経堂緑岡教会  説教ブログ

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悩み苦しみからの解放

2013年06月28日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(43)

詩編4編2~9節

ルカによる福音書8章40~56節

   2010年9月19日

      牧師 松本 敏之

 

(1)病と死

明日は敬老の日です。教会では、そのことを覚えて、今日、敬老のお祝いをいたします。教会でこのことを祝う最大の意味は、やはり神様がそのお年まで守り、導き、生かしてくださったことを共々に感謝するということでありましょう。

私たちの人生は、さまざまなものに脅かされています。まず外側から私たちの生活を襲うものがあるでしょう。自然の災害があります。戦争があります。さらには家族の崩壊、失業、経済的危機なども、これに加えることができようかと思います。さきの「湖での嵐」の記事は、そのような外的な危機を象徴していると思います(8:22~25)。

私たちを内側から脅かす力もあります。「湖での嵐」に続くゲラサ人のいやし、悪霊からの解放の記事(8:26~39)では、そうした私たちを内側から、精神的に追い込んでいく力について語っていました。

 さらに私たちを脅かすものは、病と死ではないでしょうか。人間誰しも、年をとっていくにつれて、健康であった人でも、さまざまな病を身に受けるものです。そして人間誰しも、どんなに長生きをしても、いつか死を迎えなければなりません。それはすべての人間に公平に与えられる厳粛な事実です。

どんなにお金があっても、どんなに家族に恵まれた人生であっても、病は容赦なく襲ってきます。そしてその向こうには死が待っているのです。私たちの人生を襲う最大の、そして最後の力は死であります。私たちは、自分の力では、これに対抗することはできません。自然の肉体が永遠に続くことはあり得ないからです。

 

(2)地位もお金も役に立たない

今日、私たちに与えられたテキストは、その病の力と死の力に対して、イエス・キリストが向き合ってくださり、それに打ち勝ってくださったという物語です。ここでは二つの物語がサンドイッチ形式で記されています。

イエス・キリストの一行は、ガリラヤ湖の東側、ゲラサ人の地から追い出されるようにして、ガリラヤ湖の西岸へ戻ってこられました。かの地では悪霊を追い出された人を除いて、誰からも喜ばれませんでした。しかし、ここではみんながイエス・キリストの帰りを待っていました。大勢の人がイエス・キリストのもとへ集まって来ます。そこへヤイロという名の会堂長がやって来て、イエス・キリストの足もとにひれ伏し、「自分の12歳の娘がひん死の病で伏しているので、ぜひ自分の家に来てほしい」(41~42節)と懇願しました。

会堂司というのは、ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)の世話をする責任者です。宗教者ではありませんが、単なる実務担当者でもありません。集会の指導的役員であり、社会的地位も高く、財産もあり、信用もある人がなりました。しかし私たちの人生には、身分も、地位も、財産も、教養すらも、全く役に立たないことがあります。自分にくっついている肩書がすべてはぎ取られ、裸の自分になった時に、イエス・キリストは語られ、力を発揮し、生きて働かれる主であることを示されるのです。

 

(3)12歳の少女の危篤と死

この少女は、最初はまだひん死の状態ですが、主イエスがたどり着く前に死んでしまいます。死というのは、老人にだけやってくるのではありません。働き盛りの人にもやってきますし、子どもにもやってくることがあります。そこでは、私たちは無力です。死というのは、一切の望みが消え果てる限界状況です。しかしこの限界状況に立って、初めて見えてくるものもあります。他の価値観はどんなに立派なものであろうとも、死で突然終止符を打たれるのです。ですから、その死というものを視野に入れて、私たちは一体何のために生きているのか、何が本当に私たちを生かすのかということを見据える必要があるでしょう。

この父親は娘をこよなく愛していたことでしょう。しかしいくら愛していてもどうすることもできないことがあります。その現実に立って、命の根源であるイエス・キリストの前に身を投げ出したのです。神の愛から湧き出てくる永遠の命だけが、人間の愛の無力さに力を与えるのです。

この父親も、娘の命の先がもうないという現実の中で、イエス・キリストの前にひれ伏すのです。

イエス・キリストは、彼の熱心な願いに心を動かされ、そして12歳の少女のことを思い、その人の家に赴かれます。大勢の人が外で待ち構えているにもかかわらず、であります。まるであの99匹の羊を野に残して、一匹の羊を追い求めて行く羊飼いのようです(ルカ15:4~6)。

 

(4)もう一人の女の12年間

しかしそのように12歳の少女の家に行こうと出発した直後に、もう一人の別の女に出会います。もう一匹の羊と言ってもいいでしょう。それは、12年間、病を負い続け、悩みに満ち、苦しみを背負っていた一人の女性でありました。12年間というのは、先ほどの少女が生きてきた年数と同じ期間であります。

 ルカは、12歳の少女と12年間出血が止まらない女性を並べることによって、全く異なる境遇の元に歩んできたこの二人の女性が、今やイエス・キリストによって等しく恵みに与っているという不思議な摂理に目を向けようとしたのでしょう。

 この出血が止まらないという病気は、当時は汚れた病気というふうに考えられていました。人に近づくことが禁じられ、近所づきあいも、場合によっては家族との接触も断たれていた。そういう病気であります(レビ記15:25以下参照)。ですから、この女性は自分からみんなのほうへ入っていくことができない。肉体の病と同時に、宗教的断罪と社会的疎外という三重の苦しみを負っていました。

