ふぁいばぁースコープ

不妊治療日記 いつか授かるまでの記録
そして息抜きに、病院こぼれ話(*'-'*)

衝撃の検査結果

2007年11月16日 | 治療日記

出会いは、友達が紹介してくれた産婦人科のT先生だった。

私自身、10年ほど前にそのT先生と一緒に働いてたことがあった。
そのときはまさかこんなことになるなんて、もちろん思ってなかった。
その病院は、経営者が変わりみんなバラバラになったのだった。

バラバラになってからも、T先生はよく仲良しのスタッフを
食事に誘ってくれた。
私は時々手伝いに行ってただけだったが、よく連れて行ってもらっていた。
T先生に、言われていまだに覚えていることがある。

「オマエにコドモが出来たら、俺が取り上げてやるんだからな」




T先生に会った7月。
4年ぶりくらいか、覚えていてくれてるだろうか。
お年は…80歳近いはずだ…

以前よりだいぶ小さくなったが、変わってないT先生が現れた。
友達が事情を全部話していてくれてあり、検査の予約までしてくれていた。

「おお!元気か!妊娠しないんだって?
 何でもっと早く俺に言わないんだ!」

変わってないのと、もっと早くに…と思う気持ちで涙が滲んできた。


とにかく検査だ、と言うことで 卵管造影を行った。

婦人科で足を開くことは…嫌だけど、だいぶ慣れていた。
だけど、検査は別だった。
T先生のほかに、当時やはり一緒に働いてたY先生、そしてナース、
さらに放射線技師2名くらい。
婦人科の内診台ではなく、レントゲン室で足を開かねばならなかった。

検査の怖さよりも、状況にいっぱいいっぱいだった。

そんなとき、T先生が画面を見ながら言った。

「…両方か…?流れないな。ちょっと押してみろ」


軽く混乱した。
卵管が両方詰まってるんだ…


ほんの数分だったが、いろんなことを考えた。
手術しても、いくらタイミングを合わせても、今までいくら頑張っても
可能性はゼロだった、ということだ。

しかし状況はすぐ変わった。
左がすぐに造影剤が通過したのだ。

「通ったぞ!!」

T先生が喜んで「右だ、もっと流せ、左の卵管に流れちゃうから押さえるから!」
と、私の左のお腹を押さえて「ちょっとごめんな、通るかなー…」と様子を見る。
ほんの一瞬、みんなが画面に集中した。

「よし、流れた、通ったな?通ったぞー」


自分のことのように喜ぶ先生を見て、検査が終わったとたん、また涙が出た。
そして治療は次の段階へ入った。







子宮内膜ポリープ手術

2007年11月15日 | 治療日記

10月末に退職し、その後紹介状を持って総合病院へ行った。


やはりそこでも、「ポリープ」か「筋腫」か、または
それ以外のものか、で検査が続いた。

11月にもなろうかと言うころ、MRIなどの結果などを考慮し
出た結論は、ポリープを手術で取りましょう、とのことだった。

このポリープがある限り、邪魔になってしまい妊娠しにくいだろうと。
まず、手術して取ってみてから、だということになった。

12月13日、入院し腰椎麻酔で手術した。
親指一本分もあろうかというくらいの大きなポリープだった。

術前、旦那様と義母に先生から病気の説明があった。



義母には、なかなか妊娠しないことは言ってなかった。
同居している義妹にはコドモがすでに居て、幸せそうだったから。

しかし、先生の説明は「このポリープがあると妊娠しにくいですね」と言ったのだ。
旦那様も私も一瞬「あ…」と思ったその瞬間、義母は間髪入れずにこう言った。

「じゃあ取れば妊娠するんですね!?」



誤解のないように言っておきます。
義母や義妹は決して私に悪いようにはしない人です。
「コドモはまだ?」とか急かされたこともありません。
冷たくされたとこもまったくありません。
ただ、不妊の夫婦を知らないだけだと思っています。
不妊の原因は女性だと思っているであろうことも、周りにいなければ知らなくて当然。
だけどそのときの私にはとてもショックな言葉だったのです。
治療なんてまだまだこれから先の話だったにもかかわらず…

それ以来、私は旦那様にお願いしたのでした。

「治療のことは家族には言わないで」と。



術後、先生からは
「ポリープを取ったので、春以降まで様子を見て妊娠しなければ
 検査してみましょうか」


そのとき私はすでに36歳。
春には37歳に。

後悔しても仕方ないが、私は7月まで様子見てしまったのだ。
できる事なら自然妊娠したい、と願って。

今思えば、もっと早く行動していれば…と悔やんでいる。


そしてその後の7月に、出会いがあった。
その出会いが、私の治療において大きな出来事になったのです。






ケア違い(^▽^;)

