二〇一九年十二月十五日 NO・四六ー三七 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 待降節第三主日(日)詩編 百三七章(月) 〃 百三八章
司会 高 澤兄(火) 〃 百三九章(水) 〃 百四十章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 百四一章(金) 〃 百四二章
招詞祈祷 Ⅰサムエル二章一~八前半節 (土) 〃 百四三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週はクリスマス礼拝・祝会です。
交 読 文 詩 編 百十七編 ◎子供クリスマス会は、子供九名集いました。
讃 美 讃美歌 九七番 ◎台風災害支援献金は三万八千円ありました。
献 金 感謝の祈り 高澤姉 栃木キリスト教会と川越キングス・ガーデンに
讃 美 聖 歌四〇三番 各三万円献金しました。ご協力を感謝します。
説 教 ルカ一章四六~五五節 主はその腕で力を振るい、
讃 美 聖 歌七二三番 飢えた人を良い物で満たし、
祈 祷 みつ子師 富める者を空腹のまま追い返されます。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ルカ一章五一・五三節
マリアの賛歌
マグニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌は、代々の教会で愛され歌われてきた。この讃美は、私たち自身の讃美として私たちも心から歌うように招かれている。「マリアの歌は私たちの歌」と。
先ず始めにマリアは喜んでいる。それも自分のことではなく「神を喜んでいる」。喜びは、私たちの歩みの中で決して身近なものではない。喜びは神のもとにあり、神を喜ぶことができたなら、私たちはどのような状況でも失うことのない喜びを持つことができる。
喜びの理由は、神が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったから」である。「身分が低い」と訳される語は他では「卑しい」と訳される。取るに足らない存在であることを言い表している。マリアが主の母となったのは、何か見どころがあったからではない。つまり特別に心優しく素直で謙遜だったからではない。神は取るに足らない者を目にとめてくださる神である。だから私たちも今この恵みに与っているのである。神がこのように私たちを取り扱ってくださるのだから、私たちはもはや自分の卑しさ、悲惨さ、取りに足らないことを嘆くことなく、かえってマリヤと共に神の御業を喜ぼう。
51~53節は預言と言ってよい。これらの言葉は、詩編などで何度も歌われている内容である。しかしまさに主イエスの誕生によって、主イエスの御業によって、この事は完全に成就される。ここで「価値の転倒」が言われており、そして起こる。主イエスご自身も山上の説教で貧しいものの幸いを宣言された。また十字架の犯罪人は、主と共にパラダイスにいる。このように救い主イエスが共におられるゆえに、「飢えた人は良い物で満たされる」。そして富める者は空腹のまま追い返される。「飢えた人」とは、自分で自分の霊と肉の必要を満たすことのできない人である。「富める者」とは、自分の知恵と力で人生を切り開けると思っている人である。しかし富めると自称する人は、どんなに富を得、地位を得ても、満足することはない。ただ主の愛と憐れみのある所でこそ満ち足りることができる。
54~55節は、旧約の約束の成就が言われる。その約束によって、主はまさに来られた。その事実によって再臨も確かにされる。待降節はこの希望の時であり、クリスマスは再臨を確証する。
礼 拝 次 第 待降節第三主日(日)詩編 百三七章(月) 〃 百三八章
司会 高 澤兄(火) 〃 百三九章(水) 〃 百四十章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 百四一章(金) 〃 百四二章
招詞祈祷 Ⅰサムエル二章一~八前半節 (土) 〃 百四三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週はクリスマス礼拝・祝会です。
交 読 文 詩 編 百十七編 ◎子供クリスマス会は、子供九名集いました。
讃 美 讃美歌 九七番 ◎台風災害支援献金は三万八千円ありました。
献 金 感謝の祈り 高澤姉 栃木キリスト教会と川越キングス・ガーデンに
讃 美 聖 歌四〇三番 各三万円献金しました。ご協力を感謝します。
説 教 ルカ一章四六~五五節 主はその腕で力を振るい、
讃 美 聖 歌七二三番 飢えた人を良い物で満たし、
祈 祷 みつ子師 富める者を空腹のまま追い返されます。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ルカ一章五一・五三節
マリアの賛歌
マグニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌は、代々の教会で愛され歌われてきた。この讃美は、私たち自身の讃美として私たちも心から歌うように招かれている。「マリアの歌は私たちの歌」と。
先ず始めにマリアは喜んでいる。それも自分のことではなく「神を喜んでいる」。喜びは、私たちの歩みの中で決して身近なものではない。喜びは神のもとにあり、神を喜ぶことができたなら、私たちはどのような状況でも失うことのない喜びを持つことができる。
喜びの理由は、神が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったから」である。「身分が低い」と訳される語は他では「卑しい」と訳される。取るに足らない存在であることを言い表している。マリアが主の母となったのは、何か見どころがあったからではない。つまり特別に心優しく素直で謙遜だったからではない。神は取るに足らない者を目にとめてくださる神である。だから私たちも今この恵みに与っているのである。神がこのように私たちを取り扱ってくださるのだから、私たちはもはや自分の卑しさ、悲惨さ、取りに足らないことを嘆くことなく、かえってマリヤと共に神の御業を喜ぼう。
51~53節は預言と言ってよい。これらの言葉は、詩編などで何度も歌われている内容である。しかしまさに主イエスの誕生によって、主イエスの御業によって、この事は完全に成就される。ここで「価値の転倒」が言われており、そして起こる。主イエスご自身も山上の説教で貧しいものの幸いを宣言された。また十字架の犯罪人は、主と共にパラダイスにいる。このように救い主イエスが共におられるゆえに、「飢えた人は良い物で満たされる」。そして富める者は空腹のまま追い返される。「飢えた人」とは、自分で自分の霊と肉の必要を満たすことのできない人である。「富める者」とは、自分の知恵と力で人生を切り開けると思っている人である。しかし富めると自称する人は、どんなに富を得、地位を得ても、満足することはない。ただ主の愛と憐れみのある所でこそ満ち足りることができる。
54~55節は、旧約の約束の成就が言われる。その約束によって、主はまさに来られた。その事実によって再臨も確かにされる。待降節はこの希望の時であり、クリスマスは再臨を確証する。