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◆体験談◆

◆体験談◆

ボランティアサークル「たんぽぽ会」会長

2006年10月04日 | 引きこもり
1999/05/28: ◆体験 ボランティアサークル「たんぽぽ会」会長 福岡 吉村由美子さん

 *輝きの人生/Victory of Life/紙芝居や絵本の読み聞かせ
をする「たんぽぽ会」の会長/子供たちよ、大きな夢を育んで!/児童養護施設
で育った少女時代/「大人への不信に心を覆われていた私が、創価家族に包まれ
、感謝の心を知った」/ボランティアの行動が地元紙等でも紹介
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 【福岡県大牟田(おおむた)市】家族の温かさ。親のぬくもり。子供の豊かな
心を育(はぐく)む上において、これほど大切なものはない。しかし、最近では
家庭のあり方を考えさせられる事件等が多いのも現実だ。吉村由美子さん(30)
=千代町支部、副ブロック担当員=は「子供たちに夢を育んでもらいたい」と
紙芝居や絵本の読み聞かせをするボランティアサークル「夢を育む たんぽぽ会
」の会長を務める。家庭の事情から児童養護施設で育ち、大切な時期を大人に対
する不信、孤独感に心を覆われて過ごした。そんな吉村さんが「創価家族の温か
さに包まれて」変わっていった。育った施設の“妹や弟たち”のために紙芝居等
を始めた吉村さんの“夢を育む”運動の輪は、地域に大きく広がっている。
 ###   ###
 *本当のやさしさに触れて
 「ここは、ほしのゆうえんちさ。あちこちのほしから、子どもたちがやってき
て、みんなでなかよく、あそんでいくんだよ。……」
 この日、吉村さんは「夢を育む たんぽぽ会」のメンバーとともに、
池田名誉会長の童話『ほしのゆうえんち』の手作りの紙芝居を披露した。子供た
ちの輝いた瞳(ひとみ)。“どんな物語だろう”と胸をわくわくさせている。ど
の顔もいい表情だ。
 「わあ、すごい。私もあの金の鶴に乗ってみたい」「僕はほしの観覧車がいい
な」。子供たちの心にいろんな夢が育まれていく。場面が変わると、子供の表情
も豊かに変化していった。
 物語が終わると大拍手。「みんな、楽しかった?」と吉村さんが声をかけると
「楽しかったよ!」の大合唱。吉村さんの顔もほころんだ。「子供たちの喜ぶ姿
を見ると、もっと頑張ろうと思うんです。子供は笑顔が一番。私の子供のころの
ように、悲しい思いをさせたくありませんから……」
 ――夫婦喧嘩(げんか)が絶えない家庭で育った。酒を飲んで暴れる父親を見
ながら、おびえる毎日。家を出た母親は病気でこの世を去り、その後、父親も
行方不明に。吉村さんは児童養護施設に預けられた。その時は「ほっとした」と
いう。しかし、幼い心は大人への不信に覆われていた。“大人はうそつきだ!
身勝手だ!”
 施設や小・中学校の先生にも反発。先生が右と言えば左を向く。髪の毛を染め
たり、施設を抜け出したり。「施設始まって以来の問題児って言われたほど。夢
も希望もなかった……」
 中学卒業と同時に施設を出て、滋賀県で就職。だが長続きせず、一カ月後には
大牟田に。そんな時に出会ったのが田代恵美子さん(42)=希望支部、
地区副婦人部長。学会員だった。
 それまでの生い立ちに親身になって耳を傾けてくれた。それでも最初は「どう
せ信用できない」と思ったという。だが、知り合った多くの同志は温かかった。
 子供のころから悩まされたてんかん発作を起こした時、すぐに駆け付けてくれ
た同志。「大丈夫?」と心配してくれた顔に“うそ”はなかった。「病気が良く
なるように」と祈ってくれる温かさを肌身に感じた。
 「私なんてどうなってもいい」と言った時には、「もっと自分を大切にして!
」と厳しく言ってくれた友の“本当のやさしさ”。「創価家族だから」「幸せに
なろうよ」との言葉に、吉村さんは一九八六年(昭和六十一年)に入会した。
 *“妹や弟たち”のために
 同志は母のように父のように、そして、姉妹のように接してくれた。ある先輩
は激励の手紙の最後にいつも「母より」と。その文字を見るたび涙があふれた。
 こんなこともあった。経済苦で着る服に困っていた時、婦人部の先輩が「着ら
れなくなった洋服だけど、もったいないからサイズが合えば着てみて」とそっと
手渡してくれた。
 聖教新聞やビデオで「子供に対しても一人の人格として接する池田先生の
素晴らしさに感銘しました」。先輩とともに学会活動に。気づくと十数年間も悩
まされてきたてんかん発作や吃音(きつおん)がなくなっていた。
 八七年には、田代さんの弟の吉村辰男さん(38)=男子地区副リーダー=と結婚
。義父・春雄さん(76)=壮年部員、義母・美波子さん(65)=地区副婦人部長=も
本当の娘のように接してくれた。それまで“独りぼっち”だっただけに、家庭を
もったことがうれしかった。
 そんな吉村さんが入会以来、祈ってきたことがある。それは育った施設の子供
たちのこと。親がいない、事情があって親と暮らせない“妹や弟たち”。みんな
精いっぱい生きていた。だが、一歩、社会に出れば厳しい現実が待っている。“
みんな、しっかりご飯を食べているかな”“あったかいふとんで寝ているかな…
…”
 吉村さんは「迷惑をかけたから」と足が遠のいていた施設を五年ぶりに訪ねて
みた。職員室の扉を開けると、皆が元気な姿を喜んでくれた。施設の創立者もや
さしく「由美子ちゃん、幸せかい?」と。「反発していたころには気づかなかっ
た先生方のやさしさを感じました。感謝しています」
 そして、五年前にはまだ幼かった子供たちも「由美子ねえちゃん!」と駆け寄
ってきた。その子供たちを抱きしめながら思った。“みんな、幸せになってほし
い。夢をもって自分の道を歩んでほしい”
 そこで始めたのが紙芝居だった。“夢と希望を贈ってくださる池田先生の童話
を通して、みんなに豊かな心を育んでもらいたい”と最初に選んだのは『ほしの
ゆうえんち』。“施設への恩返し”の思いも込め、毎年、紙芝居等を続けた。
 そんな吉村さんを友は温かく応援してくれた。「個人的に吉村さんの妹や弟に
プレゼント」とたくさんのアイスクリームを贈ってくれたり。うれしかった。
 *輝く瞳、喜ぶ姿が活力
 そんな吉村さんに試練が訪れる。九二年、生まれたばかりの長男・明良君(6つ)
が原因不明の発熱。脳しゅようの疑いもあり、何度も検査入院をした。更に夫の
辰男さんも自律神経失調症に。
 同志の励ましの中、吉村さんは懸命に祈った。「ただ楽しいだけが家族ではな
い。苦しい時に団結し、打開していく。それが家族だということを知りました」
 最初は仕事に出られない夫につらく当たっていた吉村さんも「心配しないで。
必ず良くなるから」と。“一家の太陽”へと成長していった。「懸命に唱題を重
ねるなかで、恨んできた父親にも感謝できるようになりました。両親に私を産ん
でくれてありがとうと思えるように……」
 二年後、辰男さんは病気を乗り越え、明良君も「異常なし」と。吉村さんはそ
の経験を通して思った。病気等でつらい思いをしている子供もいる。もっと多く
の子供たちの力になれれば。
 「地域のため、人のために」との学会指導を胸に一昨年、ヤング・ミセスの
先輩の協力で始めた運動。友人も交え、子供が通う保育園や病院に入院している
子供たちに手作りの紙芝居や絵本の読み聞かせをした。
 ある知的障害児の施設にも行った。自閉症やダウン症の子供たちが紙芝居を
静かに聞くことができるか、職員も心配した。しかし、紙芝居が始まると、それ
まではしゃいでいた子供たちが瞳を輝かせた。
 紙芝居が終わると子供たちはメンバーの周りを囲み、ニコッと笑顔を見せて手
を差し出した。その小さな手を握り、笑顔を返す吉村さん。“心は通じるんだ”
。また一つ、子供たちから大切なことを学んだ。
 老人ホームでも手遊びや演奏などを交えて楽しい交流。更に交通安全のための
紙芝居や環境問題をテーマにした紙芝居など、幅広く手がけ、その活躍は地元紙
にも紹介されるほど。感謝の手紙も寄せられている。
 育った施設の施設長も「吉村さんが施設の子供たちを妹や弟のように大切にし
、紙芝居などを披露してくれた時は心からうれしく思いました。子供たちも
毎回楽しみにしており、『おもしろかった』『また来てね』と喜んでいます。こ
のような行動を『もっと多くの子供たちのためにも』と提案をさせていただいた
のですが、現在、幼稚園や病院などで広く活動されており、私も喜んでいます」
と。
 「今月からは子供たちと公園の清掃ボランティアをしながら、その公園で
紙芝居を始めたんです。人のため、地域のために行動する心も育んでほしいと思
って」。吉村さんの尊い行動は、子供たちの夢とともにこれからも大きく広がっ
ていくことだろう。
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 「みんな、楽しい?」「はーい!」――吉村さん(右端)や「たんぽぽ会」の
メンバーが披露する紙芝居に子供たちも大喜び
 昨年11月には次男の英男ちゃんが誕生。夫の辰男さん(後方(左))と長男の
明良君(同(右))も病気を乗り越え、幸せいっぱいの吉村さん一家



引きこもりへの対応

2006年10月04日 | 引きこもり
2003/01/15: ◆こころ 引きこもりへの対応 東筑紫短期大学助教授 中島俊介さん

基本は「当人の身になって考える」
 高校や大学から社会への移行期や、社会でのちょっとしたトラブルをきっかけに、家族以外とは人間関係を持ちたがらず、家の中に引きこもる若い人が増えています。今回は、「引きこもりへの対応」をめぐって、東筑紫短期大学助教授(臨床心理士)の中島俊介さんに聞きました。

●心の安定をはかろうとしている
 ――引きこもりの若者たちは80万とも、100万とも言われていますが。
  
 □…実数は正確には分かりませんが相当になると考えられます。
 精神科医の斎藤環氏は、「引きこもり」の定義として、精神病ではなく、6カ月以上、社会参加をしていないことなどを挙げています。一人で買い物に行くことはあっても、家族以外の人と親しい人間関係を持っていないという特徴があります。
  
 ――ちょっとしたことにでも心が傷つきやすい人も多いと思いますが。
  
 □…引きこもりは、学生から社会人になる時、「落差」の大きさへの戸惑いなどがきっかけになりますが、引きこもる人の特徴には、幼児期や思春期に心の傷が残るような体験があったこと。また、直面した出来事に感じやすいパーソナリティー(性格)であるということ。そして、心に傷を受けるような出来事が起きた時に、家族や友人、周囲の人(地域の人、学校の先生など)の情緒的なサポート(支え)に恵まれなかったことなどが挙げられます。
 カウンセラーの渡辺健氏は、そういう人は「これから、自分はどうなるのだろう」という「不安」や、「自分の気持ちを分かってくれない」「自分のことに気づいてくれない」という「怒り」、家にいて「働かないので申し訳ない、済まない」という「罪悪感」があるとしています。
  
