経堂緑岡教会  説教ブログ

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分かちあうパン

2013年08月15日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(45)

申命記8章2~3節

ルカによる福音書9章10~17節

   2010年10月3日

       牧師 松本 敏之

 

(1)世界聖餐日・世界宣教の日

 本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であります。世界中の教会が、一人の主イエス・キリストのひとつのからだであることを覚えて、共に聖餐に与(あずか)る日です。 また日本キリスト教団では、この世界聖餐日を、同時に世界宣教の日と定めています。

数年前に、この教会でも礼拝説教をしていただいた小井沼眞樹子宣教師は、当時は、お連れ合いの小井沼國光牧師と共に、サンパウロ福音教会で働いておられました。その後、國光牧師がALS(筋委縮症)という難病のためにサンパウロ福音教会を辞任して帰国され、國光牧師は数カ月後に、天に召されました。その後、眞樹子牧師は再び、単身でブラジルへ戻り、今度は、かつて私がサンパウロを離れた後、働いたブラジル北東部オリンダのアルト・ダ・ボンダーデ教会で働いておられます。

オリンダとは、レシーフェという大都市に隣接した町ですが、南緯8度の赤道地帯、大西洋岸、南米大陸の地図を思い浮かべていただくならば、三角定規のような形のアフリカ大陸に向けて、とんがった地域です。

 

(2)小井沼眞樹子牧師の宣教活動

小井沼眞樹子牧師は、今年の宣教師報告書『共に仕えるために』に、このように記しておられます。

 「日本人のいない教会で、日本語をまったく使わない宣教生活を始めて1年半が過ぎました。聞いてもよくわからない、言いたいことが言えないもどかしさを味わいながらも、教会の人々との心のつながりが強まっていることを実感しています。……

 アルト・ダ・ボンダーデはブラジル社会の中でもかなり劣悪な状況の居住区です。私は昨年後半から教会学校のある少年と関わるようになり、彼を麻薬の危険から救出し、よい教育の機会を提供するために、2月にレシーフェに引っ越しました。現在、もう一人支援を必要としている青年も迎えて、3人で共同生活をしています。

 ブラジルの負の歴史的遺産は、植民地支配と奴隷制度がもたらした貧富の大差と、富裕な権力者たちの腐敗、多くの貧困層の家族文化欠損という状況でしょう。それは13歳まで育った少年の環境そのものです。私はこれまで頭で知っているつもりだったことを、一人の男の子のいのちとつながることで、初めて生身の体で学ばされている気がしています。貧困と安全でない家庭環境がどんなに人格の歪みをもたらすか、この少年は一人の犠牲者でしょう。日々やっかいな事を起こす彼を許し受け入れることができない自分と向き合うたびに、回心を迫られているのは私の方だという反省を与えられています。私自身が神の無償の愛で満たされていなければ到底やっていけない、その愛への渇望はとりもなおさず、日々キリスト信者にさせられていく体験として、私を復活のイエスに結びつけてくれます。すると困難な状況にあってもなおこころに喜びが沸き起こってきて、アルト教会の信徒たちの信仰はまさしくこれだと共感できるようになりました。この小さな共同体のためにお祈り下さい。」

 これを読んで、私は改めて小井沼眞樹子牧師は、大事な働きをしておられるなあと思いました。一人の少年のいのちにかかわるということは、社会的影響力としては、とても小さなものでありましょう。しかし眞樹子牧師が、そこで一人の少年のいのちと成長に関わっておられるということは希望のしるしであり、その事実が、どれほど多くの人を励ますことでしょう。そして私たちは、そうした宣教師たちを支えることによって、その宣教に招かれているのであり、その宣教に、直接、間接にかかわっていくのであると思います。そしてそこからまた次の人材が生まれて来るのではないでしょうか。

 

(3)群衆を解散させてください

 さて今日は、「五千人の供食」と呼ばれる話を読んでいただきました。

 この物語は、珍しく、ヨハネ福音書を含む4つの福音書全部に出てきます。受難物語を除いては、他にそういう話はありません。それほど、この話は多くの人に大きなインパクトを与え、初代教会の支えになっていったということがうかがえます。

 「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)。

ベトサイダという町は、ヨハネ福音書によればペトロやアンデレやフィリポの故郷でした(ヨハネ1:44)。伝道が思いのほか成果をあげたので、いい気になってしまう、という誘惑に打ち勝つためにも、あるいは疲れを癒して、次の伝道に備えるためにも、一時、群衆から離れて静かに黙想と祈りをもつのが大事だと考えられたのでしょう。しかしながら、群衆はそこまでも追いかけてくるのです。

「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。

追いかけてくる人々を追い返すのではなく、喜んで受け入れられる様子がうかがえます。さて日が傾きかけてきました。彼らに夕食を食べさせるにも、それだけの食糧がありません。12人の弟子たちは、イエス・キリストに向かって、こう言いました。

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。

 この時の弟子たちは、冷たく彼らをあしらおうとしたわけではりません。このままでは余計、気の毒なことになると思い、進言したのです。弟子たちの言葉から、今、彼らがいる場所が村からも遠く離れたところであったことがわかります。空腹の群衆は、荒れ野にいて、家から離れて来ている。日没が近づいているけれども今なら、まだ間に合う。宿をとることもできる。責任ある者としては、賢明な判断だと思います。早め早めの行動が大事です。

 

(4)イエス・キリストの行動

しかしイエス・キリストは、その賢明な進言に従うことはありませんでした。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちは、「そんな無茶を言わないでください」と思ったことでしょう。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)。

