しみやすいですね。
  
 □…ある特別養護老人ホームの施設長から、「いままでいろいろなことをして
きたけれども、すべての人が参加できるのは音楽だと思う」と言われたことがあ
ります。音楽は年齢や立場を超えて、人々を引きつける力があると思います。
 私は、かつて中学校で音楽の教師をしていたことがありますが、学校で問題と
なるような素行(そこう)の悪い生徒が、音楽室に来ると曲を静かに聴いている
……。教師に見えなかった生徒の素直さを引き出す力が音楽にあると知ったのが
、この仕事に入るきっかけにもなっています。
  
 ―音楽の、どのような面が治療に役立つのでしょうか。
  
 □…精神科医のアルツシュラーは、「音は大脳の視床(ししょう)及び
視床下部で人の情動や感情を誘発し、自律神経を介して直接、身体の諸器官の
機能に影響を及ぼす」という趣旨のことを言っています。
 つまり、音楽は大脳を通して、人間の感情を動かすとともに、多くの器官の
働きにも影響を与える力がある、ということです。
 アルツシュラーは、音楽を効果的に使うためには、患者のその時の感情や精神
のテンポに合った音楽を使用することをすすめています。
 これは「同質の原理」と呼ばれています。この「同質の原理」をもとに、
私たちは、その人にもっとも合う音楽は何かを考えていくわけです。
  
 ―先ほど、「系統的に」と言われましたが。
  
 □…ええ。「系統的に」とは、「計画的に音楽を使う」という意味です。ただ
、音楽を聴かせ、歌を歌ったり、演奏したりすればいいというわけではありませ
ん。
 治療には、行き当たりばったりではなく、計画性をもって、患者さん(
クライエント)のために、専門の療法士(セラピスト)が音楽を使って相手の心
に働きかけていくわけです。
 ですから、セラピストとクライエントとの人間関係がどのようになっているか
で、音楽療法の効果も変わってきます。
  
 *心のつながりがあって効果もある
  
 ―具体的には、どのようにするのですか。
  
 □…例えば、老人ホームでは、二十~三十人の方々を一グループとして、
約一時間、行います。はじめに皆さんの心をゆったりとさせるために、季節感に
あふれる曲を選びます。また、集まっている方々の年齢を考慮した選曲を
しながら、歌を歌ったり、簡単な楽器で演奏をしたりします。
 ところが、好きな曲というのは個人差があるため、選曲がとても難しいのです
。概して、高齢の方は民謡が好きな場合が多く、また、十代から二十代のころに
出あった曲は、特に記憶に残っているようです。
  
 ―身体に障害をもつと、そのショックでなかなかリハビリに意欲をもって励め
ないこともあるようですが。
  
 □…人間は、大企業の部長とか、学校の教師とか、社会的な立場にかかわらず
、それぞれ一人一人が高いプライドをもって生きています。そのため、人生の
途上(とじょう)で障害をもってしまったことを受け入れるためには、長い期間
、「葛藤(かっとう)」することが多いものです。
 また、プライドを「抑制」しているので、つい「そんな簡単なことを私がやる
のか」という気持ちが出てきてしまいがちです。
 ですから、人によっては、簡単な曲を手軽な楽器で演奏したり、歌うことに、
とても抵抗感があります。その人が積極的にリハビリに励むためにも、まず、そ
の「心理的な抵抗」を取り除いていくことも必要になるわけです。
  
 ―そこで大切なことは何でしょうか。
  
 □…まず、一人一人の個性を知り、その方が心の奥で抑えている気持ちを解放
し、喜びを味わってもらうために、何が一番効果的なのかを判断しながら、自然
の流れのなかで、演奏してもらったり、歌ってもらうことです。
 しかし、そうした専門的な判断や、技術的な問題も大切なのですが、私が感じ
るのは、私たちセラピストの、一人一人に対する「明るい表情」や「親しみのあ
る言葉かけ」、相手に対する「尊敬の気持ち」が、何よりも大切になるというこ
とです。
  
 ―と、いいますと?
  
 □…セラピストとクライエントとの心のつながりができていて初めて、音楽が
心理的な効果をもつ、ということです。もしそうでなければ、一流の音楽家に来
てもらい、演奏し、歌ってもらえばいいはずです。一方的な演奏だけでは、十分
な効果が上がらないのです。
 つまり、音楽療法とは、セラピストとクライエントとの間の、音楽を使っての
コミュニケーションを図るものといえると思います。
  
 *明るい雰囲気を絶やさないこと
  
 ―皆で歌う場合に気をつけることは。
  
 □…歌うことがいいからといっても、「さあ、背筋をぴんと伸ばして、大きな
声を出してください」(笑い)――ということはしません。昔の教育を思い出す
からでしょうか、それではかえって緊張感を与えてしまい、声が出なくなります
。どこまでも、自然に歌が出てくるようにもっていくようにしています。
 「声を出す」ということは、カタルシス(心の浄化)ができるからでしょう。
 話は飛びますが、今、カラオケがはやっていますが、歌を聴いている周りの人
の評価はともかく(笑い)、本人にはストレスの解消に役立っていると思います

  
 ―緊張させない、ということですね。
  
 □…ええ。そのためにも、最初から最後まで、私たちセラピストが笑顔で
クライエントさんに接し、時には冗談も言いながら、明るい雰囲気(ふんいき)
を絶やさないことが必要です。
  
 ―先ほど言われたように、やはり「言葉かけ」が大事なんですね。
  
 □…そうなんです。相手を思う、明るく親しみを込めた言葉かけが、人の心を
動かしていきます。
 私たち日本人は、自分の気持ちは言葉に出さずとも自然に相手に分かってもら
えると考える――そういう文化のなかで生きていますが、でも、自分の思ったこ
とを話していくことが治療では大切です。
  
 ―そのほかには。
  
 □…治療は約一時間ですが、その間に、一人一人が自分が「参加した喜び」を
味わってもらえるようにすることです。「喜び」を味わうことで、「また参加し
よう」という気持ちになり、それが癒しやリハビリにつながるのです。
  
 ―ところで、障害をもつ子供の場合は。
  
 □…社会性を育てることを目標にして、五~六人のグループで四十~五十分間
行います。そこでは、あいさつをできるようにする、集中力を養う、生活の習慣
を身につけることなどを目標にしています。
 例えば、自閉症の子供さんのように、言語によるコミュニケーションが難しい
場合、音楽を通じて、声や楽器や動作による対話を繰り返しますと、徐々に自分
を表現することができるようになります。
 また、私たちが母親に信頼されるかどうかが治療の効果にも影響してきます。
  
 ―音楽療法が注目されるようになりましたが。
  
 □…音楽に人間の心を癒す力があることは、古代から多くの人が研究してきた
ことです。今は、科学・技術の発達で物質的に豊かになり、効率的な社会にもな
りましたが、かえって人間のストレスが大きくなっています。
 音楽の力は「キュア(治療)ではなく、ヒーリング(癒し)」と言われますが
、こうした時代だからこそ、私たちが音楽のもつ力を改めて認識する必要がある
と思います。

“この子の気持ちを受けとめたい”言語治療教育

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1993/12/01: ◆こころ 心こそ大切なれ 私の歩む道(21) 小学校教諭 菊池セツ子さん

 *こころ/KOKORO/心/心こそ大切なれ/私の歩む道(21)/
熱海市立第2小学校教諭/菊池セツ子さん/“この子の気持ちを受けとめたい”
/言語治療教育一筋に17年
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 言葉を自由に話せることは楽しいことです。でも、もし子供が学齢期を迎えて
も言葉が不自由であったら……。子供と親の苦悩は計り知れません。
 今回は、話すことに不自由な小学校入学前の児童等のために、言語治療を続け
ている熱海市立第二小学校教諭・菊池セツ子さんを、静岡県三島市に訪ねました

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 *私の仕事
 〇…吃音(きつおん)、知的障害、構音障害、口蓋裂(こうがいれつ)、
自閉症、難聴などで言葉が不自由な子供たちが自由自在におしゃべりができるよ
うに指導していくのが私の仕事です。
 *きっかけ
 〇…長男の喘息(ぜんそく)治療のため、気候の温暖な静岡県に来て臨時で
小学校に勤務していた時、上司のすすめで、言語治療教育に取り組むようになっ
たのです。大学で特殊教育を受講しながら、障害のある四人の子供たちを
訪問指導するなど、一年間、専門の理論と体験を学んだのです。
 *返事のない子たち
 〇…五十一年の春、幼稚園に付属している言語治療教室の教諭となりました。
幼児は八人。吃音、知的障害、難聴、自閉症、ダウン症などの子供たちでした。
「こんにちは」。あいさつをしても返事がかえってこない子供もいました。じっ
と子供たちは私を見つめるだけです。
 〇…反応がなければ何も始めることができません。ともかく、子供たちと遊ん
で心を通わせたいと思いましたが、「遊んであげなければならない」という
気持ちで自分を縛っていますから、楽しく遊ぶことができないのです。厳しい
現実に圧倒され、時がたつにつれて、いつしか、「英語の教師の方がいい……」
という気持ちが出てきた時もありました。
 〇…子供たちと楽しく遊べるようになるため、週に一度、自費で東京まで
リトミック(リズム遊び)を学びに通いました。また、近所の子供たちの遊びの
中に入れてもらって一緒に遊びました。そのなかで、私は「子供と遊ぶ」とは「
子供たちと遊んであげる」のではなく「子供たちの遊び相手にしてもらう」こと
だと気づいたのです。それからは気楽に遊べるようになりました。
 *大切な遊び
 〇…子供の行為のちょっとしたことにも感動することも、治療にとって大切で
あることを学びました。紙をちょっと折っただけでも、「すごいねー。こんなこ
ともできるのォ」と心からそのことを認めてあげることが、子供との心の交流に
なっていくのです。
 *A子ちゃんのこと
 〇…A子ちゃんが教室に来たのは二歳八カ月の時でした。知的障害で言葉が遅
れています。何もしゃべりません。一緒に遊ぼうともしません。
 しばらくしてから、ある時、A子ちゃんはかんしゃくを起こして、四色に塗り
分けられた教材を、プレールームにまき散らしたのです。「それ」と私も一緒に
まき散らしました。そして私は、同じ色の教材を、右手と左手に持ってぶつけた
のです。その時、パチンと音が出ました。それを見ていたA子ちゃんが興味を
示し同じようなことをして楽しんでいました。A子ちゃんとはそれから心が通じ
合うようになりました。
 〇…三歳半になったある時、玄関で靴を指さしています。「お母さんに買って
もらったの?」。違うという表情です。……ひょっとしたら、と思って「足を
けがしたの?」と言ったら「そう」と言う表情に。
 〇…言葉の話せない子は、目の動きやちょっとした動きで自分の気持ちを伝え
ようとしていくのです。A子ちゃんは中学生まで、教室に通ってきましたが、今
ではかなり上手に話せるようになっています。
 *B君のこと
 〇…骸骨(がいこつ)や火事、墓など人の嫌がる絵を描くB君が教室に入って
きました。知能の発達は正常でしたが、まったく話をしない緘黙(かんもく)児
でした。話しかけても返事もなく、ときどき独りごとを繰り返すだけ。
 これまで六年間、いろいろな子供に接してきましたが、果たして心を開いてく
れる時がくるだろうか、と思われるほど、貝のように口を固く結んだままの日が
続きました。
 〇…やがて、お母さんから「じつは」と言われて、父親があまり子供を好きで
ないこと、自分もまだ子供を欲しくない時にB君を生んだので、気持ちのどこか
に「かわいくない」という気持ちがあり、時にB君に厳しく接していたことを打
ち明けられました。
 〇…お母さんに心から愛すること、おおらかに接することの大切さを話し、
お母さんにそのことを納得してもらってから、B君は骸骨を描かなくなりました
。しかし、また、母親が厳しく接した時、数カ月間現れなかった骸骨を描くよう
になったのです。
 それを見てお母さんは反省し、以後、骸骨の絵はなくなりました。
 *入会
 〇…私は若い時にキリスト教に出あい、洗礼まで受けました。しかし、結婚後
、アルコール依存症の夫をもった厳しい現実の前に、表面は聖書的に振る舞って
いても心の中が冷えていく自分をどうしようもありませんでした。
 〇…誘われて行った学会の座談会。他人の体験に心から涙を流し、時には全身
で笑っている本当に明るい姿がそこにありました。それから二年後に入会。
 *夜中の電話
 〇…障害のある子供を持った親には、なかなか子供のことを相談していく場が
ありません。時々、そうしたお子さんのことで夜遅く電話で相談を受けることが
あります。二、三時間になる場合もあります。私は、夜中であっても、必ずそう
した電話の相談にのるようにしています。
 〇…それは、私が秋田にいたころ、長い貧しい生活に疲れ果てて、苦悩に押し
つぶされていた時、学会の先輩が「いつでもおいで」「いつでも待っています」
と言ってくれた温かい言葉が忘れられないからです。
 *雪降る夜に
 〇…冬の深々と雪の降る夜中の二時ごろに相談に行ったことがあります。人が
だれも歩いていない時間。でも、その家だけは煌々(こうこう)と明かりをつけ
て、追い詰められていた私を待っていてくれたのです……。私はいまだにその家
の明かりを忘れられません。
 *何をしてもいい
 〇…これまで治療に当たってきた四百人を超す子供たちのことは決して忘れら
れるものではありません。御本尊に向かうたびに、一人一人の子供のことを思い
浮かべて、元気に明るく生活してほしいと願っています。
 〇…「何をしてもいいのよ」「何を言ってもいいのよ」--これが教室に通っ
てくる子供たちへの私の思いです。今は、この仕事が生きがいになっています。
 池田名誉会長の詩に
 「悲しみの人の心には春の花を咲かせ
 喜びの友と心の笛を奏で
 弱き人を守り
 頑(かたくな)な人の心をも
 温め溶かしゆく
 --そうした一人ひとりに
 と祈る」とあります。
 池田先生のこの思いに応えられるように、日々、精進してまいりたいと思いま
す。
      #
 *ひとこと/子供の立場、親の身になって考える人/
元熱海市立小嵐中学校教諭/石橋ツヤさん
 障害のある子供は本人がなりたくてなったわけでもありませんし、親が望んで
障害児をもったわけでもありません。障害児教育では障害をもってしまった人た
ちの、そういう心のつらさをよく理解して、子供の立場、お母さんの立場になっ
て考え、指導していくことが何よりも大切なことなのです。
 菊池先生は、敏感な子供たちの気持ちをよくわきまえられており、一年中変わ
らず、本当に優しく温かな言葉遣いで、そして物腰もやわらかく児童や親に接し
ておられます。菊池先生みたいな方はまずおられないでしょうね。
 また、何か相談された時、それが自分に直接には関係ないことであっても、い
つでも相手の立場に立って考えて応援してくれる人です。それは、悩める人の
幸せをいつも願っているからできるのだと思います。
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 *きくち・せつこ 昭和11年、秋田県平鹿郡生まれ。
弘前学院短期大学英文科卒業。秋田県内の中学校の英語教諭などを経て、51年か
ら静岡県で言語治療教育に。熱海市立緑ケ丘幼稚園付属言語治療教室の担当等を
経て、熱海市立第2小学校教諭に。42年入会。圏副婦人部長。静岡県副教育部長
。教学部教授補
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 帰宅してから指導中の子供たちの言葉を記録する菊池さん