 ――不安などは大きいでしょうね。
  
 □…不安だけではありません。「ほかの人は就職しているのに、自分はしていない」という「置き去り感」や、自分の問題を、第三者(カウンセラーなど)に預けられることから、「見捨てられ感」も出てきます。
 また、引きこもりの現状を変えたくないあまりに頑なになったり、バランスのとれた人間関係に慣れていないことから、周囲との違和感を覚えたりしていると考えられます。
 また、引きこもりは、「防衛機制」(心の安定をはかるための無意識の働き)の一つです。引きこもることで自分を守ろうとしています。
 そのことを理解しないで、「甘えている!」などと怒鳴ったりすると、かえって長引いてしまう場合もあります。

●生きるうえでの「免疫」が少ない
 ――引きこもりの背景にはどのようなことが考えられますか。
  
 □…社会的には、学校教育のあり方などさまざまあると思いますが、引きこもる本人には、生きるうえでの「免疫」が少ないことがあります。
 引きこもりの若者は真面目な人が多く、物事を正論で考える傾向があります。しかし、実際の世の中は道理に合わないことがたくさんあります。周囲の人も、自分の意見を聞き入れてくれる人ばかりではありません。「世の中は思い通りにならないことがたくさんある」ということが身についていない。
 また、「上手な失敗体験が少ない」ことも挙げられると思います。
 日本の社会は完璧さを求めるあまり、失敗を非難する傾向があります。
 アメリカで試合をしてきた元日本のバレーボール選手は、「アメリカでは失敗したら、『ナイス・トライ!』と言う」と語っていました。
  
 ――日本なら、「何をやっているんだ!」と叱咤が飛ぶ……。
  
 □…ある大手企業に勤めた人が、上司から「100%できて当たり前なんだ!」と言われたそうです。仕事のプロとしては必要でしょうが、心の発達から考えれば、失敗することが「免疫」をつけることになります。
 日本では、親は、わが子が失敗しないようにさまざまな工夫をします。愛情だと思ってやることが、かえってわが子の自立を妨げてしまう結果になってしまうのです。
 完璧さを求める「文化」の中で、幼児期や思春期の数少ない「失敗体験」を引きずってしまう人は「自己価値」が低くなり、それがまた自立の芽を摘む。
  
 ――自己評価を上げることが必要ですね。
  
 □…心の発達のうえで言えば、子どもが転んでも自分で起きるまで待つことや「貢献力」を認めてあげることです。
 子どもが運動会の徒競走で1位になったとします。「○○ちゃんは、足が速いね」と言うよりも、「○○ちゃんが1位になったので○組が勝ったんでしょう。よかったね」と「お役に立ててよかったね」と「貢献力」を認めていくようにする。
 走るのが速いことだけに注目すると、もっと速い人が出てきた場合、勝てないのは恥ずかしいからと走らなくなるからです。
 今、ボランティア活動が注目されていますが、世の中の役に立つということ――人に貢献できる喜びが、若者の健全な心の発達を促し、社会で生き抜く力の基礎になっていくのだと思います。

●父親の挫けない生き方が解決の力に
 ――家族の対応は?
  
 □…基本は、「その人の身になって考える」ことです。そのうえに立って、「話に耳を傾ける」「関心を示す」「安心感を与える」ことなどが大切です。
 そして、「情緒的なサポート」も必要です。本人は「見捨てられ感」などがあるわけですから、「絶対に、あなたを見捨てない!」という気持ちを伝え続けていくことです。
 また、「早く働いたほうがいい」などと社会参加を強いる発言は差し控えることです。それよりも、わが子を「友達」の輪に入れるようにしていくことです。
  
 ――友達の存在が大切ですね。
  
 □…その通りです。今、「メンタルフレンド(心の友)」の存在が注目されています。
 これは高校生や大学生なら、年齢がちょっと上ぐらいの同性。トランプで遊んだり、料理を作るなど、「一緒に行動する人」です。引きこもりの人がほしいのは専門家ではなく、友達です。一緒に笑ったり話したり、物を作ったり遊んだりする仲間を求めています。
  
 ――運動も効果があると言う人もいますが。
  
 □…一緒にスポーツに励み、汗をかくことが心の力の回復に効果があることはよく知られています。ダンスや武道、キャッチボールや卓球など、相手とやりとりする運動がいいと思います。
 スポーツでなくても、トランプなどの対話のある「やりとり遊び」もいいでしょう。
  
 ――親自身の生き方を見直す必要があるという識者もいます。
  
 □…今、私たちは社会の悪い面を強調する報道の中で暮らしています。
 そのうえ、親が疲れた表情で、「世の中は、嫌なことばかりだ」と言っていては、社会に出て行きたがらないでしょう。
 むしろ、「世の中は、大変だけれど、面白い!」と、生き生きと語っていけば、若者たちは変わっていくと思います。
 まして、引きこもる若者の7~8割が男ですから、父親の困難に挫けない生き方や地域の仲間との交流の姿が解決への大きな力になることは間違いありません。
 そして、何があっても「大丈夫」と言ってあげてください。愛情にあふれた親の明るい声が続く限り、必ず、引きこもりは解決すると思います。
 なかしま・しゅんすけ
 1950年、佐賀県生まれ。北九州市立大学卒業。兵庫教育大学大学院修了。臨床心理士。学校心理士。著書に『心と健康』(ナカニシヤ出版)『こころと人間』(同)がある。


自閉権の尊重 人間にはいろいろな有り様がある

2006年10月04日 | 引きこもり
2002/11/20: ◆ふれあい 診察室から 自閉権の尊重 人間にはいろいろな有り様がある


 痴呆症の老母と二人で暮らしている患者さん。若いころに何度か入退院を繰り返したが、この20年以上は病状も安定し、ひとりで母親の面倒をみていた。
 ところが、最近になって、母親の身体的衰弱が進行したので、ヘルパーによる訪問介護が始まった。訪問初日から、ヘルパーにとっては驚きの連続であった。
       ◇
 彼の家の雨戸は一年中閉め切られ、窓という窓は厚紙で目隠しをされていたのである。まるで外界の視線を避けるかのように。
 また、部屋の中はきちんと整理整頓されているものの、ある1室は、10年分以上はあろうかと思われる古新聞で占拠されていた。さらに、通院する時以外はほとんど外出しておらず、1日2回の食事はすべて宅配ものでまかなわれていた。
 仕事熱心なヘルパーは、「窓に張り付けてある厚紙の除去」「せめて日中だけでも雨戸を開けること」「毎日1度は散歩すること」などを彼にアドバイスした。
 それから約1カ月後、彼の病状は20数年ぶりに悪化した。おそらくは、老母と二人の自閉的空間で保たれていた心のバランスが、他者の介入によって崩れてしまったものと思われる。
       ◇
 精神障害者に対する社会復帰プログラムの目的は、障害者の生活を健常人のそれに近づけることである。
 けれども、人間にはさまざまな有り様があるのだから、そのことが患者に苦痛を強いる結果をもたらすこともある。
 専門家の間で「自閉権の尊重」が叫ばれる所以である。「自閉」というあり方も、その人自身にとっては生きていくための“権利”の表れである。病の回復のため、社会と隔絶して引きこもることを勧めるのであるから、なかなか理解を得ずらいのが難点ではあるが。(英)

「引きこもり」への取り組み

2006年10月04日 | 引きこもり
2000/03/29: ◆こころ 「引きこもり」への取り組み 安倍クリニック院長 安倍英一郎さん

 思うようにならない事柄や対人関係のストレスから、自宅に「引きこもる」若者が増えていると言われます。中には、一年以上ほとんど外出していない人もいます。こうした若者の引きこもりに対して、特に、家族や周囲の人はどのように接していったらいいのでしょうか。今回は、若者の「引きこもり」への取り組みをめぐって、安倍クリニック院長・安倍英一郎さん(精神科医)に聞きました。
 ●「回避性人格障害」に当てはまる人が多い
  
 ―最近、「引きこもり」の若者が多いと指摘されています。
  
 □…私も、そのことは感じています。中には、一年以上、外出していない例もあります。本人は「そっとしておいてほしい」という気持ちがあります。家族も時間がたてば解決すると思っていますが、三カ月も過ぎると心配のあまりに、あわてて医療機関に相談に行くというケースも多いですね。
  
 ―家族は「心の病(やまい)」ではないかと心配して。
  
 □…分裂病のため「引きこもる」例がありますが、この場合、薬物による治療が基本です。今、増えている「引きこもり」は、ほとんどの場合、「クスリの効く病」ではありません。よって、すぐに解決するような「処方箋(せん)」はありません。
 ただ、「引きこもり」は狭義の(従来の意味での)病ではありませんが、「回避性人格障害」の特徴に当てはまる人が多いという感じがします。
  
 ―狭義の病ではないけれど、「回避性人格障害」に当てはまる人が多いと。
  
 □…そうです。「回避性人格障害」は、「DSM―IV」(米国精神医学会の精神疾患の分類と診断の手引)によると、十種の人格障害(妄想性・分裂病質・分裂病型・反社会性・境界性・演技性・自己愛性・回避性・依存性・強迫性)の一つで、「社会的制止、不適切感、および否定的評価に対する過敏性の広範な様式で、成人期早期に始まる」とされます。その特徴は七つあります。
  
 ―その七つとは。
  
 □…長くなりますが、全部挙げてみます。
 (1)批判、否認、または拒絶に対する恐怖のため、重要な対人接触のある職業的活動を避ける(2)好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたいと思わない(3)恥をかかされること、またはばかにされることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す(4)社会的な状況では、批判されること、または拒絶されることに心がとらわれている(5)不適切感のために、新しい対人関係状況で制止が起こる(6)自分は社会的に不適切である、人間として長所がない、またはほかの人より劣っていると思っている(7)恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動に取りかかることに、異常なほど引っ込み思案である――以上の七つです。
 こうした特徴から浮かび上がるのは、自信の持てないことや面倒なことは「回避する」という心理です。それは「心が成熟していない」からではないかと考えられます。

 ●子供の言いなりにならない注意を
  
 ―「避ける」のは、心が成熟していないから……。
  
 □…心が成熟していない背景には、さまざま考えられます。
 親子関係からみれば、親が、子供が「失敗しないように」「けがをしないように」育てている――愛情から出ていることですが、そういう親の行動が、子供の心の成長を遅らせているという一面もあります。
 人間は、「失敗したり」「傷ついたり」――そういう体験を繰り返していくなかで、心は強くなり、人格も豊かに育っていくと思います。
  
