寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

お休み記事です、 病による心労・・・・・。

 

今回は、皆さんにお知らせがあります。これまで長きに渡り、親しみられて来たこのblogですが、今回を持ちまして活動を永遠に停止します。書く事が無くなったと言う事と、私の体の不調からそう決断致しました。当分は身体の休養に充てます。このblogをやり始めてから思えば色々な事がありました。ハッカーに改竄されたり。いまだに続いて居ますが、、争いに巻き込まれたり。ただ何時も皆様からの温かい励ましや声援があって今までやって来れました。感謝してもしたりません。ですが私はこのblogはもう辞めようと思います。しかし暫くしたら?、何時の日にか別の形でまた皆様の元に現れるかと思います。その時は、また相手をしてやって下さいね。ちなみにこのblogは残しますのでアーカイブとして記事はお読み下さいね。それでは、さようなら。。。。長い間有難う御座いました。。。。(๑>◡<๑)

 

 

 

此間、92歳の母親を在宅医療で医師に診て貰って居た。66歳の男が散弾銃で医師と作業療法士など3人に3発発砲して、医師を殺し作業療法士は重傷を負いながらも外に逃げて助かったと言って居た。何なんだかなぁ、、医師たちは弔問に来て居たと言う。それなのに母親は心臓マーサージをすれば生き返ると言い張ったらしい。勿論死んで居るのだから。どう仕様も無い。その医師はその界隈でも親切丁寧に患者の面倒を見てくれて居たと言う。それなのに自分の母親が粗末に扱われて居たとか、何言ってるんだか。老害だろ、、何でそうなるんだ。その男は母親に死なれてもうどうしたらいいか、解らなくなって自暴自棄になったとか言って居た。66歳にもなって、母親の死が受け入れられなかった馬鹿者だ。金が無かった訳では無いだろうに。母親は92歳だったそうだ、、ちなみに私の母親は今、87歳ぐらいになる。私の父はおそらく老年になって痴呆になったのだろう。馬鹿な事しか言わなかったししなかった。母は、アルツハイマー型の認知症だ。しかも年々具合は悪くなる一方だ。そして私は、統合失調症だから。亡くなった弟以外の姉弟、姉からは物凄い勢いで、嫌われて居る。この間。私のblogを興味本位で見て居たgooの会員が居た。人に取ったら、さぞかし私のblog記事は面白いだろうね。

人は絶望すると他人を傷つける。皆んな生きて来た感謝を忘れて居る。私とて人を憎み、人を恨む事もある。しかし、それが自分の運命なんだと何時も何遍も言い聞かせて居る。それでも止まらなくなる事もあった。私は21歳から47歳まで、親父の会社で働いて、従兄弟らに散々嫌がらせをされた。一時は、余りの嫌がらせの為に怒りが収まらなくなり。包丁を鞄に入れて会社に行った事もある。その時はカバンを開けて、包丁を見せて居たせいか、従兄弟は何故か近寄っては来なかった。人は追い詰められるととんでも無い行動に出る。私はただでさえ統合失調症と言う病を持って居る。皆さんはこの病がどんなものか知らない。単なる頭がおかしい病気だと思って居る。はっきり言って人の言葉が突き刺さって聞こえてくるのですよ。ただでさえね。こう言うblogの文字でもそう。だから気が立って来るし、人から揶揄われたり、嫌味を一言でも言われたら、相手が許せなくなります。私は外見から話し方から少しトロく見られる。今までも、そのせいで散々馬鹿にされて来た。人は残酷だ。少しでも人と劣る様な人間は容赦はしない。

私の事はblogの写真でしか皆さんは知らない。私が日々体調が悪く、精神状態が悪いので。人間関係でどんなに悲しんで、自暴自棄になって居るのかを知らない。もっとも知った処で、どうにも出来ないと思う。人は無力だ。でもそれだから・・・、いやただ、見て居るだけしか出来無いと思う。私の弟は外科医だった。嫁さんを貰って、子供が双子が産まれそれから女の子が生まれた。3人の子持ちだった。私はその子らを自分の子供の様に思って可愛がって接して来た。しかし弟と嫁は離婚をした。何故なら、嫁さんは看護師で、弟とはすれ違いの生活だったからだ。私に嫁は居ない。結婚は障害の病のせいで出来なかった。でも此間、私もいい加減に寂しくなった。だから、ある、サークルに入って見た。私は60代だ、だから50代ぐらいの女性のお茶飲み友達でも欲しいと思ったのだ。しかし、自分の紹介欄を書く段になって、よもや統合失調症だと本当の事は書けない。だから、心の病と一言だけ書いた。結果。断りの通知が来ました。丁寧な文ですが。私には何も無いのですよ。

私を診てくれて居る訪問看護師さんは居る。しかし、あくまで仕事で私のことは患者としか診ては居ない。ヘルパーさんも来るが、私がケアマネージャにキチンと掃除をしてくれない時がたまにあると言ったら。あくまでヘルパーさんで家政婦では無いからねと言われた。私のことは皆そうだ。人より劣った人間としての認識でしか無い。この間は検査だった。肝臓が悪いと言われた。心臓も少し悪いそうだ。私は今、体の不調に加えて、精神状態も最悪だ。今このblogを書きながら、病院モノのお産のドラマの話を聞いて居る。赤ん坊が生まれて来るのは大変な事だ。ましてや成長するのは奇跡的な事だ。しかし障害を生まれながらにして持った赤ちゃんが生き様と頑張って居る。私は今、台詞を聴きながら、涙ぐんで居る。医師はそれぞれに最大限の努力をして居る、、だから此間の66歳の身勝手な男は許せないのだ。在宅医療の医師に感謝こそあれ、敵意を持つとは何事だ!!。親はいずれは死ぬものだろう。最近は人の繋がりを求める。特に中年男性が多いと思う。前に「55歳の純情」と言うドキュメンタリー番組があった。彼は21歳の地下アイドルが好きになった男性だった。彼はその歳まで恋人も居なかった。ただ、21歳の地下アイドルを応援したくなったのだった。

