難解に思えてシンプル。美しいのに醜悪。クローネンバーグ流メソッド。
二回目を見て腑に落ちた。初回は会話に溢れる心理学用語に煙にまかれ、教養高い人物たちに置いていかれがちだったのが。
実は、それらをわからずとも、受け取ることはできると。
冒頭、凄まじい狂態をさらす若い女性が精神病院に運ばれてくる。彼女の名はザビーナ・シュピールライン。ユダヤ系ロシア人。担当する精神科医ユングは、彼女の知性とドイツ語を話せることにより、対話療法を試すことにする。
幼少期の父親からの虐待で性的マゾヒストになったザビーナ。開始早々トラウマをどんどん話し出す流れは驚きだが、キーラの演技には圧倒される。顎を突き出した醜悪な表情、泣き顔もみっともない。痙攣し、際どい告白をどもりつつ話す様子は悪鬼迫る。自分の恥部を吐き出すのに、取り澄ました演技では信憑性がない。彼女の役者根性を見た。
ユングには美しく聡明で裕福な生まれの妻エンマがおり、もうすぐ初めての子供が生まれる。贅沢なしつらえの家で一見幸福な夫妻だが、エンマの表情は冴えない。仕事の話ばかりの夫の心は、療法被験者の女性とまだ会ったことのないウィーンの精神科医の大家、フロイトに占められている。
ザビーナはどんどん症状が良くなり、精神科医になる夢を持つ彼女にユングは助手の仕事を与える。鋭い感性を持つ彼女はどんどん吸収していき、自分を理解し鼓舞してくれるユングに恋心を抱く。
一方でユングは、ウィーンに行きフロイトの知古を得る。意気投合し、初対面で13時間も会話し続ける二人。
ザビーナは自分の性的トラウマを解消するためと言って、ユングに関係を求める。自身もまたザビーナに惹かれていたユングは、葛藤や躊躇、自己規制を経て、結局はフロイトが紹介したグロスがきっかけでサビーナと関係を持つ。
性に対して奔放なグロスは、ユングに己の欲望に正直に生きろと言う。
セラピーは、互いに感情移入してしまう危険が付きまとう。
男性を虜にすると共にインスピレーションを与える女性を、ユング心理学では“アニマ”と呼ぶそうだが、よく言われるファム・ファタールと同じだろうか。
ザビーナはユングが初めて対話療法を成功させた患者であり、いわば彼の完成された作品でもある。元々頭が良く志も高く美しい彼女は、趣味や嗜好もユングと重なっていた。それはユングが作り上げたものではないのだが、どんどん抜け替わるように変わってゆくザビーナを見続けるうちには、明らかに彼の中のピグマリオン願望も増長したに違いない。美しい人形に恋し、人間にすることを願う王の話。
疑似父子に近い師弟関係を結んだユングとフロイトだったが、考え方の違いは最初からあった。
フロイトのすべてを性的衝動に結び付ける考えを疑問に感じ、ザビーナに話すユング。けれど、それよりもフロイトの心理学界の父としての強い影響力と説得力を恐れている。尊敬しつつも、その影響を受け過ぎることを恐れる様子は、偉大な父親に反抗する息子のままに見える。
フロイト家を訪問し、一家と共に食事するユング夫妻。まずは客のユングが肉を自分の皿に取り分ける。どんどん取って皿を一杯にするユング。困ったようなフロイトの表情。ハッと顔をあげると、狭い食堂にひしめいて座るフロイトの妻子がじっと見ている。フロイト家は子沢山で、裕福ではなかった。
そこで粗相に気付いても、そのままどんどん食べだすユングがおかしい。さらにそのあと、二人は場所を変え会話し続けるのだが、ユングはフロイトの書斎でクッキーをコーヒーに浸しては食べ、カフェではザッハ・トルテを嬉しそうに食べる。年齢の差はあるとはいえ、フロイトは葉巻を吸い続けるだけ。コーヒーやブランデーを少し飲むだけだ。
フロイトとユングでは経済事情も大きく違い、また民族的な隔たりもあったこ。それにしても初対面の憧憬を抱いていた相手を前にして、結構傍若無人。ユングの中にある、欲するものは我慢せずに受け取る部分が出ている。自宅での料理にも塩コショウをかけまくり、彼の幼児性を食で匂わせているのは面白い。
そしてフロイトの方も、食べない分葉巻を吸っているだけかといえば、あれは一種の煙幕としての効果もある気がした。フロイトは常に葉巻を吸っていたというが、くわえたままもごもごと話す。明瞭に聞こえるのに、とぼけ感と若いユングの熱心な問いかけを場合によってはやり過ごす、肩透かしするようなツールにも見える。ヴィゴがその小道具と話し方を駆使していて上手い。