 ―「失敗」が心の成長をうながすわけですね。
  
 □…ええ。精神分析学では、人間は幼少期は「万能感」に浸(ひた)って生きていると考えます。
 幼少期は、そういう期間が必要なのですが、成長するにしたがって、さまざまな「障害」にあって万能感がしぼんでいく。この、万能感がしぼむことが大人への成長過程に必要なのです。つまり、「競争」「障害」「鍛錬」など、本人にとって超えがたいことにぶつかる体験を繰り返すことで心の成長、人格の成熟がはかられていくわけです。
 また、社会的には、「モノが豊かになったこと」「働かなくても生活していけること」などが挙げられます。
 引きこもっていても、家族が食べさせてくれる。温かく見守ってくれる。働かなくても十分に生きていける。面倒な対人関係に煩わされることもありません。食べていける限り、「引きこもり」はなかなか解決しないともいえます……。どうやら、「引きこもり」は“先進国”にしか見られない現象のようです。
  
 ―親が、「引きこもり」に対する取り組みで心掛けることは。
  
 □…いくつか挙げると、第一には、「解決には時間がかかる」ということを自覚することです。「早期解決」はありえないと思ってください。
 第二には、「コミュニケーションを回復すること」です。言葉をかけて返事をしないことがあっても、粘り強く言葉かけをしてください。三カ月間、まったく返事がなかったのに、四カ月目に返事があったというケースもありますから。
 中には、コミュニケーションが回復すると、「あの時、○○してくれなかった」など、十数年前のことを、あたかも昨日あったかのように親に苦情を言う人がいます。一応、それを聞きながら、その言葉に心を動かされ、子供の言いなり(例えば、高価な物を親に買わせたりする)にならないようにしてください。

 ●「第三者」の力を借りることも大切
  
 ―そのほかには。
  
 □…第三には、「自尊心を傷つけないようにすること」です。
 例えば、同年代の知人を例に挙げ、「○○さんは○○の仕事をした」「○○さんは、結婚して家庭をもった」など、ほかの人と比較しないようにする。
 第四には、もし、引きこもりから家庭内暴力が起きた場合には、まず逃げることが賢明です。親が逃げてしまったことが、治療のきっかけになったケースもあります。
 第五には、自分だけが悩まないで、信頼できる人や専門の医療機関に相談することが大切です(もし、引きこもりが三カ月を超したら、専門機関を訪ねたほうがいいと思います)。
  
 ―「ほかの人に知られたくない」という気持ちもあると思いますが。
  
 □…その気持ちは分かりますが、家族だけで悩んでいると行き詰まってきます。むしろ、「第三者」の力を借りることで、親自身も、大きな視点で問題を考えられるようになります。ともかく、家族だけで悩まないようにすることです。
 医師と緊密な連携をとりながら問題に対処している方の場合、注意しなければならないことは、子供がどうであれ(子供といっても成人なのですから)、子供の問題で親が振り回されるのではなく、親自身が自分の生き方を貫くことです。
  
 ―周囲の人はどのようなことを心掛ければ。
  
 □…悩んでいる親に対しては、話を聞いてあげるなど、「大丈夫」と励まし、長い間苦労している親をサポートしてあげることも大切なことです。
 中には、「自分の育て方が悪かった」と過度に自分を責める方もおられますので(そういう必要はありません)、「気分転換」に、外出を勧めることなどもいいと思います。
 もし、引きこもった人が外に出てきた場合(会社なら、一、二カ月休んで出勤することも多いと思いますが)、「甘えている!」などと叱責(しっせき)せず、温かな目で見てあげることが必要です。
 もし、対人関係のストレスなどから、再び引きこもっても、そういうことを繰り返しながら、徐々に解決していくと考えてください。休養は、「引きこもり」を脱する心のエネルギーを蓄えることになるからです。
  
 ―問題解決には、親自身の生き方を貫くことが大事と言われましたが……。
  
 □…ええ。親が自分の決めた生き方を子供に見せ続けることで、「親には親の生き方がある。社会的な役割がある」ことを子供に自覚させていくことができるからです。
 それが、親自身が子供の問題に引きずられない道であり、子供にとっても、「引きこもり」から脱して、自分自身の生き方を作り出すきっかけになること――つまり、「問題解決」につながってくるからです。

大学生の不登校

2006年10月04日 | 引きこもり
1999/08/04: ◆こころ 大学生の不登校 北海道医療大学看護福祉学部助教授 阿部一男さん

 *こころ/心/KOKORO/北海道医療大学看護福祉学部助教授/阿部一男
さん
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 7月末、大学生の心の問題の実態を調べる「大学における学生生活の充実に関
する調査研究会」(座長、広中平祐・山口大学学長)が発足しましたが、今、
学業への無関心や対人関係の苦手意識などから、自宅に引きこもる不登校の
大学生が増えていると言われています。今回は、「大学生の不登校」をめぐって
、北海道医療大学看護福祉学部助教授の阿部一男さん(臨床心理専攻)に聞きま
した。
 ###   ###
 *新しい環境への適応力が弱い
  
 ―大学生の不登校が増えているということですが。
  
 □…正確な数は分かりませんが、これまでより「不登校」の学生が増えている
ことは事実です。
 そうした学生には、(1)進路決定があいまいなまま入学し、「こんなはずじゃな
かった」と思っている(2)「新しい友人に溶け込めない」など、人間関係の取り方
が不器用(3)「抑うつ状態」になりやすい、などの特徴が目立ちます。
 そのほかにも、声が小さい、本音(ほんね)で話ができない、周囲に気配りし
過ぎて疲れていることなども見受けられます。
 こうした特徴に共通しているのは、「新しい環境に適応していく強い心が育っ
ていない」ということです。
  
 ―その背景には、どのようなことが考えられるでしょうか。
  
 □…代表的なものは、学業中心に傾き、人間を育てていない「学校教育」や、
家庭では、親子の間で生き方を語り合うような「対話」がなされていない、親が
自信をもって自分の人生を語っていない、人間としての生き方を教えていないこ
となどが挙げられます。
 つまり、人間が生き方を学ぶうえで大事な十代に、友だちと切磋琢磨(せっ
さたくま)して自分を鍛えたり、教師や親から人間としての生き方を学ぶ体験が
乏しかった、あるいはなかったと考えられます。
 そこで、入念な選択もなく大学に入学する。講義の中でも、「先生、話してい
ることを、白板に書いてください」(笑い)――積極的に学問を学ぼうという
姿勢は希薄で、書かれたことをそのまま覚える学生となってしまう。
  
 ―人間関係の取り方が不器用というのは。
  
 □…こういう学生は多いですね。新しい友人を作ったりすることが苦手です。
よく知らない人と話すと緊張する、ほかの人の生き方や価値観を受け入れること
ができない――。そういう傾向が強い。
 そこで、未知のことに対して強い好奇心を燃やすことより、自分の考えと合わ
ないことを「排除」しようとするのです。
  
 ―「抑うつ状態」になりやすいと言われましたが。
  
 □…決して「うつ病」ではないのですが、何をやってもむなしいと感じ、意欲
もなく、自分の世界に引きこもろうとするのです。つまり、「自己効力感」が低
いために起こるのです。
 しかし、さまざまな理由があったとしても、その背後には「自信のなさ」、言
い換えれば、先ほど言いましたように、心が育っていない、脆(もろ)い、弱い
ということがあるのです。
 *さまざまな人との積極的な対話を
  
 ―自分に自信がない、と言われましたが。
  
 □…ええ。これまで自分と向き合う「体験」がほとんどなかったのでしょう。
大きな課題を乗り越えたような体験を持っていない。それは、周囲の大人(親)
が、子供が「苦労」しないようにかばってきた、という面があるからでしょう。
 ある人は、今の若い人は実年齢から「10」を引いたのが、その人の精神年齢、
と言っています。
 しかし、自宅に引きこもる学生も、「自分のことを分かってもらいたい」「
人間的にもっと強くなりたい」「もっと変わりたい」という希望を持っているこ
とも事実です。
  
 ―具体的には、どのようなことをすればいいのでしょうか。
  
 □…私が、勧めているのは、第一に、さまざまな人たちと積極的に「対話」を
することです。
 不登校の学生は、自分の価値観に合わない人を、心理的に「排除」する傾向が
あります。気に入った人の話しか受け入れない。それは自分自身への自信のなさ
の現れでもあるわけですが、自分の価値観と合わない人であっても、対話を通し
て相手の人格と交わり、自分の考えや気持ちを言葉に出すようにすることが大切
です。
  
 ―二つ目は。
  
 □…多くの「良書」を読んだり、名作と言われる「映画」を見るようにするこ
と。そして、その感想を言葉で表す。
 そこで、「日記」を綴(つづ)ることも勧めています。日記に、自分の心に思
ったことなどを書いていく――つまり、一流の人物や作品に触れ合い、その感想
や意見を言葉にしていく作業が、自分で自分の心を育てることに通じているので
す。
  
 ―そのほかにあれば。
  
 □…もう一つは、「スポーツ」「身体を動かすこと」に励むことです。
 というのは、心というのは、身体の動きと密接な関連があります。“抽象的な
心”というのはありません。例えば、一つの目標に向かって一生懸命に汗を流す
。あるいは、試合に向けて限界まで練習に励む。そういう身体の動きの中で、心
も育(はぐく)まれていくのです。まして、試合ともなれば、闘志に満ちあふれ
ていなければ敗北は必至です。
 また、「あいさつをすること」を勧めています。
 例えば、日ごろの生活の中でも、人と出会ったら、必ず、声を出して「
おはよう」「こんにちは」とあいさつするようにする。
 *心は、身体の動きとともに育つ
  
 ―「あいさつ」が心を育(はぐく)むというのは?
  
