今から20数年前、年齢がまだ20歳代の頃、サラリーマンの生活に慣れ始めたある日、僕は毎日の生活に疲れきっていて、何を血迷ったのかその当時読みふけっていた「新田次郎」や「井上靖」、「松濤明」などの山岳小説にのめり込んでしまい、ふと気がつくと体は九重連山の真っ只中、あの有名な芹洋子さんが歌った「坊がつる讃歌」の高原に一人立っていたのです。
かつて登山など、一度も経験したことのないド素人が、ある日単独で地図とコンパスを持って(使い方など知らないのに ・ ・)三時間の道程を経て山の中に独り身を置いていたのです。
その日の前夜のことは鮮明に覚えていて、まさに遠足前の子供のように未知の探検家へと妄想を膨らませ、当日の朝を迎えたのです。
しかし、考えてみればこの浅はかな妄想が、のちになって僕の人生を左右するほど、その後の人生に影響を与えることになろうとは、当時は思ってもみなかったのです。
多い時は年間登山回数80回、山中テント泊数40泊。しかも冬山中心。ほとんどの休日は山に身をゆだねていました。家庭持ちのサラリーマンが行える遊びとしては、かなり度を越していたと、今では反省しきりなのです。平日の休みが殆どだった為、人並みの“休日は優しいパパが一緒で家族サービス!”が出来なかったのは、 至極残念でした。
当時20代の同世代の友人に『登山に行かないか?』と誘っても『どうしてそんな非生産的なことやるの?』と逆に聞かれ、一蹴されるのが常で、その内に小説に出てくる「孤高の人、加藤文太郎」のように、単独で入山するようになってしまったのです。
少し話はそれますが、今の時代は本当にうらやましいのです。「山ガール」?「山女子」?山岳ファッションが、若い女性の間でもてはやされ、僕が登っていた頃書店では「中高年の登山学」的な書物が店内をにぎわしており、テレビ媒体では「中高年の登山学」などと言う番組も放映されていました。その為か、標高に比例して女性が少なくなり、標高に比例して女性の年齢が上がっていく。そんな皮肉な現象が、まことしやかにまかり通っていました。
はじめの内は、九重連山のような柔らかい造形美の、優しい女性的な山にあらゆる角度から(バリエーションで)色んな季節の表情を感じたくて、登っていたのですが、その内に祖母・傾山から大崩山懐にかけて、九州中央の深山にのめり込んでしまうことになってしまったのです。それは『山にのめり込む者にとって、家を尻目に、より過酷な状況に自身を追い込んで行きたくなる当然の帰結であり、山ナルシストの世界と言えるかもしれません』 ・ ・ ィェ、いえました。
九州中央山岳の山は標高が決して高くはありませんが、真冬の頂上直下での積雪は60センチ以上になることもあり、真夜中のテントの中は、大陸からの寒気が南下した時のテントの外気温度が、マイナス20度近くに落ち込むこともあるので、山全体が暴風雨のような激しい風で、山自体が唸るような轟音で叫ぶのです。そんなテントの中で、寝付かれなくて怯えながら迎えた朝は、テントの中のインナーがバリバリに凍りつき、ついでにシュラフカバー(シュラフを包み込む、等身大の封筒型袋)も凍りつき、なかなか温かい羽毛シュラフの中から抜け出せないのが、難点なのです。
冬山の愉しみと言えば、氷点下の頂上稜線状を歩いていると、すっかり落葉した支枝に霧氷が凍りつき、一瞬、天井の透き通った青空をバックに、風に支枝が揺られて目の前を、氷の小さな「かけら」、ダイアモンドダストがキラキラと舞い落ちるのです。
また厳冬期の夕方、目的地までの視界を遮るクマザサをかき分けながら進んでいると、頭上の常緑樹に雪が降り積もり、雪が夕陽の色に透過して、あたり一面の雪景色が黄金の飴色に染まり、その光彩は体験しようのないイルミネーションで彩られたプロムナードを歩いているかのような、感動的で幻想的な瞬間を独り占め出来るのです。
山の話になると、つい文章のノリと人格が変わってしまい、エキサイトしてしまって、とても恥ずかしいのですが、最近ネタ切れで、友人や知人に会うと『ブログはあれで最終回だったんだよね』とか『話が硬いね』と、皮肉いっぱいに言われるので、いよいよ山の話を少しずつですが、時折語って参りますので、今後も宜しくお願い致します。