もちろん食べ物を買いに行くことは時間的にも、金銭的にも不可能なことはわかっています。ここで「パン五つと魚二匹」と具体的な数字を出していることからすれば、彼らは彼らで、すでに誰かが食糧をもっていないか、調査をしていたのでしょう。そして最後の手段として、「群衆を解散させてください」と報告していたのです。賢明です。

しかし、弟子たちが言った方法しかないであろう状況の中で、イエス・キリストは別の行動を始められます。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせない」と言うのです。そして、彼らが報告した「五つのパンと二匹の魚」を取りあげられました。天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせました。すると、どうでしょう。「すべての人が食べて満腹した」というのです。男が五千人ということですから、女と子どもを合わせると、恐らく一万人以上の人がいたことでしょう。それらの「すべての人が食べて満腹した。」そして残ったパンの屑を集めると、12籠もあった、とのことです。12という数字は、恐らく12人の弟子ということと関係があるのでしょう。この報告からして、みんながわずかなものを分けあって食べて、精神的に満足した、ということではなくて、とにかく最初よりパンが増えたということを言おうとしているのでしょう。イエス様がここで不思議な奇跡を起こしてくださったということが、今日の話の一つのポイントです。

 

(5)ついには幸福にするために

 今日は、申命記8章の言葉を読んでいただきました。ここで注目したいことは、主が彼らを決して突き放したり、見放したりはされなかった、ということです。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。……主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」(申命記8:2~3)。

 この時、神様は「食べる物がなくても精神力で耐えろ」というのではなくて、食べ物を用意しながら、その信仰を確認させられたのです。ですからこの申命記8章の先をずっと読んでいきますと、こういう言葉に出会います。

「(主は)硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申命記8:15~16)。

 「人はパンだけで生きるのではなく、主の言葉によって生きる」ということを、パンを与えながら、教えられました。

この時のイエス・キリストも、それに通じるところがあります。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのは、弟子たちの信仰が試されたのでしょう。一見、弟子たちを困らせているようでありますけれども、それで終わるのではなくて、「誰が彼らを本当に養うのか、それを味わい知れ。そしてあなたがたも、その信仰に立て」と弟子たちに、伝えようとされたのではないでしょうか。

 

(6)パンを与えることと、み言葉の宣教

最後に二つのことを、申し上げたいと思います。ルカ福音書9章というのは、イエス・キリストと弟子たちの派遣、宣教活動が語られているところです。その中に、この話があるということは、飢えている人に食べ物を分かち与えることと、み言葉を伝える宣教は切り離せない、一続きのことであるということでしょう。

教会は、その後、この物語を儀式のために用いることになるのですが、そのことはパンと魚という象徴的な言葉や聖餐式的な言葉(取り、祝福し、裂き、与えた)に表われているとおりです。そしてその際、この儀式は、「困窮している人たちの必要を満たす」という、より広い意味での宣教から切り離されることはありませんでした。

私たちの聖餐式は、毎日食べる物が十分にある中での聖餐式であろうと思います。教会の外では、肉の糧をいただき、聖餐式では霊の糧をいただく。

しかしこれが世界聖餐日として行われるということは、世界中の人々と今、一つの食卓に与っているということです。だとすれば、このイエス・キリストの食卓、聖餐式には、持てる者と持たざる者とが一緒に参加しているということです。十分に食べる物がある人と食べ物がない人が一緒に聖餐式に与っている。聖餐式が、空腹を満たす実際の食事から遠く離れてあるならば、それはいのちと切り離されたものとなります。

聖餐式というイエス様のいのちに与る霊的な食卓が、実際の私たちの肉体の食卓とくっついているのです。世界で、食事が十分にない人のことを思い起こしつつ、肉体を支える食事をも分かちあっていく、ということが、世界聖餐日の大事な意義であると思います。

 

(6)ゼロではなく、小さなものから

心に留めたいもう一つのことは、イエス・キリストが、この奇跡をゼロからなされたのではなく、ある何かを用いて始められたということです。私たちの神様は無から有を生み出すことのできるお方です。イエス・キリストも、ここで何もないところで、五千人を養おうと思えば、恐らくできたことであろうと思います。しかしそうではなくて、ある何かを用いられた。つまり五つのパンと二匹の魚を用いて、五千人を養われた。そこに差し出されたものは、ある誰かからの善意のしるしでありましょう。しかし、それを取って、祝福して、裂いて、分かちあう時に、イエス様は大きな奇跡にして、みんながそれで満足するということをなしてくださった。

私たちは、この世界の食糧難の問題、貧富の差の問題、そのようなとてつもなく大きな多くの問題を前にする時に、自分の小さな力は何の役にも立たないという、無力感に襲われるものです。しかしそこで、小さな善意が差し出される時、それをイエス様が大きな力に変えてくださるということを、この物語は示しています。

先ほど小井沼眞樹子牧師の宣教のことを申し上げましたが、彼女が一人の少年とかかわる、その子の成長にかかわる、ということは、大きな問題を抱えたブラジル社会の中ではほんの小さな働きであるかもしれません。大海の中のひとしずくのようなものかもしれません。しかし、それがイエス様に用いられていく時に、それは大きな宣教の業に変えられていくのです。何よりもまず、私たちがそうした宣教師の活動に目を向け、そして私たち自身が喜びを与えられて変えられて、共に歩んで行く決意を新たにすることができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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