帆を張る

たまに出現します

映画(20080219)

2008年02月27日 05時37分40秒 | Weblog
ジュゼッペ・トルナトーレ「題名のない子守歌」,「ニュー・シネマ・パラダイス」

前者は2006年の作品で,種々の仕掛けがほどこされているため内容を詳かにはしませんが,楽しむことができる佳作でした。当たり前だけれども,ノスタルジックな調子をいつまでも反復するわけにはいかないですよね。

後者は,あまりにも知られた作品であるし,もう何度観たか分からないけれども,映画館で観たということもあって,かつてのようにノスタルジーな調子が真っ直ぐには入ってこなかった。

ノスタルジーというのは,そもそも,喪失した対象(その対象は,現実的なものであっても,空想的なものであってもかまわない)への郷愁,哀悼の念なのでしょうが,かつてノスタルジーをおぼえた対象にノスタルジーを感じなくなったとすれば,それは,喪失そのものを喪失したか,あるいは,喪失を別の形式で(定義上,喪失した対象をそのままの形式で取り戻すことは不可能なので)取り戻したかのいずれかなのでしょう。

映画(20080218)

2008年02月18日 02時34分14秒 | Weblog
カウリスマキ「街のあかり」,「コントラクト・キラー」,「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」


それぞれ内容について特に言うべきことはないのだが,印象的だったのは,多くの登場人物が場面から消えていくときの無機的な歩き方だった。

(三本目の「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」では,それを逆手にとって,レニングラード・カウボーイズは,つま先の長い独特な靴を履き,そして,独特な歩き方をするので,これは別立てとするけれども。)

はたしてそこにどのような意味があるのか,あるいはどのような意味もないのか,にわかには判断がつかないけれども,彼の映画が帯びている一定の空気というかリズムを創っている一つの要素が,大股の,歩くことにのみ意識を向けた,あの歩き方にあるように思われた。

映画にリズムを与える手法は様々だけれども,歩き方が醸し出すリズムというのは新鮮だった。


その後,近傍の「多幸兵衛」に。東京で食べたおでんのなかでは断然の味でした。

読書(20080202)

2008年02月03日 05時42分19秒 | Weblog
ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)

一応は読了したものの,まだ消化しきれない。デリダの行論を追跡するだけで精一杯で,自分の言葉で語り直す/評価するまでには,まだまだ時間が必要であるように思われる。そもそも,マルクスのシュティルナー論を読まなければ。

いずれにせよ,もう少し読み込んでみることにしよう。