彼は必死になってその子を応援した。時にはペンライトを振りながら、そして。時には紙テープを投げて応援して居た。彼女も彼の事を疎かにはしなかった。でも別れは突然やって来た。彼女が参加して居たユニット・グループが突然解散したのだ。それでも彼女はTwitterのアドレスを彼に教えた。それ以来、彼は彼女の前には現れなくなった。Twitterで彼女の近況を知る以外すべはない。別れは突然やって来る。私の、最後の希望は青木志貴ちゃんだ。彼女はもう32歳になった。今年で・・・・・。しかし私は彼女を応援して居る。彼女は可愛い女性だ。歳の割に可愛いのですよ。それは彼女の持って生まれた性格だ。ただ可愛いのなら猫と一緒だ。しかし彼女は、優しいのですよね。あるYouTubeの動画で年越し蕎麦を食べながら、新年まで皆んなと過ごすと言う番組があった。その時にファンの皆んなが彼女にお年玉を寄付し出したのだ。普通ならどうだろうか、嬉しいと言ってはしゃぐのでは無いだろうか?

しかし彼女は違った。何と「皆んなに悪いから、いいよ、いいよ、わ~~!。そんなに寄越さなくてもいいからね」と言い出したのだ。そう言えるのが彼女の優しさだ。決して驕らず。そして控えめなんですよね。彼女は、自分の事を精神的には男だと言って居ますが、彼女は女だ。賢く優しい女性だ。私は彼女を見て居るだけで、それで満足です。でも此間、彼女が所属して居る三木プロダクションにメールを入れて見た。何故なら、私は彼女の写真をblogに貼り付けて居るからです。私は正式に了承を得たかったのです。しかし勿論何の返事も来なかった。当たり前ですね。でも私にやめてくれとも言わなかった。ちょっとグレーゾンだが、それで、いいとします。私は彼女を直に見たいとは思わないし。彼女と彼女の若いファンたちの輪の中に入ろうとも思わない。私は彼女のYouTubeの映像だけを、見て居るだけで満足なんですよ。私は彼女の事を娘の様に思って居るのだから。私を見て居て、誰でもが嫌だろうと思いますよ。でも精神病は苦しいものですよ。特に私は死んだ弟と姉から阻害されて来た。親に言われて無理をして、会社に行っても嫌がらせしかされなかった。弟も死んだ。姉は私に母の居場所を教えない。私が何をしたと怒りたくなるが。もういいのですよ。さてと私はあと何年生きられるだろうか?少しは元気を出すかな、6月には生活保護を申請するのだから。果たして生活保護は通るのだろうか。この先、私にはどんな運命が待ち構えて居るのだろうか。。。

 

志貴ちゃんと飼い猫、ユンちゃんとドラゴンちゃん、、、

 

今日の昼食です。。。

私が作った豚肉の生姜焼きです、、、

 

 

今日の夕食。。。広東麺と餃子、、、

 

テレビでNHKのドキュメンタリーを見た。その番組はNHKでディレククターをやって居る女の子が撮ったものだが。その中で彼女は新宿歌舞伎町で働く自分のお母さんを自分のスマホで撮って居るのだが、まだ若いせいか、お母さんから「新宿に深入りするな。お前は真っ当な道を行け」と言われても「私らは叩き上げの人生だから」と言われても、そちらがカッコ良いと思って居るらしい。自分は一流大学を出て、NHK に入社したのにだ。番組の中では日雇い労働者の人が作った劇団とか出て来るのだが、その子は彼らにシンパシー何処か、憧れの念を抱いて、それに比べて自分はと落ち込む。見ていて歯がゆく思った。その子に言いたかった。「あなたが抱いて居る感情は、怖いもの見たさなんだよ」と。実際、世の中の底辺に身を置いてみれば解る事だ。それは単なる憧れなのだと。芸術とは混沌とした生活の中から、その矛盾として秩序立って形成される。そしてその混沌とは、狂おいしいまでの絶望と寂しさの末に現れる事象なのだ。

到底普通の人には理解しがたい衝動と欲求の果てに自分を置いて初めて実感できる欲動。その欲動に身を任せたい為に人は危険な賭けに出る。そして事象の発見を探そうとする。発見とは自分と世界の関係についての新たな情報を得ることだ。世界に関する情報を得るためには、「運動器官によって世界に働きかけ、感覚器官を通じて情報を受け取る」と言う世界との関係を持続することが必要だ。その「働きかけ」の積み重ねが生み出すものが芸術作品だと思われる。つまり、自分と世界との関係についての情報を探すのが芸術と言う行為であり、その結果として生まれるものが作品である訳だ。芸術は人間と外界の情報交換であり、情報媒体が作品であるとも言える。情報媒体としての芸術作品の価値は、その作品から引き出すことの出来る情報量で決まる。作品が単に量的に膨大なものであれば、そこに込められる情報量は多くてあたりまえだ。また量的な情報量は一目で分かる。そこで、「一目で分かる情報量の割に、多くの情報が引き出せるもの」が情報媒体としての価値が高い、と考えることが出来る。つまり芸術の価値を美とすると、