「眠」にまつわる「心」の問題

2006年10月04日 | 心の病
1993/02/03: ◆こころ 眠

 *こころ/KOKORO/心/眠
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 前月は、人間の本然の欲求の一つである「食」に関する「心」の問題について
見たが、今月は、劣らぬ強い欲求「眠」にまつわる「心」の問題を考えてみたい

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 *リズム/社会時計と体内時計のずれ
 眠りには、リズムがある。約二十五時間の周期なので「概日リズム」と呼ばれ
る。ところが、一日は二十四時間。毎日、同じ時間に起きて出勤し、同じ時間に
就寝しようとすれば、調節が必要となる。朝日や夕闇という“光”、昼夜の寒暖
の差という“温度”、一日の活動による“疲労”などがあいまって、二十四時間
のリズムに調整される。
 しかし現代は、真夜中でも光が氾濫(はんらん)し、部屋は空調で温度変化が
あまりない……。こうなるとリズム調整が狂う。もともとの二十五時間のリズム
が頭をもたげたりして、二十四時間の「社会時計」のリズムからはみだした「
体内時計」のリズムが独走。起きるべき時間に起きられず、遅刻したり、昼間に
眠くなったり、夜中に目が冴えたりする。
 このような“睡眠と覚醒のリズム障害”は、四、五年前から特に増加しており
、不眠を訴えてくる人の一~二%がそうだという。就業時間が不規則に変動しや
すいコンピューター技術者やマスコミ関係者、二十代前半の特に“就職活動時期
の学生”に多く、最近では主婦やOLにも増えている。「性格的には内向的で
神経質な人」が多い。
 社会のリズムと自分のリズムを合わせることができない時に、不登校、
出社拒否、自閉症、家庭内暴力などが起こる場合もある。
 人間は、環境・社会との摩擦の中で、ストレスを感じ自己の心身を調節し、
一定にたもってきた。ところが、科学技術が発達し手軽に環境の方を整えて
自分本位な自由を獲得できるようになった。その中で、環境・社会の影響を受け
ることが減ったせいで、調節機能に狂いが生じた。使わない機能がすたれる。
快適さの高い代償である。少々つらい条件でも苦にせず動けることと整った環境
で楽に過ごすことと、どちらが自由度が高いのだろうか。
 *夜型人間/現代への適応のせい?
 “十五分間隔で無理に横にならせ眠らせる”という実験の結果によれば、深夜
の午前零時と午後零時ころに深い眠りが起きやすく、午後八時から午後十時の間
に眠りやすさは劇的に増大するという。本来、闇が辺りを包んだころに眠るのが
一番ということか。
 通常、大人はノンレム睡眠(比較的ゆっくりした脳波を示し、四段階に分けら
れる)とレム睡眠(覚醒時に近い脳波を示し、眼球が急速に動いたりする)の
セットを一晩に四~六回繰り返す。脳波の緩やかな深いノンレム睡眠(徐波睡眠
)は一夜のうちの前半に起こり、後半は浅いノンレム睡眠とレム睡眠が交代して
起こり、覚醒に向かう。
 この眠りと覚醒のリズムにはタイプがあり、午前中に活動が好調の「朝型」と
それより数時間ずれて活動が好調の「夜型」に分かれる。眠気については、朝型
が昼下がりと午前零時前後に高まり、夜型がそれぞれ数時間のずれを生じる。
全体の睡眠時間に差はないがリズム全体がずれているので、夜型は「宵っぱりの
朝寝坊」と非難されやすい。
 ところが、現代の職場では交代制勤務や夜勤などのために、生活のリズムを
移行させたりしなければならないことが少なからずある。このような事態に適応
する能力は夜型の方が高いといわれている。
 アメリカの心理学者のウェッブ氏は「夜型の方が睡眠に対する不満感が大きく
、起床時間の爽快感がない。明確な差ではないが、内向的な性格と朝型、外向的
な性格と夜型とが結び付きやすい傾向がある」と指摘している。
 こう考えると、夜型は現代社会にいち早く適応した人かもしれない。国際化の
伸展などで社会活動が二十四時間体制になっていく中で、自然のリズムにのみ合
わせていたかつては、社会に不適応とみられた朝寝坊の夜型が現代社会に適応す
る“人付き合いのよい明るい人間”ということになっていくのだろうか。
 *不眠症/心理的ストレスの解消を
 日本の人口の一八%は治療が必要な不眠に悩んでいるという。これは、
生活パターンの深夜化にともない増加しているようだ。睡眠障害に早くから取り
組んできた久留米大学医学部精神科「睡眠障害クリニック」では訪れた患者のう
ち不眠症が七五%という。
 不眠には何らかのきっかけがあり、それは嫁・姑の問題、隣近所とのつきあい
、会社内の人間関係など、心理的ストレスがほとんどという。
 眠れぬ日が続くと、不眠自体が不安の対象になり更に眠れない。そして体の
調節リズムが狂って不眠が固定化し、心理的ストレスが解決しても不眠だけが残
るのである。
 さて、不眠症の人の多くは「一睡もしない」という訴えにもかかわらず、脳波
を見ると数時間は眠っている。ただレム睡眠、浅いノンレム睡眠が多く、深い
眠りがない。それが、寝不足感につながっているようだ。
 また“眠らねば”という大きな焦りがあり、それは概して「八時間睡眠が必要
」「早寝早起きが健康」「夜中に目覚めるのは病気」等々の睡眠に対する
強迫観念による。
 睡眠には個人差、年齢差があるという事実を知ると、これらの強迫観念が除か
れ、解決のキッカケになるようだ。
 また心を安らかにする工夫がさまざまにされている。東京・南青山のねむり
文化ギャラリーαにあるリラクセーション環境シミュレーターは、照明、温度と
香りの空調などを整えた空間で、オリジナルの環境音楽・ビデオを使って
リラックスを図るもの。
 こうした大掛かりなものは無理にしても、眠る前には、激しい運動、心配や
不平不満をいだくこと、喧嘩、根をつめての勉強を避け、簡単な運動、ぬるめの
湯に入る、ラベンダーなどの香りを嗅ぐ、単調な音を聞くなどして、心を静かに
することが安眠につながる。そして何よりもの睡眠薬は、充実した生活に基づく
、就寝時の満足感である。
 *睡眠時間/長くても短くてもダメ
 社会生活基本調査(総務庁統計局、一九九一年)によると、睡眠時間は男性が
この五年で二十五分減の七時間五十分、女性が二十二分減の七時間三十四分とな
っている。
 一般に長時間眠らずにいると、おこりっぽくなり、無関心、無気力になり、
記憶力、判断力が低下する。極端な場合、マイクロスリープという秒単位の眠り
が頻発し、幻覚や錯視が起こったりする。交通事故などのもとである。
 そういう場合はちょっと昼寝をした方がよい。一般的に昼下がりに眠気が高ま
る。この時に昼寝をすると、その後の作業能率が上がる。ある実験では
十五分程度でも大いに疲労が回復するという。また眠らずとも目を閉じ横になっ
ていても効果はある。無理をするより、居眠り程度でも休息する方がいい。
 アメリカの心理学者のタウブ氏は、健康な青年を好きなだけ眠らせる実験をし
た。平均すると二・七時間就床時間がのび、二・一時間余分に眠った。けれど浅
いノンレム睡眠とレム睡眠のみが増加し、深いノンレム睡眠は増えなかった。こ
の後、作業能力や注意力のテストでは成績が低下し、眠気はしばらくすると増大
したという。
 アメリカがん協会のハモンド博士の調査などによると平均睡眠が六~八時間の
人が長生きで、多い人も少ない人も年間死亡率が高くなっていくという。長く眠
ればいいというわけでもない。
 東京都神経科学総合研究所の宮下彰夫氏は、「短時間睡眠者」は“
社会的順応性が高く、他人の評価を気に掛け努力し”“外向的、活動的、計画的
”であるという。一方「長時間睡眠者」は“他人の意見に左右されることを嫌い
、自律的、内向的、熟慮的”で“悩みも多いが思考の柔軟性がある”という。
 ともあれ、慌ただしい現代社会で、効率のよい短時間睡眠が求められたり、長
いゆったりした眠りにあこがれたりするが、睡眠の長短よりも、自分にあった
規則正しいリズムの睡眠を確保することが大切であろう。
      #
 *池田名誉会長のスピーチから
 とくに壮年、婦人の方々は、身体を大切にし、長寿であっていただきたい。そ
れには、第一に睡眠を十分にとることである。睡眠はあらゆる栄養物よりも勝る
といわれている。
 仏法は道理である。信仰もまた道理の生活でなければならない。不摂生をした
り、疲労を重ねたりして病気になったり、事故を起こしたりするようなことは
愚かである。
     ◇
 どのような薬を服すことよりも、疲労回復には熟睡がいちばん役立つ。
睡眠不足の場合は頭脳の働きも低下し、説得力もなくなってくるものである。
十分な睡眠をとって、いつも爽快なリーダーであっていただきたい。
     ◇
 時間を価値的にやりくりして、早めに勤行し、早めに休む。そして朝を、
さわやかに出発する、そうできる知恵と自律(じりつ)が、自分自身を守ってい
くのである。
 何となく惰性(だせい)と習慣で夜ふかしし、疲れがとれないまま、朝も寝坊
(ねぼう)してしまう。そうした悪循環は、正しい「信心即生活」とはいえない

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 深夜まで働く人が増え、眠りのリズムにも変化が起こっている
 光、音、香りなどを整え、安らぎをもたらす空間も研究されている(
写真提供=ロフテー株式会社)

自己実現を支える関わり

2006年10月04日 | 心の病
2003/02/05: ◆こころ 自己実現を支える関わり 臨床心理士 長島明純さん

自己実現を支える関わり
大人が心を開き成長への努力を
臨床心理士 長島明純さん
 
 ちょっとした言葉によってキレて人に暴力的になったり、周囲の大人たちの視線を気にせず地べたに座って雑談する若者を見かけることがあります。そうした行動も、観点を変えてみれば「自己実現」への意志の表れとの指摘があります。今回は、「自己実現を支える関わり」をめぐって、臨床心理士の長島明純さんに聞きました。
●行動の裏にメッセージがある
 ――ちょっとした言葉でキレたりする若者がいますが。
  
 □…キレるのは若者に限らないと思いますが、暴力は絶対に許されるものではありません。しかし、心理療法家が患者さんを治すという観点で言えば、症状(暴力)が発する「メッセージ」を読み取ることが問題の解決につながっていきます。
 そうした症状(暴力)は何らかの「希求(心から願うこと)」を表しているのではないかと私は考えています。
 一つ目は、「伝達への希求」です。自分が伝えたいものがある。
 二つ目は、「元初への希求」です。大人社会の尺度の押しつけに対する抵抗があり、すべてをリセット(やり直し)したいと思っているのではないか。
 三つ目は、「全なるものへの希求」。現実に立ち向かう力が弱いため、一体感や万能感を求めている。
 四つ目は、「生への希求」です。生きている、あるいはその裏返しとして、死ぬという実感を確かめようとしているのではないか、ということです。
  
 ――今の多くの若者たちは「自分探し」をしているとも言われますが。
  
 □…そう言ってもいいでしょうね。問題は、「自分探し」が暴力に結びつく点です。
 これらの人間らしい希求は、現実に真っ正面から立ち向かう力が強い時は、対話などの相互交流によってなされますが、弱い場合は、現実と十分に交流できないために、一方的な方法である暴力に、短絡的に訴えようとする。弱いから暴力に訴えるのです。
  
 ――雇用制度の変化もありますが、若者を中心にフリーターを続ける人も見受けられます。
  
 □…個々の状況はさまざまだと思いますが、先ほどの言葉で言えば、「自分探し」の渦中だと思います。「自己実現」という言葉がありますが、若者たちは自分の中に潜在している可能性を最大限に開発し実現したいと願っていると思います。しかし、それはすべての人間の願望です。
●「今、ここで」の課題に取り組む
 ――若者が自己実現するため心掛けることは?
  
