神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

2015=あわあわと眉山滴る阿波浪漫 見水

2015-10-12 | 俳句紀行

見水の俳句紀行

あわあわと

眉山滴る阿波浪漫

 

 猛暑が続き、台風被害の多かった今年の夏も終わった。

夏の思い出から、徳島への小旅行をまとめてみた

 

 しらすぼし夏の季語でもいいのでは

 2015年初夏、徳島の眉山に家族で1泊した。

 午前11時過ぎ、淡路南SAに到着。食堂で、「和風鯛塩ラーメン」を注文。鯛の出汁で鯛の身と鳴門わかめが乗っている。ちりめんじゃこ御飯もおいしい。

 鯛に鱧、玉葱、ビーフに生しらす。淡路の人たちも、地元特産品のPRがうまくなってきた。

 

 渦潮の大鳴門橋を渡ると徳島市街まで高速道路。吉野川を越える。

徳島に来れば涼しき吉野川

 でかい川だ。「徳島中央公園」の駐車場に車を止め、徳島城跡の市営博物館に向かって歩く。城山に沿って遊歩道のある静かな公園で、バラ園もある。

 入場券を買って、徳島城博物館に入る。

 

 江戸時代の藩主・蜂須賀氏の甲冑や屏風などの展示品を見ていくと、徳島城全体のジオラマとビデオの部屋に来た。ボランティアガイドらしき人が、ビデオのボタンを押し、説明をしてくれる。徳島城は堅固な堀をめぐらしているが、巨大な天守閣を築かず、背後の山に小さな城を置いただけらしい。阿波水軍の舟も展示されている。

 阿波は、細川氏、三好氏、やがて四国を統一した長宗我部元親が支配したが、秀吉の四国攻めに敗北する。秀吉は阿波を蜂須賀小六(正勝)に与えようとしたが、老将・小六は望まなかったため、小六の子の家政に与えた。家政の子の至鎮(よししげ)は、関ケ原や大阪の陣で家康側に付いて領地が安堵され、初代藩主となる。

 蜂須賀氏は、小六の血は途絶えるが、幕末まで改易されず、維新後は侯爵に遇された。

 家政・至鎮は、塩田を開発し、平安時代から続く藍染の地に、前の領地・播州龍野の藍を持ち込んで栽培を奨励し、後に特産品となり藩の財政にも貢献した。この頃、阿波踊りも盛んに。

 

夏日射す地団駄橋はビルの中

 博物館の横に残る城の庭園には、外様大名の苦渋をかかえた至鎮が怒って踏み割ったという伝説の石橋「地団駄橋」がある。

 後の御家騒動や、太閤記の脚色による野盗・蜂須賀小六の定着、明治初めの淡路島の兵庫県編入、地団駄を踏んだ殿様は至鎮だけではなかったのでは。

 借景は、堀の向うの徳島の市街。

石垣の青石涼し渭山城

  

 城の石垣は、青黒い石で築かれている。

 青石は九州から伸びる中央構造線独特の石。和歌山城にも使われている。

アオサギの巨体のっそり原生林

 「グエーッ、グエーッ」という異様な鳴き声に、城山を見上げると、大きな鳥が山一面にとまっていた。徳島平野の田畑や川で暮らすアオサギで、都心のこの城山をねぐらにしている。

 

 市営駐車場へ戻る途中に、徳島出身の日本SFの父・海野十三(うんのじゅうざ)の文学碑を見つけた。1962年に建てられ、碑文は江戸川乱歩。星新一や小松左京、眉村卓らのSFに親しんだ若い頃、「十八時の音楽浴」を読んだがあまり記憶にない。海野十三は、1949年に亡くなり、青空文庫・えあ草紙で多くの作品が読めるが、「海野十三敗戦日記」が興味深かった。

新緑のタイムトラベル戦中へ

 「徳島中央公園」の通りの向かいは徳島大学。人も車も多い。JR徳島駅は徳島城に隣接しており、人の流れがこのあたりに集中するようだ。瀬戸内寂聴さんの実家、瀬戸内仏具店もこの駅前通りに面している。

 賑やかな都心を抜け、住宅街から山道へ。眉山は標高300m足らずの山なので、まもなくかんぽの宿に到着。明石海峡大橋が開通した1998年夏に家族で室戸岬まで行き、帰りに1泊した。17年ぶりである。

   

  

 部屋から吉野川と市街地が望める。地元のテレビ局が制作したのんびりしたテレビ番組をしばらく見る。

 大浴場は山頂の建物なので温泉ではないが、露天風呂の湯は祖谷温泉から運んでいるという。近くの日帰り客も結構いそうだ。

夕涼の宿の眼下は阿波の国

 午後6時に食堂へ。窓際の席である。隣のテーブルの大家族は各自生ビールを注文しているが、こちらはあまり酔いたくないので瓶ビールにする。

 食堂の女性たちは明るくて愛想がいい。料理を運びながら目ざとく乾杯のカメラのシャッターを押してくれ、日没時にはブラインドを開けて沈む太陽を見せてくれる。

 「大阪のおばちゃんみたいやな」と、息子がもらす。

大阪のおばちゃんもいる阿波の夏

 

 前菜、造り、鯛の桜蒸し、鯛と牛肉のココット、と少しずつ料理が来て、鯛、鱚と春野菜の天婦羅。

 「これ、わらびや」、5㎝くらいの蕨の先を天婦羅にしている。

 蕎麦の実の吸い物、すだちの香りのデザート、妻も残さずに食べている。

蕨取りしてきた気分野菜天

 

 はじめて徳島に渡ったのは、1971年。44年も前になる。

 高校の部活が「野外活動部」だったので、卒業後も夏になると、誘い合ってキャンプをした。「阿南へ行こう」と、神戸港から小松島港へ。北の脇海水浴場のキャンプ場でテントを張ったが、台風接近で遊泳禁止。嵐の中、3泊4日のテント生活をし、やっと最終日に高波と遊んだ。

 次の徳島行は、仕事だった。1979年に神戸と徳島が観光で協力することになり、市民交歓ツアーに同行した。水中翼船で徳島に向かい、歓迎の阿波踊りを見て、眉山や霊山寺(りょうぜんじ)を回った。

 1998年に明石海峡大橋が開通して、神戸から徳島へは車で1時間余りの距離に。鳴門の大塚国際美術館には3度行ったが、徳島はいつしか高知や愛媛への旅の通過点になった。

 

 朝食はバイキング。30㎝四方もありそうなまだ温かい豆腐をすくったり、昨晩の刺身のあらを使ったらしいアラ煮、蓮根の煮物など、自信たっぷりの素朴なおかず。

 堂々と出されると、「徳島はいいところやな」と言いたくなる。

 果物とプチケーキをいただきコーヒーもおかわりして、阿波の休日に浸る。

ジャパニーズブルー藍染夏涼し

 朝食後、売店でお土産を見る。藍染コーナーがあり、それぞれハンカチや小銭入れを買った。

 宿を出て、山頂を車で数分走ると、眉山駐車場。色とりどりの蝶が舞う花壇の坂を登ると展望台。

 

 数組のグループが、山頂からの明るい眺めを楽しんでいる。

 山頂には、モラエスの記念館がある。神戸に縁が深く、徳島で晩年を暮らしたポルトガルの外交官である。今日は車で周辺を走りたいので、寄らずに下山し、鳴門の霊山寺に向かった。

ぞろぞろとお遍路さんが満ち溢れ

 昭和の風景が残る田舎の町を走るのは気持ちいい。

 四国巡礼一番札所の霊山寺に到着。駐車場が広い。バスから降りる客たちは、すでにお遍路姿。駐車場の横に大きな売店があり、中に入ると、巡礼用品が並べられ、客に丁寧に説明している。

 霊山寺は、関西から四国に渡ってきた巡礼者に一番近い寺、ということで一番札所になったが、錦鯉の泳ぐ池もあり、親しみやすい寺。三好時代は七堂伽藍の大寺院だったようだが、秀吉の四国攻めの戦火で、本堂と多宝塔を残して焼かれ、後に再建されている。

  

ホーホケキョ同行二人の笠の上

 四国八十八ヶ所霊場の巡礼は、霊山寺に始まって、徳島県内の寺を23ヵ所巡り、一路、室戸岬へ進む。全行程は約1460キロ。今は車やバスツアーで回る人が多いが、毎年数千人は40日ほどかけて歩く。定年後に歩いて回った人がいたが、運動靴を何足も履きつぶしたそうだ。 

 霊山寺の近くに「道の駅・第九の里」があるので、ドイツ館に立ち寄ることにした。ドイツ館は、第一次世界大戦のドイツ人俘虜と住民の交流を顕彰して1972年に建てられ、1993年に今の建物に新築移転されている。緑に囲まれ敷地も広く美しい。

俘虜の地は夏の緑に囲まれて

  

 第一次世界大戦(1914~1918)に参戦した日本は、中国のドイツの租借地・青島のドイツ兵を俘虜にして日本各地の収容所に送った。

 鳴門の板東俘虜収容所は、会津出身の松江豊寿所長が俘虜を人道的に扱い、自主的な運営をさせたことで知られ、2006年には松平健主演で映画「バルトの楽園(がくえん)」が作られた。

 ドイツ人捕虜は約1000人。若い職人や技術者ら民間人の志願兵が多く、収容所生活の2年10ヵ月、所内に商店街やレストランを始め、ありとあらゆるものが造られ、文化活動も盛んに行って地元住民との交流が生まれ、日本で初めてベートーベンの「交響曲第9番」が演奏された。

 映画制作の後、ロケセットに大勢の観光客が訪れたため、移築してテーマパーク「阿波大正浪漫・バルトの庭」として残していたが、この春、閉園している。

 小高い丘に、指揮をするベートーベンの像が置かれている。

 神戸は洋菓子の街だが、そのルーツは、1917年のロシア革命を逃れた白系ロシア人(モロゾフ、ゴンチャロフ)や第一次世界大戦のドイツ人俘虜(ユーハイム、フロインドリーブ)が、1923年の関東大震災で、当時、大阪に次ぐ大都市の貿易港・神戸に移り住み、自国の伝統菓子を製造・販売したのに始まる。板東俘虜収容所の空気とどこかつながっている。

豊彦の微笑む館夏の午後

 ドイツ館の隣には、賀川豊彦記念館がある。

 「ガンジー、シュヴァイツァーと並ぶ世界3大偉人」の説明板。

 神戸にある賀川記念館は、献身100年を機に、2009年に建て替えられたが、この鳴門の記念館は2005年に開館。賀川が後半生住んだ東京には「賀川豊彦記念・松沢資料館」がある。

 この記念館は賀川が少年時代を過ごした故郷・板野に建てられている。

 賀川が伝道でよく訪れた阿波農民福音学校・板野教会が、ドイツ人俘虜の設計した「船本牧舎」の2階にあったので、その建物を再現しているという。

 

 賀川豊彦は、日本の労働運動、農民運動、生協運動、平和運動の先駆者であるが、今日、それらは遠い過去のこととして忘れられている。

 1888年、神戸に生まれ、両親を亡くして少年時代を鳴門の農村で過ごした賀川は、1901年に結核に感染。非暴力・非戦・平和のキリスト教社会主義に共感して1904年に洗礼を受け、伝道者を志し、明治学院高等部神学予科に入学。その後、1907年創立の神戸神学校に移る。

 1909~1914年、神学校に通いながら、神戸の貧民街に住んで伝道活動。健康を回復し伴侶を得て、1914~1917年にアメリカのプリンストン神学校に留学。神戸に戻るとアメリカでの経験を活かし、無料巡回診療や仕事の斡旋など幅広く活動。1919年に友愛会関西労働同盟会を結成。

 1920年に自伝的小説「死線を越えて」が改造社から出版されると、空前のベストセラーとなり、多額の印税を得るが、救民活動や社会運動の資金に注ぎ込んだ。

 同年、神戸購買組合(現・コープこうべ)を設立。翌年、神戸の三菱・川崎大争議を指導。1922年、日本農民組合を設立。1923年、関東大震災の救済活動を現地の本所で展開。1926年には無産政党・労働農民党の結成にも関わった。

 昭和の初めに社会運動が行き詰まると、全国を巡回して伝道、その後、世界各国で講演し、キリスト教の博愛精神を実践した「貧民街の聖者」の名声が高まった。

 戦後は、司令官マッカーサーから意見を求められ、内閣参与を務め、戦後復興に貢献するとともに、日本社会党の結成にも参画した。

 世界連邦運動・核兵器廃絶・憲法擁護運動を続け、1960年に71歳で亡くなった。

 ノーベル文学賞候補者(1947・1948)、平和賞候補者(1954・1955・1956・1960)に推薦されたが受賞に至らなかった。

 日本では急速に忘れられたが、キリスト教の国、アメリカでは「カガワ」の評価は高く、没後30年、1990年に完成したワシントン大聖堂に日本人でただ一人彫像が掲げられているという。

 湯川秀樹が、物理学で日本初のノーベル賞を受賞したのは1949年。日本中が沸き、敗戦国の日本人が自信を回復し、男の子には「秀樹」の名前が付けられ、理系志向が高まり、科学・技術立国への道を歩きだした。

 賀川豊彦がこの時ノーベル賞を受賞していたら、その後の日本はどう変わっていただろうか。

和三盆思い巡らしわらび餅

 

 「踊る阿呆に、見る阿呆」と、何でも受け入れ、残すものは残していく、阿波のおおらかな土地柄に少し触れて、短い旅を終えた。

 かんぽの宿で、土産に1人1袋、3人で3袋、岡田製糖所製の阿波和三盆(100g)をもらった。きめ細かくしっとりさらさらした砂糖で、在来種の「竹糖」を原料にして作っているという。

 子供の頃、夏にわらび餅を作ったのを思い出し、わらび粉ときな粉を買ってきて、休日に2度わらび餅を作って食べた。

 すっかり秋になったが阿波和三盆はまだ2袋残っている。何を作ろうか。

(2015秋・見水)


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2015=森林植物園・弓削牧場句会 | トップ | 2015=魚崎郷ほろよい句会 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私も同行気分! (つきひ)
2015-10-19 20:54:01
久しぶりの見水ワールドに引き込まれました。

いつものことながら楽しむための下調べがすごい。

見水さんの視線はやさしくて新鮮! 何でも楽しい俳

句にしていまうのが見水さんらしくていいです。
返信する
Unknown (どんぐり)
2015-11-30 21:13:41
わぁ~
びっくりぽん です。

いつも静かに見つめておられる見水さん
あなた様の頭の中はどうなってるのでしょう・・・

もっともっと早くに、本好きになっていれば良かったと
私は後悔ばかりです

俳句も素敵です

楽しく拝見させて頂きました
私も同行した気分です。
返信する

コメントを投稿

俳句紀行」カテゴリの最新記事