昨日、集団自殺のことが報道されていた。みなさん、若い、残念なことである。
当然、ご本人達にはそれぞれ其れなりの理由のあることだろう。ご冥福を祈りたい。
しかし、まだ、生きてる我々は、もっと真剣に「生きること」「死ぬこと」について
考えるべきではないのだろうか。我も人もそれぞれの「命の大切さ」を考えるべき
ではないのだろうか。
「死にたい」「今死ねたらどんなにか楽だろう」と私も思ったことは1度や2度では
ない。そう思ったり、頭を過ぎった人は沢山おいでになるのではないだろうか。
しかし、縁を受けてこの世に「生」を受けた以上、好む好まざるに係わらず、
我々は「生きる義務」を負っているのではないのだろうか。
例え、今が暗闇であっても、生涯暗闇ではないはずである。必ずや夜明けは来るはず、
である。それを信じて日々を生きることこそ大切ではないだろうか。
若くて死するは国家的損失である。
この世に生きてこそ花実は咲いても、決して死んで花実は咲かないのである。
「若き人よ、若き命を散らすことなかれ」、そう願わずにはいられない。
亡くなった方々のご冥福を新めてお祈り申し上げます。
当然、ご本人達にはそれぞれ其れなりの理由のあることだろう。ご冥福を祈りたい。
しかし、まだ、生きてる我々は、もっと真剣に「生きること」「死ぬこと」について
考えるべきではないのだろうか。我も人もそれぞれの「命の大切さ」を考えるべき
ではないのだろうか。
「死にたい」「今死ねたらどんなにか楽だろう」と私も思ったことは1度や2度では
ない。そう思ったり、頭を過ぎった人は沢山おいでになるのではないだろうか。
しかし、縁を受けてこの世に「生」を受けた以上、好む好まざるに係わらず、
我々は「生きる義務」を負っているのではないのだろうか。
例え、今が暗闇であっても、生涯暗闇ではないはずである。必ずや夜明けは来るはず、
である。それを信じて日々を生きることこそ大切ではないだろうか。
若くて死するは国家的損失である。
この世に生きてこそ花実は咲いても、決して死んで花実は咲かないのである。
「若き人よ、若き命を散らすことなかれ」、そう願わずにはいられない。
亡くなった方々のご冥福を新めてお祈り申し上げます。
まずおもったのが、この義務というものを説明できるのか、という疑問です。仮に説明できたとして、自殺する人はその義務から逃げ出したいのだとしたら、どう対処するのか、というのも難しいところです。
確かに、ご指摘のとおりですね。「生きる義務」について明確に規定したものはありませんし、根拠もありません。
益してや自殺を決心する人に「生きる義務」など無用でしょうし、何等かの効果をもたらすこともないでしょう。
「生きる」ということを「義務」と捉えるか、捉えないかは、個々人の自由でもあるわけです。
何故自分が生きているのか、を追い求めてたとしたら、
命の不思議さにつきあたり、それに多くの縁が絡み合い、
そして何れ死ぬ定めにある有限なれば、生きることの大切さが、導き出されるのではないのでしょうか。
更には、自殺を思い至るまでの日々の中で「生きることの大切さ」「生きることの素晴らしさ」を個々の中に育てることにより死への自制心が生まれるのではないでしょうか。
自殺を決意するには内面的葛藤があり、生きることに希望が見出されない限り、生きることへの道は絶たれてしまうのでないのでしょうか。
となると、其の周りにいる我々は、生きることの大切さ、
生きる希望を如何にして与えることができるのか、では
ないでしょうか。それが難しいぃわけですが。
中国のニュースの紹介ありがとうございます。
長い人生の中には自殺を考えることはあることではないでしょうか。それは世界中、人である以上同じなのですね。
個々の自由であり、仕方のないことなのかも知れませんが、でも自殺ではなく、人生に希望を見出し、生きて欲しいものです。