 □…一つ目は、「今、ここで」の課題に真っ正面から取り組むことだと思います。課題から「逃げないこと」、課題を「ごまかさないこと」が大事です。
 心理療法家の河合隼雄氏は“自己実現は簡単にはできない。世のため、人のため、自ら犠牲を払っていくなかで自己実現をしていく。自分のしたいことだけをしているのは「自我実現」にすぎない”と言っています。
 二つ目は、自分に分からないもの、見えないものでも、すぐに否定して捨てないということです。たとえば、「生命は尊厳か」などの議論がありましたが、理論的に十分理解できなくても、「大事なものは大事」なのです。
 全人類に共通する、すべてのものに、いのちやこころを見てきた事実を、人類の知恵としてもっと尊重すべきだと思います。よく分からなくても、問題のままに抱えながら生きていくことで、大事なものがつかめます。
 三つ目は、情動(気持ち)を大切にし、共有することです。知識が多くても、情動が乏しければ十分に活用することができません。
 今、学校教育の中で総合学習が注目されていますが、ある小学校で、グラウンドに実物大のクジラを描いてから、クジラが暮らす海の環境汚染に詳しい方に説明を受けました。すると子どもたちはクジラが安心して暮らせる海にしたいと、環境汚染をなくそうというポスターを作り町に張ったそうです。
 実物大のクジラを描き、「クジラって、こんなに大きいのか」という感動、情動の共有が、ポスターを町に張ろうという「知恵」を生んだわけです。
  
 ――それは体験や感動の共有が大切だと考えた教師がいたわけですね。
  
 □…そうです。子どもの持っている可能性を開こうとした教師の姿勢が素晴らしいと思います。
 心理療法には、動物や人形などの小さな玩具を砂箱に置く「箱庭療法」があります。
 その場合、治療者はクライエント(来談者)が玩具をどこに置いても、それについて発言しませんが、本物の感動があれば、その気持ちはクライエントに通じていきます。その気持ちがクライエントの自己治癒力を高めさせ、回復へと結びついていきます。 
 「この人に会うことは素晴らしいこと」「今、自分に起きたことは意味のあること」――そう思えてくれば、すべてが大事なもの、尊いものと映り、相手の行動や言葉に驚きが感じられるようになります。それがまた、相手の心を広げていくのです。治療者が心を開くことで相手の可能性が育ちます。
●相手に畏敬の念を持つことから
 ――若者たちの自己実現を支える関わりのためには?
  
 □…自己実現は、自分の力で自分を実現させていくことです。私達にできるのはそれを支える関わりです。クライエント中心療法を提唱した、心理学者のロジャーズはカウンセラーに必要なものとして、(1)自己一致(2)共感的理解(3)受容の三つを挙げています。
 「自己一致」とは、カウンセラーがあるがままの自分の姿でクライエントと接することです。自然で正直な姿勢を保持し、誠実に接するということです。
 「共感的理解」とは、クライエントの立場に共感してこそ深い理解ができます。人は自分の気持ちを受け止めてもらえたという実感が生まれたときに、変容につながる洞察を得ます。共感的理解が「思いこみ」にならないように、相手との対話を通じ、丁寧に吟味することも大切です。
 「受容」は、ありのままの姿を尊重し受け容れることです。存在していること自体、無条件で尊重されていると、若者が感じるためには、こちらが相手の可能性に心を開き、畏敬と驚きの念をもつことが大切です。礼儀正しく学ぶ姿勢が大切です。
 しかし、時には、「ダメなことはダメ」と言い切り、「我慢」をさせる「父性性」も、若者たちを支えるためには必要なことです。
  
 ――人間はさまざまですから、相手の可能性を引き出すのは大変なことだと思いますが。
  
 □…心理治療の例で言えば、治療者にも「壁」があります。
 そこで、治療者も、「スーパービジョン」(スーパーバイザー<熟練した臨床家>に、治療について指導を受ける)や「教育分析」(治療の専門家になるための教育的な意味をもつ分析)を受け、自分を向上させていくことが必要になってきます。
 家庭や地域でも、自分を成長させてくれる人、切磋琢磨できる場を持つことが大事だと思います。
  
 ――今の若者たちの問題は大人の問題であると言う人もいます。
  
 □…私も、大人自身の生き方が若者たちに表れていると思います。
 カウンセリングでは、今、治療者が変わることが問われていますが、家庭でも、親自身がどういう姿勢で生きているのかが問われているのではないでしょうか。
 そして、管理社会の重圧の中で自己実現を目指している若者たちを支えることが、実は、大人にとっても自己実現につながっていると言えるのではないかと思います。
 
 ながしま・あきずみ 1956年、京都生まれ。創価大学教育学部卒業。兵庫教育大学大学院修了。論文に「ある自閉症児の心理療法」がある。

メール時代と人のつながり

2006年10月04日 | 心の病
2002/04/03: ◆こころ メール時代と人のつながり 臨床心理士 長島明純さん

 “自己についての実感”を豊かな信頼関係から/臨床心理士/長島明純さん
 
 現代は、携帯電話やインターネットの普及によって情報の送受信は極めて便利になりました。しかし、その半面、いつも「メール」などの通信手段でやりとりをしていないと、友人・知人との関係が切れそうで「不安」でたまらないといった人も増えてきています。今回は、「メールの時代の不安感」をめぐって、臨床心理士の長島明純さんに聞きました。
 ●“傷つくかもしれない部分”はパス
 ――友人・知人との連絡に携帯電話を使ったり、(電子)メールをやりとりする人が増えています。特に、その傾向は若者に顕著であるように思いますが。
 □…そうですね。先日、あるラジオ番組で、フォーク歌手が学生時代を振り返ってこんな体験を語っていました。
 昔はお金もなく便利な通信手段がなかったから、夜になると用もないのに友人の下宿に行って朝までいろいろなことを語り合った。よく喧嘩もし、ずっと会っていない時があっても、お互いに「つながり」を感じていた。
 今の若者たちは盛んにメールのやりとりをしているようだけれど、返信がないと友人との関係が切れてしまいそうで不安になっている、という印象を受ける。昔とはずいぶん違った友人関係の中で生きているように思う、と。
  
 ――確かに携帯やメールは便利ですが、人間関係の「質」にも大きな影響を与える道具のように見えます。
 □…いつでも、どこでも電話をかけることができますし、メールなら、相手の都合に関係なく、自分の都合のいい時に送れます。
 しかし、そういう自由さの半面、携帯を過剰とも見えるほど活用している人の多くは、相手の言ったことに合わせるのが苦手で、自分が傷つくかもしれない場面を避け、それでいて、だれかといつもつながっていないと「不安」だと感じているように思います。
 そのためでしょうか、メールでは、相手の心の奥深くまでかかわらない“浅いレベル”の言葉が使われ、その浅さを何とか埋めようとして、絶えず発信が繰り返されることになります。
  
 ――そういう心理と現代社会の特徴との関係については、どのようなことが考えられますか。
 □…まず、物がない時代は、お互いがしっかりと助け合わなければ生きていけませんでした。
 今は、便利で物は豊かになりましたが、人とのかかわりはかえって希薄になってしまいました。
 ●根拠のない万能感や無力感
 ――子供たちを見ていても、テレビゲームに夢中で、他者と全人格的に付き合う機会が少ないように見えます。
 □…ええ。現実では満たされない欲望を、テレビゲームなどのバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界が満たしてくれることに慣れてしまい、生の現実ですら、バーチャルなものに感じられてしまっているような危険が、子供だけでなく、未熟な大人の間にも高まっています。
 ゲームに限りません。携帯やメールのやりとりだけでことを済まそうとしていても、どこか、何かが足らないと皆が感じているのではないでしょうか。思うようにならなかったり、時には傷つくこともある全人格的なコミュニケーションがないと、便利ではあるけれど、仕組みの分からない機械に囲まれての生活によって、根拠のない「万能感」や「無力感」が生じやすくなります。
  
 ――確かに、私たちは便利な機器に囲まれて暮らしていることに無自覚なことが多いですね。
 □…ですから、こういう社会環境で生きているという自覚がないまま、環境に身を任せていると、他人と自分との関係が薄れるばかりか、自分という存在の自信のなさから、他人の評価に過敏になったり、自分が傷つくことを極度に恐れたりするようになります。
 そして、その一方で、一人でいることを恐れ、人とのつながりを確かめていないと不安なために、メールや携帯でいつもやりとりするという心理が生まれるわけです。
  
 ――そういう不安をなくすにはどうしたらいいのでしょうか。
 □…人とのつながりへの不安と、自分という存在の自信のなさとは「表裏一体」です。
 自分という存在の基盤となる「自己についての実感(自己感)」が委縮してしまっていると、外界からの刺激は圧迫的なものと感じられ、そこから不安感が生まれます。
 一方で、自己感が豊かだと、外界から受ける刺激は心地よいものとなるのです。ですから、自己感が豊かなものとなるための働きかけが大事です。
 イギリスの児童精神科医ウィニコットは、子供と養育者との関係を重視し、どういう関係を持つことが大切かを研究しました。
 ●心を育むとは相手から学ぶこと
 ――それはどのような内容なのでしょうか。
 □…彼によれば、乳幼児は無防備で傷つきやすいので、頼りになる養育者との十分な「信頼関係」があってはじめて“わたしはいる”、そして“わたしは安全でいられる”という「安全感」が生まれ、それが「一人でいられる能力」を育むと考えました。
 これは養育者との関係によって自己感が豊かになっていく道筋を示しているともいえます。養育者との信頼関係が基礎となり、「一人でいられる能力」が育まれ、それが友情をつくるもとになると、ウィニコットは述べています。
 人間は信頼感を築くためには、だれかがいることが大切です。思春期に心を許しあえる親友や心から尊敬できる人との出会いがあれば、子供時代に十分に養えなかった「安全感」が育まれ、豊かな人生を送ることもできます。そのためには、まず自分がいい友人となれるような努力を続けることが前提です。
  
 ――健全な自己感を育てるにはどのようなことが大切でしょうか。
 □…精神科医の山中康裕氏は自身の体験を通して「相手の心を育むとは、相手から学ぶことである」と言っています。
 山中氏は若者の心理治療をした時、その若者が夢中になっていたロック(音楽)を糸口として、彼からロックを学ぶことから治療を始めました。
 この場合、「学ぶ」ということは、例えば、食べ物の材料を分析するのではなく、食べて味わうという経験に近いように思います。相手の良さをこちらが学ぶことで、自分も豊かになるし、相手の「自己感」を育てることができるのです。
 これは相手の「能動性」を引き出すことともいえます。相手の興味のあるもの、得意なものを、心を開き、自分と心を通わせる「窓」にすることも大切なことです。
  
 ――相手の良さを学ぶ姿勢が大事なのですね。
 □…精神医学者のユングは、「永遠なるもの」「普遍なるもの」を軽んずるなら、その人は自己中心的となり、過去から学ぶこともできなければ、現在の出来事を把握することもできず、まして未来を正しく見通すことはできないと言っています。
 ユングの指摘するように、まず自分が、「永遠なるもの」「自分を超えたもの」に支えられているという「謙虚さ」を持ち続けることの必要性を、私は痛感しています。
 この「謙虚さ」が、山中氏の言う「心を育む学び」を可能にしてくれるのではないでしょうか。
 ながしま・あきずみ 1956年京都生まれ。創価大学教育学部卒業。兵庫教育大学大学院修了。論文に「ある自閉症児の心理療法」がある。

子どもの“心の声”聴く

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1999/05/05: ◆こころ 子どもの“心の声”聴く 教育部教育相談総合センター長 杉野重子

 *こころ/心/kOKORO/子どもの“心の声”を聴く/
教育部教育相談総合センター長/杉野重子さん
 ###   ###
 5月5日は「こどもの日」。明るく、たくましい子どもをどのようにはぐくん
でいくのか――。家庭で大切なことのひとつは、子どもたちが発信する心の
メッセージを親がしっかり読みとることと指摘されています。今回は、「子ども
の心の声」をどう聴(き)き取るのか、教育部教育相談総合センター長の
杉野重子さんに聞きました。
 ###   ###
 *言葉や行動が伝える心のメッセージ
 ―著書『子どもの心を診(み)る』で「子どもの心音を聴くことが大事」と
指摘されていますが。
  
 □…ええ。子どもというのは心の訴えを言葉や行動などで親に信号を送ってい
るものです。
 例えば、四~五歳の女の子が「オモチャの指輪を買って、買って」とねだる。
親は「そんなものを買わなくても」と思いがちですが、その子は指輪から「心の
中の夢を育てたい」と思っているのですね。スナック菓子をのべつまくなしに
ボリボリ食べるような子もいます。それは「心の不安」を表していることもあり
ます。
 夜尿、つめかみ、落ち着きがない行動……こうしたことは「もっとかまってほ
しい」というメッセージが含まれていることも多いですね。幼稚園のお子さんの
「登園拒否」。これは「お母さんから離れたくない」という「分離不安」の表れ
の面もあります。不登校も、「不登校」という姿で親にメッセージを送っている
といえます。
  
 ―その不登校は、年々、増えているようですね。
  
 □…教育相談を始めて四十年近くになります。初めのころは自閉症など
発達障害の相談が多かったのですが、二十年ほど前から不登校の相談が増えてき
ました。
 その原因には、経済成長を中心に考え「心」を忘れた社会、学業成績重視の
教育などもあると思います。家庭を中心に考えれば、親に「ゆとり」がなくなり
、子どもの心の声を聴き取れなくなってきていることも挙げられると思います。
  
 ―と、言いますと。
  
 □…精神的な病(やまい)やひどいイジメなどによる不登校は別にして、学校
に行きたくても行けないという不登校は多くの場合、子どもたちは、「ぼくは苦
しいんだ」という心の叫びを送っているのです。「不登校」という形で疲れた心
を癒(いや)そうとしているのです。
 反対に、家の外ではいい子なのに、家庭内で暴力を振るうような子もいます。
それは、親に「もっとかわいがってほしい」「もっと認めてほしい」という
気持ちが心の奥にある。でも、こうした子どもたちの心の声を聴き取ることは難
しい……。
  
 ―「引きこもり」や「家庭内での暴力」もメッセージなのですね。
  
 □…そう思います。子どもは「苦しいんだ!」「もっとかまってほしい!」と
言葉では言いません。その代わりに、円形脱毛症などの身体症状、引きこもりや
家庭内での暴力……。自分の心を、そういう形で親に伝えていると考えられます