 □…あいさつは社会生活に不可欠なものです。チンパンジーの世界でも、
あいさつができなければ、仲間の中では生きていけません。あいさつすることは
生きる基本になっています。これは、人間でも同じだと思います。
 あいさつするには、相手の顔を見て、言葉をはっきり言わなくてはならない。
つまり、言葉を出すことで心を育てると同時に、相手との良い人間関係をたもつ
ことで、自分の心を強くしていくことができるのです。
  
 ―社会生活で必要な生活習慣を身につけることでも、心を育てられるわけです
ね。
  
 □…その通りです。そのほかには、「身体の姿勢を正す」ことを勧めています
。姿勢を正すことで、気持ちも引き締まる。心がまっすぐになる面があります。
一流の人に姿勢が良い人が多いのもうなずけます。「身を修めること」から、心
の成長が始まるのです。
 身体を動かす、自分の思っていることを言葉に出す、身体の姿勢を正す(正体
〈せいたい〉)――つまり、心というのは、身体の動きとともに、「体感」を通
して育っていくものだと思います。
  
 ―周囲の大人(親)が心がけることは。
  
 □…心理療法の中で、カウンセラーに必要なことは、クライエント(来談者)
から信頼されることです。信頼されることが、人格的成長にとって不可欠なこと
です。
 私たちの社会(家庭)の中で言えば、大人(親)が学生たちから信頼される
人間になることです。信頼されれば、言うことを聞き入れるようになります。
信頼された上で、心を育む上で大切なことを教えていくことだと思います。
 大学生の不登校といっても、それは今の社会の“ゆがみ”が現れたものといっ
てよいでしょう。それを自覚することが解決への第一歩だと思います。
  
 ―不登校が増えたと言っても、学生たちの秘めた力は素晴らしいと思いますが

  
 □…私も、本当にそう思います。それだけに、大切な大学生活に意欲を持てず
、自宅に引きこもるのは残念でなりません。
 これまではどうであれ、人間は、決意した時から、自分を強く変えていける
存在なのです。今、この瞬間から、生き方を正すことで、人の心は育っていくも
のです。心の基礎を盤石にして、キャンパスでのさまざまな出会いを通して、
より豊かな、よりたくましい人間へと成長することを願ってやみません。
 ###   ###
 木も根を盤石に張れば、強い風雨にも負けない(石川・兼六園で)

引きこもり症候群の背景

2006年10月04日 | 引きこもり
1998/06/03: ◆ふれあい 診察室から 引きこもり症候群の背景

 *ふれあい/診察室から/引きこもり症候群の背景
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 「二十年以上、幼児教育にたずさわってきて、比較は何の価値も生まないと
実感しています」とはある幼児教育の専門家の述懐である。比較は、子供たちを
差別することであり、比べられて育つ子は優越感と劣等感の泥沼に追い込まれ、
ありのままの自分を受け入れ、自信を持つことが困難になっていくということで
あろう。
      ◇
 Iさんは二十代後半の女性だが、対人関係で緊張してしまい、仕事を続けるこ
とができなくなって家に閉じこもる生活を送っている。対人関係の緊張は、子供
のころからあったという。Iさんは三人姉妹の真ん中で育ったが、親たちから姉
と妹は美人なのに、あなただけは不器量だといつも言われたという。
 世間の人が見れば、Iさんは美しい人なのだが、小さいころからの低い評価が
染み込んでいるせいか、いつもおどおどしている。そして、自分に自信がないた
めに、いつも周りに気を使い、気の休まる時がない。こうして疲れ果て、やがて
引きこもるようになったものである。
 Iさんのように、引きこもりに陥る若者は、現代では、決して少なくない。こ
れらの若者に共通しているのは、対人関係で非常に緊張が高いことだ。競争社会
の中で常に周りと比べられ、競って生きてきて、その緊張をもうこれ以上持続で
きない、というところまで追い込まれた結果の引きこもりなのである。更に見て
みると、Iさんの場合でも見られるように、その緊張の背後に自己評価の低さが
認められるのである。
      ◇
 したがって、Iさんの治療はこの自己評価を再構築することが必要であった。
「自分のことをいいなと思えるようになってきたら、私でも人のことを好きにな
ってもいいのかなと思えるようになってきました」と、遠慮がちながらも、最近
では、対人緊張もかなり薄らいできて、外出の楽しさも出てきたという。笑顔に
も力強さがみられる昨今である。(於)

「引きこもり」について 

2006年10月04日 | 引きこもり
1996/02/07: ◆こころ 「引きこもり」について 北海道医療大学助教授 阿部一男さん

 *こころ/KOKORO/心/「引きこもり」について/北海道医療大学/
看護福祉学部助教授/阿部一男さん
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 学校や会社に行かずに、自宅に引きこもる子どもや青年たちが増えているとの
指摘があります。思春期、青年期のちょっとしたことがきっかけになって起こる
「引きこもり」の原因やその対応について、北海道医療大学看護福祉学部助教授
(臨床心理学専攻)の阿部一男さんに聞きました。
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 *自分が直面している事態から退く現象
  
 -「引きこもり」とは、どういうことをいうのでしょうか。
  
 □…「引きこもり」とは、「何らかの原因」により自分が直面している事態か
ら退(しりぞ)く現象をいいます。
 例えば、私たちは多くの場合、自分の苦手な人を前にすると思わず身構え、避
けようとします(対人的要素)。また、自分の能力がないと見られたり、自分が
できないことが周囲の人に知られることに臆病になって、一歩引こうとしますね
。つまり「引きこもり」とは、苦手な人や事態に対した時の不安や緊張(
ストレス)からの「自己防衛」ということができます。これはだれにでも起こる
ことです。
  
 -確かに、そうした一面はだれにでもありますね。
  
 □…引こうとする時の感情の働きは、口数の減少、あるいは無口となって現れ
、その場から一刻でも早く逃れたい気持ちになります。そうした事態に遭遇する
と、心の中では“大きな怒り”がわき上がっています。
 引きこもりは、ちょっとしたきっかけ→否定→怒り→よくうつ状態などを経(
へ)て、「閉じこもり」へと移行していきます。問題となるのは、長期化するこ
とにより、社会生活から離脱し、閉じこもることです。
  
 -それは子どもから、大学生、更に若い社会人まで幅広い年代にわたっている
と聞きますが……。
  
 □…そうですね。小中高生の場合には「不登校」から引きこもりが始まるよう
です。また、高校や大学を中退し、そのまま就職せずに自宅に引きこもる人や、
就職をしてもすぐに辞めてしまい、一年、二年と長期にわたり続くことがありま
す。十一年という人に出会ったこともあります。
  
 -さまざまな段階があるわけですね。
  
 □…親から見て「変だな」と思った時には、引きこもるきっかけから時間がか
なり経(た)っています。最初は「逃避」や「回避」、「反抗的な態度」「怒り
っぽくなる」「部屋に閉じこもる」「食欲不振」などの特徴が見られます。
 次の段階では、「服を着替えない」「ふろに入らない」、昼間寝て夜起きてい
るという「昼夜の逆転」が見られたりします。このような状態が長期化すると、
うつ病や精神病の初期段階に似たような状態になりますので、専門家に相談した
ほうがいいと思います。
 *「適応能力」が弱くなっている青少年たち
  
 -こうした「引きこもり」は、どうして起こるのでしょうか。
  
 □…人間は年齢を増すごとに体験を積み重ね、対人関係の在り方などを学習し
、課題を乗り越える力を養っていくわけです。しかし、引きこもりの子どもや
青年たちは、そうした「自己力」が脆弱(ぜいじゃく)になっていると考えられ
ます。
  
 -その「自己力」とは、どういうものですか。
  
 □…現実的な環境への「適応能力」のことです。「新しい環境や人たちに溶け
込む力」や、「自分の居場所をつくる力」「未知の課題に挑戦していく力(
パワー)」などをいいます。「自己力」が弱いと、新しい人間関係に上手に溶け
込めず、また、課題に直面した時、どのように対応していいのか分からず、その
ため、「こばむ行動」により、自己を防衛しようとするのです。
 周囲の大人は、「大人の物差し」で測(はか)り、「だめなやつだ」などと
決めつけるのではなく、まず、彼らのあらゆることを受け入れる態度で、「今が
成長への節目だ」と見守り、理解することが大切だと思います。
  
 -引きこもりが増えている原因については。
  
 □…いろいろな要因が考えられますが、私は人間関係の在り方が変化してきて
いることを挙げたいと思います。家族の形態で見ると、大家族(五人以上)から
小家族化、そして核家族化、個別化された家族と、戦後五十年で大きく変わって
きています。このことは、人間関係での基本的な体験が次第に失われ、対話する
こと自体の減少をもたらせていると思います。それが「自己力」を培(つちか)
う機会を奪っているのではないでしょうか。
  
 -面倒くさいことは、避(さ)けようとする傾向もあるようですが……。
  
 □…ええ。「生々しい現実」を受け入れるのは苦手ですので、どうしても避け
てしまいます。嫌なことは語らず、面倒は避け、周囲から「いい人」と思われた
い、と思っている。自分に自信がなく、常に「周囲の評価」を気にします。その
ためか彼らの多くには、声が小さく、自分の感情表現がうまくできないケースが
特徴として見受けられます。
 *何があっても本人を支持し信頼する
  
 -長い引きこもり、つまり「閉じこもり」から脱却するためには、どのような
ことが必要でしょうか。
  
 □…「引きこもり」は当人だけではなく、家族、周囲の人たちの協力を得ての
「心のリハビリテーション」が必要だと思います。
 まず、本人に対しては、「引きこもり」から抜け出す「きっかけ」づくりを
根気よくすることです。例えば、本人にあわせた「言葉かけ」「遊びへの誘い」
などもいいと思います。
 家族の取り組みとしては、焦(あせ)らず、時間をかけること、どんなことが
起きても本人を支持し信頼することが基本となります。
 小中高生の場合には、学校との連携(れんけい)も大切です。大学生に対して
は、私は、同じような体験を持った学生と一緒に訪問し懇談する機会をつくって
います。彼らは通じあうことにより、癒(いや)しあうのです。
  
 -社会人の場合には。
  
 □…職場での人間関係の在り方、例えば、上司や同僚との付き合い方、仕事の
仕方、また、困難にぶつかった時の克服の仕方などを丁寧(ていねい)に教える
ことが必要です。なぜならば、彼らはそうしたことを学んでいないのですから。
つまり、本人が納得(なっとく)し、一つ一つの問題を乗り越えていく道筋を、
「具体的に、現実的に教える」ことです。そのために私たちは、「寄り添いなが
らのリード(積極的なサポート)」を心がけています。
  
 -そのほかには、どうでしょう。
  
 □…今まで多くの「引きこもりのケース」を見てきましたが、共通したことが
あります。それは、家族の中での「父親の存在」が大きいということです。「あ
の時、オヤジは何もしてくれなかった」「オヤジは文句を言うだけで、聞こうと
しなかった」などと、父親の強さを求める気持ちが常にあるということです。
彼らの求める強さとは、本音(ほんね)で自分の生き方を語り、人生を教えてく
れることをいいます。つまり、子どもの呼びかけに応じることが、父親の「絶対
の信頼」につながるのです。
  
 -家族の関係、一念が大事なのですね。
  
 □…「引きこもり」は、内心に怒りが蓄積されていますから、時として、家族
に対する暴力となって現れることもあります。そういう時は、まず逃げること(
危機の回避)。しかし、必ず戻り、語り合うことです。本人を支持し信頼しなが
らのかかわりが、いつしか、回復への「心のきっかけ」となるのです。
  
 -「自己力」を育(はぐく)むという点で考えますと、学会の「座談会」が果
たしている役割は大きいと思いますが。
  
 □…本当にそう思います。臨床心理学の立場からみても、生活体験を赤裸々(
せきらら)に語り合い、感動し、激励し、苦楽を分かち合う「座談会」は、心の
再生、蘇生(そせい)の場であり、心の癒(いや)しの場となっています。
座談会運動は「心の居場所運動」であるともいえます。

