後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説 前篇

2015年06月10日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

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今回は、近江八幡市の安土町エリアにあります老蘇の森(おいそのもり)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

近江八幡市と東近江市の境界近く。国道8号と東海道新幹線が並走する両脇に、こんもりと茂った森があります。これが老蘇の森です。

 

昔々、今から約2300年前の孝霊天皇(こうれいてんのう/第7代天皇で実在が疑問視されている8人の天皇の一人)の御代のことです。

 

かつてこの辺り一帯は湖岸に近い湿地でした。地は裂け、水は湧き、とても人の住める環境にありませんでした。

 

当時この地の近くに、石部大連(いしべのおおむらじ)という老人が住んでおりました。

 

大連は「この地裂や湧水が無ければ、どれほど平穏に暮らせるだろうか」と考え、一心不乱に神に祈りました。さらにその助けを仰ぎたいと願を込め、地裂の激しい箇所に松・杉・檜などの苗木を植えるのです。

 

すると不思議なことにそれらの苗木はたちどころにすくすくと成長し、辺り一面昼でも薄暗い程の大森林となりました。この一帯に住む人々は、大連に大変感謝しました。

 

その後大連は110歳を超えてもなお息災に過ごしておりましたので、人々はこの老人のことを老蘇(老いて蘇る)と呼び、いつしかこの一帯の地名ともなったのです。

 

現在でも近江八幡市安土町東老蘇地区には、森を中心として「東沢」「西沢」「北沢」の小字名(こあざめい)が残っているところからも、この一帯が以前は湿地帯であったことを偲ばせます。

 

また老蘇の森は古くから和歌の歌枕(うたまくら/和歌に多く詠み込まれる名所旧跡)としても有名で、ホトトギスの名所とされ、想い出または老いの哀しみを森に託して用いられていました。歌への引用では、老蘇を“おいそ”“老曾”“追初”“息磯”とも表記しています。

 

主な歌をご紹介いたしますと・・・

 

東路の 思ひ出にせむ 郭公
 おいその森の 夜はのひとこゑ
【大江公資朝臣(後拾遺和歌集)】

 

郭公 なおひとこゑは おもひ出よ
    老曾の森の 夜半のむかしを
【藤原範光(新古今和歌集)】

 

かわらじな わがもとゆいに 置く霜も
 名にし老蘇の 森の下草
【作者不詳(東関紀行)】

 

一声は おもひ出てなけ ほととぎす
 おいその森の 夜半のむかしを
【紀伊守教光(平家物語)】

 

夜半ならば 老蘇の森の 郭公
 今もなかまし 忍び音のころ
【本居宣長(鈴屋集)】

 

があります。

ちなみに和歌では「郭公(カッコウ)」をホトトギスと読んでいます。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りであるとされています。またしばしば「夜」のシチュエーションとセットで歌に詠まれるのは、稀にホトトギスが夜に鳴くという習性を持つところに由来しています。

 

近世までは中山道(東山道)が森の東側を通り、平安時代以降は沿道の観光地としても賑わっていたようです。

 

(OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説 後篇もお楽しみに・・・)

 


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