 *心を受け止めれば子どもは元気になる
 ―子どもたちの態度や行動から心の声を聴き取ることが大切なのですね。
  
 □…ええ。心の声が聴き取れれば、「問題の行動」も多くを解決する糸口がつ
かめます。
 ある教育熱心な母親がいました。ふだんから子どもを大事にしているはずなの
に、不登校になってしまった。子どもは「学校に行こうとするとドキドキして
心臓が飛び出しそう」と訴えていました。ところが、そのお母さんは、きまじめ
すぎるんですね。「心臓が飛び出るはずがないでしょう!」(笑い)。
 お母さんは、どうも子どものメッセージがわからない。そこで「もっと
リラックスして。ユーモアも大切に」とアドバイスしたのです。
  
 ―それで、どうなったのでしょうか。
  
 □…その子が登校しようとした時、今度は、お母さんは迎えに来てくれた
友だちに向かって、「この子の心臓が飛び出たら、口の中に入れてあげてね」と
言ったのです。その言葉を聞いて、その子は涙が出てきました。「ぼくの気持ち
がわかってくれた」と。ほどなくして、その子の不登校は直りました。お母さん
の明るさ、笑顔が大切ですね。
  
 ―心に応えてあげれば、子どもたちは元気になるわけですね。
  
 □…そうです。子どものたくましさというのは、温かい愛情によって支えられ
ています。子どもにとって親が「安心感の基地」になれば、どのような不安があ
っても親に寄りかかり、依存しながら、子どもは自分のエネルギーを出していけ
るようになるのです。
 温かな愛情があれば、子どもは間違いなくそれを感じ取ります。子どもという
のはとても敏感です。親の心の奥にあることを感じ取っているものです。
  
 ―温かな愛情が根本なんですね。
  
 □…ところが、なかには愛情について、「頭でわかっているだけ」の人もいま
す。相談に訪れたあるお母さんは、問題行動を起こしている我が子について、
自分で「愛情不足が原因です」(笑い)と分析しました。
 それは愛情という文字を知っていても、「愛情とは何か」を知らない。愛情を
具体的に示すことができないということです。例えば、子どもが部屋で昼寝して
しまった。「そんな所で寝たら、風邪をひくわよ」と言う前に、そっと毛布や
ふとんを掛けてあげるのが愛情でしょう。愛情とは、「口を出すこと」ではなく
、「手をかける」こと――行動することです。心くばりをすることだと思います

 *親自身が豊かな感受性と柔軟な心を
 ―「愛情の示し方」がわからない人もあると――。
  
 □…ええ。ですから、子どもの気持ちもよく読み取れない。どのようなことで
悩み、どんなに苦しんでいるのかがわからない親が増えている――そう感じるこ
とが、最近、増えましたね。
 不登校の場合では、親が我が子のメッセージに応えられなかったことや、「
知的な発達」を求めるあまり、無意識のうちに子どもにプレッシャーをかけてい
る。子どもの“遊びたい”という気持ちがわからない。
 子どものほうも親に応えようと親の顔色をうかがいながら頑張っているうちに
疲れてしまう。子どもは敏感だから、親が直接要求しなくても、親の心を感じ取
っているものです。
 小中学生の段階で心の疲れが出ればまだいいほうですが、高校生や大学生にな
って出たりすると……。
  
 ―その場合には。
  
 □…立ち直るのに時間がかかります。小中学生と違って、「再育児療法」とい
うわけにもいきません。親子の触れ合いといってもなかなか難しい。その場合に
は、「友だち」が立ち直りのきっかけになることが多いですね。
 私たちは「発動性」と呼んでいますが、どのような人にも「発動性」――生き
ていくエネルギーがあります。自分で立ち直っていく生命力がある。引きこもっ
て、「かまわないでほしい。ぼくは死にたい」と言うような学生でも「弱発動性
」――エネルギーがないようでも間違いなくエネルギーがあるのです。
 親が気づかなかったエネルギーを、友人が引き出してくれる。
  
 ―だれでも自分のなかにたくましく生きるエネルギーがある、と。
  
 □…人間は可能性に満ちあふれた存在です。いくつになっても伸びようという
力があることをわかってほしいですね。
 これまで多くの方々の相談を受け、感じてきたことは、人間は心の奥にあるも
のがその人の持っている「雰囲気」になっているということです。ですから、だ
れでも気軽に来られるような「家庭の雰囲気」をつくっていくことが、我が子が
たくましく生きていくエネルギーを出していくきっかけになると思います。
  
 ―まず、親自身が持っている「雰囲気」が大切なんですね。
  
 □…その通りですね。心の奥からあふれるような温かな愛情。そこから醸(か
も)し出される温かな雰囲気が大事です。
 例えば、花を見た時、「きれいだね」と子どもに声をかけるようにしていく。
そういうなかで親子ともども「情感」も育ち、感受性の豊かな心をはぐくむこと
ができる。親にそういう豊かな感受性や柔軟な心があれば、我が子の心の声も聴
き取ることができるようになる……。
 ほかの何ものにも代え難い子どもたちのかわいい顔と明るい笑い声――。
子どもの立場になって考え、ちょっとした態度や行動、わずかな言葉から心の声
を聴き取り、子どもたちの心に応えてあげてください。
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 子どもたちの“心の声”を聴き取ろう(香川県高松市内で。写真と本文は関係
ありません)

「遊戯療法」をめぐって 

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1998/02/04: ◆こころ 「遊戯療法」をめぐって 臨床心理士 長島明純さん

 *こころ/心/KOKORO/「遊戯療法」をめぐって/臨床心理士/
長島明純さん
 ###   ###
 苦悩に沈んだり、傷ついたりした心を開いていくために、さまざまな療法があ
ります。遊びを媒介にして行われる心理療法の「遊戯療法(プレー・セラピー)
」もそのなかのひとつです。今回は、自閉症児の指導に携(たずさ)わってきた
臨床心理士の長島明純さんに、「遊戯療法」をめぐって聞きました。
 ###   ###
 *遊びを媒介にして行われる心理療法
 ―自閉症児の指導をされているとのことですが、自閉症とはどのような症状な
のですか。
   
 □…アメリカ精神医学会の診断基準などがありますが、主な症状の一つに「
コミュニケーション(身振りや言葉、文字などで感情や意思、考えを伝え合った
り、読みとること)の障害」を挙げることができます。これは更に、「
情動的コミュニケーションの障害」「言語的コミュニケーションの障害」に分け
られます。
 ほかの人と感情の交流や言葉のやりとりがほとんどできないということです。
 そのほかに、「反復行動」を続けたり、物が置いてある位置が変わると気に入
らなかったりするなど「執着的行動」もみられます。
   
 ―自分の気持ちを伝えたり、相手の気持ちを理解できない……。
   
 □…そのためパニック行動を起こしたりします。そこで治療のために、本人の
「窓」を見つけることが大切になります。「窓」というのは、本人が自分の
気持ちや考えを表現しやすいもの、といえます。
 小学校低学年のA君の場合、それが「砂あそび」でした。自閉症は脳の
機能障害、つまり言語・認知の器質的障害に基づくという見方が支配的なので、
遊戯療法はあまり効果がないと考えられてきたのですが、A君が砂で遊ぶのが
好きということから、遊戯療法(この場合「砂あそび」)で治療を進めていくこ
とにしました。
   
 ―その「遊戯療法」というのは。
   
 □…これは、遊びを媒介にして行われる心理療法です。子どもにとって遊びは
心身の成長に大きく役立ちますが、同時に治療の機能も持っています。身体を
使い、自分の好きなことに一生懸命になる。遊びを通して、自然のうちに心身が
癒(いや)されていく面があるのです。
   
 ―心理療法では、時間や場所を決めて行っていますが。
   
 □…それは「遊戯療法」でも同じです。A君の「砂あそび」でも、回数は一週
に一回。通常、時間は一時間ですが、A君の場合、場に馴染(なじ)み、気が済
むまで時間がかかったので、三時間ほどゆったりと長めにとりました。
 心理療法と同じように、特定の場所を決め、汚(よご)れてもいいように
作業服(児童用の白衣)に着替えてもらいました。「砂あそび」のために使った
のは、箱庭療法の砂箱(内法五七×七二×七センチ)です。
 *「居心地の良さ」が回復につながる
 ―作業服を着る、特別な理由があるのですか。
   
 □…砂で服が汚れてしまうからという理由もありますが、「これはふだんの
遊びとは違う」、一つの「治療関係」であるということを意識してもらうことが
治療に役立つのです。ただ遊ぶことがそのまま遊戯療法になるのではなく、一定
の条件を決めて進めていくことが必要になります。
   
 ―すぐに砂で遊ぶようになったのですか。
   
 □…最初は、箱庭の置いてある部屋で、ほかの友だちのしていることを見なが
ら、おわんなどを使い砂で遊びました。
 次に、砂に記号をかいたり、水を混ぜたりするようになったのです。砂に慣れ
てきたら、A君は砂を口に付けるようにしたり、手の甲に乗せ、砂を握って感触
を確かめたり、手を口の中に入れたりするようにもなりました。
 砂に慣れるにしたがって、箱庭の中で遊んだり寝たりするようになりました。
そして、テレビから流れる言葉や、商品名を発したり、砂に文字として表すよう
にもなったのです。
   
 ―砂あそびを通して、回復していったのですね。
   
 □…そうです。やがてパニック行動が減り、席についている時間も増えていき
ました。
 今までは自分の要求に基づいた反応しかしなかったA君だったのですが、周囲
の要求に応じるようになったり、少しずつ言葉が出るようになり、自分の要求を
相手に伝えられるようになっていきました。
   
 ―砂で遊ぶことが、その子を成長させるキッカケになった、と。
   
 □…心理学では、砂に触れることは「砂に触れてもらうこと」を意味していま
す。
 一つの解釈として、砂は「世界」を表します。砂に触れるとは「世界に触れる
こと」であると同時に、「世界から触れてもらうこと」と考えられます。
 また、砂とは「母性」を表しているともいえます。子どもが母親に触れて
安心感を得ていくように、触れると同時に触れられる――それを繰り返していく
ことで、世界に自分を受け入れてもらえたという気持ちになり、その「居心地の
よさ」が周囲(世界)とコミュニケーションがとれるようにその人を変えていく
のです。
 *見守ってくれる人の存在が欠かせない
 ―治療者も一緒に遊ぶのですか。
   
 □…いいえ。そういうやり方が一般的ですが、A君には「箱庭療法」のやり方
で接しました。
 治療者は、遊んでいるのをだまって見守っています。「見守ってもらう」こと
によって、遊びながら自分の心を深めていくことができるのです。そして、「
自分の心を深める」ことによって治癒(ちゆ)力がわいてくるのです。
 「見守る」ことで、相手はあるがままの自分を表出できます。見守るとは、「
表出されたイメージを共有し、共に歩む」ことを意味します。
   
 ―見守ってくれる人がいるからこそ効果があるわけですね。
   
 □…そうです。そこが不思議なところです。
 人間は、自分を見ていてくれる人の存在が不可欠だと思いますね。見ていてく
れるから、自分を受け止めることができるようになります。
 A君の場合、「窓」は砂あそびでしたが、人によってそれぞれ「窓」がありま
すから、その「窓」を発見してあげることが大事だと思います。
   
 ―治療者にとって必要なこととは何でしょうか。
   
 □…治療で大切なことは、相手に対する温かな思いやり。そして、「絶対に嘘
(うそ)をつかないこと」――特に、この二つが大事だと私は考えています。
 例えば、自閉症児に嘘をつけば、すぐに見抜かれてしまいます。治療者が本気
になって治療に取り組んでいるのかどうかも、ただちに見抜かれます。
 治療者が誠実でなければ相手に通じないし、大切な「信頼関係」を築くことが
できません。
   
 ―治療者自身の心が大切ということですね。
   
 □…そう思いますね。よい治療者になるためには、まず、「自分を信じられる
こと」が大事だと思います。そして、自分を支えてくれている人の存在、力を感
じているかどうかです。言い換えれば、自分の精神的豊かさが問われているとも
いえます。
 自らを信じられるから、目の前の障害を持った人の心を信じられるのです。そ
ういう心があって、治療を効果的に進めていく「雰囲気」も醸(かも)し出され
ます。
 相手を信じる強い心が、その人がたとえ脳に機能障害があっても、心を癒(い
や)すとともに大きな成長をはかっていくきっかけをつくっていくと思います。

知的障害者教育の道を22年 福祉協会から表彰

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2002/10/20: ◆体験 知的障害者教育の道を22年 福祉協会から表彰 広島市 古賀■子