ですから彼女は、誰にもわからないようにして、こっそりとイエス・キリストの後ろから近づいて行くよりほかにありませんでした。そもそもその衣の房に触るということも大それた行為でありました。しかし治りたいという一心で、イエス・キリストに近づいて行きました。その行為を、主イエスは「信仰」と呼んでくださるのです。もしかすると、逆に「何をするのだ。下がれ」と言われてもおかしくはない状況の中でありました。

この房というのは、ガウンのような衣服に四つの房が付いていたようです。着ている人が神に属するものであるというしるしであると考えられていました。着ている人自身が、その房を見て、自分は神に属する者として生活をしなければならない、ということを思い起こさせるしるしであったそうです。

この女性の場合は、対極のところにあったと言えるでしょう。そもそも彼女はその着物を着ることはできませんし、汚れの中にあって、神様の清さを受けることなどからはずっと遠い所にある。その彼女の目の前に、今その房がある。律法によれば、触ってはならない。近づいてもならない。しかし彼女は、迷信と言われようが、愚かと言われようが、絶望のただ中で、何とかその衣に触りたいと思いました。そしてそのように隠れて行動したのです。彼女は、そうする中で、イエス・キリストは神に属するお方だ、神様の清さに生きておられる方だと悟ったのです。イエス・キリストがほめられた「信仰」とは、そういうことではなかったでしょうか。そこには力がある。そこには自分を何とかしてくださるきっかけがあると、彼女が信じたということです。ご利益と言われようが、何と言われようが、そこから自分は変わっていくかもしれない、という思いがあったのです。

 

(5)なぜ、わざわざ尋ねたのか

「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)。

これも不思議な言葉であります。まわりの人は、「こんなに大勢の人がいるのです。誰が触ったかなんて、わかるはずがない」、あるいは「みんなが触っています」と思ったことでしょう。

愛の力が働いたということを、イエス・キリストご自身が感じた。そしてそこで立ち止まるのです。彼女の病が治ることだけであれば、主イエスの力が抜けて、その人を癒したのだから、もうそれでいい、ということになったでしょう。主イエスは早く次の場所へ行かなければならない。待っている人がいるのです。

しかし、彼女が本当の意味で新しく生きるために、そして彼女の病気が治ったということが町の人たち、共同体の中で認知されるためには、そのことが公表され、宣言される必要がありました。

彼女は自分が触ったということ、そして治ったということを知っていますが、それを言い出せないでいました。しかし隠しきれないと悟って、「私が触りました」と告げるのです。主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。

 

(6)病と死に打ち勝つ力

そのことのために多くの時間を費やしたのでしょう。先に進み行こうとされましたが、その時に会堂長のほうから、ある人が使いとしてやってきました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」残念ながら、もう来ていただく意味はありません。しかし主イエスは、これを聞いて会堂長に言われます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(50節)。

そして会堂長の家に足を向けられるのです。家に着いた時には、娘はすでに死んでいました。みんなで泣き悲しんでいたとあります。しかしその中の多くの人は、悲しみを盛り上げるために呼ばれた「泣き女」と呼ばれる人ではなかったかと思います。なぜなら、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」というふうにおっしゃった時に、人々は「あざ笑った」と書いてあるからであります。どんなにそれが信じられない状況であっても、「死んだのではない。眠っているだけだ」という言葉を聞いて、あざ笑うというのは、その娘の死の悲しみと離れたところにいた人であろうと思います。娘は、そこで霊が戻って、すぐに起き上がりました。

主イエスは、ひとりひとりの魂を心に留め、十把一絡げではなく、その都度立ち止まり、振り返り、そして命を注がれた。そうする中で、最後にはご自分の命をささげて、十字架にかかられたということができると思います。

 

(7)讃美歌「わたしに触れたのは誰か」

ブラジルにいた頃、この「出血の止まらない女」をそのまま歌にした「わたしに触れたのは誰か」という讃美歌に出会いました。最後にそれを紹介したいと思います。繰り返しのイエス・キリストの言葉(イタリック部分)は男声によって、それ以外は女声によって歌われます。

 

(くり返し)

わたしに触れたのは誰か?

誰かがわたしに触れた

わたしから力が出ていったことを感じた

わたしに触れたのは誰か?

 

1 わたしです

苦しんできた女

何の価値もない女です

12年の間ずっと

苦しみを引きずってきました

 

わたしです

ひどい痛みによって

律法によっても信仰によっても

人生の喜びから

締め出されてきた女です

 

2 わたしです

財産も使い果たしましたが

病気はよくなりませんでした

しかしあなたのうわさを聞き

希望がかえってきました

 

わたしです

いやす力をもって

来られた方のところに

押し入るように走って来た女です

わたしがあなたに触れました、主よ

 

3 わたしです

わたしの苦しみのいやしを

探し求めてきた女です

しかしこの苦痛が終わることを

わたしの体が証明しました

 

わたしです

うしろから身をかがめ

近づいたのはわたしです

心が締め付けられ

あなたの服に触れました

 

わたしの娘よ!わたしの娘よ!

あなたがわたしに触れた

わたしから力が出て行ったことを感じた

あなたの信仰があなたを救った

安心して行きなさい。

 

はい、行きます。

 

(作詞作曲:ジョアン・カルロス、

日本語訳:松本敏之)

 

 

 

 

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