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高松次郎 ミステリーズ

2015-02-02 01:13:34 | 一期一絵
1月29日に国立近代美術館にて鑑賞しました。


この日は同じ建物で開催されている二つの展覧会を見ました。

まず最初は「高松次郎 ミステリーズ」


高松次郎(1935~1998年)氏は数学と物理学に傾倒し、作品作りに影響を濃く表現しているのだそうです。
特に量子力学。その中でも物質の最小単位である素粒子の存在をとても強く意識した作品が多く展示されてました。
物体を解体して理論の上では素粒子の単位まで小さくしていく、素粒子が繋がり新しい形をなしていく・・・・。

物理に明るくないのですが、広大な高松次郎の思索の世界に私なりに感じた事を書きたいと思います。

まず会場に入って最初に展示されていたのは

《№273(影)》1969年
「影」シリーズの作品。国立近代美術館の所蔵作品で、私もこの作品で高松次郎を知りました。
影はふつう人物や物体に付き添い決して単独では現れない存在。だから影だけの存在に驚き戸惑い、つい実体を探してしまいます。
実物の赤ちゃんよりずっと大きく描かれている薄い影。実体がないとわかってもなお気配を感じてしまうのはなぜだろう、と思ってましたが、今回その答えが少しわかってきました。

展覧会内で壁に自分の影を写してみることができる場所「影ラボ」があったのです。そこだけは写真撮影可能。壁の反対側に二つの光が少し感覚を開けて設置されてます。
私も思い思いに壁に影を写しました。
展覧会の説明にも書いてありましたが、光源に近いほど壁に映る影は薄く大きくなり、光源から離れて壁に近づくにつれて影は小さくなり最後にほぼ等身大になります。
先ほどの赤ちゃんは光源に近いところにて、壁に大きく薄く映っている様子を絵に描いているんです。
だから見ている私達は後ろに赤ちゃんがいるのじゃないかとつい気配を感じてしまうんですね。

また光が二つずれて存在するので影が重なるところが濃くなり、影がまるでモノトーンの絵画作品のように美しく壁に映り、高松次郎の「影」シリーズの連作にも見えるという不思議な感覚も面白いと思いました。



影絵で遊んでから、初期作品から順に展示されてました。
最初は「素粒子」にこだわった作品群
・・・とはいっても素粒子は肉眼では見れないし、作れないので概念を表現してました。
針金を少しずつ結んでからませて上から黒く塗った作品が印象に残りました。

《点》1961年
素粒子が繋がっていく様子なのだと説明に書いてました。

その素粒子のつながりの延長なのか紐シリーズが始まります。
紐が梯子にたっぷりと乗っかり、梯子の役目を失わせた作品、
コーラの瓶などに紐を詰め込んで垂らした作品。

《瓶の紐》1963年

またそのころ1963年5月に結成した高松次郎+赤瀬川原平+中西夏之でハイレッド・センター(それぞれの名前の最初の文字を英語にして名付けている)でのパフォーマンスの写真の映像での展示

《山手線事件》1963年
顔を白塗りにした中西夏之が自身の作品を舐めている。品川駅から駅や電車内でパフォーマンスしてそのまま山手線を一周するはずだったけど途中の上野駅で終了したそうです。


《首都圏清掃整理促進運動》1964年
白衣を着てなにかものものしい雰囲気の中丁寧に掃除する。ほのぼのとしたパフォーマンス。

他にもビルの屋上でパンツ一丁のメンバーがそれぞれ放射状に歩くパフォーマンスの写真もありました。
そうそうグループ展ではなんと入口を閉鎖して入れないようにしたのだとか(@_@;)。詳しくは書かれてなかったのでわからないけど、さいごに閉鎖された扉を開けて展示をみせたのだとか。