知的障害者教育の道を22年 福祉協会から表彰
園生のみんなに「ありがとう!」
生後7カ月で被爆
健康の喜びを使命に代えて
施設で主任指導員、寮長として奮闘
 【広島市安佐南区】「みんなの笑顔が、私の喜びであり、生きがいです!」――古賀■<にんべんに旬>子さん(57)=上安支部、支部副婦人部長=は、知的障害者福祉施設である太田川学園の成人部アネックス部で、主任指導員と寮長を務める。知的障害者教育の道22年。先月25日、その功績に対し、第40回全国知的障害関係施設職員研究大会の席上、日本知的障害者福祉協会から表彰状が贈られた。「私の方こそ、『ありがとう』って言いたいんです。応援してくれた家族に。そして、宝のような思い出の日々を一緒につづってくれた園生のみんなに!」
可能性を信じて
 「できたよ!」。園生が誇らしげに再生和紙のはがきを見せる。
 「きれいにできたね。よく頑張ったね」と、笑顔を返す古賀さん。
 毎日、午前は資源回収班や花壇等をつくる環境整備班など、班に分かれて作業。古賀さんは、「和紙班」を担当。牛乳パックから、リサイクルの和紙製のはがきを作る。
 「うまくできないよ!?」と叫び出す園生も。「一緒にやってみましょう」と横に座る。
 そんなやりとりの間にも、古賀さんは顔色や体調に気を配る。自閉症など、さまざまな症状の人がいる。一人がパニックを起こすと、連鎖反応で皆に影響を与える場合も。「体調が悪い」と意思表示できない人もいる。
 寮での共同生活のため、健康や生活まで気遣う。指導員であり、母親的存在だ。言葉が出ない園生も、表情を見れば何を言いたいか分かるという。
 「みんな、純粋です。感情や形式的な態度では心を開いてくれません。可能性を信じ、真心で接することが、いかに大切か。実は私がこんな素晴らしい使命の道を歩めるのも、心から励ましてくれた友がいたからなのです」
 ――古賀さんは生後7カ月の時、広島市内で被爆。すさまじい爆風で、乳母車に乗った古賀さんは数十メートル吹き飛んだ。
 原爆の爪跡は10年を経て、古賀さんを苦しめ始めた。小学4年生の時、激しいめまいに襲われ、意識不明に。その後も発作が襲った。寝込むことが多く、両親と1960年(昭和35年)に入会した。
 15歳だった古賀さんは、“健康になりたい”と祈った。日曜日になると、女子部の“お姉さん”が自転車で訪ねて来てくれた。「あなたにしかない使命がある。必ず元気になれるわ」。一緒に学会活動へ。いつしか自転車で飛び回れるほどになり、発作も消えた。
 勝英さん(60)=副支部長=と結婚。やさしい姑、そして3人の娘に恵まれた。幸せをかみしめながらも、自分の生い立ちを思うたび、“人のために尽くす道を”と願った。
 子育てが一段落すると勉強に励み、35歳で保母資格を取得した。そのとき、「ぜひ、来てほしい」と。太田川学園の初代園長だった。
「今度はいつ?」
 入所施設で夜勤があり、勤務体制も複雑だ。知的障害児と接したこともなかった。しかし、夫や家族は「応援するよ」。
 最初はとまどいの日々だった。突然、叫び声を発する子がいた。入浴で体を洗ってあげていたとき、左手を噛まれた。痛みより、心のショックが大きかった。“やっていけるだろうか……”
 真剣に唱題した。ある日、ビーズで作った指輪を見せてくれた女の子に「きれいね」と。満面の笑顔が返ってきた。ハッと思った。“私はあの子たちのことを本気で分かろうとしていただろうか”
 「太田川学園の園生の無事・安穏」――仏壇の前に掲げ、みんなの顔を浮かべながら祈った。
 あるとき、こんな提案が。「市民と参加するイベントで、演目を」。古賀さんは「やってみましょう」と答えた。
 それまで、市民との交流は少なく、人前で演じるという発想もなかった。「やってみたい」と希望した園生と練習。飽きて、小道具を投げ捨てる。同じ動きを繰り返す。
 「やはり無理だ」という指導員と、「彼らを信じましょう」と励まし合った。良い所を見つけては、ほめた。それが“やる気”を引き出した。
 本番の日、見事な演技に大拍手。喜ぶ園生。舞台横に戻ると、「今度は、いつ演技をするの!」と。
 驚きとともに、感動した。以来、“どうせできないのでは”との雰囲気は消え、“何でも挑戦を”と、指導員の意識も変わった。
感謝の電話が…
 “子どもたちの最大の教育環境は教師自身である”――池田名誉会長の指針を胸に、不規則勤務のなか、学会活動で友のために走り、教育部の活動にも励んだ。
 太田川学園は時代を先取りし、成人の入所、通所の更生施設やショートステイ等、多岐にわたる。
 古賀さんは9年間の児童部指導員を経て、成人部に。みんなが喜べばと、さまざまな挑戦をした。
 腹話術の練習を重ね、腹話術人形の「ケンちゃん」を披露したことがあった。いつもは何にも興味を示さない男の子が、目を輝かせた。「みんなで一緒に歌おう」。ケンちゃんの呼びかけに、みんなが大合唱。感動に包まれた。その後、人気者のケンちゃんは、ほかの施設からも要望があり、多くの人に希望を送った。
 入所してきた男の子が菓子などの間食だけで、食事にまったく手をつけないこともあった。食生活は健康にかかわる。
 「一緒に食べましょう」と、いつも古賀さんは向かいの席に。「この煮物、おいしいわよ」。根気よく続けた。
 3週間を過ぎた時、黙ってフォークを手にし、卵焼きを口に運んだ。「私も卵焼きは大好きよ」
 わずかだが、笑顔を見せた。自分から古賀さんの前に座るように。食べられるものも増えた。
 夏休みにその子が自宅に帰った時、母親から電話が。「息子が『いただきます』って、家族と一緒に食事をしたんです。ありがとうございました」。涙ながらに喜びを伝える母親。
 月に1度、親が学園を訪れる保護者会では、家族も笑顔で歩んでほしいと、励ますことを心がける。そんな経験を生かし、今は教育部の教育相談の担当者も務める。
 「みんなの笑顔とともに」――22年の歩みに込められた思いが、この一言につまっている。今回の表彰も、その結晶だ。
 母の姿を見てきた長女の栗原保子さん(31)=婦人部員=は、同じ道を歩み、心身障害者福祉施設の指導員に。三女の博子さん=女子部員=は看護の道に。二女の敬子さん=ヤング・リーダー=も、はつらつと活躍。
 被爆という苦しみを使命に代えて歩む古賀さんの周りには、きょうも楽しい笑い声がこだましている。

 太田川学園
 橋本忠教統括園長
 20年以上の長きにわたり、貴い行動を続けてきてくださいました。古賀さんは、信仰をされており、信念を持って、献身してくださっていることをよく知っております。単に仕事として割り切るのではなく、“何のため”との目的観と使命感を持って、“自分もみんなと一緒に成長しよう”と努力されています。一人ひとりが持っている素晴らしい個性を信じ、輝かせていこうとの取り組みに感謝し、感動しております。
 「さあ、きれいなはがきを作りましょう!」と古賀さん(中)。みんなとの作業は、いつも笑い声がいっぱい

視覚障害の母は勝った!

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2002/03/03: ◆輝くあしたへ 視覚障害の母は勝った! 栃木県今市市 飯塚麻里さん

 視覚障害の母は勝った!/自閉症の息子とともに!!/ボランティア・コンサートを開催/トークとピアノ演奏で友を励ます
 プロローグ
 【栃木県今市市】去る2月14日、市内のある会場で障害者とその両親のための、ささやかだが爽やかなボランティア・コンサートが開催された。
 今年で3回目。主催者の飯塚麻里さん(40)=大沢支部、地区副婦人部長=は、司会進行役兼ピアノ演奏者として、ステージにいた。
 パワフルな声。巧みな話術。そして、心に染み入る繊細なピアノのタッチ。元気な彼女をひと目見たいと足を運ぶ人も多い。
 だが……。障害者たちを励ます飯塚さんもまた、障害者(3級)。かろうじて明暗の判別はつくが、視力がない。
 さらに、長男の毅さん(14)は、生まれつきの脳障害による「自閉症」。飯塚さん自身、知的障害児を持つ母親でもあるのだ。
 だが、ステージに立つ飯塚さんの表情には一片の曇りもない。
 励まされる側から、励ます側へ――いったい、何が彼女をそうさせたのだろうか。
 シーン1/消えぬ不安
 1973年(昭和48年)、東京・浅草。飯塚さん12歳の秋――。
 「あれ?」。視界に“異物”が見えた。視力は1・5。近所の開業医に通ったが、わずか1週間で失明。網膜が劣化・剥離する原因不明の病だった。
 大学病院へ。3カ月間の集中治療が奏功して、裸眼で0・7程度まで回復した。しかし、そこまで。
 ベートーベンが大好きで練習していたピアノも、大会に出場する腕前だった水泳も、目指す私立中学への進学も、すべてあきらめた。いつまた視力を失うかもしれない。じわじわ押し寄せ、消えない不安――それは、12歳の夢を奪い、恐怖を強いる病魔の到来だった。
 だが、彼女はくじけない。好きな道で生きる証をと、あえて高校を中退。持ち前のパワーで美容師免許を取得し、就職。徐々に指名客も増えた。が、確実に蓄積する目の疲れ。鏡に映す自分の目が、不安の色を浮かべていた。
 “このまま、見えなくなるのか……”
 82年、誘われた座談会で池田名誉会長の映写を見る。その時の感動は、今も忘れない。「この人こそ、私の人生の師匠だ!」。両親の反対を物ともせず、入会。5世帯の弘教を実らせた。
 そのうちの一人が、夫・信男さん(43)=地区部長。製造業の会社を興して独立した信男さんを支えるため、結婚して、栃木へ。24歳になっていた。
 力強さを増す祈りの声に反して、日に日に薄れていく視力。だが、かつてのような不安はない。
 “大丈夫よ、私は、やっていける!”
 住み慣れたわが家のどこに何があるか、体で覚えた。暮らしに不便はない。炊事・洗濯は何でもこなした。それは今でも――。
 だが、一つ気掛かりがあった。長男・毅さんの様子がおかしいのだ。発語が単調すぎる……。
 そんな不安と失明の危機を唱題で乗り越え、やがて飯塚さんは、長女・怜さん(12)を出産する。
 “お兄ちゃんになれば、少しは……”
 かすかな期待が打ち砕かれたのは、毅さんが4歳を迎えるころだった。
 保健所の検診に行くと、医師が言った。
 「お子さんは『自閉症』です」
 シーン2/冬のスイカ
 毅さんのように脳内の情報処理に障害がある「自閉症」は、言葉を正しく理解したり、人とかかわることが困難である場合が多い。
 また“多動”で、落ち着きがなく、叫び、暴れることも、しばしば。
 どこに行き、何をしでかすか分からないわが子――母は“多動”の気配を感じれば、抱いて押さえつけた。それしか、わが子を危険から守るすべがなかったのだ。母子には“生傷”が絶えなかった。
 それが傍目には「虐待」に見えた。「しつけのできない親」に見えた。「目が見えない親だから」との陰口まで聞こえた。
 周囲の無理解に苦しんだ分、題目があがった。御本尊にぶつけるしかなかった。唱題するほど“毅の母親は私”との、誇りと喜びが心の底からわいてくる。不思議だった。
 仏壇の前の畳が、正座の形にへこんだ。歳月とともに、へこみが深まっていく。
 仕事を軌道に乗せるため、必死で働き、男子部部長として活動にも汗する夫・信男さんは、そのへこみに励まされる思いだった。
 “よし、おれも!”
 飯塚さん夫妻は協力し合い、毅さんを“普通の子”として育てた。どこへでも連れて行った。奇声を発し、周囲から疎んじられようとも……。
 やがて養護学校の小学部へ。ある冬の日――。
 毅さんが、スーパーのスイカ売り場の前で駄々をこねた。ねだっているのだ。
 言い聞かせようとする飯塚さん。しかし毅さんは聞かない。暴れた。
 「じゃあ、おれの小遣いで」と信男さんが買ってあげると、毅さんは大満足。冬のスイカを抱え込んで、離そうとしない。そのまま、家へ。
 玄関を入ると、毅さんは真っすぐ、仏前に。「あー、あー!」。このスイカをお供えしてほしい――毅さんのそぶりが、そう言っているように見えた。
 毅さんが、御本尊を見つめている。信男さんは、はっとした。「分かったよ、毅」と、そのスイカを供えた瞬間、毅さんは両手を合わせて言った。
 「ナンミョー、ホーレンゲ、キョー……」
 この時から薄紙をはぐように、毅さんの「自閉症」は軽くなっていく。
 シーン3/母子の「12歳」
 毅さんは、人一倍、音楽が好きだった。保育園のころから、クラシックとフォルクローレ(南米の民族音楽)に興味を示した。怜さんが習い始めたピアノを、自分もやりたいと主張するようにもなった。
 “毅がピアノをやるなら……私も挑戦してみよう!”
 “青春の忘れ物”を取り返そうと決意した。だが、20年以上のブランク、そして、譜面すら見えなくなってしまった自分に、本当に弾けるだろうか……。
 不安を唱題ではねのけ、練習した。そんな飯塚さんの姿に励まされた友が次々と入会。
 ピアノを通し、母子の対話も弾むようになっていく。毅さんの“多動”も治まっていった。
 “そうだ!”
 飯塚さんの胸に夢が芽生えた。
 “私のピアノで、障害に苦しむ人や、その家族を励ましてあげられたら……”
 夢はふくらんでいく。
 同じ取り組むなら大好きだったベートーベンをと、丸2年を費やし、ピアノソナタ「テンペスト」を暗譜。ベートーベンが、耳が聞こえなくなった直後に作った曲である。
 ピアノ教室の講師など、友人たちの協力を仰いで、念願のボランティア・コンサートを開催し、その「テンペスト」を披露したのが、3年前。毅さんが12歳の時だった。
 同じ12歳で失明し、好きなピアノをあきらめた自分が、今、そのピアノを奏でている。多くの人に喜んでもらうために――。
 飯塚さんはうれしかった。誇らしかった。
 第2回のコンサートで「コンドルは飛んでいく」を披露した毅さんは、今、中学部2年。養護学校のスクールバスの停留所から、片道3キロの道のりを歩いて帰って来られるまでになった。“多動”は、すっかり影を潜めた。
 そればかりか、オーディオなど、音楽関連のジャンルについては、大人も太刀打ちできないほど該博な知識を持つ。
 信男さんの仕事も、不況をはねのけ、順調そのもの。
 病によって“人生の忘れ物”となっていたピアノ。そのピアノに、病を持つ息子とともに挑戦していくなかで、飯塚さんは、たくさんの“人生の宝物”を見つけた。
 人生の“勝利の山”目指して、飯塚さん一家の和楽の行進は続く(右から夫・信男さん、長男・毅さん、長女・怜さん、飯塚さん、二男・凱史君)