HIVに関するアドバイザー 

2006年10月04日 | 引きこもり
2003/02/02: ◆SGIの友 HIVに関するアドバイザー イギリス スー・イードンさん

HIV(エイズウイルス)に関するアドバイザー
医師と感染者のパイプ役を16年
“同苦の心”を貫いていきたい!
 【イギリス、タプロー・コート】スー・イードンさん(56)=セントラルイングランド総合方面婦人部長=は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス、エイズウイルス)に関するアドバイザーとして、地域に尽くして16年。
 看護師などにHIVの基礎的な知識を教育するトレーナーである一方で、精神的なショックが激しい感染者と医師のパイプ役として、治療を陰で支えるサポート・ワーカーでもある。
 「HIV感染者は、病の苦しみだけでなく、社会的な差別という“二重の苦しみ”を背負っています。どこまでも感染者の気持ちに立って、行動したい」。悩める友への愛情あふれるアドバイザーだ。
 ――シングルマザーだったスーさんは、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーの生命力の強さにひかれて、1975年に入会。直後、参加した会合で、夫・マイクさんに出会う。その年、結婚。オックスフォードの地で活動に励むうち、人のために尽くす喜びを知った。
 86年のことだった。友人から、自分がHIV感染者であることを告げられた。
 失意に沈む友人を前に、スーさんの胸は痛んだ。とともに“恐怖心”を覚えた。「自分でもショックでした。仏法の“同苦の心”を学んでいたのに……。お題目を唱えながら決意しました。“知ることから始めよう”って」
 HIVは日常生活でふれあう程度では感染しない。しかし、漠然とした不安感から、感染者は引きこもり、周囲の非感染者は恐怖を持ち続ける。告知してくれた友人は、しばらくして他界。スーさんは“同苦の心”を胸中に一段と燃やした。
 資料を集め、懸命に知識を吸収した。学ぶうち、“社会全体に根付いたHIVに対する誤解を払拭しなくてはいけない”との思いを強くし、ボランティア活動を始めた。“一番悩んでいる人を励ます。それが仏法者ではないか”。スーさんは、感染者一人ひとりと対話を続けた。
 ブルックス大学の短期講座でHIVを専門的に学び、今では、病院の看護師や医師からも、頼られる存在である。
 夫・マイクさん(52)=西セントラルイングランド方面長=は、96年からイギリスSGIのタプロー・コート総合文化センターの職員に。スーさんは、新天地でも根を張り、HIV感染者のために尽くす日々。誠実な行動を貫く夫妻に、地域からも称賛の声が寄せられる。
 先日のSGI研修会には、夫妻で来日。「センセイの真心の励ましに感動しました。タプロー・コートから、イギリスへ、全世界へ“幸の風”を送っていきます」
 悩める友のため、誠実な行動を貫くスーさん夫妻(左が夫・マイクさん)

単位制・通信制の高校校長

2006年10月04日 | 引きこもり
2002/06/12: ◆体験 単位制・通信制の高校校長 沖縄県・本部町 宮長芳登

 単位制・通信制の高校校長/生徒の幸せのため きょうも走る!/卒業率は抜群の80%超/創価教育で培った誓いを実現へ
 【沖縄県・本部町】いじめや不登校、引きこもりなどで、学校に行けない子どもたちが年々増加している。2000年度の高校中退者は11万人とも――。一昨年4月、沖縄県北部の本部町に開校した八洲学園国際高等学校は、高校中退者や、さまざまな理由で進学できなかった生徒を受け入れる単位制・通信制の高校(自宅で勉強してリポートを提出し、単位を取得する通信教育)。「さまざまに苦しんできた彼らだからこそ、幸せになってほしい。そのために教育はあるんです!」。43歳の若き校長、宮長芳登さん=上本部支部、地区幹事=は、熱っぽく語った。
 “めだかの学校”
 美しいエメラルドビーチを望む、約2万5000平方メートルの広大な敷地。教職員棟に入ると、すぐに質素な校長室。学校で一番小さな部屋ですと、宮長さんはほほ笑んだ。
 脇には保健室。「だからここにいると、体調の悪い生徒、精神的にまいっている子が、すぐに分かるんです」。“生徒第一主義”が、そこかしこから垣間見える。
 現在、生徒数は522人。3年間で80単位を取得する単位制・通信制のため、学年の区別はない。だが年に1回、1週間のスクーリングに参加する必要がある。訪れた日は、ちょうど5月のスクーリングに当たっていた。
 教室にはジュゴンなど沖縄の海の生物の名が、そして宿泊する各部屋にはデイゴなど植物の名が冠されている。
 授業をのぞくと、机を円形に囲んでいた。一見、先生と生徒の区別がつかない。「“めだかの学校”みたいでしょう」と宮長さん。年齢が近いこともあるが、カジュアルな服装が、緊張感をほぐしているようだ。
 ここに来る生徒は、人とのつきあいが苦手な子が多い。引きこもりや不登校を乗り越え、やっとの思いで参加している子。そして非行などの問題行動で中退した子どもたち。
 「教育の目的は、生徒の幸福。幸福は人とのかかわりの中にしかない」と訴える。
 「いじめは起きませんか?」と聞くと、「むしろ“不良”だった子が、おとなしい子をかばうんです!」。子育てを終え、もう一度勉強したいと入学した年配の生徒も、クラスを和やかにする存在だ。
 スクーリング初日に「家に帰りたい」と泣いていた生徒が、最終日、初めて会った友達と「また来年一緒に来ようね」と、住所交換している。宮長さんは、うれしそうに見守っていた。
 創大進学を勧めた母
 1958年(昭和33年)、大阪・吹田市生まれ。宮長さんが生まれてすぐ両親は離婚し、一人っ子として育った。
 3歳の時、母とともに入会。その背中を見て、未来部のころから信心にはまじめに取り組んだ。高校を卒業し、苦労をかけた母に「働くよ」と言ったが、母は創価大学への進学を勧めてくれた。7期生として入学。
 「できるだけ母には負担を掛けたくない」。生活費は家庭教師、飲食店などのアルバイトで。2年生の時には寮の副寮長に。創立者との出会いが。
 「池田先生は『母子家庭だからこそ頑張れ』と、何度も激励してくれました。この創価教育の温かさにふれ、教師の道を志したのです」
 1年間、中学の常勤講師を経験した後、大阪・堺市の鳳経理高等専修学校(現・八洲学園高等専修学校)に採用された。当時は低学力、問題行動のある生徒も受け入れる全日制の専門学校。“本当に彼らを幸せにできるだろうか”と、何度も自問した。その都度、創大時代の“原点”、創立者との出会いを思い起こし、弱い自分を叱咤した。地域の同志の激励も心強かった。
 27歳で学年主任、29歳で生徒指導部長に抜擢された。警察へ引き取りに行ったり、迷惑を掛けた家庭へ謝りに行ったり。「手間のかかった生徒から、仲人を頼まれたときほど、うれしいことはなかった」と、宮長さんは振り返る。
 92年、一つの転機が訪れた。単位制・通信制の高校として八洲学園高校が設立され、140人の生徒でスタート。宮長さんは当初からそのスタッフに。教育の現場から離れ、生徒募集が主たる仕事になったのだ。
 全国トップクラスの規模
 生徒と直接かかわる仕事を離れ、“これでいいのか”と悩んだ。祈り、学会活動に打ち込んだ。「会合に来た人だけではない。来られない人に、どれだけ心をくだくかで、広布の拡大も決まる」。宮長さんは思った。“教育もそうだ。学校に来られない子のため、心を尽くすことだ”と、生徒募集に全力で取り組んだ。
 生徒募集の説明会で、全国各地へ出張する。中学だけでなく、高校も回る。新聞にも積極的に広告を出した。その結果、生徒数は発足時の140人から、現在、1万1000人以上に。通信制高校としては全国1、2位を争う規模になった。
 「でも、それ以上にうれしいのは、80%以上の卒業率です。通常、通信制の平均卒業率は30%台ですからね」
 2000年、沖縄・本部町に八洲学園国際高等学校が設立され、宮長さんは教頭に任命された。そして昨年4月、42歳で校長に就任した。
 スクーリングの最後、宮長さんはいつもの持論で締めくくった。
 「よく君たちは“どうせ自分なんか”“頭がよくないから”“もう自分はだめだ”と言います。でも、君たちの将来はこれからです。青春に、取り返しのつかない失敗など、絶対ありません。むしろ最大の失敗は、おそれて挑戦しないことです」
 渡部敦子教頭が語ってくれた。
 「生徒たちの悩みを聞いていると、時に、私たち教師もまいってしまう。でも、宮長先生はどこまでも明るい。何があろうと前向きです。その内面の力強さを、私たちも学んでいきたい」
 各地に帰る生徒のバスを送り出し、宮長さんは感想文に目を通す。「スクーリングでは、一生の友達が3人もできました」「20歳でやり直すのはつらかったけど、むしろまっすぐ進めなかったからこそ、今の自分があると思う」……。
 生徒一人一人の成長する姿。それが宮長さんの活力の源になっている。
 “兄貴”のような存在の宮長さん。生徒に注ぐまなざしは、どこまでも温かい

隻腕で走る“町身障者更生会”会長

2006年10月04日 | 引きこもり
2002/04/19: ◆体験 隻腕で走る“町身障者更生会”会長 滋賀県・土山町 藤本俊治さん

 「苦難をバネに強くなれた!」/スポーツ指導などで友を激励/職場からも「不可欠な人」と
 
 【滋賀県・土山町】「障害があったから、困難に負けない自分を築けたと確信しています」
 「土山町身体障害者更生会」会長の藤本俊治さん(55)=土山支部、副支部長=は“会員の皆も必ずそうなれる”と日々激励へ。左手だけで自転車を操り、軽やかに走る。
 皆の自立更生の課題は障害に委縮しないこと。自らの経験から、そう痛感している。
 「日本身障者スポーツ協会」指導員も。2月の身障者ボウリング県大会でのこと。肢体不自由な婦人がいた。引きこもりがちな彼女に、藤本さんは、障害の度合いを考慮しつつ、出場を勧めた。
 「私には無理」「一歩踏み出す勇気です」「では今回だけ」。体を引きずり、両手で投球する。結果は入賞。「私にも、できた……」。藤本さんの手を握り、涙ぐんだ。
 「今を嘆いても何も変わらない。心一つで未来は開けます」。藤本さんは自動車部品の製造会社に勤める傍ら、学会では地区部長、本紙配達員も。
 ――成人式を迎え、入社した直後だった。プレス機事故で右手を失う。
 “もう好きな陸上はできない”。職場も品質管理へ異動。車のボディ部品を慣れない左手で触診し、凹凸など欠損を見つけ出す……。苦戦続きに、自暴自棄の時を重ねた。
 学会員の妻・英子さん(52)=地区副婦人部長=と結婚。子の病気などをたくましく乗り越える妻の姿に“この信心なら、自分も変われるか……”。1971年(昭和46年)、25歳の秋、入会した。
 唱題を重ね、リハビリに励む中、池田名誉会長の詩「青年の譜」の一節に出あう。「君でなければ 出来ない使命がある」
 “宿命に挑もう”“人に負けない仕事を!”――職場での姿勢が変わった。就業時間後も残り、返品から、その原因を探る。指の皮がむけるほど触診を重ねた。
 “同じ境遇に悩む人に希望を”と、更生会に参加したのも、このころ。“殻に閉じこもる”会員が多く、初めは悩んだ。
 “まず自分が実証を”。祈るほどに、陸上競技に再挑戦しようとの誓いが固まった。必死に練習。全国身障者スポーツ大会(74年)で「銀」「銅」のメダルに輝いた。
 気が付くと、仕事でも「品質管理は社内一」と上司から言われるまでに。主任にも抜擢された。
 請われて更生会の郡青年部長に。男子部でも班長。広大な地域を担当したが、車が運転できない。「自転車で回ろうよ。自分らしく」。学会の先輩の言に決意を新たにした。
 更生会員の激励へ。自身の体験を通し、涙ながらに「障害に負けず、強い自分になろう!」。左手で激励の手紙を書くことにも、すっかり慣れた。学会活動で学んだ真心の行動に、「私も頑張ってみます……」。友が一人、二人と立ち上がった。
 「皆さんと同苦できた時、本当に自分の使命が果たせました!」。その思いを皆と分かち合いたいと、藤本さんは歓喜の命で走り続ける。