なんだか青春を感じる・・・

他にも様々な発想による作品が展示されていて、一つのところに留まらない才気を発してました。

波線の格子状の紐。やはり波線の四辺形が重なって大きな波線の四辺形を作っている作品。
丸太の中に建築資材が内包していることを示唆した作品

煉瓦や木や石のブロックの中をくりぬいて。くりぬいたものを細かく砕いて(概念では素粒子レベルまで砕いたことにしてる)ふたたびくりぬいた穴に戻した作品。

再結集したものは再びもとの機能を回復するか・・・・回復しないよね。

椅子の足にレンガを置いて、人が座るという本来の椅子の機能を無効にした作品・・・マルセル・デュシャンのレディメイド作品を思い起こす

《複合体(椅子とレンガ)》 1972年

遠近法を再構築したら現実とずれたものになっていく作品。

《遠近法の椅子とテーブル》1966-67年
この遠近法シリーズのひねりがおもしろい♪
写真で見るとごく普通に遠近感のあるダイニングテーブルですが、横から見ると床は後ろに行くほど斜めにせり上がり椅子は斜めに短くなっています。
本当は安定してない床に設置されたいびつなダイニングテーブルと椅子。でも、前から見ると当たり前に平らな床に普通のテーブルと椅子は設置されているように思い込んでしまう。
では、とスケッチに後ろの椅子を前に設置したデッサンがありました。テーブルは普通に遠近法に則ってるのに手前に行くほど縮んだ形になる椅子は奇妙に感じます。

小さく縮んで見えるほうが遠く見えるという遠近感を逆用して、見る側に近い方に行くに従い小さく縮ませて描いたダイニングテーブルと椅子のスケッチもありました。
その発想が面白い♪
これは先ほどの「影ラボ」で実感しましたが、影絵は壁(ここでは画面に対応する)に近づくほど小さくなり、壁(画面)から遠くなり光源に近くなるほど大きくなるという現象に通じる。
遠近法が逆に作用する。
そして遠近感を操作すると不思議な空間の歪みを感じる。
この手法で大阪万博に広場を作り、ベネツィア・ビエンナーレで部屋を作った作品を展示したそうです。

そして影シリーズ・・・このシリーズ大好きです

高松次郎《影(母子)》1964年


《影の圧搾》1965年



赤ちゃんの影もこの時代の作品。他にもいろいろ展示されてました。
影って不思議ですね、描かれてなくても実体の気配を感じるのですから

部屋の中に家具や壁に人の影が映っているのに実体がいないという作品の写真もありました。ちょっと怖い


他にも日光や電燈の光で白く反射している写真を写した写真、
文字の意味を問う作品
そして晩年にいたるまでの絵の作品は無機的に線を引いて色を配置しなるべく絵を描くという行為を排除して描いたそうです。が、その行為自体がもう作品を描いているのではないかと思いました。

こうなると禅問答のよう
普段当たり前に思うことに疑問を持ち一度分解し再び組み立てる。

これは仏陀の教えと重なると思いました。
車輪はそのもの自体では意味をなさない部品を組み合わせて初めて車輪という機能を持った物になる
人間も事物も全てあらゆる要素が集まって、一つの存在と認識される。

高松次郎はその車輪を分解してバラバラにして、元の車輪の機能を失わせている。再び組み合わせるとき元と同じ組み合わせにしなかったばかりに不思議な違和感を感じる。
晩年、「老子」の思想に傾倒したそうです。後半から晩年の絵画作品に作為を排除しようとしたのはその流れなのだろうか。
病に倒れ、病室でスケッチしたシンプルな形の食べ物のデザイン。線が美しく魅力的でした。

既成のお約束や価値観に疑問を持ちそれを提起する。もっと感覚的に綺麗とかかっこいいとかで済ませて作品を作っても良いのでは。。。なんてことは許せないのでしょうね。
それはもしかしたら高松次郎氏が戦前の生まれで、多感な年に価値観がすべて覆された経験が影響しているのかもしれない。
それに当たり前のものを当たり前に描くのでは芸術は前に進めなくなると痛感したのでしょう。
いえ、勿論いまでもそういう風に描いて素晴らしい作品は多くありますが。

展示されていたスケッチやメモにこんなことが書かれてました。
「有心と無心、意識と無意識、策と無策、欲と無欲、これらの弁証法的統合が必要だ!
その方法論で方法化と無方法化もさらに大きな存在になる。これが生活でも芸術でも極めて重要な事と思われる」(1986年)

「一人の人間が芸術を受け止める感受性は、その人間の存在の全体性と関わっているはずである。少なくとも、感覚や知覚だけの問題ではない」(1986年)

基本は感覚で生きている私には難しく、思索世界の大波に難破しそうになりながら私なりに楽しみました。

会場の最初に書かれていた説明書きにやはり高松次郎氏の文章が引用されてました。そのまま書き写します。

「私が強くひきつけられるのは、例えば迷宮入りの事件のように、未解決性、未決定性、可能性などの『空虚』を充満した事物であります。(中略)いまだ姿をあらわさない魚は、大きさについてばかりでなく、釣るべき魚として完璧です。どうして探偵作家は、せっかく築きあげたみごとな空虚に、結末でもってスクラップをぎっしりつめてしまうのでしょう」(「断片的文章」1972年)









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