映画のユングはかなり未熟な振る舞いを見せる。かの有名な精神科医も、若き日は女性を泣かせ、師に反抗し、快楽主義のグロスにはてきめんに影響されてしまう。逆に19歳上のフロイトは頑迷で自説に固執する老権威者だが、ユングに対しては慈父のようでもあり、年長者としてふるまう。ちなみに演じているヴィゴとファスベンダーの年の差も同じ19歳。ユングなら偶然とは言わないところだ。
ユングがフロイトの権威主義を不快に感じるのは、彼自身がかなりの出世欲があるからに見える。
裕福な妻からの支援で不自由ない生活を送れている分、ユングは心理学者としての名声や地位を、男として夫としての扶持として求めている感がある。
妻と子供達、そして家庭を大事にするフロイトに気兼ねして、ザビーナとの関係を終わらせようとするユング。取りすがる彼女を振り切っても、また結局は逢瀬を重ねてしまう。けれど噂がフロイトの耳にも入り、ユングは完全に彼女を捨てる。怒ったザビーナはフロイトに手紙で直訴するが、ユングからの手紙の方を信じたフロイトから厳しい返事を受け取り、泣きむせぶザビーナ。
ユングに会いに来たザビーナは、フロイトに真相の手紙を出すよう要求する。
自分も関係に耽溺していのだから、罪悪感を持つならばザビーナに対してもだと思うが、そこは完全に男のエゴ丸出しのユング。
一方、ユングとフロイトの考えの違いはどんどん大きくなっていく。今でいうスピリチュアル系に傾倒していくユングと、現実主義者のフロイト。二人は学会に招かれ、共に渡米の為の船に乗る。デッキでユングは自分の見た夢を話すが、フロイトは自分の夢を語らなかった。そのことはユングに彼との亀裂を感じさせたが、その前に自分だけ妻の手配した一等船室にどんどん行ってしまったことは気にならないらしい。同じように自分も“線引き”をしているのに気付かない。
数年後にユング宅を訪ねるザビーナ。卒業論文の件で来た彼女は精神も安定していた。
体を交わし、以前のように彼女を叩くユング。けれど二人の関係は以前とは逆転していた。ユングは彼女に執着する。
ただ一人の完全な崇拝者。彼の完璧な症例。
ウィーンだけには行くなと言い、彼女に取りすがる。ウィーンはフロイトの住む地。
同業者としての嫉妬より、乗り越えるべき父としてのフロイトに、恋人であり自分の成功例である女性を取られるのはたまらなかったのだろう。フロイトの所へ行くと宣言したザビーナは、スキャンダルを起こすよりもある意味効果的な復讐をしていたことになる。だが彼女はユングとフロイトの関係の修復を望んでいた。
フロイトに師事したザビーナは、彼に自説を称賛される。だが、フロイトはユングとの関係の修復にはうなずかず、彼女に対する一件で彼が信用できなくなったと告げる。そして、アーリア人を信じるなと。
現実と神秘、ユダヤ人とアーリア人、強い線引きと踏み込ませないフロイトの姿勢は、彼を手放しであがめるものだけしか周りに残さない。そのユングの言い分も正しい。けれどアーリア人のユングにはどうしても気付けないものは確かにあった。フロイトはのちにナチスに追われロンドンに亡命する。ナチスの元でも日常をほぼ変わりなく過ごせたアーリア人は、忍び寄る脅威に無自覚だ。ヴィゴがそのアーリア人を演じていた『善き人』を思いだす。
結局は、意見を違えど自分から決別を切り出す気はなかったユングに対し、フロイトの方から決裂を宣言する。その手紙を丸めて捨てるユングと、ユングの写真を入れたフォトフレームを胸に当て辛そうな表情をしたあと、彼からの手紙と共に大事に小箱にしまうフロイト。
ユングはそのダメージから鬱の状態になる。考え方の違いを糾弾してもなを、ユングにとってフロイトは拠り所の部分を残していたのだろうか。そして、自分たちとは別人種だとしたフロイトも、かつては後継者とみなしたユングをいまだ惜しむ気持ちがあったのか。
クローネンバーグの作品には、以前は必ず醜悪なモンスターがいたという。それはこの作品では、前半の病厚いザビーナなのか。それとも麻薬中毒で倫理観を無視する退廃的なグロスか。
ザビーナの望むとおりに性交渉前に「おしおき」をするユング。そのシーンはまったくエロチックには見えなかった。
彼女はエクスタシーにあえいではいるが、ユングの表情はあまり写らず、見えても変化がない。行為による快感、互いへの愛情、執着。それらがあっても、おおよそ淡々としている。