聴覚・知的障害の長女が世界ハート展入選

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2001/11/17: ◆ひまわり讃歌 聴覚・知的障害の長女が世界ハート展入選 広島市 勝谷月恵

 世界の各都市、日本の各地を巡回し、大きな反響を呼んでいる「世界ハート展」(主催・NHK)が、最終の“倉敷展”を迎えている。今月13日、同展のテープカットを、一人の少女が行った。勝谷月恵さん(42)=吉島勇舞支部、地区副婦人部長=の長女・伸恵さん(14)であった。伸恵さんは、聴覚・知的障害者。家族や教育・医療施設の人々の愛にはぐくまれ、作詩した「あかちゃん」が「世界ハート展」に選ばれたのである。ここでは母・月恵さんと、長女・伸恵さんの成長の軌跡を追った。
 けいれんが続く不安の日々
 美しい詩心があふれている。「世界ハート展」――。
 開催6カ国の障害がある人たちから「詩」が寄せられ、展示作100点に伸恵さんの詩が選ばれたのだ。
 同展は、昨年、世界の5都市を回り、今年は日本の主要都市で開催され、その最終が今回の“倉敷展”。
 13日の午前10時。会場の倉敷三越で、伸恵さんは、来場者が見守るなかテープカット! 場内に拍手が高鳴り、同展が開幕した。
 「(テープカットを)堂々と立派にしてくれて、“成長したんだなァ”と感無量」と、目に涙をためて語る月恵さん。その胸に、どのような過去の思いが去来したのであろうか。
 ――15年前、1986年(昭和61年)、伸恵さんは未熟児(2202グラム)で生まれた。けいれんが激しく、母子は50日入院。退院してからもけいれんと無呼吸になるため、夜中もまくら元に電気をつけ、呼吸を確かめる不安の日々が続いた。
 生後3カ月、かつてない強いけいれんを起こした。「伸恵を抱きしめ、“けいれんを止めてください!”って、必死にお題目をあげたんです。“救急車を呼ぼうか……”と思いかけた、次の瞬間におさまり、この時を境にけいれんがピタッと止まったんですよ」(月恵さん)
 しかし、体はグニャグニャで首がすわらない。病院での検査が続く。「無我夢中の毎日で、いつも伸恵を抱え、気が付くと腕が強くなり“力こぶ”ができていた」(月恵さん)
 “2歳になるまでに首がすわり、お座りできるようにしてみせる”と夫婦して懸命に祈った。願い通りになったものの、衝撃的な出来事があった。
 衝撃!「音が聞こえてない…」
 友との電話で、たまたま“難聴児”の話となった。このとき、ハッとした。“2歳を迎えようとしているのに、伸恵も音に反応していないのでは……”。電話を切り、後ろ向きに座る娘に「のぶちゃん!」と声を掛けたが、やはり何の反応もない! 耳のそばで何度も呼んだが……!
 胸が裂けるような驚愕で、体が震えた。それがおえつとなり、泣き崩れてしまった。“のぶちゃん、耳が聞こえないの?
 耳が聞こえないの?”。あふれる涙が次々とほおを流れ落ちた。
 憔悴し、傷心を抱えて月恵さんは、先輩同志に指導を受けた。すると温かく励ましてくれた。「使命のない子はいないのよ。信心根本に戦えば、必ず“よかった”と言えるようになる。負けずに頑張ろうよ」と。所属する婦人部の「フェニックス合唱団」の友にも心から激励され、夫の玉廣さん(49)=同支部=も「すべて意味あることだよ。信心で頑張ろう」と励ましてくれた。教学で、仏法の三世永遠の生命観を学んでいた月恵さんである。自身の宿命を見詰め、懸命に唱題に励んだ。その胸に、学会での幾多の指導がよみがえった……。
 〈信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるのではない。要は、その苦難に負けずに、乗り越えていけるかどうかである。ここに人生の勝負、幸・不幸がかかっている。いかに宿命の嵐が吹き荒れようと、それらを全部、打開し、転換していく力の源泉が信心である〉
 やがて児童相談所から「療育手帳A(重度知的障害)」と、広島大学病院では「聴覚障害で、ほとんど聞こえていない」と診断された。しかし、月恵さんは不思議と動揺しなかった。“必ず宿命転換してみせる。4歳までに歩けるようにしてみせる”と。
 月恵さんは、弘教や本紙の啓蒙に励み、広布の第一線で戦った。4歳で、伸恵さんが歩いた。夫婦は涙して手を取り合って喜んだ。
 肢体不自由児通園施設の二葉園から知的障害児通園施設の育成園、県立ろう学校(小学部)へ。
 勉強も少しずつできるようになり、やがて手話や指文字、“紙に書く”などしてコミュニケーションが取れるようになったのである。
 「担任の先生や医師が素晴らしく……。記憶力と勘がいいこともわかってきて」(月恵さん)。さらに伸恵さんは、思わぬ才を発揮するようになる。
 「障害者の希望!」と医師
 作詩をするようになった。
 長男・正弘君(4)が誕生したその年、小学5年生でNHKの障害者の「詩」50選に入選。その2年後に「世界ハート展」に応募。
 同展は、世界6カ国の障害者から寄せられた5452編から入選100編(日本から50編)が選ばれ、ここに伸恵さんの詩「あかちゃん」が入選したのである。この詩には、第23回モスクワ国際映画祭で「最優秀女優賞」に輝いた宮澤りえさんが真心の絵画を。
 ――その「世界ハート展」は昨年、アメリカ、ブラジル、フランス、ベトナム、オーストラリアへ。
 このことをだれよりも喜んだのは、玉廣さんの父で、広島広布草創の功労者である故・勝谷勝弘さん=当時・第1広島総県副総合長=であった。勝弘さんは、入選を喜び、孫たちと“花見”を楽しみ、その後、眠るように素晴らしい成仏の相で死去した。
 「義父の御祈念帳を開いて、驚いたんです。『孫が世界広布のお役に立つように』と書いてあったのです。……それで夫と相談し、アメリカ創価大学に伸恵と正弘の名で寄付をさせてもらい、“海外交流”を夢見て英語手話にも挑戦するようになったのです」
 “わが家の王女様”伸恵さんは、中学3年生。一人で通学できるようになった。
 15年前、“障害の子を産んでしまった”と一度は涙した月恵さんであるが、時去って、今――。
 「のぶちゃんのおかげでたくさん題目をあげ、仏法の偉大さを教えてもらい、福運あふれる一家にしてもらい幸せです。まさに“わが家の王女様”。今は、身障の子を育てさせていただき、“よくぞ私の所に生まれてきてくれた。ありがとう!”という感謝の思いでいっぱいです」と笑顔で語る月恵さん。
 この母娘を長年見てきた人がいる。広島市児童療育指導センター・児童精神科の大澤多美子医師だ。大澤医師が「ひまわり讃歌」を美しく奏でてくれた。
 「のぶちゃんは、ろうだったのがラッキーでもあるんですよ。目で見てわかる教育のおかげで、自閉症の偏りをもった面が、結果としてすごくいい作用となりましたから。家庭も温かく強く、すごく豊かな心に育っている。それが生活実感がこもった詩“あかちゃん”にも出てますよね。重度の障害を持った子の母親に、のぶちゃんのことをよくお話ししてるんですよ。大きな励みになるし、勇気と希望を与えてくれていますから」
 ●世界ハート展
 開催6カ国の障害のある人たちが、日常生活で感じたことをつづった「詩」の一編一編に、各界で活躍するアーティストや著名人が、その“ハート(心)”を絵画やデザイン、写真で表現し、それを組み合わせて紹介した作品展。
 取材後記
 ○…身障の人たちの「詩」に、絵などを寄せた著名なアーティストの中に、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のメンバーである、ハービー・ハンコック氏やウェイン・ショーター氏(ともにミュージシャン・作曲家)も。自国の身障者の作品に、心温まる絵を描いている。
 ○…取材中、勝谷さんが何度も口にしたのが「身障の子を育てることができて感謝!」との言葉であった。まさに“感謝の心を持てる人は強し”“感謝の心を持てる人は幸せ”である。
 ○…「世界ハート展」“倉敷展”は18日(日)まで、会場は倉敷三越。(水)


知的障害者と温かいふれあい続ける

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2000/05/12: ◆体験 知的障害者と温かいふれあい続ける 青森県・下田町 二階堂正美さん

 プロローグ/妻と娘に学んだ最高の人生
 【青森県・下田町】三沢市にある知的障害者の通所授産施設「ワークランドつばさ」に、元気な声が響いていた。木工の土産品や表札作りに忙しい。段ボール製品作りや廃品回収、個性を生かして分担。二階堂正美さん(71)=下田支部、副支部長(地区部長兼任)=は、ボランティアのメンバーと汗を流していた。
 「ほら見て。できたよ!」。電動の糸ノコギリで作った木工品を手に、喜びの声を上げる。「上手にできたね!」。二階堂さんがほめるとにっこり。「彼は自閉症ですが、この仕事が大好き。作品も見事でしょ!」
 あるメンバーが「会長、明日も来るの?」と。「明日もみんなに会いに来るよ」。二十年間、知的障害児(者)の親で構成する「手をつなぐ育成会」の三沢市の会長を務めた二階堂さんは、「会長」と親しまれている。
 十七年前、二階堂さんを中心に小規模作業所を設立。その後も協力者と力を合わせ、この社会福祉協議会運営の立派な施設に発展。長年、所長を務め、「ワークランドつばさ」では主任作業指導員をしていたが、県の育成会会長になり、後進に道を譲った。それでもボランティアで施設に通い続ける。
 「みんなの生きがいのためにと頑張ってきました。でも今は、みんなが最高の生きがいを与えてくれている。みんな心がきれいで、会うと元気になるんです。一緒に汗を流さなければ、この思いは分かりません」
 夜は地区部長として学会活動に。七十一歳とは思えぬはつらつとした姿。「実は信心も、障害者のための行動も、妻と娘が素晴らしさを教えてくれたんです」
 シーン1/悩む人々のために
 一九五八年(昭和三十三年)十一月、長女の紀子さん(41)=婦人部員=は仮死状態で生まれた。命は助かったが、脳性小児マヒと診断。足に障害があり、知的障害もあった。
 歩けず、言葉さえ出ない。だが、出産直前に入会していた今は亡き妻の和子さんは、同志の励ましのなか、悲しみを吹き飛ばしていく。懸命に祈り、娘を背負って学会活動に。二女・雅子さん(39)=地区副婦人部長(ブロック長兼任)、長男・正和さん(35)=男子部員=を抱えながら、育成会の役員も務めた。
 母の祈りに包まれ、紀子さんにわずかだが言葉が出始める。小学五年には障害が重かった両足の大腿部(だいたいぶ)を手術。リハビリにも頑張った。
 「妻と娘の前向きな姿に感動しました。家庭の中は明るく、いつも笑顔があったんです」。それでも二階堂さんは信心をしなかった。「妻の信心には反対しませんでした。学会員の皆さんの生き生きとした姿も目にしました。でも、信仰は精神修養ぐらいにしか思っていなかった……」
 自宅を地区の拠点にしたときも、本紙の配達員を始めたときも、妻の情熱に心を動かされ応援した。「そんな妻に『あなたの力が必要』とうまく誘われ(笑い)」、育成会の活動に参加。七六年、会長になった。
 紀子さんは中学卒業後、肢体障害者の技術訓練所に。だが、他人との会話がほとんどできず、働く場所はなかった。“障害があるというだけで自分らしく生きられない社会なんて”
 育成会のメンバーからも「通所授産施設があれば」との声。“それなら自分たちで作ろう”。その後、紀子さんは入所授産施設に入れたが、悩む人々のために夫妻は立ち上がった。
 シーン2/本当の幸せとは
 思いが実った。八三年、育成会のメンバーが提供してくれた自宅の一室で手作りの授産施設がオープン。
 だが数カ月後、二階堂さんの心に、ある思いが渦巻いた。運動会や遠足で楽しそうに笑顔を見せるのに、作業中に寂しそうな表情をするメンバーが多い。
 “みんなは本当に幸せなのだろうか。施設を造ってあげればみんなが喜ぶと思ったのに……”。その思いを妻に語ったとき、信心の話を素直に聞けた。
 “施設や環境も大切だ。しかし、もっと大事なのはみんなの心に喜びと希望を送りゆくことだ”
 そのために自分の成長をと、八六年一月に入会。五十七歳。妻の入会から二十八年後のことだった。
 その秋、第二回「青森青年平和文化祭」の壮年部の演目に出演。だが、本番二週間前の練習中に捻挫(ねんざ)。多くの同志が励まし、一緒に祈ってくれた。その温かさに奮い立った。
 全治三週間の診断をはね返し、本番で見事な演技。感動の涙に濡(ぬ)れる出演者と抱き合った。
 “障害がある子たちも同じように無限の可能性を秘めているんだ。それを引き出してあげたい”
 三沢市内で働いていた二階堂さんは、毎日、昼休みに施設に向かった。「みんなと一緒に食事をし、語り合ったんです。心のふれあいが大切だと思って」
 自分の成長こそ第一と学会活動に。地区担当員(現在の地区婦人部長)だった和子さんとともに、地区部長として活躍。そんな矢先、和子さんにぼうこうがんの宣告。だが、妻は言った。「娘や施設のみんなのためにも必ず元気になってみせるからね!」
 必死に唱題するなか、手術は成功。だがその後、再発。和子さんは九二年に眠るように亡くなった。
 「最後まで娘のこと、育成会のメンバーや施設のみんなのことを祈り続けていました。経済的に苦しかった施設をもっと充実させたいとも。妻は使命に生き抜く人生の素晴らしさを教えてくれたんです」。妻の遺志は夫に受け継がれた。
 シーン3/体の続く限り
 “翼を広げて、親子ともに希望の大空に飛び立とう”――そんな思いが込められた「ワークランドつばさ」が九六年にオープン。みんなの汗と涙で実績と信頼を広げた十三年。ついに社会福祉協議会の社会福祉法人施設に。立派な施設が建ち、指導員の体制も充実した。
 四年前、二十年間務めた三沢市の「手をつなぐ育成会」の会長を後進に。
 その後、県の育成会会長の依頼。迷ったが、二階堂さんは受けた。その決断の陰に娘の姿があった。あれほど他人と会話ができなかった紀子さんが、人前で言葉が出るように。入所施設の園芸班の一員として責任を持って仕事をしている様子を楽しそうに語る。
 「多くの人に温かく支えられたおかげです。だから私も多くの人の笑顔のために、体の続く限り使命の道を走り抜こうと思って」
 県の育成会会長のほか、全国の育成会の評議員や県福祉事業団理事、県社会福祉協議会評議員等を兼務。昨年は全国知的障害者スポーツ大会「ゆうあいピック」の県選手団団長も務めた。
 二女の雅子さんも「姉を支え、人のために尽くしていた母に影響を受けて」と福祉の道に。介護福祉士、ケアマネジャーとして忙しい日々。地域ではブロック長として父を支える。
 二階堂さんは二年半前の厚生大臣表彰に続き、昨年十二月、県褒賞を受賞。
 地道に広布の最前線を歩む姿に地域功労賞、広宣流布貢献賞も。
 「すべて妻の代わりに受賞したと思っているんです。そして、娘が素晴らしい生き方を教えてくれたからです。池田先生は“広布即地域貢献”と。まだまだ青年の心で頑張ります」
 二階堂さんはみんなと一緒に大きく翼を広げ、希望の大空を羽ばたき続ける。


