◆体験談◆

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視覚障害の母は勝った!

2006年10月04日 | 自閉症・障害
2002/03/03: ◆輝くあしたへ 視覚障害の母は勝った! 栃木県今市市 飯塚麻里さん

 視覚障害の母は勝った!/自閉症の息子とともに!!/ボランティア・コンサートを開催/トークとピアノ演奏で友を励ます
 プロローグ
 【栃木県今市市】去る2月14日、市内のある会場で障害者とその両親のための、ささやかだが爽やかなボランティア・コンサートが開催された。
 今年で3回目。主催者の飯塚麻里さん(40)=大沢支部、地区副婦人部長=は、司会進行役兼ピアノ演奏者として、ステージにいた。
 パワフルな声。巧みな話術。そして、心に染み入る繊細なピアノのタッチ。元気な彼女をひと目見たいと足を運ぶ人も多い。
 だが……。障害者たちを励ます飯塚さんもまた、障害者(3級)。かろうじて明暗の判別はつくが、視力がない。
 さらに、長男の毅さん(14)は、生まれつきの脳障害による「自閉症」。飯塚さん自身、知的障害児を持つ母親でもあるのだ。
 だが、ステージに立つ飯塚さんの表情には一片の曇りもない。
 励まされる側から、励ます側へ――いったい、何が彼女をそうさせたのだろうか。
 シーン1/消えぬ不安
 1973年(昭和48年)、東京・浅草。飯塚さん12歳の秋――。
 「あれ?」。視界に“異物”が見えた。視力は1・5。近所の開業医に通ったが、わずか1週間で失明。網膜が劣化・剥離する原因不明の病だった。
 大学病院へ。3カ月間の集中治療が奏功して、裸眼で0・7程度まで回復した。しかし、そこまで。
 ベートーベンが大好きで練習していたピアノも、大会に出場する腕前だった水泳も、目指す私立中学への進学も、すべてあきらめた。いつまた視力を失うかもしれない。じわじわ押し寄せ、消えない不安――それは、12歳の夢を奪い、恐怖を強いる病魔の到来だった。
 だが、彼女はくじけない。好きな道で生きる証をと、あえて高校を中退。持ち前のパワーで美容師免許を取得し、就職。徐々に指名客も増えた。が、確実に蓄積する目の疲れ。鏡に映す自分の目が、不安の色を浮かべていた。
 “このまま、見えなくなるのか……”
 82年、誘われた座談会で池田名誉会長の映写を見る。その時の感動は、今も忘れない。「この人こそ、私の人生の師匠だ!」。両親の反対を物ともせず、入会。5世帯の弘教を実らせた。
 そのうちの一人が、夫・信男さん(43)=地区部長。製造業の会社を興して独立した信男さんを支えるため、結婚して、栃木へ。24歳になっていた。
 力強さを増す祈りの声に反して、日に日に薄れていく視力。だが、かつてのような不安はない。
 “大丈夫よ、私は、やっていける!”
 住み慣れたわが家のどこに何があるか、体で覚えた。暮らしに不便はない。炊事・洗濯は何でもこなした。それは今でも――。
 だが、一つ気掛かりがあった。長男・毅さんの様子がおかしいのだ。発語が単調すぎる……。
 そんな不安と失明の危機を唱題で乗り越え、やがて飯塚さんは、長女・怜さん(12)を出産する。
 “お兄ちゃんになれば、少しは……”
 かすかな期待が打ち砕かれたのは、毅さんが4歳を迎えるころだった。
 保健所の検診に行くと、医師が言った。
 「お子さんは『自閉症』です」
 シーン2/冬のスイカ
 毅さんのように脳内の情報処理に障害がある「自閉症」は、言葉を正しく理解したり、人とかかわることが困難である場合が多い。
 また“多動”で、落ち着きがなく、叫び、暴れることも、しばしば。
 どこに行き、何をしでかすか分からないわが子――母は“多動”の気配を感じれば、抱いて押さえつけた。それしか、わが子を危険から守るすべがなかったのだ。母子には“生傷”が絶えなかった。