美 = 暗黙的情報量 / 明示的情報量

と表せることになり。暗黙の情報とは「明確に表現されては居ないが深く吟味すれば分かる様な」情報のことで、意識される情報とは「明確に現われて居る」情報の事だ。つまり、「ひとつひとつの形、音、動き、などの要素にどれだけ多くの意味が込められて居るか」が問題なわけだ。この式から、美しいものを言葉で表現しにくい理由が解る。美しいものは暗黙の情報量の比率が高く、暗黙とは言葉で表現出来ない事だからだ。また、美を感じ取るのは直観あるいは無意識であると言う事も分かる。さらに、美しいものは飽きないと言う事も説明できる。飽きると言うのは「もう発見がない」と言う事だが、美しいものは暗黙の情報が多いので発見が尽きない。この定義は美術や音楽などの芸術ばかりでなく、スポーツや学問から日常生活に至る我々の全ての活動に当て嵌める事が出来る。何故なら、我々の活動とは要するに脳の情報処理だからだ。我々が世界に対して情報を探求するつもりで働きかければ、どんなものごとでも芸術と同じような行為になると考えられる。この場合の美しいものと言う定義は文字通り見目、形が美しいと言うのではない。

はっきり言って混沌とした塊、見た目が悪いものでも、その人が芸術的に美しいと感じたらならばそれには美があると言う事だ、或いはその物体、事象の中にある説明しがたい衝動にかられると言う事だ。秩序立って形成された美だけが美ではないもっと思考の深淵深く洞察されるある衝動こそが美なのだ。そしてその美を探求し、実践できるものが芸術家だと言える。そして芸術とは深層心理への探求。芸術理論としての一貫性を作る中で構造的にドグマとパラドックスを生み出させる。一般人が考えようもない事象。出来事が芸術的欲動なのだ。そしてその後NHKのディレクターの女の子は自分に内包している預かり知らない処の欲動に無意識に形成される妄想に突き動かされようとして居るのだ。私にはこの女の子の気持ちが手に取る様に解った。勝手、私も17歳の頃に抱いた欲動だ。「しかし彼女には今の地位がある生活があるでは無いか?」と私は訝しく思ったのだ。捨てられる感情と道徳を排してのみ、芸術は完結出来るからだ。私はこの番組を見て、そのNHKのプロデューサーの女の子は憧れで持って歌舞伎町にうごめく芸術家たちを見ているのだと思った。その自身の欲動が完結されるまで・・・。

ラスト トーキョー 2 新宿 歌舞伎町2020-2021

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最近読んでる漫画と本。。。

そして老いぼれて居る私です・・・。

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  =ハードロックの定義=

初期の標準的なスタイルはブルースやブギーを基調としたラウドなサウンドのロック形態を取った。歪んだ音のエレキ・ギターを強調したサウンド形態も特徴である。1960年代後半に誕生した。

初期はサイケデリック・ロックやブルース・ロックの混合物としてスタートし、1970年代前半にはハードロックの呼称が定着し、全盛期を迎えた。

ハードロックとヘヴィ・メタルの微妙な相違点を定義づけるのは難しい。ただ例をあげると、グランド・ファンク・レイルロードは黒人音楽の強い影響を受けており、ハードロックではあるが、ヘヴィ・メタルとは呼ばれない。またディープ・パープルも、70年代にはハードロックと呼ばれ、ヘヴィ・メタルという言い方はあまりされなかった。また、ヘヴィ・メタルと言う名称も比較的早くから存在しており、「レッド・ツェッペリン」、「ブラック・サバス」などが、典型的なスタイルとされる。

ハードロックなどロック分野だけに留まらず、ポピュラー音楽の発展はブルースとの関連抜きに語る事は難しい。ブルースは、もともとは奴隷状態下に置かれたアメリカの黒人の労働歌やワークソングを唄ったものに起源があり、これ故「簡素で分かりやすい形式」(I→IV →Vを基本形とする単純なドミナント)であり、またその境遇故に唄われる内容は少なからず、プロテストな色彩であった。ジャズもブルース起源である。ただジャズはインストルメンタルの楽曲が多いため、ビリー・ホリディやマックス・ローチらを除けば、辛辣、痛烈な批判を暗喩にしたり(奴隷であった彼らは、白人への不満を直接的に口にできなかった)、直接的に伝えることが難しかった。また、アメリカに於いては黒人人口も多く、ロックン・ロールやロカビリーなどの、カントリーに黒人音楽のブルースやR&Bを混合した音楽が発達した。1950年代は、アメリカのロックンロール、ロカビリーが、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代である。

イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段として、ブルースが若者の心をとらえたことから、ブルースを基調とする音楽を演奏する者が次々現れた。60年代には、イギリスではちょっとした「ブルース、ブルース・ロック・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点である。アメリカでも、原点であるブルースに回帰する流れの中に、60年代後半のキャンド・ヒートやポール・バターフィールドなど多くのバンドがいた。