2人の自閉症の息子と歩んだ日々

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2000/04/07: ◆体験 2人の自閉症の息子と歩んだ日々 長崎市 高鍋陽子さん

 【長崎市】高鍋陽子さん(50)=浦上支部、地区婦人部長=は、三人の息子のうち、二人の“自閉症”の子供を抱えながら、夫の俊一さん(53)=副本部長(地区部長兼任)=と力を合わせ、強く、明るく歩んできた。重度の知的障害がある自閉症の長男・雄一さん(23)=男子部員=は、自然豊かな施設で元気に生活。同じ自閉症の二男・博幸さん(22)=男子部員=は、就職を勝ち取り、はつらつと働く。兄を支えてきた三男の貴志さん(18)=男子部員=も今春、高校を卒業して就職。苦闘を乗り越え、高鍋さんは勝利の春を迎えた。
 一人でさえ大変なのに…
 「行ってきます!」
 毎朝六時過ぎ、博幸さんは元気に家を出る。電車で大手の蒲鉾(かまぼこ)工場に出勤。入社して二年、ほとんど休んだことがない。
 本紙配達員の高鍋さんは配達を終えて、出勤するわが子を見送る。「まさかあの子が働けるようになるなんて、まるで夢のようです!」
 明るいお母さんだ。二人の自閉症の子供を抱え、自分も働きながら、地区婦人部長、配達員として駆ける。そのパワーに驚く。
 子供が小さかったとき、周囲から「どうしてそんなに明るいの?」とよく言われた。「私もつらく、悲しいことの連続でした。でも、同志が、子供が、教えてくれたんです。無限の可能性を信じ、明るく生きていくことの大切さを」
 ――一九七六年(昭和五十一年)十一月、待望の長男が生まれた。一歳の時、川崎病に。生死をさまようわが子を救おうと、懸命に唱題を重ね、乗り越えた。
 その喜びもつかの間だった。わが子の様子がおかしい。視線が合わず、“多動”が目立ち始めた。一日中、家の中を歩き回る。
 自閉症だった。「知的障害があり、言葉も出るかどうか」。医師の言葉に、夢も希望も音を立てて崩れていくような気がした。
 だが、悲しむ余裕もなかった。マンションのベランダから下に物を落とす。マヨネーズや卵を畳にすりつける。「キーッ」と耳をつんざくような奇声。一日中、目が離せない。
 さらに追い打ちを掛けるように、博幸さんも自閉症と診断された。“一人でさえ大変なのに……”
 深夜、近隣に迷惑を掛けまいと、奇声を発する長男を背負って外に出たことは数え切れない。“このまま闇(やみ)のなかに消えてしまいたい……”。心は沈むばかりだった。
 そんな高鍋さんを同志は、温かく包んでくれた。「この子たちは、お母さんのもとを選んできたのよ。大切な宝の未来っ子のために、私たちも応援するわ。頑張って!」
 少しでも体を休めるようにと、数時間、子供を預かってくれた友。会合に行くと、わが子に声を掛けてくれる。「立派な人材に育つんだよ」。その真心に心を打たれた。
 夫の俊一さんも「帰宅するとき、マンションの下で階段を昇るのが嫌になったことが、何度もありました」と。そんなとき、いつも同志の励ましを思い出し、“よし、頑張ろう!”と奮起した。
 “少しでも症状が良くなれば”と、高鍋さんは障害児教育の幼稚園に通った。二人の子供を連れて、電車で通うのは大変なこと。長男は突然、走り出したり、奇声を発したり。二男はいつも大泣き。それでも強き母は、わが子の未来のために努力を惜しまなかった。
 小さな一歩が大きな喜び
 長男が幼稚園に通い始めて二年が過ぎたころ、高鍋さんは新たな不安に心を覆われた。妊娠していることが分かったのだ。
 “もしも三人目の子供も障害児だったら……”
 その不安を打ち破ったのは、俊一さんの言葉だった。「産もう。雄一も博幸も障害があるから不幸なんじゃない。大切なのは障害に負けないことだ。生まれてくる子も大事に育てよう」
 夫妻の懸命な祈りに包まれ、元気な男の子が誕生。三男の貴志さんは、二人の兄を優しく支える頼もしい存在になっていく。
 その三男誕生の直前、つらい別れがあった。重度の知的障害のために地元の小学校や養護学校に通えない雄一さんは入所施設に。入所の日、長男は高鍋さんの服をつかんで離さなかった。“離れたくないのね……”。自分が強くならなければ、と心に誓った。
 貴志さんの子育てが落ち着くと、高鍋さんは望んで配達員になった。“雄一も一人で頑張っている。私も新たな挑戦をして、一緒に成長しよう”と。
 「私が元気で明るいと、子供たちの反応も違うことに気付いたんです。そして、あの子たちの純粋な心が、感動と希望を与えてくれました」
 「パパ」「ママ」の言葉しか出なかった二男の博幸さんは、養護学校に入ってから、次第に言葉が出るようになった。一緒に御本尊の前に座ることを心がけてきた高鍋さんは、ある日、二男の声にハッと思った。「ナンミョウホウレンゲキョウ」。「はっきり聞こえたわよ!」。うれしくて、涙が止まらなかった。
 その後、数字や自分の名前を書けるように。五年生のときには、送迎のバスを降りて一人で帰ってくることができた。普通であれば小さな一歩かもしれないが、高鍋さんにとっては大きな喜びだった。
 養護学校創立十周年の記念誌に小学部を代表し、作文が掲載。中等部の入学式では新入生を代表してあいさつ。たどたどしい言葉だったが、立派なわが子の姿に夫妻は目頭を熱くした。
 「僕、仕事がしたい!」
 高鍋さんが常に心の励みとしてきた池田名誉会長のスピーチがある。「さまざまな苦難のときがあるだろう。しかし、そのときこそ、宿命を転換し、大功徳を受けるときと確信して、師子王のごとき信心を貫き通していただきたい」
 “宿命を使命に”と、ブロック担当員、地区担当員(現在の地区婦人部長)として、広布の最前線を駆けた。俊一さんは地区部長、支部長として活躍。夏休みや正月休みになると帰宅する長男の雄一さんを囲み、一家は笑顔でいろどられるようになった。
 博幸さんは養護学校中等部を卒業後、島原半島にあるコロニー(心身障害者などが社会生活を営み、治療・訓練・生産等の活動に励む施設)に入所。三年後には、施設の職員から、修了して能力開発センターに通うことを勧められた。そうなれば二年後には就職をしなければならない。状態が良くなったとはいえ、社会に出るには困難が多い。施設を修了すれば、二度と戻ることはできない。夫妻は迷った。
 だが、博幸さんの一言が決断させた。「僕、仕事がしたい! 家から通えるところで働きたい」と。わが子の思いを応援しようと、夫妻は「就職」を目標に祈った。
 そして、博幸さんはついに長崎市内の蒲鉾工場への就職を勝ち取った。給与面など、最高の条件だった。
 一昨年四月から博幸さんは働き始めた。「仕事の能力は低いのに、皆さんが“元気なあいさつが良い”って、ほめてくださって。優しい人たちに囲まれ、楽しく仕事に行っています」
 “最重度”の症状のため、施設の中にこもりがちだった雄一さんも、九六年四月、博幸さんが通った豊かな大自然に囲まれたコロニーに移ることができた。表情も「生き生きとしてきた」と喜ぶ夫妻。施設の育成会の役員も務めた。
 三男の貴志さんは、今春、高校を卒業して就職。
 「冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)――この御金言を胸に明るく、前向きに歩んできた高鍋さん。勝利の春は、幸せ満開だ。


