帆を張る

たまに出現します

雑感(20080319)

2008年03月20日 03時26分17秒 | Weblog
ここ数日,チベットの民族蜂起/中国によるエスノサイドに関する様々な情報を目の当たりにして,間近の仕事の準備が思うように進まない。ネットには,日本のマスメディアでは決して報道されることのないチベットの多数の情報が,真偽について検討の余地があるにしても,報道されている。その中でも,もっとも印象に残ったのは,YouTubeにアップされた次の動画だ。

http://www.youtube.com/watch?v=QIEM6FCfRNY



CNNという24時間の報道専門チャンネルでチベットの問題が中国による大本営発表とは異なった形で論じられていること,長年にわたってチベット問題にコミットしてきた俳優が一専門家あるいは一人のアクティビストとして真正面から正当な議論を展開していること--アメリカをとくに賞賛するつもりはないし,また,アメリカが当事者であったイラク戦争に対しては現在の中国とならんで厳格なメディア統制を強いたことは十分に考慮にいれなければならないけれども(とはいえ,海外メディアのチベットへの「入国」そのものを禁じている中国はアメリカ以上に閉鎖的であると言えるだろうが),しかし,これらの事実は,「政治」や「外交」を全面的にワイドショー化することによって日本で失われてしまった,「政治」というものに対するシリアスな態度を,アメリカはまだかろうじて保存していることを示しているのではないか。

逆に言えば,民族としての独立性の確保をめざすチベットでの一連の活動を,北京オリンピックというフィルターを通して脱政治化してしまう日本のマスメディアでは,政治屋たちによる床屋談義やら利益誘導やらは行われていても,政治のある重要な次元が失われてしまっているのではないだろうか。



日本のマスメディアの報道が失ってしまったものを言い当てるためには,民主主義の原則を言い表した言葉として,リンカーンのあまりにも有名な箴言,government of the people, by the people, for the peopleにおいて,nationではなくpeopleが用いられていることの意味を,今一度考えてみる必要がある。(リンカーンの言葉の起源が聖書にあることはよく知られている。)

nationが単一の原理に基づく政府を中心とした集団を表すのに対して,peopleは集合的に生きざるをえない人間の本性に則ったあらゆる人間集団のための言葉である。このことはつまり,民主主義という政治システムには,何らかの原理や利益に支えられた人間集団のためのものではなく,原理やら利益がいかなるものであれ《あらゆる》人間集団に普遍的に妥当しなければならない次元が(宗教と同じく)含まれていることを,リンカーンの言葉が語っていたことを意味している。(この次元を言い表す伝統的な概念が,言うまでもなく,「人権」であろう。)

この後者の次元を喪失したとき,つまり,《あらゆる》人間集団に共通する政治の「普遍的」な次元を喪失したとき,「統治government」は特定の原理を支持する政治技法に堕し,他の原理を容認しない抑圧のメカニズムへと容易に転化することになる。



現在の日本のマスメディアの報道が喪失してしまったのは,peopleという言葉に込められた普遍的な次元の政治性である。この次元を喪失した報道にできることはといえば,自らの原理や利害を支持する情報を伝達する一方,それに反する情報を捨象する,というダブル・スタンダードに基づいた情報の選択でしかない。

それゆえに,一方で,アメリカの失策に乗じて血気盛んになる報道機関が存在し,他方で,中国や朝鮮半島の失策に歓喜の声をあげる報道機関が存在するが,アメリカの失策にも中国や朝鮮半島の失策にも等しく態度表明をおこないうる報道機関が,日本にはほとんど存在しないことになってしまうわけだ。(客観的な報道(機関)など存在しないというシニカルな態度は,ここでは問題にはならない。シニカルな態度の先にある「普遍性」の水位を,民主主義の原義は指し示しているのだから。)

繰り返されるのはラベリングの応酬であり,敵/友の分別でしかない。何が失われているかという問いそのものを失いながら。

読書(20080302)

2008年03月03日 05時24分17秒 | Weblog
ホミ・バーバ『文化の場所』(法政大学出版局,2005)

必要があって,ポストコロニアリズムの基本文献の一つである本書を繙く。

全体の通読後に第1章を丁寧に追尾してみたのだが,他者を表象=代表する言説がつねにすでにアンビヴァレンスをはらまざるをえないこと,そして,そのアンビヴァレンスを拙速に統合してしまうのではなく,矛盾しあう対立項が分節化される瞬間に遡行する「時間性」を意味する「交渉」として理論を再定義することによって,理論と実践(あるいは,その変奏としての西洋と東洋)という対立を無化する新しい「政治」の地平を探究することを目指している。

これ自体,とくに目新しい主張ではないのだが,バーバのいう「時間性」が,ポストモダン系の議論がおびる傾向にある「空間性」に対して,どのように切れ込んでいるかに着目しながら,以降の各章,とりわけ第9,11章を読み解く予定。

それにしても,翻訳と原文を対照しながら読んでいるのだが,翻訳はもう少しどうにかならないだろうか。あまりにも予断が入りすぎていて,原文をあまりにもないがしろにしているように感じる。この種の理論的傾向が強い書籍の翻訳の場合には,もちろん日本語として成立していない訳文は論外ではあるが,しかし,一言一句を慎重かつ繊細にあつかう態度があってもいいのではないか。流暢な日本語を目指すあまりに,理論的厳密性が疎かにされてしまっている気がしてならない。自戒の念も込めて。

読書(20080301)

2008年03月02日 05時06分23秒 | Weblog
フレドリック・ジェイムソン「認知地図」(『10+1』No.3),『カルチュラル・ターン』(作品社)

資本主義の第三段階,いわゆる「後期資本主義」のありうべき文化理論をマルクス主義の立場から模索するジェイムソンの一連の論考を再読。