ロックはブルースから簡素でわかりやすい形式、プロテスト的な歌詞」を受け継いでいるが、黒人文化には直接的に影響を受けていない白人が再解釈したものである。白人の音楽は、「跳ねるリズム感覚」(俗に「黒っぽさ」とも言われる)は希薄だった。リズムが跳ねた感じになるのは、「”裏拍”にアクセント」が置かれているからである。クラシック音楽は、ロックと同様「表拍にアクセントがある」のを基本としており、欧米の白人文化圏は、そもそもクラッシック音楽文化圏なので、ロックも跳ねるサウンドを奏でることが難しかった。

 70年代になると、ブルース色はロック性へと昇華(基本的には同じもの)、70年代ハード・ロック黄金時代が到来。

 70年代末はパンクに押されていたが、80年代初頭、スピーディで勢いのあるアグレッシヴなハード・ロックが登場、ヘヴィ・メタルと呼ばれ、NWOBHM(ニュー・ウエイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)ムーブメントとなる。しかし、ブームになるにつれ、勢いだけで音楽性の低いヘヴィ・メタルが増え、音楽性が低下。その後、音楽性を上げようとヘヴィ・メタルはメロディアス化。
 
そしてついに80年代後半、メロディアス/メロディックなポップ・メタル/ヘア・メタルによりヘビメタ・ブームとなり、ポップで華やかで明るいゴージャスなポップ・メタル/ヘア・メタルの一大ムーブメントとなった。その一方で、アンダーグラウンドでは本来の攻撃的メタルの流れにあるスラッシュ・メタルやヘヴィ・メタルのダークサイドを推し進めたデス・メタル、ブラック・メタルが台頭と、ヘビメタ・シーンは表舞台のポップ系と地下の邪悪系に二分極化。1988年~1990年あたりになると、ロック性の希薄なポップ・メタル~(プードル)ヘア・メタルが飽和状態となり、さすがに1989年頃にはヘア・メタルはダサいと言う風潮に。
 
 
90年代になってからは、メロディアス・ポップ化したヘヴィ・メタルに対し、グランジ=ハード・ロックの復権がおこり、ロックに飢えていた欧米のロック文化圏の国々では爆発的に受け入れられたと同時に、グランジ・ムーブメントの席捲によりゴージャス・ポップなヘビメタは死滅。ただし、日本ではジャーマン・メタル、北欧メタル、ネオクラ、メロハー、メロスピ/メロパワ等の“ビッグ・イン・ジャパン”的ジャンルのHM/HRが人気という日本独自の特殊なHM/HRシーン/マーケットが形成
 
 
つまり、日本は海外とは事情が異なっているので、その部分の歴史を補記
 

( ビッグ・イン・ジャパン誕生の話) 
 
80年代のヘビメタ・ブームは日本の場合、ハード&ヘヴィーな部分に惹かれてのブームではなく、ポップでキャッチーなメロディーに惹かれてのブームであったため、ポップ性の無いハード&ヘヴィーな次のグランジには行けず、日本のHM/HRメディアは欧米のメインストリームとは無関係に、ヘヴィーなロックよりもメロディアス・ポップなものを好む80年代メタル育ちの日本人の感性にあうジャーマン・メタルや北欧メタル、ネオクラ、様式美、メロハーなどの日本人HM/HRリスナー向けのメロディックHM/HRを世界中から発掘して、日本の市場だけで売ればいい・・・いわゆる「ビッグ・イン・ジャパン」を誕生させ、イングヴェイ・マルムスティーン、ROYAL HUNT、HAREM SCAREM、FAIR WARNING、DREAM THEATER などといった「ビッグ・イン・ジャパン」バンドを世界的な動向とは関係無しに探し出して紹介するという日本独自の供給を続けた。
  
 
90年代はグランジによるハード・ロック復権と共にヘヴィ・ロック/ラウド・ロック/ニュー・メタルが世界を席巻したが、上記の通り日本だけはドイツや北欧のメロスピ/メロパワ、ネオクラ、メロハー等の“ビッグ・イン・ジャパン”的ジャンルのHM/HRが人気という日本独自の特殊なHM/HRシーン/マーケットが形成され、世界の主流メタル・シーンから大きく離れてしまった。
 
 
グランジはその後、モダン・ハードロック(海外で言うオルタナ・メタル、ハード・オルタナティヴ)へと受け継がれ、海外で言うMetalであるラウド&ヘヴィ・ロック、メタルコア等と共に、ハード&ヘヴィ・ロック不滅の歴史を積み重ねており、以後、今日に至るまで海外で主流の海外で言うMetal/Hard Rockはずっと健在である。
 
 
現在は、メインストリームではメタルコア等の現代メタル/新世代メタル、ポスト・ハードコアとそのポスト・グランジ的な現代ハード・ロック(オルタナ・メタル)が中心になっており、アンダーグラウンドではデス・メタル/ブラック・メタル等がオーソドックスなメタルらしいメタルとして存続。
 
 
ただし、日本だけは現在も80年代メタル嗜好が続いているため、今でも80年代メタル(スラッシュ・メタル等も含む)とその延長にあるメロスピ/メロパワ/メロデス、メロハー、ネオクラ、様式美、ゴシック・メタル、シンフォニック・メタル等が人気という日本独自の路線であるがゆえ、日本はどんどん世界から取り残されて行って居る。
 
 

Deep Purple - Wasted Sunsets

SYMPATHY -RARE BIRD 1969

Ningen Isu / Heartless Scat(人間椅子 / 無情のスキャット)