市民のための「小説講座」などで活躍

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/12/23: ◆体験 市民のための「小説講座」などで活躍 苫小牧市 森信さん

 「心」の壮麗さを“学会の世界”で学んだ!/作家の孤独から、人々とのふれあいへ―/苫小牧市文化奨励賞を受賞
 【北海道苫小牧市】作家の孤独から、地域の人々とのふれあいへ――。製紙会社に勤める傍ら、作家活動に励む森信さんは、市民のための「小説講座」も。地域文学の向上などに貢献したとして、この秋、苫小牧市文化奨励賞を受賞した。その陰には、自身と家族の再生のドラマがあった。
 樹林帯から稜線へ
 苫小牧民報社の「小説講座」を担当するようになったのは、1999年(平成11年)から。20~80歳代の市民が集う。
 昨年から、市の勤労青少年ホームが主催する講座も受け持つ。
 森さんが、まず教えるのは、原稿用紙の使い方。句読点の打ち方、改行の際の約束事など……。基本的なことがらばかりで、学校でも習ったはずだが、忘れている人は意外に多いという。
 会話と地の文のつなぎ方、起承転結など全体の構成についても解説。
 そして、実作へ。文学史や小説理論を学ぶより、実際に筆を執って、自分の作品を書いてみよう! それが、森さんの小説講座の特色だ。
 そこには、森さん自身の思いがある。若き日、原稿用紙を前にして、吐露したいことがいっぱいあるのに、書き方がわからない。
 「山麓の樹林帯をさまよっていたようなもの。稜線に立てば、進むべき道がわかる。そのお手伝いができれば、と思って始めたのです」
 “活字離れ”がいわれる昨今――。本を読むこと、字を書くことが、少なくなった。
 が、どんな人にも“自分を表現したい”との欲求が、胸の底には息づいている。
 とりわけ、いじめに悩む子どもたち、思春期の不安を敏感に感じ取っている青少年たちに、そうした欲求が渦巻いている……。それを、どうすくい取るか。
 彼らが“樹林帯の迷路”を抜けだし、「書く」という自己表現の手段を獲得できるよう、後押しができれば――。それが、講座担当の動機だ。
 森さんは、そして口元を引き締めた。
 「でも、作家を本気で志すなら、稜線に立ってからが本当の勝負。〈人間〉をどう見るか、どう書くか――。原稿用紙の使い方といった“技術”は教えられますが、作家としての“まなざし”“魂”は、本人が格闘してみずからつかみとるものですから」
 森さんは、自身の苦闘の青春を振り返りつつ、そう語った。
 「闇の中に影あり…」
 「自堕落」は作家の特権、と思っていた。
 身勝手というほかないが、自己を律するものを持たず、漂流する青春のさなかにあっては、やむを得ぬ自己肯定であったかもしれない。
 信心していた妻・礼子さん(50)=副ブロック担当員=が、ある日、告げた。「母が、がんになったの。あなたも一緒に、全快を祈って!」
 入会したものの、御本尊に手を合わせると「無性に腹が立ってくる」。
 いま思えば、それほど「修羅」の命に染まった己であったのだ。素直に物事を受け止められず、人に勝りたいと願いつつも、地道な努力を軽視する……。
 かたくなな“小我”の殻も、しかし学会同志の熱き激励で、徐々に打ち破られていった。
 母は同志の祈りに守られて、がんを克服。73歳の今も健在だ。仏法の厳たる実証が、森さんの胸を打った。
 本気で小説に取り組もうと心を決め、「創価新報」創刊100号記念の懸賞小説に応募。優秀賞を獲得した。それが、さらなる精進への励みとなる。
 学会という“民衆の海”のなかで、森さんのまなざしは「心の世界」の玄妙さへと開かれていく。十界論、一念三千論、九識論……。学ぶほどに、仏法の奥行きに驚嘆と感動の念を覚えた。
 人間の内なる世界の“闇の深さ”を、痛切に受け止めなければならぬ事件が起きた。98年のことである。
 高校2年生(当時)の二女・千鶴さんが、不登校になったのだ。一時は記憶も失う。いじめが、きっかけだったらしい。事件の詳細は、闇の中……。
 娘は終日、部屋に引きこもる。夫妻して、祈るほかなかった。祈るほどに、御書の一節が胸に浮かんだ。
 「闇の中に影あり人此をみず虚空に鳥の飛跡あり人此をみず・大海に魚の道あり人これをみず」(1250ページ)
 心の世界は、目に見えない。闇の中の、影のように……。が、内なる宇宙の、いかに深く、広大で、豊かなことか。
 苦悩と祈りのなかで、森さんは仏法の生命論への感動を新たにしたという。それは、作家の魂を鍛える試練にほかならなかった。
 “民衆の海”のなかで
 千鶴さんは、その後、通信制の高校に編入。来春、卒業の予定である。
 フラメンコ教室にも通い、見ちがえるほど明るくなった。今秋、地元テレビ局(STV)の番組「一番元気」にも取り上げられたほど。
 娘の不登校から3年余――。その間、森さん夫妻は学会活動に励み、弘教も決めた。
 作家は、作品が勝負。しかし、書斎に閉じこもってばかりいては、良い小説は書けない。人間とふれあい、広大な「心の世界」へのまなざしを養うこと。それが、ペンを鍛えることにもつながるのだ。
 地上文学賞を獲得した作品「異郷」は、酪農家の悲劇と光明のドラマを描く。牛舎から立ち上るにおいを感じさせるほどのリアリティーあふれる筆致、過酷な現実にも負けぬ登場人物の明るさなどが、話題となった。
 “民衆の海”のなかで学んだことが、作品に反映……森さんは、そう感じている。
 小説講座を引き受けて、かえって教えられることも多いという。若い世代の、ものの見方・考え方の新鮮さ。齢を重ねてもなお、いっこうに衰えることのない、80歳代の創作意欲。そして、どんな人のなかにも、まばゆいばかりに輝く“宝石”があること――。
 森さんの活躍をたたえて、「苫小牧文学の会」の中心者の一人、村田乗祖さんは語る。
 「森さんは、苫小牧を代表する作家です。青少年育成のため、自分の創作時間を削って、講座・講演を手がけ、また同人誌の編集にも力を注いでいる。その活躍が認められ、市の文化奨励賞が贈られたことは、喜びにたえません」
 人の苦しみ・悲しみを知らなければ、本当の強さ・明るさは得られない。そのダイナミックな内なる世界の躍動を、森さんは「学会活動のなかで学びました」と、感謝の思いを込めつつ、述懐する。
 〈人間〉の壮麗な高みを目指して、作家としての挑戦に、新たな意欲を燃やす森さんである。
 森信 もり・まこと(筆名=森厚) 1951年(昭和26年)、北海道苫小牧市生まれ。82年、入会。花園支部、地区幹事。高校のとき、文芸部サークルに入り、書く楽しさに目覚める。王子製紙苫小牧工場に勤務する傍ら、作家活動に励む。87年、「創価新報」創刊100号記念の懸賞小説で優秀賞。93年、第2回「とまみん文学賞」(苫小牧民報社主催)の小説部門で最高賞。99年、中央文壇の第47回「地上文学賞」(家の光協会主催)に輝く。
 文学、詩歌から、仏法と地域貢献まで、家族の話題は幅広い(右から妻・礼子さん、二女・千鶴さん、森さん、長女・千尋さん)

50歳からの挑戦――工学博士に

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/12/12: ◆体験 50歳からの挑戦――工学博士に 東京・江戸川区 南野猛