 それが傍目には「虐待」に見えた。「しつけのできない親」に見えた。「目が見えない親だから」との陰口まで聞こえた。
 周囲の無理解に苦しんだ分、題目があがった。御本尊にぶつけるしかなかった。唱題するほど“毅の母親は私”との、誇りと喜びが心の底からわいてくる。不思議だった。
 仏壇の前の畳が、正座の形にへこんだ。歳月とともに、へこみが深まっていく。
 仕事を軌道に乗せるため、必死で働き、男子部部長として活動にも汗する夫・信男さんは、そのへこみに励まされる思いだった。
 “よし、おれも!”
 飯塚さん夫妻は協力し合い、毅さんを“普通の子”として育てた。どこへでも連れて行った。奇声を発し、周囲から疎んじられようとも……。
 やがて養護学校の小学部へ。ある冬の日――。
 毅さんが、スーパーのスイカ売り場の前で駄々をこねた。ねだっているのだ。
 言い聞かせようとする飯塚さん。しかし毅さんは聞かない。暴れた。
 「じゃあ、おれの小遣いで」と信男さんが買ってあげると、毅さんは大満足。冬のスイカを抱え込んで、離そうとしない。そのまま、家へ。
 玄関を入ると、毅さんは真っすぐ、仏前に。「あー、あー!」。このスイカをお供えしてほしい――毅さんのそぶりが、そう言っているように見えた。
 毅さんが、御本尊を見つめている。信男さんは、はっとした。「分かったよ、毅」と、そのスイカを供えた瞬間、毅さんは両手を合わせて言った。
 「ナンミョー、ホーレンゲ、キョー……」
 この時から薄紙をはぐように、毅さんの「自閉症」は軽くなっていく。
 シーン3/母子の「12歳」
 毅さんは、人一倍、音楽が好きだった。保育園のころから、クラシックとフォルクローレ(南米の民族音楽)に興味を示した。怜さんが習い始めたピアノを、自分もやりたいと主張するようにもなった。
 “毅がピアノをやるなら……私も挑戦してみよう!”
 “青春の忘れ物”を取り返そうと決意した。だが、20年以上のブランク、そして、譜面すら見えなくなってしまった自分に、本当に弾けるだろうか……。
 不安を唱題ではねのけ、練習した。そんな飯塚さんの姿に励まされた友が次々と入会。
 ピアノを通し、母子の対話も弾むようになっていく。毅さんの“多動”も治まっていった。
 “そうだ!”
 飯塚さんの胸に夢が芽生えた。
 “私のピアノで、障害に苦しむ人や、その家族を励ましてあげられたら……”
 夢はふくらんでいく。
 同じ取り組むなら大好きだったベートーベンをと、丸2年を費やし、ピアノソナタ「テンペスト」を暗譜。ベートーベンが、耳が聞こえなくなった直後に作った曲である。
 ピアノ教室の講師など、友人たちの協力を仰いで、念願のボランティア・コンサートを開催し、その「テンペスト」を披露したのが、3年前。毅さんが12歳の時だった。
 同じ12歳で失明し、好きなピアノをあきらめた自分が、今、そのピアノを奏でている。多くの人に喜んでもらうために――。
 飯塚さんはうれしかった。誇らしかった。
 第2回のコンサートで「コンドルは飛んでいく」を披露した毅さんは、今、中学部2年。養護学校のスクールバスの停留所から、片道3キロの道のりを歩いて帰って来られるまでになった。“多動”は、すっかり影を潜めた。
 そればかりか、オーディオなど、音楽関連のジャンルについては、大人も太刀打ちできないほど該博な知識を持つ。
 信男さんの仕事も、不況をはねのけ、順調そのもの。
 病によって“人生の忘れ物”となっていたピアノ。そのピアノに、病を持つ息子とともに挑戦していくなかで、飯塚さんは、たくさんの“人生の宝物”を見つけた。
 人生の“勝利の山”目指して、飯塚さん一家の和楽の行進は続く(右から夫・信男さん、長男・毅さん、長女・怜さん、飯塚さん、二男・凱史君)