Judas Priest - The Hellion / Electric Eye (Live from Battle Cry)

Humble Pie - Stone Cold Fever

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「ブルース」
 
 
- 自由の獲得と新たな苦難が生んだ心の叫び -
 
<奴隷解放>1865年、奴隷解放によって黒人たちの生活は大きく変わることになりました。彼らは白人奴隷主の家を追い出され、それぞれの生活をする必要に迫られたのです。自由を獲得したはずが、経済的にはそれ以前よりも厳しくなり、再び小作農として雇われた黒人たちにとって奴隷時代とは変わらない生活が続くことになりました。
 
ただ、彼らにはそれまでにはなかった自由な時間がわずかながらできました。それまでは、農園の規則により食事と睡眠以外の時間をほとんど労働に縛られていて、教会で仲間たちとともに黒人霊歌を歌う時ぐらいしか、思う存分歌を歌うことができませんでした。それが、仕事を終えた後に個別の自由時間ができたことで、「神」についてではなく「自分」について歌う機会が生まれ、そこから個人のための新しい音楽「ブルース」が生まれることになったのです。
 
<フィールド・ハラー>ブルースは、フィールド・ハラーと呼ばれていた労働歌とヨーロッパから白人が持ち込んだ大衆音楽バラッド Balladsが組み合わさったものと言われています。労働のためのかけ声にアフリカから持ち込まれたリズム感を持ち込むことで発展したフィールド・ハラーは、当初は限られた歌詞を繰り返し歌うごくごくシンプルなものだったようで、定まった形式などをもってはいませんでした。それに対してバラッドは、文字を知らないヨーロッパの一般大衆のために歴史や伝説を歌のかたちで表現する芸能の一ジャンルとして発展したものです。しかし、同じような歌の伝統は奴隷たちの故郷アフリカにもありました。それはグリオと呼ばれる世襲制によって受け継がれる人々によって代々受け継がれていました。彼らは部族の歴史や伝説を歌として継承することをその仕事のひとつとしています。元々アフリカには文字の文化がなかったため、グリオの仕事は非常に重要なものでした。そして、この伝統が弦楽器を手に弾き語りをするヨーロッパのバラッドと組み合わさり、さらにフィールド・ハラーのもつリズム感や叫び声の要素を加えることで、ブルースの原型が生まれたのではないかと言われています。黒人霊歌の影響ももちろんあったのでしょうが、それはあくまで公の場所において、集団で歌う歌の世界であり、ブルースの世界とは異なる存在でした。
 
<ブルースの故郷>ブルースは、歴史的に早くから人が住み着き、農業や産業が発展することで黒人奴隷を数多く必要とした場所から発展したようです。アメリカ大陸は広く、現在のように交通も情報網も発達していなかったので、当初はブルースといっても地域それぞれの特色がありました。
 
(1)ミシシッピー・デルタ・ブルース 綿花畑がどこまでも広がるアメリカ南部を代表する土地、ミシシッピー川がつくるデルタ地帯は、その後アメリカ各地に広がっていった黒人たちの多くにとって、故郷ともいえる土地となります。ブルースにとっても、やはりそこは故郷であり、当然多くのアーティストがそこから生まれ、その後アメリカ各地へと旅立って行くことになります。レコードによる録音が始まった時期、60曲もの録音を行い、デルタ・ブルースの基準ともいえる音楽を残した最初のブルース・ヒーロー、チャーリー・パットン。彼はビンの口や鉄の棒を用いてスライド・ギターの奏法を完成させたことでも知られています。その他、サン・ハウス、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、ウィリー・ブラウン、ブッカ・ホワイト、スキップ・ジェイムス、そして伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンが現れ、いよいよデルタ・ブルースは完成の域に達します。
 
その後、デルタ・ブルースの大物たちは仕事を求めて北部(特にシカゴ)へ移動する静かなる民族大移動とともにデルタ地帯を去って行き、ゆっくりとその勢いを失って行きました。しかし、ミシシッピーからギター片手にブルースをうなる伝統が消えたわけではありません。ブルースを再発見するプロジェクトがあるたびにブルースの故郷、ミシシッピーは脚光を浴び、その輝きをみせてくれます。未だにそこはアメリカで最も貧しい土地であり、そこに住み続ける黒人たちにとってブルースは切り離せない存在なのです。

「アメリカ南部で「デルタ地方」といえばミシシッピー州北西部にある、二本の河川の氾濫によってできた広大な沃野をいう。河口のデルタと区別して「内陸デルタ」といったりもする。ミシシッピーデルタの北端はテネシー州のメンフィスで、南端はミシシッピー州のヴィックスバーグである。デルタの広さは東京都の面積の10倍近い。木の葉形の平らな大地だ。ミシシッピー川が西の境で、東の境はヤズー川およびシルトのローム層の台地である。地形的にもっとも東西に膨らんだところの直線距離で130キロほどある。20世紀のアメリカ音楽のルーツをたどると、この果てしなく続く空と、まっ平らな大地に行き着く。」
ジェームス・M・バーダマン(著)「ロックを生んだアメリカ南部」より

