帆を張る

たまに出現します

読書(20080123)

2008年01月24日 03時56分54秒 | Weblog
入不二基義『哲学の誤読』(ちくま新書)再

少し気になる論点があったので,全体を改めて通読。

本書で取り上げられている4つの文章は,筆者自身も述べているように,時間というテーマが通奏低音となっているが,それと並んで重要なのが,言語あるいは言語による認識という問題系である。

筆者は,時間と言語という二つの問題系をクロスさせることによって,言語によって把捉される時間(=反実在論的な時間概念)/言語によって把捉されない時間(=時間それ自体,あるいは実在論的な時間概念)という対立軸を設定し,そこから各論者の論考で展開されている時間概念,あるいはそれらの論考が意図ならずも語ってしまっている時間への態度を剔抉していく。

そこでのポイントは,言語によって把捉されない,ということは,現在にある人間にとっては認識不可能な「過去」を,過去として認定するかどうか,という点を一種のリトマス試験紙として,各論者を峻別している点にある。

著者である入不二自身が,このような分析を行いうるのは,実在論的時間概念と反実在論的時間概念のいずれも下支えしている,言語と現実の差異を,言語や現実(この差異を前者に回収すると,反実在論的となり,後者に回収すると実在論的になる)のいずれか一方に落とし込むのではなく,言語と現実の差異を差異のまま保存することを目指しているからだ。(その意味で,入不二の立場はどこまでも二元論的である。)

言語によってしか過去を把握できないという反実在論的態度を受け入れつつも,しかし,言語によって把握され得ない過去の位相(これを彼は「過去の過去性」と呼ぶ)を抹消しないという態度。時間に対するこの二重の態度から導出されるのは,言語の全体性(言語以外には何ものも存在し得ないという態度)に対する哲学的な「躊躇い」であり,そしてこの「躊躇い」によって逆説的にも可能となる言語への鋭敏な感性ではないだろうか。

読書(20080120)

2008年01月21日 02時47分37秒 | Weblog
入不二基義『哲学の誤読』(ちくま新書)

本書は自身が駿台予備校で教壇に立っていた著者が,大学入学試験の現代文問題から数題を選択し,それに哲学的な読解を加えていくプロセスを記したものである。

哲学的な読解というと何か特別な響きがあるが,そして,もちろん,筆者自身も述べているように,大学入試というゲームの規則とは異なっていることはたしかではあるが,しかし,にもかかわらず,本書で示されている読解の作法は,読むという行為に真摯に取り組むとすれば,ごく自然に取ることになるものであり,それゆえに,そのプロセスで明らかにされる,大学入試で常識とされている読解法が生み出す誤読の発掘がいっそうスリリングなものとなっている。

読書(20080117)

2008年01月18日 03時22分31秒 | Weblog
小島亮『ハンガリー事件と日本』(現代思潮新社)

本書によれば,1956年のハンガリー事件は,二つの重大な意味があった。

一つは,フルシチョフによるスターリン批判が,スターリン的な独裁的組織構造を温存したままでの,スターリン個人批判であったという思想的事実が,ハンガリー民衆に対するソヴィエト軍による弾圧を通じて,政治的に明らかになったことである。

そして,もう一つが,スターリニズムならびにスターリニズム批判に対する二重の幻滅によって大衆の側からの左翼思想に対する希望を根絶すると同時に,ハンガリーの民衆蜂起に対するソ連軍の軍事介入を正当化するという隘路に(一部の論者を除けば)陥ったために,左翼思想と民主主義とを接続する回路が閉ざされてしまったことである。

このように理解された左翼思想の転回,あるいは転回の失敗を背景にすれば,ニュー・レフトの展開も一種の徒花でしかなかったことが了解される。だとするならば,一部の論者のあいだでいまだに根強く唱えられている,いわゆる〈68年の思想〉なるものの神話化に対して,本書はある種の解毒剤としての役割も果たしうるのだろう。

映画(20080116)

2008年01月17日 03時07分44秒 | Weblog
『ホテル・ルワンダ』

民族の抹殺(エスノサイド)がなぜ悲劇的なのかといえば,もちろん数多の人間の命が奪われてしまうこともその理由であることは間違いないのだが,しかし,それがもっとも大きな理由なのではなく,前日まで隣人であった人間の命,つまり名もなき人間の命ではなく,名も顔もあり近接していた人間の命が奪われてしまうからである。

名も顔も知らない人間の命が剥奪されることにも,もちろん,人間は悲劇を読み取り,共感を寄せることができはするが,しかし,その悲劇や共感がよりいっそう痛切になるのは,ほんの少し前までコミュニケーションをかわし,生活圏を共にしていた隣人の命が剥奪されてしまうことである。

このエスノサイドの悲劇を十分に描けているかと言えば,本作は主人公であるホテル支配人の英雄的な行動に焦点があたってしまっており,エスノサイドのもつ,近接であるがゆえの悲劇性は十分には描かれてはいなかった。その意味で,第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を描いた数多の映画と,構造的な変化は何もない。

この種の虐殺/虐殺からの救出を主題化する映像では,個人の英雄的な行動ではなく,むしろ,異他的な複数の存在が近接するがゆえにいっそう残酷な行動に出てしまうという他者の共存がもたらすある種の矛盾をより鋭く描き出すものを期待したい。

他者の共存のもつ構造的矛盾を解消しうるのは,個人の英雄的な行動ではなく,むしろ,構造的矛盾そのものへの透徹した理解であると思われるからだ。

読書(20080113)

2008年01月14日 03時51分09秒 | Weblog
東浩紀『存在論的,郵便的』第1,2章

郵便,亡霊という隠喩が,ただの比喩的形象ではなく,デリダの理論性から,あるいは形而上学が必然的に帯びざるを得ないある種の時間形式を批判するために要請されたものであることを,丹念に説き明かしている。