 青春の誓い胸に『学ぶ心』を燃やす/50歳からの挑戦――工学博士に/“人に優しいシステム”の開発に全力/コンピューター解析でカウンセリングの治療効果を把握
 【東京・江戸川区】今年9月、南野猛さん(53)=西葛西支部、副支部長=は、念願の工学博士(茨城大学大学院)の学位を取得した。現在、大手総合電機メーカーのシステム・エンジニア部門の部長。50歳で大学院に入学し、約4年間の苦闘の末の栄冠だった。
 *研究テーマ
 博士論文のテーマは「顔画像および身体情報計測の不登校カウンセリングへの応用」。不登校や引きこもりの青少年の不安を解消する方法として、カウンセラーが用いる「系統的脱感作法」の際の患者の表情や体表温度、脳波の変化などをコンピューターを使って解析し、治療効果を客観的に評価する手法を研究したものだ。
 「この手法がカウンセリングの現場で実用化されれば、日々、奮闘しているカウンセラーの、より効果的な治療の支援になるはずです」と、南野さんは声を弾ませる。が、特に最先端の技術を使ったものではなく、30年間、システムの開発・構築を担ってきた南野さんの仕事とは直接的には関係のない研究という点が、意外だ。
 大学院入学の前年、職場では部長職に就き、多忙極めるなか、教師でも、カウンセラーでもない南野さんが、なぜ、この研究に取り組んだのか? 学びに徹する“挑戦の意欲”はどこから生まれたのか?
 「不思議がる人は多いんですが、私にとってはごく自然なことで……。目指したいのは“人に優しいシステム”の開発。今回の研究テーマは、そこから生まれたものなんです」
 *慈愛のまなざし
 コンピューターのエキスパートとしての現在の活躍からは想像できないが、進学の名門校とはいえ、高校時代の南野さんの成績は悲惨なものだった。3年生になった時、480人中430番。卒業も危ぶまれる状況。しかし、その夏、挑戦の炎が燃え上がる。池田名誉会長との出会いであった。
 ――1966年(昭和41年)8月、高等部夏季講習会に参加。「勉強こそが諸君の本分であり、使命であると自覚していかなければならない」。慈愛のまなざしに、感動が込み上げた。
 “自分には使命があるんだ。学び続け、社会に貢献しよう!”
 あきらめかけた大学進学を決意。唱題に挑戦し、猛勉強を開始。それを支えたのは、師への誓いとともに、祖母(故人)の存在だった。
 小学校にも通ったことがない祖母は、字が読めなかった。「いろは」を紙に書いては勤行を覚え、学会活動に励んだ。南野さんが聖教新聞を読んであげたことも、懐かしい思い出だ。任用試験に、7回目の挑戦で合格。求道心あふれる姿は、南野さんの心深くに刻まれている。
 1年浪人の末、南野さんは新潟大学工学部への入学を勝ち取った。
 *すべてに挑戦
 72年、現在の会社に入社。働きづめの日々。勤行が精いっぱいだった。「仕事に喜びを感じられず、何度も辞めようと思いました」
 同志が足しげく通い、励ましてくれた。「自分が変われば、絶対に開ける。御本尊様から離れず、すべてに全力でぶつかろう!」。懸命に祈りを重ね、“断じて社会で実証を”と腹を決め、力を付けるために資格の取得を決意した。
 学会活動を終えた深夜や通勤の車内、出張先のホテルなどで、寸暇を惜しんで学んだ。77年、第1種情報処理技術者試験、78年に同特種、85年に同2種と、一発合格。
 86年、38歳の若さで課長に昇進。さらに87年、システム監査技術者試験合格と、入社15年で、全国でも数少ない、当時のコンピューター関係の国家試験全種目合格者に。社内で話題となった。
 仕事、学会活動、資格取得と、すべてに挑戦した15年間を支えたのは、青春時代の誓いと、同志の温かい心だった。
 「人のために動く同志の中でもまれるにつれ、“単なる技術屋にはならない。『人に優しいシステム』を”との思いが募り、開発の着眼点や取り組む姿勢が変わっていきました」 
 *祈りと努力
 87年、地区部長に。多忙を極めたが、挑戦は続いた。91年、難関の技術士試験に合格。社内の「技術士会」の役員を務め、社員教育プログラムの作成などに尽力した。
 地域貢献活動も。学校体育施設開放事業管理指導員や、妻・則子さん(53)=支部副婦人部長=と障害児のリハビリ支援に取り組んだ。
 「“人に優しいシステム”の開発は、何より技術者が優しい心を持つことが大切。人間としての成長が必要だと思ったからです」
 長女・博子さん(27)=女子部部長=は、幼稚園教諭。長男・勇さん(23)=男子地区副リーダー=は、介護福祉士。大学生の二男・新さん(21)も交えて、幼児から高齢者までの触れ合いについて語り合う。「ちょっとした変化に気付くことが大事なんだ」「言葉の掛け方、接し方にも工夫が必要なんだよ」と、苦労や喜びを楽しそうに話すわが子。そんな団らんのなかから、南野さんは気付いた。
 “今の技術は、悩んでいる青少年や高齢者のために、もっと役立てるはずだ”
 仕事と直接関係ないが、カウンセリングなどに役立つシステムの研究を決意。会社も快諾してくれ、98年、茨城大学大学院へ。50歳のときだ。
 休日に研究室で、カウンセリング結果の解析・実験。専門外の文献との格闘は、深夜に及んだ。
 99年11月、論文を工学系、教育学系の学会に投稿。しかし、返答は厳しいものだった。「最先端の研究ではない」「教育現場にいないので評価できない」と、取り上げてもらえない。
 学位取得の展望がみえないまま年が明け、仕事では新プロジェクトを担当。睡眠不足で脈拍が速くなるなど、体調不良に。だが、弱音を吐かなかった。焦りや不安を感じるたび、唱題に集中。自身を鼓舞し、研究を進めた。
 懸命な祈りと努力が、やがて劣勢をはね返す。昨年9月、指導教授の推薦で、「日本感性工学会」で発表する機会に恵まれた。“最後のチャンスかもしれない”。真剣に祈り、検討を重ねて発表。「興味深い研究」と評価され、多くの助言も。
 内容の充実を図り、学会審査を通過。今年5月に約170ページの学位論文が完成。公聴会、国際学会の発表を経て、9月28日、工学博士号を取得した。
 今年は、南野さんの入会40周年の佳節だった。
 「ここまでこられたのは、学会活動を頑張り抜いた結果です。池田先生、同志の皆さまに感謝の思いでいっぱい。これからも、信心根本に“人に優しいシステム”の開発を目指し、学び続けます!」――さらに挑戦の心を燃やす南野さんだ。

バイク・チームのオーナー兼メカニック 

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/09/12: ◆青春2001 バイク・チームのオーナー兼メカニック 川崎市 内倉教尊

 【川崎市幸区】内倉教尊さん(32)=戸手本町支部、地区リーダー=は17歳の時、交通事故で下半身不随となった。以来、車いす。一時は、すべてを諦めた。将来の「就職」、そしてバイクレースのメカニックになる「夢」――。しかし、信心根本の挑戦は、不可能を可能にした。現在、キャノン(株)でカメラ使用説明書を担当。99年にはバイクのチームを結成し、オーナー兼メカニックを務める。8月下旬に行われた「サマー・エンデュランス・カーニバル 2001もてぎオープン」耐久ロードレース(栃木・茂木町のツインリンクもてぎ)に出場し、チームは見事、完走を果たした。
 100分の1秒
 “世界最大の草レース”を謳う、アマチュアの祭典。今回は、約220チームが参加した。
 内倉さんのチーム「RS NORI」のバイクはヤマハRZV500R(85年式)。「3年前の型では勝てない」が定説のなか、加えて耐久に向かない2ストローク車で3年間、挑んできた。
 車いす。「唯一の不都合はバイクを一人で動かせないこと」と笑うが、チームのメカニック4人の柱として、「難解なこのマシンを仕上げる技術は刮目に値する」(大会関係者)。
 「“条件が不利だから無理”と決めたくない。自分を信じ、どこまで上を目指せるか。挑戦です!」と内倉さん。
 23日の公式予選から、24日の耐久レースへ。
 眼前を、何十台と爆音をたて疾走するマシン。が、内倉さんはチームの音を聞き分け、第1コーナーまでの短い走りを見て、エンジン、足回り等の調子をさぐる。
 ライダー3人の感触も常に聞き、100分の1秒を縮める調整が続く。
 この日、エンジントラブルに見まわれ、マシンのピットインが5度も。予選でも転倒・故障があったが何度でも直した。「絶対に諦めない。心が折れない限り、道は開けると信じます」。優勝争いには及ばなかったが、堂々の完走を果たした。
 本業は、カメラの使用説明書の作成。
 「だれでも分かる解説書を」が信条だ。「日本マニュアルコンテスト」で、98年はIXY330で部門入賞、昨年はIXY D5で優秀賞、今年はEOS D30で優良賞に輝いた。
 「今こうして走り続けられるのは信心、学会の同志のおかげ。“どんな境遇でも、自らの使命を果たし抜く”生き方を学びました」。そう語る笑顔は、障害者1種1級のハンディを微塵も感じさせない。
 何もできない…
 「もう歩くことは叶いません……今の医学では限界です」
 87年8月。医師の非情な宣告に、当時17歳の内倉さんは呆然とするしかなかった。
 事故から4カ月。
 ――4月3日、高校3年生になる直前の春休み。市内を250ccバイクで疾走中、併走するバイクに衝突された。
 脊髄損傷、左肺破裂のほか、鎖骨・肋骨の骨折……。命すら危ぶまれる中、2週間の集中治療室、大手術を経て、2学期から復学を目指してリハビリに励んだ。
 信心強盛な父母に励まされ、唱題にも挑戦していた矢先だった。
 “夢も諦めないとならないのか……”
 「夢」。バイクレースのメカニックとして活躍するのが目標だった。
 中学生の頃から技術書を読み、エンジンをいじる日々。高校に入学し、すぐに取得した中型バイクの免許。卒業後は機械系の学校への進学も心に決めていた。
 ――復学後、学校、友人の支えで、翌春に卒業は果たすも進学は断念。
 日常生活も支障の連続。外出しても人目が気になり、家に引きこもる。
 いつしか“就職も車いすの自分は一生無理”。
 “どうせ、この体では何もできないよ……”。2年の歳月が、むなしく過ぎていった。
 心は負けない!
 転機が。信頼できる信心の先輩との出会い。
 那須英夫さん(38)=横浜・東鶴見区男子部長、音楽隊東海道書記長。
 那須さんはトランペッター。当時、昼は運送業、夜はクラブで演奏。
 プロになると誓い、わずかな睡眠で、その年3世帯の弘教も実らせた。
 口ぐせは「ひとたび自分が決めた夢で、広布のために働きたい!」。
 そして半年後、念願通り、大物歌手のバックバンドで舞台に立つ。
 弱気を見せる内倉さんに、ある日、那須さんは叫んだ。「“諦め”を簡単に口にするな! 願いがあるなら、なぜ眠る間を惜しんでも信心に励まない。体じゃない、心で負けているんだ!」
 一緒に祈ってくれた。感謝の涙が自分の弱さを流し去った。
 90年12月、班長の任命を。学会活動への挑戦が始まった。
 人と会うのが嫌だった自分を乗り越え、弘教へ。“信心している君は、なぜ不幸なの”。冷たい言葉に、歯を食いしばった。91年7月には高校時代の友人が進んで入会した。
 部員激励に行く。階上でも同志に抱えてもらい訪問。その役を務めた大塚隆一さん(42)=さいたま・大勝圏、副圏長=は「彼の頑張りに励まされる思いでした。どれだけ多くの友が奮い立ったか」と当時を振り返る。
 そして12月15日、池田名誉会長が出席した川崎音楽祭。オーケストラの一員として車いすでトランペットを奏でた。那須さんに教わり、懸命に身につけた技術だった。
 「使命に生き抜く信心を」。師の言葉に、“自分の使命は、このままの姿で、社会に実証を示すこと”と前進を誓う。
 身体障害者職業訓練校に入校し、かつて得意とした機械設計を学ぶ。
 就職活動に挑むも、20社で不採用。悔しい思いもしたが、“ここで負けるか”と、ついに現在の会社の採用を勝ち取る。
 94年4月、“車いすの新卒としては初めて”入社。10月には男子部の地区リーダーに。希望の新出発となった。
 師との誓い胸に
 この頃からだった。友人に誘われ、バイクのレースに足を運ぶように。
 請われるまま、次第にマシンの改良を手伝う。消えていた“夢”が再び……。
 仕事は多忙かつ必死。カラーコピー機の設計担当から、97年4月に現在のカメラ使用説明書の部門に。“自分も人も、納得させる仕事”ができなくて悩んだ。
 ある日、参加した座談会。“ここにいる婦人や壮年が読んで簡単に分かる解説書を作りたい”。ふと思った。以来いつも、みんなの顔を心に浮かべ、仕事に取り組んだ。
 98年には、日本マニュアルコンテストで初の入賞。勝利の実証に喜びがこみ上げた。
 師の言葉が再び浮かぶ。「使命に生き抜け」。“この体で、バイクという夢でも実証を示そう”。
 もう迷わなかった。
 99年、チームを結成。選んだマシンが今のヤマハRZV500Rだった。「なぜ、この難しいバイクを?」と皆が尋ねたが、「自分の腕がどこまで通用するか試すチャンスと決めて臨みました」。
 この挑戦は、内倉さんの技術を著しく向上させ、現在では、多くの関係者から相談が持ち込まれるまでになった。
 広布の庭でも先月も本紙の啓蒙を推進。牙城会も昨年、“10年表彰”を受けた。
 父・長一郎さん(66)=副支部長、母・洋子さん(59)=区副婦人部長=はじめ、これまで支えてくれた同志に「今、感謝でいっぱいです」。その思いが、さらなる挑戦へ内倉さんを走らせる。