(2)テキサス・ブルース
ミシシッピー・デルタに匹敵するブルースの故郷としてテキサスがあります。この地域のブルースマンにはギターの名手が多くリズミカル&ダイナミックなブルースが生まれる土地柄だったといえます。
初期のブルースマンとしては、ブラインド・レモン・ジェファーソンがいます。彼と一時期行動をともにしていた直系のブルースマン、レッドベリーは、波瀾万丈の人生の後、ニューヨークに移り住み、数多くのフォーク・ミュージシャンたちにブルースの何たるかを伝える役目を果たすことになります。ボーカリストとして活躍したテキサス・アレクサンダーも、その名のとおりテキサス出身で、彼はギタリストとしてロニー・ジョンソンを従えていました。
 
その後、1940年代以降に活躍したブルースの巨人としては、ライトニン・ホプキンスとブルースだけでなくロック以降すべてのギタリストに影響を与え続けるギタリスト、T・ボーン・ウォーカー、この二人を忘れるわけにはゆきません。
 
なお、デルタ・ブルースが黒人たちの北部への移住とともにシカゴを中心とする北東部へと広がっていったのに対し、テキサス・ブルースはロスを中心とする西海岸へと広がって行きました。西海岸とテキサスのつながりは深く、後のウエストコースト・ロックへとつながるカントリー・ロックの流れも西海岸がその中心地となって発展することになります。

(3)アパラチア山脈周辺のブルース
アメリカ建国の歴史において、最も古い歴史をもつ土地、バージニア州。スコットランド系アイルランド人の移民が多かったアパラチア山脈周辺のこの地域には、バラッドの文化がどこよりも強く残されていました。そのため、この地にやってきた黒人たちの音楽にも強い影響を与えることになります。こうして、バラッド色、弾き語り的要素の強いブルースがこの地では育つことになります。ジョシュ・ホワイトらのブルース・ミュージシャンは、すぐ北にあるニューヨークへと渡り、そこでフォーク系の白人ミュージシャンたちに大きな影響を与えることになります。ニューヨークのフォークに最も大きな影響を与えたのはこの地域のブルースかもしれません。

<ブルースの特徴>
こうして生まれたブルースについて、黒人音楽研究家のリロイ・ジョーンズは、3つの特徴をあげています。(「ブルース・ピープル」音楽之友社より)
 
(1) ブルースは黒人が初めて完璧なアメリカ語で作った音楽であった。
これは、オリジナルの歌詞で黒人霊歌を作りながら英語をマスターしていった黒人たちが韻を踏むテクニックまでも自分のものにしたことで、初めて可能になったことです。それは、彼らが初めてすべての黒人たちにとって共通な言語を獲得したということの証明でもありました。さらにここから、現在のラップ・ミュージックに至る黒人たち独自の音楽・言語スタイルが生まれることにもなるのです。
 
(2)ブルースは黒人が初めてソロで歌った歌だった。
それまでの黒人音楽は教会か労働の現場において集団で歌うものでした。当然、そこで歌われるのは「神への讃美」か「労働のためのかけ声」でしたが、一人で歌う歌にはそれとは別の対象「個人」もしくは「自分」が登場するようになったのです。そして、集団ではけっして歌うことのなかった自分自身の本音や隠された欲望など、「心」の内側を歌うことができるようになったのです。こうして、「恋」「セックス」「金」「悪魔」「不倫」「殺人」などについて歌う歌、「ブルース」が誕生することになるのです。(もちろん、ブルースでも「神」について歌われる曲はいっぱいありますが)こうした、ブルースの主なテーマは、その後ポピュラー音楽の歌詞にとって大きなインスピレーションの源となり続けることになります。
 
(3)ブルースは黒人が初めて伴奏を伴って歌った歌であった。
それまでの黒人たちの歌は、どれもアカペラで歌われていました。しかし、ギターという自分でも作ることが可能な単純な構造の楽器の普及と自由な時間を利用することで弾き語り形式の演奏が可能になったのです。

<ブルースを生んだ時代背景>
こうして初めて、黒人たちは自分たちの心の奥に潜む欲望や悲しみを、自分たち自身の言葉で表現することができるようになったのですが、それにはもうひとつ重要な時代背景の影響がありました。それは奴隷解放が行われ、黒人たちに自由が与えられるようになった19世紀半ば以降、その反動として南部では黒人へのリンチが激増、さらには州ごとに黒人を差別する州法が次々に成立。レストランや劇場だけでなく水飲み場までもが分離されるようになり、奴隷制以前よりも厳しい差別の状況が生み出されていたのです。その影響がそれまで神への歌しかなかった黒人たちに新たな悲しみのはけ口を必要とさせたのかもしれません
 
「ブルース」が「黒人たちの悲しみを表現したもの」と言われるのも当然です。
「ブルースとは、心の状態であるとともに、その状態に声で表現を与える音楽である。ブルースは捨てられたもののすすり泣きであり、自立の叫びであり、はりきり屋の情熱であり、欲求不満に悩むものの怒りであり、運命論者の哄笑である」
ポール・オリバー著「ブルースの歴史」より
 
「ブルース」という音楽の誕生は、黒人たちがアメリカで今後も生きて行くことを決意したことの証明だったと言えるのかもしれません。彼らはどんなに厳しい環境でも、どんなに残酷な差別を受けながらも、「もう自分たちはここで生きて行くしかない」そう覚悟を決めたのです。(その逆に、アフリカへ帰ろうと呼びかけた音楽がレゲエであり、その中心思想だったラスタファリニズムでした。ボブ・マーリーはその運動の先頭に立っていたからこそ、ジンバブエの独立運動を応援し、アフリカへと何度も出かけたのです)