2007年11月14日 | お仕事 &日記
今日はもう一個、書いちゃいます

ちょっと遠くまでお出かけしてきたのです。
病院で検査と、お友達に会いに

帰りは高速バス
混んでなかったのですが、一番前の座席でちょっと緊張して(謎
駅に着いたころにはオツカレぎみ
でも、そこからさらにバス…しかし小銭がない。

今日は検査もして、ちょっと水が出る(゜□゜) ので
「そだ、パンティライナーを買おう」と思いつき、すぐそこのドラッグストアへ入った。

    恥ずかしいらしい


しかし、おつかれなアタシは棚を眺めて( ゜ ρ ゜ )ボーーーー

棚の一番端にあるライナーが一番安いのに気がつき、すかさず手に取った。

吸収率アップ

肌に優しい

気にならない薄さ


ヨシヨシ、と思い早速購入~~





そして自宅へ戻り一息ついて、バッグを整理した。
そだ、ライナーをしまわないとな~と紙袋から出してみた。


・・・・・・(; ̄ー ̄)...ン?



ライナーの包みの端っこに見慣れない文字が…?

吸収率アップ…とは違う場所に…







  尿 ケ ア 専 用 





・・・・・・・・使っても…いいですか…?








始まり

2007年11月14日 | 治療日記
だいぶ遡ります。

結婚してすぐ、近くのクリニックで働き始めました。
2004年の2月から勤め、翌2005年の5月に異変に気がつきました。

もともと月経血は多めなほうだったので、気がつくのがそれでも遅かったと思います。
それにしてもやけに多い…と。

病院へ行こうと思いました。
きっと何かあるだろう、と。
なので、はじめから大きな病院へ行きたかった。
でも、そのクリニックでは予約検査があるため、午前中休めない。
それに、1回休みをもらったところで きっとそれじゃ終わらない。
悩みに悩んで、近くの婦人科医院へ行ったのは確か7月ごろ…

なかなか妊娠しない相談も兼ねて、受診した。

エコー上、子宮の中に何かある、との診断。

その「何か」が「ポリープだろう」に変わるまで、一ヶ月以上かかった。
排卵の前後でわかりにくいからだった。

「悪いものではない、が、取ったほうがいいかもしれない」

結果、やはり総合病院へいくことになった。
もう9月だった。

「OPEになる」と確信した私は、クリニックの院長へ報告した。

ここで言わなければいけない理由は他にもあって、5人いるスタッフのうち
3人がやめることが決まっていたからだ。
仮にOPEをしても、きっと不妊治療することになるだろうと思った私は
自分も退職したい、と話さなければならなかった。


デリケートな問題を話したくなかった。
でも、話すしかないと思い、院長と奥さんに説明し
「退職させてください」と申し出た。
奥さんは確かに言った。

「わかりました…」

心配そうに私にそう言ったはずだった。


一週間後、退職手続きについての話をすると 奥さんに

「え?辞めるの?」と一言。

愕然とした。
私が話した相手は誰だったんだろう。
わかってもらえないどころか、忘れられるなら話さなければよかった。

もちろん、スタッフが立て続けに辞めるのには理由がある。
でも、多少なりとも責任感があれば後ろめたさもあった。
でもその一言でそんなものは消え去った。

10月いっぱいで退職し、総合病院へ向かった。

はじめに。

2007年11月13日 | 治療日記
ずっとブログをお休みしていました。

色んなことがありました。

余裕のない生活を送っていました。

でも、どれだけ辛くても頑張った記録を残しておきたい。

いつか授かったときに、頑張ったねって思えるように。

もし諦める結果になっても、これだけ頑張ったんだからと思えるように。

そしてもし、このブログを見て 少しでも励まされる人がいれば。

「情報」となることができれば。

少しでも思いが伝わればと思い、はじめることを決意しました。



私を忘れずにいてくれるブログで知り合った方や、滅多に会えなくても

必死に励ましてくれる友人達に、少しでも「頑張ってるよ」と伝えたい。



とても自分勝手な日記になると思います。

宣伝はしません。

ブログ巡りはしますが…

なのでコメントは受け付けません。




本当に勝手ですが…

きっとお答えするほどの余裕がないと、失礼になるのであえてそうします。



今、治療の真っ只中。

でも何年も前から遡って、私自身思い返してみたいと思っています。




こんな身勝手なブログですが、読んで頂けると嬉しく思います。