故郷で建築設計事務所を経営

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/09/11: ◆人生航路 故郷で建築設計事務所を経営 スイス マッシモ・マラッツィさん

 観光都市ルガノ近郊で建築設計事務所を経営/スイス/マッシモ・マラッツィさん(45)
 プロローグ/新世紀へ旅立ちの誓い
 世界50カ国・地域から450人の若きリーダーが参加し、盛大に開催された第9回本部幹部会。会場となった牧口記念会館には、祖国の繁栄と世界平和への使命に燃える、きら星のごとき俊英が集結した。
 スイスの南端、イタリアとの国境に近いコルドレリオ村から来日したマッシモ・マラッツィさん(45)=スイス理事長=は、数少ない壮年参加者の一人。青年メンバーとともに、新世紀の世界広布へ、新たなる旅立ちを心に誓った。
 カトリック(旧教徒)とプロテスタント(新教徒)を合わせ、スイス国民の9割近くがキリスト教を信奉している。
 マラッツィさんが仏法に出あい、SGIに入会するに至った背景には、そのキリスト教に対する幼いころからの“心の軌跡”があった――。
 シーン1/神はどこにいるのだろう
 コルドレリオ村近郊のルガノは、国際的な保養地として栄え、多くの観光客が訪れる。
 父・アルマンドさん(72)はそのルガノで、エンジニアとして、発電機などを扱う会社を営んでいた。母・トスカさん(故人)は柔和で、笑顔の優しい女性だった。
 そんな両親のもと、マラッツィさんは2男1女の長兄として生まれた。モンテブレ、サンサルバトーレの両峰を擁する自然豊かな町で、伸び伸びと育った。
 「空はどうして青いの?」「地球の外はどうなってるの?」――好奇心おう盛なマラッツィ少年は、自然や宇宙について、周囲の大人に問い続けた。
 町の人は皆、日曜日は教会へ。マラッツィさんも例外ではなかった。ところが、小学校も高学年になると、キリスト教の教義について、次々と疑問がわいてきた。
 その一つが「神はどこにいるのだろう」。天上にいるとは、とても思えない。だが、だれに聞いても、納得のいく答えは得られなかった。
 10代半ばのころ、母が突然、精神的に不安定な状態に陥り、部屋に引きこもるように。母の病はマラッツィ少年の心にも暗い影を落とした。
 “人は何のために生きるのか”――人生の根本命題を抱えながら、マラッツィさんは大学に進んだ。
 シーン2/仏も魔も人間生命に内在
 ジュネーブ大学へ進み、建築学を修める傍ら、本格的に聖書を読み始めた。
 「少年時代からの疑問を解決したかったので、その答えをあらためて聖書に求めようとしたのです」
 だが、いくら読み進めても、疑問は晴れない。神とは、どこにいるのか――。
 26歳のときに、一人のイタリア人女性と知り合う。SGIのメンバーだった。
 彼女が仏教徒であると知り、マラッツィさんの持ち前の好奇心が動いた。初めて耳にする東洋の宗教は、極めて合理的なものに思えた。最も心に響いたのは、仏法の「生命論」だった。
 ブッダ(仏)も、デーモン(悪魔)も、ともに人間の生命に内在している。幸不幸を決めるのは、ほかでもない、自分自身なのだ――“そうだったのか!”。長年の疑問が氷解した。
 イタリア青年部の集いに参加し、目を見張った。“何とさわやかで、生き生きとした青年たちだろう……”。これまでに見ることのなかった、若い人々の清新、躍動、そして歓喜。
 自分の求めていた生き方が、ここにある!――1983年1月、マラッツィさんは晴れやかな気持ちで入会した。
 シーン3/人生決めた師との出会い
 勇んで故郷のルガノへ戻り、同志の集いに出席した。だがイタリアとは異なり、青年の姿はなく、参加者は婦人部メンバーだけだった。
 “よし! ならば私がルガノの、否、スイス全土の青年に、この仏法の素晴らしさを伝えよう。それが私の使命だ!”
 題目を唱えるほどに、それまで味わったことのない充実感が広がった。「まさに、幸福な人生への“カギ”をつかみ取ったようでした」
 胸奥から突き上げる信仰の喜びを、すぐさま友人に語り始めた。興味を示す者、敬遠する者。反応はさまざま。だが、仏法への確信は微動だにしなかった。
 入会半年足らずで、人生の節目となる出来事が。83年6月、池田SGI会長がスイスを訪れた。空港ロビーで役員に就いていたマラッツィさんのもとへ、SGI会長は一直線に歩み寄り、右手を差し出した。
 ――第2次大戦の枢軸国、ドイツとイタリアに挟まれたスイスでは、ファシズムの狂気が人々の心に刻印されている。そのため、一人の人物に傾倒することに、強い違和感を持つ人が多いという。
 入会直後のマラッツィさんも、仏法思想に共感はしたものの、メンバーが一様に尊敬の念を持つSGI会長のことを理解できないでいた――。
 だが、右手を差し伸べられ、握手を交わした瞬間に、胸の中をさわやかな風が吹き抜けた。
 「センセイは、どこまでも一人の人を大切にし、一瞬一瞬の出会いに万感の思いを込められているんですね。あの出会いの瞬間、センセイの温かな人間性に包まれたことを、命で感じることができました」
 シーン4/学校、税務署、警察署も
 大学卒業後、希望通り建築設計の道に進んだ。29歳で独立を果たし、マラッツィ設計事務所を経営。
 人脈もなく、ゼロからのスタートだったが、今では学校をはじめとする公共事業を手掛けるまでに発展している。
 著名な建築家が設計した、ルガノ市内の由緒ある税務署の改装を、本年4月に請け負った。警察署の建設工事もほぼ確定。激務の合間を縫い、建築の専門学校で講師も務める。
 「毎朝1時間の唱題が目標です。夜は活動で遅くなるので(笑い)。仕事が途切れそうになると唱題にも一層、力が入ります。すると“今、この手を打たねば……”と、ふとひらめく。不思議と道が開けるんですね」
 日本滞在中に公共事業の入札予定があり、日程調整は困難を極めたが、求道心を燃やし、万難を排して研修会に駆け付けた。人生の師の慈愛に包まれ、世界広布の大いなるうねりを感じつつ、昨日、帰国の途に就いた。
 本年4月、SGIスイス理事長に就任。文字通り、スイス広布の“黄金柱”として、縦横の活躍を。
 「偉大な師とともに、世界平和のために戦える。今、この時代を生きられることに、無上の喜びと、誇りを感じます」
 故郷のルガノ湖の湖水を思わせる、澄んだ瞳。その奥には、スイス広布の全責任を担いゆく、情熱の炎が輝いていた。
 <取材後記>
 ○…マラッツィさんの入会を境に、母・トスカさんの体調が徐々に回復し始める。心の病を克服し、その後の脳腫瘍も乗り越えた。絵筆を手に、生き生きと創作活動に励む母の姿に、父や弟妹も驚いた。
 ○…広布に奔走する息子を、温かく見守り続けた母。最愛の息子に題目を送られながら、97年、安らかに息を引き取ったという。
 ○…現在は妻・ルイゼラさん(39)=支部副婦人部長、1男1女の4人暮らし。長男のマッテオ君(8)はブラジル、長女のアガタちゃん(1)はタイの孤児院から、それぞれ養子に迎えた。
 ○…マラッツィさんは語る。「生命の尊厳に国境はありません。この子たちにも幸福になる権利がある。恵まれない環境に生を受けたこの子たちのために、私は親としての使命を果たしたいのです」(晴)

難聴者に要約筆記ボランティアで友情広げる 

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/07/17: ◆体験 難聴者に要約筆記ボランティアで友情広げる 長崎市 脇口嘉子さん

 【長崎市】病気や事故などで聴力を失った人にとって、手話は外国語なみに難しい。口での会話も困難。引きこもりがちになる人が多いという。
 「話しかけても無視していると思われたり、大変なんです」
 脇口嘉子さん(69)=緑ケ丘支部、地区副婦人部長(ブロック担当員兼任)=は、そうした人たちのコミュニケーションを助ける要約筆記者の一人。会話内容をノートやOHP(透明フィルムの文字を映写する装置)で映し、難聴者に伝えるボランティアだ。
 要約筆記を始めて、今年で7年。長崎県要約筆記会(林田トミ子会長)の発足以来、会計も務めている。
 1993年(平成5年)、夫・源造さんが70歳で亡くなった。直後に、嫁・ちよみさん(36)=橘支部、副ブロック担当員=の乳がん手術。そして、脇口さん自身の心臓へのペースメーカー手術が。
 人生の荒波に、脇口さんは「なにの兵法よりも法華経の兵法」(御書1192ページ)の御文を胸に、祈りつつ、打ち勝ってきた。嫁のちよみさんも術後8年の今、元気いっぱい。
 翌94年、脇口さんは、ブロック担当員に。感謝にあふれ、広布に走り続けてきた。
 ある日、要約筆記の案内チラシを見た。「私も何か貢献できるかも」。講習を受けた。そこで初めて、“声なき世界”に取り残された人の孤独を知る。“文字を通して、心の声を届けていきたい!”。脇口さんの挑戦が始まった。
 趣味の講座などで、もう一人の筆記者とともに難聴者に付き添い、交代でペンを振るう。最初は講師の話に合わせるのがやっと。乱筆になりがちだった。
 祈り、練習。貢献を重ねた。手作りの字幕を付けて、難聴者の映画観賞会も開いた。笑顔の輪が、広がった。
 県要約筆記会の林田会長は語る。「ペースメーカーの障害や、お年を感じさせないご活躍。会の発足以来、尽力していただき、本当に感謝しています」
 8月には、ホームヘルパーの資格取得も目指す。「生涯勉強、生涯貢献です」――その心意気が、笑顔の中に広がった。