「アメリカにいるアメリカ人が自分たちはアメリカを離れることなどないと気づいた瞬間からブルースは始まった」
リロイ・ジョーンズ著「ブルース・ピープル」より
 
 
 
ブルースに触発されたロック・・・
 

Melvin Taylor- Blue jeans blues

Wolf Hoffmann - Blues For Elise

Chris Rea - Santo Spirito Blues

Alvin Lee – The Bluest Blues

Jimmy Page "Prison Blues"

Stan Webb's Chicken Shack - Poor Boy (Long version, HQ)

Chicken Shack featuring Stan Webb 'The Thrill Has Gone' 2004

Chicken Shack featuring Stan Webb 'You Are The Sweetest Little Thing / Hurt' 2004

コメント一覧

kiyasume
macaronteapartyさん、確か此の間、お気に入りに登録
してくれた方ですよね、、書き込みどうも有難う御座います、、

あなたのblogに観に行きましたが、聡明でご立派な文章でした。
詩や、物語を書いておられるのですよね、、素晴らしいです。。。( ◠‿◠ )

私は暫く、冬眠かな???そんな風に考えて下さいね、、
体調が悪いのを休養でどうにかしないと行けませんので。

本当なら入院をしないとかな?とも思いますが、、
病院側はそこまでは言って居ませんしね。

ただ、毎日が辛いんですよ。身体的にも精神的にも、、
だから暫く冬眠です。今回、blogを辞めると言ったら
大勢の方々から、励ましの書き込みがありました、、

このblogは辞めますが。別のblogを今年の夏頃に立ち上げる
つもりで居ます、、その時は直に皆さんの掲示板にアドレスを上げに
行きますので、、

その時はまた観に来て下さいね。。。。
それから、このblogはアーカイブズとして残しますので、、
暇な時になど、読んで観て頂けたら嬉しいです、よろしく、、

ただ、最近は過去記事からの引用が多かったのでダブった記事が
多いと思いますが。それから、blogを辞めても皆さんの処には
伺いますから。よろしくお願い致します。。。

それでは、また。。。。。(๑>◡<๑)
kiyasume
ビオラさん、書き込み有難う御座いました。

私は何か調子が悪いせいか、精神状態が悪いです。
それプラス身体の体調が悪くて、とてもblogどころでは
無くなって仕舞ったんですよ・・・・・・・・・・。

此れから、まだ今週の後半などは東京にも寒気が雪崩れ込む
と言って居ます。まだ当分、春先は見えませんが、、春先に向けて
の準備はして於こうと思って居ます。。。

今は心身ともにゆっくりしたく思います、、
blogの方は、いずれ新しいblogを立ち上げるかと思います。

今度は身内のことを悪く書くのでは無くて、先に言いましたが、、
生活保護の生活者のblogを立ち上げようかと思っています。

その時は、またお知らせしますので、よろしく。。。
ビオラさん、、あなたは何遍も書き込みをくれました、、
その優しさに癒されました。ありがとう、、それでは、、( ´∀`)
macaronteaparty
今日は。最近フォローして読んでいた者です。

深いお悩みのなかから生まれる考察や言葉に
とても学びを感じておりました。

お体が限界とのこと、kiyasumeさんが
もう少し生きやすくなることを願っております。


NHKのディレクターへのお考えや、芸術論は
ほんとうに勉強になると思いました。

ブックマークにいれました。
何度も読みかえして、考えてみたいと思いました。

私も詩や物語をこの10年ほど書いていまして・・
もっと世界を知りたいです。
また、愚かな自分のことも。

自分のなにが間違いで、こんなに生きづらいのか。
世界とわたしとのつながりはどこにあるのか。

とても知りたいとずっと思っていました。


落ち着かれたらまたブログをなさるとコメント欄で読み、
嬉しく思っています。

生活保護の申請が通ることを願っています。

新しいブログをこちらで
告知なさいますでしょうか・・

なんとなく、kiyasumeさんは
そんなことなさらないような気がするのですが
できれば、告知していただきたいな、と。

そうでないと新しいブログが見つからないと思うので・・


お辛いところを勝手なコメントをずらずら書いて
申し訳ありません。


申請が通り、お体が良くなって
kiyasumeさんが、もう少し生きやすくなりますように。

新しいkiyasumeさんの気持ちに出会えることを願っております。🙏
goohanasaku
今晩は。

改めて、読ませていただきました・・・。
読むの遅いので、手作りの生姜焼きのところまで、読ませていただきました・・・。冒頭から、そこまで・・・、記事の核の箇所ですよね・・・。

心情が、様々、伝わって来ました・・・。

調子が思わしくない時は、心機一転するのも、新鮮な気持ちになれて、良いような気がします・・・。

心身ともに、ゆっくりなさって・・・、そのうちやって来る、暖かい春に向けて、調子を上げていければ良いですね・・・。

ご自分で、生姜焼きを焼かれて・・・、素晴らしいです・・・。
食のバランスを考えて、日々、美味しくお召し上がり下さい・・・。
担当医の方の、アドバイスを頼りに、少しずつ、体調を、整えて行かれて下さいね・・・。

心も身体も、元気いっぱいに、なれますように〜。

陰ながら・・・、応援してますね〜(^-^)q

ビオラ
kiyasume
nobara_kaoriさん、書き込みどうも有難う御座います、、
私が辞めると言ったら、皆さんが心配してくれて居ます。

有難い事です・・・・・・・・。

ただ、此の儘続ける訳にも行かないので、、
区切りを設けようと思います。。。

私は6月か7月頃に生活保護を申請します。。。
ですので申請が通ったら、blogをまた始めようと思います。

それまで、暫しお別れです、、、

我ながら、こんなにも皆んなから激励されるとは思いませんでした。
何は帰って来ますので。それまで留守をよろしく・・・・・・。

ありがとうございました。。。(๑>◡<๑)
nobara_kaori
本当に!?
しばらく休養して、その間に考えたら良いのでは?
復活を待っています。
kiyasume
narufgさん、コメント有難う御座いました、、
お互いに、今は寒いせいか辛いですよね。

私はこのblogでの更新はもうしませんが、、
6月に生活保護を申請する予定なので、

もしそれが通ったら、新しいblogを立ち上げようかと
思って居ます。今度は身内の悪口では無く、、生活保護の
生活者としての日常を書こうと思って居ます。

だいぶ地味になるかとは思いますが・・・・・・・・。

何時blogを立ち上げるかは分かりません。
その時にはまた見に来て下さいね・・・・・。

それではまた。。。。。(๑>◡<๑)
narufg
残念です。
もし、新しいブログ復活されるようでしたら、御一報下さい。
僕も体調が悪く、入院中です。
kiyasume
frost-cop-007さん、コメント有難う御座いました、、
音楽と精神については、、私にとってはどちらも大切なもの
でした。。。少しでも私が書いて居た事に興味を持って頂けて、

有難う御座いました、、

今はもう、このblogは更新致しませんが、、近い将来に
上げるであろうblogで、また、、書くかも知れません。。。
その時にはまた読んでやって下さいね。。。。

それでは・・・・・・。( ´∀`)
frost-cop-007
とくに、貴君の音楽に対する見識と、精神に関する学識にはいつも感嘆しておりました。
私は気が向いた時しかブログを書きませんが、どうか体調が改善すれば、またブログ載せて下さい。待っています。お元気で!
kiyasume
ビオラさん、書き込み有難う御座います、、

私は、なんか、体の一線を超えて仕舞ったかのような、
感覚を今、持って居るんですよ。体力的に・・・・・・。

そして障害の程度も酷くなり掛けて来て居たので、、
思い切ってblogを休止しました・・・・・・・・・・。

私は今年の6月頃に、生活保護を申請に行くので、、
生活保護が通ったら、今度はこう言ったblogでは無い
普通のblogで、身内の事とか書かずに、今度は、、

穏やかなblogを書こうと思って居ます・・・・・・・。
ですから、その時にはまた見に来て下さいね。

このblogを辞めようと思ったのは今日でした。
見に来てくれて居る方にはすまないとは思いましたが、、
今は身体と精神の休養に当てようと思います。。。

このblogは此の儘残しますので、アーカイブとして見てくれたら、
嬉しいです。blogを辞めても、そちらには伺いますから、、
よろしくお願い致しますね・・・・・(๑>◡<๑)
kiyasume
take10nboさん、書き込み有難う御座いました、、
今は身体の健康に専念しようと思います。

またの再会をよろしくお願い致しますね。
それでは・・・・・・・。( ◠‿◠ )
kiyasume
watashi_no_kotoさんコメント有難う御座いました、、

どうやら私は限界が来て仕舞ったようです、、
毎日寝ております、、このblogでの更新はもうしないかと
思いますが、、いずれは、またblogを立ち上げると思います。。

その時はまた見に来て下さいね・・・・・・。
それまで一時お別れです。今まで有難う御座いました、、
kiyasume
マサさん、コメントどうも有難う御座います、、
私としても苦渋の決断でしたが・・・・・・・。

体の調子がすぐれません、、
ですので、やむなくこう言った事になりました。

ですが詳しい事は分かりませんが、、
おそらく生活保護を無事に貰えたら、、

今度は別のblogで再び会えるかと思います。
それまでまた、、よろしくお願い致しますね。
kiyasume
akiraさん、コメントどうも有難う御座いました、、

akiraさんとの約束が守れなくなりました。
今はblogを辞めますが、十分休養を取り、、

今度は他のblogで再会しようと思います。
それまでよろしくお願い致しますね。。。

それまで・・・・・・。( ◠‿◠ )
goohanasaku
今日は。

突然の事で・・・。

夜に、改めて、読ませていただきます・・・。

ビオラ
take10nbo
いつも訪問いただき感謝です
どうぞお身体ご自愛ください
またのブログ最下位を信じております
watashi_no_koto
kiyasumeさま
お身体の具合が気になりますが、気が向いた時にサクッと!ひとことでもメッセージを更新されることを待っていますね❣️
kiyasumeさんのブログは、音楽のいいお勉強になっていますよ。💕
まだまだ寒い日が続きますので、お身体ご自愛くださいませ♪
また、お目にかかれますように。♬
masamikeitas
気休めさんへ

このブログはやめられるとの事。

>しかし暫くしたら?、何時の日にか別の形でまた皆様の元に現れるかと思います。その時は、また相手をしてやって下さいね。

いつか別の形での再開を楽しみにしています。
それまで、お身体を大事にしてくださいね。
1021akira
お邪魔いたします。
残念です、お世話になっておりました。
お元気で・・・
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