ボランティアサークル「たんぽぽ会」会長

2006年10月04日 | 引きこもり
1999/05/28: ◆体験 ボランティアサークル「たんぽぽ会」会長 福岡 吉村由美子さん

 *輝きの人生/Victory of Life/紙芝居や絵本の読み聞かせ
をする「たんぽぽ会」の会長/子供たちよ、大きな夢を育んで!/児童養護施設
で育った少女時代/「大人への不信に心を覆われていた私が、創価家族に包まれ
、感謝の心を知った」/ボランティアの行動が地元紙等でも紹介
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 【福岡県大牟田(おおむた)市】家族の温かさ。親のぬくもり。子供の豊かな
心を育(はぐく)む上において、これほど大切なものはない。しかし、最近では
家庭のあり方を考えさせられる事件等が多いのも現実だ。吉村由美子さん(30)
=千代町支部、副ブロック担当員=は「子供たちに夢を育んでもらいたい」と
紙芝居や絵本の読み聞かせをするボランティアサークル「夢を育む たんぽぽ会
」の会長を務める。家庭の事情から児童養護施設で育ち、大切な時期を大人に対
する不信、孤独感に心を覆われて過ごした。そんな吉村さんが「創価家族の温か
さに包まれて」変わっていった。育った施設の“妹や弟たち”のために紙芝居等
を始めた吉村さんの“夢を育む”運動の輪は、地域に大きく広がっている。
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 *本当のやさしさに触れて
 「ここは、ほしのゆうえんちさ。あちこちのほしから、子どもたちがやってき
て、みんなでなかよく、あそんでいくんだよ。……」
 この日、吉村さんは「夢を育む たんぽぽ会」のメンバーとともに、
池田名誉会長の童話『ほしのゆうえんち』の手作りの紙芝居を披露した。子供た
ちの輝いた瞳(ひとみ)。“どんな物語だろう”と胸をわくわくさせている。ど
の顔もいい表情だ。
 「わあ、すごい。私もあの金の鶴に乗ってみたい」「僕はほしの観覧車がいい
な」。子供たちの心にいろんな夢が育まれていく。場面が変わると、子供の表情
も豊かに変化していった。
 物語が終わると大拍手。「みんな、楽しかった?」と吉村さんが声をかけると
「楽しかったよ!」の大合唱。吉村さんの顔もほころんだ。「子供たちの喜ぶ姿
を見ると、もっと頑張ろうと思うんです。子供は笑顔が一番。私の子供のころの
ように、悲しい思いをさせたくありませんから……」
 ――夫婦喧嘩(げんか)が絶えない家庭で育った。酒を飲んで暴れる父親を見
ながら、おびえる毎日。家を出た母親は病気でこの世を去り、その後、父親も
行方不明に。吉村さんは児童養護施設に預けられた。その時は「ほっとした」と
いう。しかし、幼い心は大人への不信に覆われていた。“大人はうそつきだ!
身勝手だ!”
 施設や小・中学校の先生にも反発。先生が右と言えば左を向く。髪の毛を染め
たり、施設を抜け出したり。「施設始まって以来の問題児って言われたほど。夢
も希望もなかった……」
 中学卒業と同時に施設を出て、滋賀県で就職。だが長続きせず、一カ月後には
大牟田に。そんな時に出会ったのが田代恵美子さん(42)=希望支部、
地区副婦人部長。学会員だった。
 それまでの生い立ちに親身になって耳を傾けてくれた。それでも最初は「どう
せ信用できない」と思ったという。だが、知り合った多くの同志は温かかった。
 子供のころから悩まされたてんかん発作を起こした時、すぐに駆け付けてくれ
た同志。「大丈夫?」と心配してくれた顔に“うそ”はなかった。「病気が良く
なるように」と祈ってくれる温かさを肌身に感じた。
 「私なんてどうなってもいい」と言った時には、「もっと自分を大切にして!
」と厳しく言ってくれた友の“本当のやさしさ”。「創価家族だから」「幸せに
なろうよ」との言葉に、吉村さんは一九八六年(昭和六十一年)に入会した。
 *“妹や弟たち”のために
 同志は母のように父のように、そして、姉妹のように接してくれた。ある先輩
は激励の手紙の最後にいつも「母より」と。その文字を見るたび涙があふれた。
 こんなこともあった。経済苦で着る服に困っていた時、婦人部の先輩が「着ら
れなくなった洋服だけど、もったいないからサイズが合えば着てみて」とそっと
手渡してくれた。
 聖教新聞やビデオで「子供に対しても一人の人格として接する池田先生の
素晴らしさに感銘しました」。先輩とともに学会活動に。気づくと十数年間も悩
まされてきたてんかん発作や吃音(きつおん)がなくなっていた。
 八七年には、田代さんの弟の吉村辰男さん(38)=男子地区副リーダー=と結婚
。義父・春雄さん(76)=壮年部員、義母・美波子さん(65)=地区副婦人部長=も
本当の娘のように接してくれた。それまで“独りぼっち”だっただけに、家庭を
もったことがうれしかった。
 そんな吉村さんが入会以来、祈ってきたことがある。それは育った施設の子供
たちのこと。親がいない、事情があって親と暮らせない“妹や弟たち”。みんな
精いっぱい生きていた。だが、一歩、社会に出れば厳しい現実が待っている。“
みんな、しっかりご飯を食べているかな”“あったかいふとんで寝ているかな…
…”
 吉村さんは「迷惑をかけたから」と足が遠のいていた施設を五年ぶりに訪ねて
みた。職員室の扉を開けると、皆が元気な姿を喜んでくれた。施設の創立者もや
さしく「由美子ちゃん、幸せかい?」と。「反発していたころには気づかなかっ
た先生方のやさしさを感じました。感謝しています」
 そして、五年前にはまだ幼かった子供たちも「由美子ねえちゃん!」と駆け寄
ってきた。その子供たちを抱きしめながら思った。“みんな、幸せになってほし
い。夢をもって自分の道を歩んでほしい”
 そこで始めたのが紙芝居だった。“夢と希望を贈ってくださる池田先生の童話
を通して、みんなに豊かな心を育んでもらいたい”と最初に選んだのは『ほしの
ゆうえんち』。“施設への恩返し”の思いも込め、毎年、紙芝居等を続けた。
 そんな吉村さんを友は温かく応援してくれた。「個人的に吉村さんの妹や弟に
プレゼント」とたくさんのアイスクリームを贈ってくれたり。うれしかった。
 *輝く瞳、喜ぶ姿が活力
 そんな吉村さんに試練が訪れる。九二年、生まれたばかりの長男・明良君(6つ)
が原因不明の発熱。脳しゅようの疑いもあり、何度も検査入院をした。更に夫の
辰男さんも自律神経失調症に。
 同志の励ましの中、吉村さんは懸命に祈った。「ただ楽しいだけが家族ではな
い。苦しい時に団結し、打開していく。それが家族だということを知りました」
 最初は仕事に出られない夫につらく当たっていた吉村さんも「心配しないで。
必ず良くなるから」と。“一家の太陽”へと成長していった。「懸命に唱題を重
ねるなかで、恨んできた父親にも感謝できるようになりました。両親に私を産ん
でくれてありがとうと思えるように……」
 二年後、辰男さんは病気を乗り越え、明良君も「異常なし」と。吉村さんはそ
の経験を通して思った。病気等でつらい思いをしている子供もいる。もっと多く
の子供たちの力になれれば。
 「地域のため、人のために」との学会指導を胸に一昨年、ヤング・ミセスの
先輩の協力で始めた運動。友人も交え、子供が通う保育園や病院に入院している
子供たちに手作りの紙芝居や絵本の読み聞かせをした。
 ある知的障害児の施設にも行った。自閉症やダウン症の子供たちが紙芝居を
静かに聞くことができるか、職員も心配した。しかし、紙芝居が始まると、それ
まではしゃいでいた子供たちが瞳を輝かせた。
 紙芝居が終わると子供たちはメンバーの周りを囲み、ニコッと笑顔を見せて手
を差し出した。その小さな手を握り、笑顔を返す吉村さん。“心は通じるんだ”
。また一つ、子供たちから大切なことを学んだ。
 老人ホームでも手遊びや演奏などを交えて楽しい交流。更に交通安全のための
紙芝居や環境問題をテーマにした紙芝居など、幅広く手がけ、その活躍は地元紙
にも紹介されるほど。感謝の手紙も寄せられている。
 育った施設の施設長も「吉村さんが施設の子供たちを妹や弟のように大切にし
、紙芝居などを披露してくれた時は心からうれしく思いました。子供たちも
毎回楽しみにしており、『おもしろかった』『また来てね』と喜んでいます。こ
のような行動を『もっと多くの子供たちのためにも』と提案をさせていただいた
のですが、現在、幼稚園や病院などで広く活動されており、私も喜んでいます」
と。
 「今月からは子供たちと公園の清掃ボランティアをしながら、その公園で
紙芝居を始めたんです。人のため、地域のために行動する心も育んでほしいと思
って」。吉村さんの尊い行動は、子供たちの夢とともにこれからも大きく広がっ
ていくことだろう。
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 「みんな、楽しい?」「はーい!」――吉村さん(右端)や「たんぽぽ会」の
メンバーが披露する紙芝居に子供たちも大喜び
 昨年11月には次男の英男ちゃんが誕生。夫の辰男さん(後方(左))と長男の
明良君(同(右))も病気を乗り越え、幸せいっぱいの吉村さん一家



知的障害、不登校児施設で教える書道講師

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1999/04/30: ◆体験 知的障害、不登校児施設で教える書道講師 千葉 川邊宣子さん

 *自分らしく表現してみよう!/知的障害、不登校児施設で教える書道講師
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 【千葉市稲毛区】彼らの作品を見て涙した人もいた。子供らしい素直な字には
「ぼくたちは頑張っているよ」とのメッセージが伝わってくる。
 知的障害、自閉症、不登校の子供たちが書道、絵画、陶芸などを通して自らを
表現していく創作の場「スペース海」。
 川邊宣子さん(55)=宮野木支部、支部副婦人部長=は、皆の個性のつぼみを
開花させる書道の先生だ。
 「墨を飲んだり、筆をなめたり、子供たちのパワーに圧倒されます」と語るよ
うに教室の中は修羅場。
 しかし、子供たちの秘められた創造力が爆発したその部屋には、生き生きとし
た空気が流れている。
 “川邊先生”は四十五年の書道歴の持ち主。長年磨き続けた腕で、地域の
書道教室を開いていたある時、信心の転機があった。
 建設会社に勤める夫が、仕事に行き詰まり、発心。「得意の習字で広布のお役
に立てればと、会合の垂れ幕等を喜んで書かせていただきました」と。
 積極的に学会活動に参加する中で、夫の仕事は好転。信仰の力を実感すること
ができた。
 更に、四年前には車を運転中に正面衝突の大事故を起こしてしまった。膝(
ひざ)、足首、くるぶしを骨折。肋骨(ろっこつ)は六本折れる重症。
 しかし書道家にとって大切な腕や指は奇跡的に無傷だった。医者は「生涯、
正座は無理です」と断言。しかし、川邊さんは負けなかった。ベッドの上での
必死の唱題で正座ができるまで回復し、退院。
 この時につかんだ信心の確信と献身的に尽くす同志の姿に感銘。書道を通して
人に尽くす生き方をしたいと祈るなか、二年半前にこの「スペース海」の書道の
講師の話が。
 子供たちの自由な表現力、可能性を引き出す書道をと決意。
 「個性を大切にし、素直に表現するように教えています」と、どんな子供にも
“らしさ”を見いだしていく川邊さん。大人の字にはない無欲さ、無作為さが、
光り輝いていると感動する。
 現在は、六十五歳以上のお年寄りの書道教室「さわやかクラブ」等、四教室の
講師も務め、逆に教わることが多い毎日だとか。
 四年前にかかったリウマチも克服し、常に自己との闘いに挑む川邊さんは、
春風のような優しさで生徒たちを包み込む。
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 自由闊達(かったつ)な雰囲気の中で、個性ある字を引き出していく川邊さん


自閉症の長男と共戦 障害福祉ネットワーク代表

2006年10月04日 | 自閉症・障害
1998/10/07: ◆体験 自閉症の長男と共戦 障害福祉ネットワーク代表 徳島 堀田正文さん

 *知的障害者に生きる希望と勇気を!/「徳島しょうがい
福祉ネットワーク研究会」代表として活躍/自閉症の長男とともに自立への道歩

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 【徳島市】九月三十日から三日間、徳島市で知的障害関係施設の職員による
研究大会が開かれた。同大会にはパネリストの一人として、「徳島しょうがい
福祉ネットワーク研究会」の代表を務める堀田正文さん(53)=一宮支部、
地区部長=も登場。自らの体験を踏まえながら、知的障害者のサポートと
福祉施設の充実等を強く訴えた。
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 身障者の人権が叫ばれて久しいが、知的障害者の福祉施設は、いまだに社会か
ら閉ざされているとの声が多い。そうした現状を打ち破るために、各地で
知的障害者の人権を守る運動が地道に進められている。
 堀田さんもその一人である。
 折しも九月三十日から三日間にわたって、地元・徳島で「
第三十六回全国知的障害関係施設職員研究大会」が開かれた。全国各地からの
参加者は約三千人。知的障害者をいかにサポートしていくかをさまざまな面から
論じた。
 堀田さんは大会の二日目、「利用者の人権と援助者の業務―暮らしの中で考え
る」をテーマにした、第二分科会のシンポジウムの席上、パネリストとして自身
の体験と活動状況を報告した。
 「知的な障害をもつ人たちは対話が困難ですが、一人の人間として、当たり前
に生活していくためには、どのような支援が必要なのか。私たちは、これからも
試行錯誤を繰り返しながら、子供の反応を確かめつつ、親として真剣に考え、こ
の運動を進めていきたいと思っています」と語る堀田さん。その積極的な
取り組みが参加者の共感を呼んだ。
 「閉ざされた知的障害者の社会をオープンにしたこと自体、勇気ある発言でし
た」「人権をテーマに真正面から諸問題に取り組んだ内容が良かった」等の声が
、報道関係者、施設職員から寄せられた。
 堀田さんは「徳島しょうがい福祉ネットワーク研究会」の代表を務める。
本年四月末に発足した同会では、障害者が抱える悩みや問題を吸い上げ、改善へ
向けて一つ一つ取り組んでいる。その模様は、地元紙やテレビでも度々紹介され
、市民の関心も高まりつつある。
 来月中旬には、初の中間報告会を開催するが、「まだまだ闘いはこれからです
」。
  ◇      ◇
 振り返れば、同会の発足までは、長い道程だった。
 長男の然(ぜん)さん(25)が、一歳八カ月の時、いつまでたっても視線を合わ
せようとしないのを不思議に思った堀田さんは、児童相談所に相談。病院での
検査で自閉症と診断された。“なぜ、うちの子が!”。突然のことに、驚きと
ショックを隠しきれなかった。
 「正直言って自閉症がどんな病気で、親としてどうすればいいのか見当もつか
なかったんです」
 然さんが成長するにつれて、親子でぶつかる問題も大きくなっていった。こう
して、同じ悩みをもつ、知的障害者親の会「徳島県手をつなぐ育成会」に入会。
障害者の人権無視や自立への道に立ちはだかる問題を知り、人権への関心を募ら
せた。
 「息子がいなかったら、考えもしなかったことでしょう。息子は私に多くのこ
とを教えてくれました」。さらに「息子には自分よりももっといい生き方をして
ほしい。障害者としてではなく、一人の人間として」――。
 そんな自閉症の子供をもつ親として当たり前の願いが、同会発足への原動力に
なった。
 二年前からは、然さんが入園している知的障害者更生施設の保護者会会長を。
 「障害者が同じ人間として学校や職場、施設で大切にされているか、個人とし
て尊重されているか、活動を通じて考えたい。少しのケアがあれば生活ができる
んです。理屈じゃない。心が大切なんです」と力説する。
 思えば、高校卒業後、故郷の広島を離れ、大阪で紳士服の縫製業に従事。
 そして、二十七年前に妻の恵美子さん(49)=地区副婦人部長=の郷里・徳島へ
。二十六歳の若さで、紳士服の縫製工場を設立。五十人の従業員を雇うまでに
発展し、営業への進出を考え新たに店舗も開いた。
 しかし、一九七三年(昭和四十八年)、第一次オイルショックの波を受け、
店舗を閉鎖。多額の借金を抱えた。その間、然さんが誕生。思わぬ宿命との闘い
が始まった。
 それまでは仕事一筋だった堀田さんだが、精神的、経済的に行き詰まってしま
った。そんなとき、「宿命転換するには、この信心しかない」との学会員の確信
あふれる言葉に接し、七九年二月、入会したのだった。
 以来、“この宿命を必ず乗り越えよう”とくる日もくる日も真剣な勤行・唱題
に挑戦。無我夢中で仕事に、活動に励んだ。
 それから六年後。八五年四月に開催された「第一回徳島青年平和文化祭」の
出演者用衣装の裁断・縫製の依頼が。“広布のために少しでもお役に立てるのな
ら”と快く引き受けた。不眠不休の毎日だったが、かえって楽しいくらいだった
、と言う。
 池田名誉会長を迎えて、盛大に行われた文化祭では、演目“歓喜のかけ橋”に
出場。阿波踊りを乱舞し、忘れ得ぬ金の思い出を刻んだ。
 学会のなかで、何があっても負けない希望をもつ人生観を学んだ堀田さん。
再起を願い、取り扱い商品も紳士服から専門店用の婦人服に切り替えた。同年の
五月には、売り上げが倍増。
 翌八六年には、念願だった自宅を新築。増築後には支部・地区の会場に提供で
き、喜びもひとしお。
 今では、妻の恵美子さんとともに二つの縫製工場をもつまでに。不況に負けず
、経営は軌道に乗っている。「自閉症の息子は、私たち夫婦にとっては人間とし
ての姿を教えてくれた“宝物”の存在なんです。同じ障害をもつ子の親や家族と
手をつなぎ、助け合っているのも息子あればこそです」「学会と息子に支えられ
、心を磨くことができました。勇気と元気を与えてくれた日々は何物にもかえが
たい財産となっています」とキッパリ。「同じ境遇のなかで奮闘する人々を
励まし、ともに成長していきたい」と意欲を燃やす。
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 ネットワーク研究会のメンバーと懇談する堀田さん(中)。なごやかななかにも
真剣な語らいがはずむ
 知的障害者の人権を守ろうと訴える堀田さん