「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました
今回の園城寺余話はねずみの宮の伝説についてご紹介したいと存じます。
四季を通じて園城寺きっての観光スポットである観音堂。そこへと通じる石段に差し掛かる参道から少し外れた場所に十八明神(じゅうはちみょうじん)と呼ばれる小さな祠が祀られています。
本来は伽藍(がらん/僧侶が集まり修行する清浄な場所)を守護する神様なのですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ親しまれています。
平安時代中期、白河天皇(第72代天皇/1053~1129)の御代のこと。
園城寺に頼豪(らいごう/1002~1084)という阿闍梨(あじゃり/弟子たちの規範となり法を教授する学徳に秀でた高僧)がおりました。
承保元(1074)年。当時修法の効験で知られていた頼豪に、白河天皇の皇子降誕を祈誓するよう朝廷より勅命が下りました。
まもなく祈祷の験あって、待望の長男・敦文(あつふみ)親王が誕生。
その報奨として念願の戒壇(かいだん/仏教において守るべき道徳規範や規則を授ける場所)道場建立の勅許を得ました。
ところが比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、頼豪はこれに激怒。百日の行に入り、髭も剃らず、爪も切らず、断食して護摩を焚き続け、遂には護摩壇の炎に骨を焼いてしまい、とうとう二十一日(三十七日との説もあり)目にして命果ててしまいました。
するとその怨念が鉄の牙・石の身体を持つ八万四千のネズミとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしました。比叡山では一山の大徳が神通力をもって大猫となり、ネズミを喰い殺してようやく収まったといいます。以来、大きなネズミを「頼豪鼠」と呼ぶようになったそうです。
このお話は『平家物語』『太平記』にも所載されており、それぞれにストーリーが微妙に異なります。
またこの社はこの時のネズミの霊を祀っているため、北の比叡山の方向を睨んで建っているのだとも伝えられています。
(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます