見水の俳句紀行
天草のなつぞら青し藍の海
梅雨空が心配だが、息子が1週間の休暇を取れたというので、義父母の墓参りを兼ねて、7月11日から13日の2泊3日、家族3人で九州へ行った。
大牟田駅前でレンタカーを借り、墓参りや妻の従兄妹達に逢うのを優先させ、宿は柳川と大牟田を予約。2日目に日帰りドライブをしたいが、行き先は、天気予報を見て決めることにした。
2日目の朝、直前の天気予報では、天草地方がよく晴れているという。
熊本は3年前に地震があった。被害の大きかった益城町や熊本城、阿蘇は復興途上。阿蘇の雄大な大自然は何度行っても見飽きることがないが、今日はあいにく雨模様である。
夏草を食む赤き牛霧深し
天草へ行くのは初めてである。土地勘が全くない。
息子は小学生の頃、いとこ達とドライブで連れて行ってもらったことがある。どこまで行ったかは覚えていないが、道のりは遠かったらしい。お昼になって、いとこ達が「肉、肉」と言うので、ファミレスを探して食事をし、魚は食べなかった。それが今でも少し心残りだという。
胸おどる藍より青き夏の海
ガイドブックや熊本の観光パンフレットを見ると、天草四郎ゆかりの場所やイルカウォッチングが載っている。昨年2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産になった天草下島の隠れキリシタンの村までは遠い。殉教公園などのある「本渡」もかなりの距離で、陽の明るいうちには戻れない。
天草の青く美しい海を一目見て、昼に「海鮮丼」でも食えれば良し、と、午前9時半、柳川の宿を出発した。
白南風にゆらめく堀に見送られ
「みやま柳川IC」から九州自動車道に入るが、南関、山鹿、菊池は緑濃き山の中である。植木に抜けるとビニールハウスが続く。熊本西瓜の名産地である。近くに西南戦争の激戦地「田原坂」がある。
熊本を過ぎ、益城熊本空港のあたりで東の阿蘇方面を眺めるが、外輪山は曇っていてよく見えない。地震で被災したこの辺りは高速道路も随所で車線規制をして橋桁補強工事をしている。さらに南へ走り、松橋ICで降りる。
「まつはし、やないで」
「まつばせ、か。九州は読み方が難しいな。原田も、はるだ、やし」
道の駅・JA熊本・宇城彩館という大きな物産館がある。休憩を兼ねて寄る。
いきなりメロンの箱が山積みされ、買い物客も多く、宅送の受付も忙しそう。神戸のスーパーではまだ見ない大粒の葡萄が手頃な値段で並び、もう無花果もある。さすが南国熊本。
甘夏が好きと後ろで独りごと
「九州は物価が安いのかな」とか言いながら、何も買わずに出た。
これから先はカーナビが頼りだが、松橋からの道は狭い。この道が天草まで続いているのか心細い。後でわかったが、カーナビが誘導するのは宇土半島の南の海岸沿いの道。北の海岸側沿いには本数は少ないがJR三角線が並行して走り、観光バスや大型車両の行き交う広くて平坦な道路がある。アップダウンがきつく、曲がりくねった南海岸沿いの道は、段々畑に蜜柑が育っている。所々に売店もあって、いまはデコポンの時期のようだ。
花蜜柑段々畑の続く道
広がる八代海(不知火海)は潮が引いて沖まで泥のよう。その先の海も茶色く濁っている。半島の先にたどりつき、天草が近づいてくると海も青く、緑の島がいくつも重なる風景に変わる。
架橋越え上天草の炎天へ
橋を越えると天草の最初の島・大矢野島。上天草市である。天草四郎が生まれた島だそうで、道路沿いの「藍のあまくさ村」には高さ15mの巨大な像が立っている。小さな島の中央を縦断するが、両側には全国チェーンの店舗が並び、あっという間に反対側の海岸に出る。そこに道の駅上天草・物産館さんぱーる。道路の反対側には天草四郎ミュージアムも建っている。
天草四郎は、天草・島原藩の苛政やキリシタン弾圧で一斉蜂起した3万の領民を統率し、十字架を掲げて転戦。島原の廃城・原城に3か月籠城し、幕府の総攻撃で全員討死する。天草には16歳で亡くなった悲劇のヒーロー天草四郎の像が10体以上あるらしい。
ちょうど昼時なので、道の駅のレストランに行くと、入口のメニューに手頃な値段の海鮮丼があるので入る。平日だが先客が何組かいて、店員がテキパキ動いている。
「やっと、魚が食べれるで」
と息子に言うと、
「25年越しの思いが叶った」
と適当に合している。
店内を見渡すと、天草の観光ポスターが貼ってある。
「天草は、旅人を詩人にするらしい 司馬遼太郎」
のキャッチコピーが入っている。
「たぶん、『街道をゆく』から採ったんやろな」
息子が早速スマホで検索すると、「島原・天草の諸道」は17巻。
「家に帰ったら調べてみよ」
とか言っていると、店員が海鮮丼の盆を3つ運んできた。
お椀に盛られた魚の切り身は大ぶりで新鮮でこりこり、噛みきれない。少し甘い醤油だれをかける。
「この海鮮丼は当たりやったな」
潮の香りのあおさ汁も付いていて、満腹。
われもまた詩人となりし夏の旅
レストランを出て、物産館を見て回る。地元で採れた野菜、果物、土産物が並び、魚介や海産物の売り場も広い。
「まだ帰るのはもったいない。これから、どこへ行くか」
「もう少し、先まで、景色のいい海沿いを走りたいな」
大矢野島と天草上島の間は小島が多数点在し、1966年に橋でつながる。全体を天草五橋(パールライン)。このあたりは天草松島といい、本家の宮城県の松島、長崎県の九十九島とともに、日本三大松島というらしい。走りやすい道をと有料道路を選んだら、山の中ばかりの道で海が見えない。やっと海岸に出た。道の駅・有明リップルランドに到着。
目の前に広がる海岸は四郎ヶ浜ビーチ。天草・島原の乱で天草四郎がここに上陸したことから命名したとのこと。島原湾に面し、西側に天草下島が広がり、海の向こうに島原半島や雲仙岳が見える。夏は海水浴場で賑わうそうで、人工の砂浜だがよく整備されている。
絵にしたい四郎ヶ浜の夏の雲
午後2時になった。この先の天草下島は最も大きな島で、昔から島原半島と船で結ばれ、歴史と自然の宝庫。キリシタン殉教の地や天草灘の水平線、隠れキリシタンの村、イルカの群れなどにも出会えるのだが、今回はここが限界。徒然草の石清水八幡宮の麓の社殿だけ見て帰る仁和寺の法師のようで残念だが、美しく豊かな天草の海を垣間見ただけで満足。海辺の道路を走り、日没までに大牟田に戻ろう。
帰路も、クルマエビの養殖場や大量のワタリガニの生簀など、普段は目にしないものに出会った。道の駅などで応対してくれた地元の人は大らかで親切。が、並行して走っているJR三角線の列車にはついに出会わなかった。
その日の大牟田での夕食は従兄と一緒だったが、本渡まで行ったか聞かれ、そこまでは、と言うと、大変残念がってくれた。
3日目、旅の最終日は朝から雨。レンタカーを返却し、博多駅のコインロッカーに荷物を預けて、「令和」ゆかりの大宰府に向かう。天満宮は雨でも外国人を含め大勢の参拝客。伊勢や出雲と同様、千年以上人々の参詣が絶えない大宰府天満宮は、楠の巨木の森に囲まれている。
梅雨空を梅ヶ枝餅よ吹き飛ばせ
西鉄で戻ってきた博多・天神の街は元気な若者がいっぱい。この日は祇園山笠で一層の人出のようだ。市内を縦横に結ぶ地下鉄網は福岡空港とも直結し、新幹線の駅周辺は大変な賑わいである。
つい、わが神戸の街と比べてしまう。土地の狭い神戸の市街地には新幹線を通すことができず、六甲山にトンネルを掘り、新神戸駅を作った。市営地下鉄を通し、豪華ホテルや劇場を誘致し、後背地の裏六甲や北摂も北神急行でつないだ。目の前には神戸空港も出来ている。が、いつのまにか若者たちは神戸を離れ、周辺の都市や大阪圏・首都圏へ。
6月に亡くなった田辺聖子さんは、かつて、「神戸は大都市にこだわらなくていい。この居心地のいい神戸がいい」と、神戸を絶賛していた。神戸っ子は個性的でおっちょこちょいで、神戸は自由で風通しのいい街だった。明るさが褪せたのは市街地が広がったからなのか、震災に遭ったからなのか、時代が変化したからなのか、はたまた、日本の社会が変わったからなのか。
新神戸の駐車場に置いていた車に荷物を積み、六甲山トンネル越えで自宅に向かった。夕暮れの表六甲でイノシシの親子連れに出会った。
ちょこちょこと瓜坊六甲でお出迎え
家に帰ってきて、司馬遼太郎の『街道をゆく17=島原・天草の諸道』で、「天草は、旅人を詩人にするらしい」のフレーズを探した。天草下島の富岡城址の砂州を、波の音を聞き、鳴き砂を期待して歩きながら浮かんだ言葉だった。ここに頼山陽の「泊天草洋」の詩碑があり、1907年に与謝野鉄幹が北原白秋や吉井勇らと長崎・天草・島原・阿蘇を巡って南蛮文化を再発見した「五足の靴」の旅のことも頭にあった。白秋はこの旅の成果を処女詩集「邪宗門」にして発表したが、この中には、天草で着想を得た一連の詩「天艸雅歌」も収めている。
ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島 吉井勇
「街道をゆく」は週刊朝日に1971年から1996年、司馬遼太郎が亡くなるまで連載され、43冊の本になった。
「島原・天草の諸道」では、1980年、57歳の司馬遼太郎は挿絵の須田剋太画伯とともに天草・島原の乱の舞台や隠れキリシタンの村などを歩いた。
司馬遼太郎は、江戸幕府も家康・秀忠の時代までは、戦国の世を生き抜いた自信と実力から、キリシタン勢力や世界中を植民地化していたスペインやポルトガルを恐れなかったが、3代目の家光の時代からキリシタン弾圧が厳しくなった、と見ている。
2年後の1982年の「南蛮のみち」では、日本にキリスト教を伝えたイエズス会のフランシスコ・ザヴィエルの人生をたどって、フランス、故郷のバスク地方、スペイン、ポルトガルを旅し、南蛮文化=大航海時代のヨーロッパ文明を現地で実感しようとした。
司馬遼太郎(福田定一)と、渥美清(田所康雄)は、活躍した時代や年齢が近く、ともに日本の一般大衆に広く愛された。亡くなって20年以上になるがまだ忘れられてはいない。
映画「男はつらいよ」は、1969年から1995年まで48本。渥美清の寅さんは日本中を旅し、一度はウイーンまで行っている。
「街道をゆく」は失われつつある日本を歩いたが、「男はつらいよ」も、懐かしい日本の風景を映像に残した。
若き日の司馬遼太郎は、髪こそ白いが、ギラギラした好奇心の固まりの作家だった。
初期の「男はつらいよ」の寅さんも、若くて元気が有り余って言葉をまくし立てている。
結構毛だらけ猫灰だらけ……それを言っちゃあ終しめえよ
1973年に撮られた第12作では、とらや一家が九州の慰安旅行で大分から熊本を旅するが、当初予定していた天草には行かずに帰る。ところが隣の印刷会社のタコ社長には、お土産として大きな天草特産の干し蛸を渡している。
高崎山では寅さんそっくりの凶暴な猿、阿蘇山では「あれが浅間山だよ」のギャグが登場するが、天草のギャグはこれで決まり、だったのか。
1973年は、NHKの朝の連続テレビ小説の山田太一の「藍より青く」が好評で、主題歌の本田路津子の「耳をすましてごらん」もヒットし、天草ブームが起きた。天草下島の牛深あたりが物語の舞台だったようだ。
この回の「男はつらいよ」には、天草の映像が一瞬登場する。オープニングで夢から覚めた寅さんがいつもの四角い茶色のトランクでなく女子高生の赤い鞄を持ってフェリーから降りてしまうシーン。慌てて取り替えようと桟橋を走るが、船はすでに離岸。そして「男はつらいよ」のタイトルとテーマ音楽。
この45秒の映像のために制作スタッフはどれほど苦心を重ねたのだろうか。
寅さんがふらり立ち寄る夏の海
(2019.7・見水)