ザビーナの、愛する相手との初体験後に見せる幸福な表情とは別の、自分の血液の沁みた服を執拗に見つめる満足そうな様子。
このメソッドはやはり成功だったと言わんばかりの不気味さが漂う。
それは二人が、禁断の恋をしていることより、禁断の診察法をしているからだろう。危険なメソッド。
不倫関係がどうのではなく、転移、逆転移と呼ばれる互いへの感情移入をしているとわかっていても、臨床せずにはいられない心理学者のさが。
つまりは互いに、相手と自分自身の反応や感情をメモしているような不毛さがある。
心理学者という名のモンスター。
それとは逆に、湖畔でユングのボートを待つ姿の清冽な姿は忘れられぬ美しさ。狭い船底で抱き合うふたり、世界から隔絶されたそこは、行為のシーンよりもよっぽど静かなエロスがあった。
ユングの妻エンマもまた、常に夫の心理を見抜く目を持っていた。彼女は若いザビーナと夫の関係を心配する前に、ユングの渡米を妊娠で中止させたことを悔やんでおり、彼の関心を引き続けることを望んでいた。
女の子二人のあと、後継者たる息子が生まれたとき、「戻ってくれる?」と言うエンマ。
ザビーナの母に手紙を書き、波風を立てたのは彼女。子供が増えるにつれ、エンマもまたしおらしく待つだけの妻ではなくなる。
結婚し妊娠中のザビーナを自宅に招き、うつ状態のユングを診てくれと言うエンマ。
奥様しかと治せないと言うザビーナに、そう願うわと言うがその顔は冷たくこわばっている。
夫が望むのは、知的好奇心や野望を満足させる相手。その役はもとより割り振られてない妻としての自分をわかっているエンマと、以前と違いもうユングの妻の立場をうらやんでないザビーナは、女の子を望んでいると言う。
最後に女性二人にもまた、考え方や生き方の違いを見せる。
ユングは妻子と地位を取りザビーナを捨て、彼女は怒り、嘆いたものの、それを乗り越えてユングとその立場を逆転する。家庭生活も仕事も順調な彼女とは反対に、ユングは執筆も進まず、またも愛人を作っている。それもザビーナの写し絵のような境遇の女性を。
かつてザビーナはユングとの子供を望み、彼は拒否したという。映画でははっきりとは言っていないのだが、君の要求にこたえていては切りが無いとわかっていた、と言うあたりがそれを匂わせている。ザビーナはユングと共に手直しした卒業論文を、二人の間の特別な曲ワーグナーの『ジークフリート』と呼んでいたという。
ザビーナのお腹の子を、自分の子なら良かったのにと言うユング。その勝手極まりない言葉にも、そうねと涙を見せるザビーナ。
彼女との間に作り上げた以上のものを追いかける、かつての恋人を許すザビーナ。
ユングもまた、無自覚だったナチスの影と対戦の闇を夢で見ていた。彼の集合的無意識の理論を見せて幕を閉じる。
心理学の二人の大御所。ユングとフロイト。彼らに関わったザビーナ。人の心を扱う医者もまた、自分の心を操作はできない。ありきたりな諍いと醜聞に振り回され、成長していく。それがまるで絵画のように完成された一つ一つのシーンにより、美しく目に映る。クローネンバーグ・メソッド。
実力派ぞろいの俳優たちによる会話劇。心理学の会話よりも、彼らのしぐさや表情に注目した方がいい。
師、妻、愛人に対し身勝手な未熟さを見せるのに、なぜか嫌味に見えないユング。戸惑い、葛藤、高揚、苛立ち、空虚。泣いてすがる姿が卑屈にならないのがファスベンダーの十八番だ。
喜怒哀楽を激しく表現するザビーナのキーラ。彼女がこれほど醜く見え、そして美しく見えたことはない。クレジットでもそうだが、この映画は実はザビーナが主役なのだ。
完璧な美しさと上品さ、そして女の怖さを見せるエマ、サラ・ガドン。淡々と過激な言葉を連ねてユングを動揺させるグロスはヴァンサン・カッセル。
そして、いつもながら仕草も話し方も風貌もすべてなりきっているヴィゴ。ユングとサビーナにあてる手紙を、流れるように美しいドイツ語で書くシーンは、練習を重ねた本人のものだ。
100分以内という、今どきの映画にしては短めの中に凝縮されるエッセンスは相変わらず濃密だ。
何度も見るうちにこなれ、また発見がある映画。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます