末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

本堂のメリークリスマス 2017・12・24 クラシックと津軽三味線のコラボ

2018-01-21 17:14:36 | 日々の出来事

本堂のメリークリスマス 2017・12・24 クラシックと津軽三味線のコラボ

 

昨年の12月24日「本堂のメリークリスマス」ということで、お寺の本堂でクリスマスコンサートを開催した。
 出演は例によってテノール・関口直仁と津軽三味線の山中信人の二人である。最初の頃は、お寺の本堂でクリスマスコンサートか?宗教が違うでない?とか色々あったが?教会の牧師さんも巻き込んで今回で7〜8回になる。今回は、90人弱の人が来られ、本堂のギャラリーも一杯になり、なかなか盛況でもあった。
 また、夏にはお盆特別興行として、講談師の神田京子による講談・番町皿屋敷に山中信人の津軽三味線の伴奏付きで興行をした。これも好評で大勢の人に喜んでもらえた。

 最近お寺さんではいろいろなイベントをやっているですね?次はどのような・・・・?とかと云うやりとりが多くなってきた。これはお寺で色々やっていますよ!が定着しきたことなのか・・・・?

                                 


いずれ、問題は寺の本堂で何をどう表現するのか?である。

一つには、仏教を生き、それを広める(布教活動)のも、確かに重要ではある。

二つには、葬式の請負である。

とりあえずはこの二つになるのか? が、この二つは、必ずしも寺の本堂と云う空間に、こだわる必要がないのでは・・・・・。

 

 では、そのような空間=場は必要なのであろうか?寺の本堂と云う様な空間である。今風に言えば、現代社会の中で、寺の本堂は必要なのか?である。ただ、ある意味その空間=場は、昔からある。それは、必要とされてきた場=空間でもあるのか?社会的にはそれなりの意味を持っているのか?それは、やはり必要とされる空間=場でもあったのか?腐っても鯛である。そしてやはり社会=世俗を生きるとは、宗教的要因を持たざるを得ないと云うことでもあるのか、それはやはり社会哲学、特に日々の暮らしに根ざした宗教哲学の課題でもある。

 社会=世俗の中の、お寺の本堂という空間=場で何を表現すれば良いのだろうか?

人間は社会=世俗中で暮らしてゆく限り、それぞれにある境遇を生きざるを得ない。それが人間 の限界であり、宗教的要求の要因でもある。その様な限界がある限り、人間は表現=(物語)を求め、また表現(=物語る)をする。そしてその表現は、地涌うであり、自然(じねん)にも近く、身土不二でもあり、土着的でもあり、人間の「存在感情」の身振り手振りでもある、人間の「存在への情感」が表現の原点でもある。

 

 

 そしてその様な表現を例えれば、地蔵でもあり、神楽でもあり、民謡でもあり、節談説教でもあり、アルタミラの壁画でもあり、ジャズでもあるのか。またその様な表現の観点から、先に挙げた本堂での表現は何処を目指すのか?である。単純に仏教の布教活動や葬式の請負の表現では、何と無く物足りなさが残る。仏教の布教活動はある意味専門的に成りがちで、従ってそれは教条的独善的にも成り、挙げ句の果てにその場=空間を聖域化する。するとそこでの表現は有難い物事だけに成ってしまい紋切りになる。

 また、葬式の請負はあまりにも世俗化の傾向になる。つまりそれは型通りに御経を読んでれば良いに成り、挙げ句の果てに戒名料、葬儀料幾らの世界に入り込み、従ってそこでの表現は習慣化し、やはり紋切りになってしまう。

 

 

 しかし習慣化が駄目ということではない。むしろ習慣化の故に、世俗(時代社会)から消え去ってゆく運命の習慣もあるのだが、そのような習慣に何を見るのか?それらは、人々が日々の暮らしの中で、ごく自然に産出してくる表現でもある。それはやはり、人間の「存在への情感」「存在感情」の表現である。

 つまり、表現も色々あると思われるそんな中でも、やはり存在感情や、存在への情感の表現が重要になる。例えば、盆踊りと神楽とか葬儀のお経とかである。また「かごめ、かごめ」とかの童歌?遊び歌系も無視できない表現でもある。

 

 「かごめ、かごめ、かごのなかのとりは、いついつでやる、よあけのばんにつるとかめがすべった、うしろのしょうめんだれ」これ凄いね!

 葬儀でお経などでなく、これをやれば良いのに。

 

 

 寺の本堂での表現はやはり人間の存在感情、情緒に根ざし、それに訴えるものが相応しいのか?これは逆には、取り敢えず何でもありか?

 

またまた変な話になってしまった……………?

       

 


高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)を勝手に深読みする………

2017-06-06 15:44:14 | 日々の想い

しみじみ(染み染み)について  
      
      われわれが勝手に命名したーつぶやきガ……集ー高橋拓の
      「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)を極私的に深読
      みした。この本は余白が多い。ある意味余白だけの本でも
      ある。その余白が、その文言にユーモラスな絵に奥行きを
      與えている。
      その余白が「しみじみ」である。
 

 高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)の出版。そして書店に並ぶまで、外野手として色々おつきあいをさせられ?大変勉強になった。
                   
 ある想いが、表現され作品としてひとり歩きをしてゆく。そのプロセスを垣間見、覗き見し、当事者ではないものにとっては無責任に面白かった。何が面白かったか?
それは「想いが表現され、ある想いになる」である。
 
 言葉を変えて言えば、想いが物語として表現され、ある想いになる。ある想いとは、形式でもある。無論、想いを語ることも形式ではあるのだが・・・・・・・
だからと言って形式が全て良くないと言っているのではなく、良くも悪くも表現とは形式を無視できない、ということでもある。が、あまり形式にこだわりすぎるのも・・・・・
 
  で問題は、想いとある想いは、その形式から染み出したり、溢れることである。それを感受出来るか出来ないかである。それは言葉から染み出したり、溢れ出ることと同義でもあり、表現の感受の問題でもある。その〇〇形式から染み出たり溢れ出た想いの欠片を感受する、表現にはそのような物事が含蓄されているはずである。でなければ、余韻とか行間とか余白とかという言葉はいらなし、それらを考慮しない表現は面白くもなんともないことになる。

                 

 人生も表現である、と言う仮説も成り立つのか。であるとすれば、私の人生という形から染み出たり溢れ出た想いの欠片へ、追想や追憶にも残らない物事への思考が、私の人生からある人生への転入の可能性でもある。表現とは「私の人生」と「ある人生」の紐帯でもある。表現が紐帯であるとすれば、表現が人と人を結びつけている絆でもある。ただそこでも問題になるのは、やはり絆という形から溢れ出たり、染み出る想いの感受、感得をどうするかである。

 哲学的用語に「存在感情」という概念がある。それは存在を感じ取って生きるということでもある。「生きてーあるーこと」を身体的に感じ取っている。身があって生きていることは無自覚であれ自覚的であれ、身の現事実としては「存在をー感じ取ってーいる」のではないか。それは単にあるのではなく、「与えられてーあるーと感じつつーある」ということで、それを感受といい感得ともいう。

 で、その存在を感じ取って生きることを言葉を変えて言えば、「情緒」と言えるのでは?そして、その語りは、しみじみとなる。身の現事実を形象化したものが地蔵でもあるのか。

 いずれ「しみじみ・・・」は十分人間観察の哲学になる。しみじみを哲学してみる。
  哲学とは、どのような場をどう生きるのか?の問題でもある。
  あえて言えば、存在論と人間存在論の論理?
                            
以下。「しみじみの哲学骸骨」

◉ 「しみじみ」するとは、情感、情緒である。 

  情、気分とはいえ、どのような情・気分か・・・! 
  感覚、気分と情、情緒は違うのか・・・・・?
  
  変・不変、変化する、変わってゆく、変わらないもの、日々の移ろい・・・・
  有情・無情、常・無常、有る・無し、あったものがなくなる。
  街が変わる、昔からあった建物がなくなる。
  喪失感、それに伴うノスタルジー、→追想、追憶→それぞれの願い→地蔵
  生者と死者の関係。「0までが大事」0までは不可思議である。 
  表層と深層、表面と奥(裏面)と奥の奥、認知と非認知。
  人生の余白でもある。人生の余白とは?           

◉ 「地蔵」とは、地が蔵する情(=いのち、力)の暗喩(比喩的表現)なのか?。                 
   
   それはなかなか対象化できない。
   そのいのち、力は対象化できるものと、非対象なものがある。
   だから余計い「情・緒」が問題になる。地が蔵する情と、生きとし生けるも
   のの情が通じ合う、情が通う・・・・。→「情緒」

   しみじみ想う! よく住職などやってきたなあ〜と、ホント。
   寄り道、迷い道が、我が道でもある。
   まともな、住職道など歩んでこなかった。
   住職道が表道だとすれば、むしろそれに反するような道、裏道(寄り道、迷い道)
   を歩んできたようにも想う。
  
◉ やはり、通り道か?古くからの街道筋か?
   
   地蔵さんがいるような・・・・いつもの通り道。
   古くからある通り道。昔、タバコ屋、自転車や、豆腐屋、団子屋、桶屋、酒屋
   魚や、花屋があったいつもの通り道。が、そのいつもの道にそれらの店は今は
   もうない。無論それらの店の家族も居なくなった・・・・。
   
 ◉ 「のほほん」とは、無執着である。
   無執着、執着しない。→色々な周りの物事に距離を取る。
   ある意味、自由でもあるのか?         

            

 
◉ しみじみの結論はこれに尽きる。
  
  「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。
  その人とはその人の過去のことである。
  その過去のエキス化が情緒である。
  だから情緒の総和がその人である」
                   ー岡潔ー
  
  自我に固執するとあの人=他者が見えなくなる。従って、しみじみという情緒も
  感ぜられなくなる。これは不幸なことでもある。


    裏世界の暗躍!

2017-05-12 10:36:32 | 日々の出来事

           

 この男、高橋拓の頭の中は、常に春である。つまり、春夏秋冬いつでも、頭の中は春なのである。この常春男「高橋拓」は、劇作家でもあり教師でもあり二人の娘の父でもあり、うるさいカミさんの夫でもあり高齢な母親の面倒を夫婦で見守っている男でもある。そんな男の頭の中が春なのである。そんな男いるのか・・・・?

        

 拓さんと最初に出会ったのは、我が寺の本堂で芝居を上演した時である。架空の劇団の演出家でもある倉持さんに紹介されてである。お互いにピョコンと頭を下げて挨拶をしたようなしなかったような・・・・・?

                      

 これをもらったのは、2回目の芝居の上演をした時のことである。我が寺の大黒さん、坊守さん、〇〇寺ご婦人呼び名は色々あるのだが、つまり私の連れ合いが大いに気に入り今でも本堂に安置?している。
 拓さんのキャチーな文言(コピー)と、のぼのぼとしたキャラクターの絵が表現されて要るハガキ大のカード集、その一枚一枚のコピーとキャラクターが見事に融和し、一つの世界を物語っている。

                                 
 そこで、これを元にお寺でカレンンダーを作れないか?となり、拓さんに相談をし快諾を得、専立寺カレンダーを作成し、檀家の皆さんに配ったら以外にも皆さんから大好評を得たのである。よかった!よかった!で話が終われば良かったのだが・・・・・?

 そのカード集と専立寺カレンダーを、いつもお寺でお世話になっている(報恩講の講師等)内山節さんに差し上げたら、その知り合いの女性編集者(求龍堂出版社)からそれを本にしたいとのこと・・・・・・・、それは去年の暮れのことである。

 それから半年弱、その本が出来上がった。高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)という本である。
                    
 これが中々である。
 これには、色々なキャラクターが登場する。その登場者たちは、近場、近隣の裏社会=裏世界で暗躍する?キャラクターでもあるのか?
 

 やはり、見えないが「裏世界」はある。それが、表に出現すると「擬」になる。それが劇的空間でもあり、表社会にあってはそのような劇的空間が必要不可欠なものにもなる。

 つまり、見えない裏世界の暗躍に配慮することは、表世界の枠組みにはまりきらない自由への希求にもなるのか・・・・・・・・!

                                           


正義のミカタ…………!   正義なきを正義としんちすべし。

2017-03-27 13:45:03 | 日々の出来事

                              

           正義のミカタ?もっと適当で!いい加減で!

人って、ある意味想い込みを、生きているのかもしれない。
自分の思い込みは正しい。それが正義であると……
自分の信じている道を邁進しなさい。と、よく云われる。それは正義の道を歩みなさい、と、云うことでもあるのか……? 私も若い頃は、自分の思い込みを信じて、その道に邁進していた。それが正義である。と、想い込んでいる時期もあった。
 
 ところが、人は決して一人では生きていない。それは自分の正義だけでは生きて行けない。と、云うことでもある。そこで、多数決になる。つまり、その正義の共通理解の数の多い方が社会正義としてまかり通ることになる。そして、少数者の正義は反正義として相対化され少数意見か、もしくは悪義として処理される。最悪、少数者の正義は多数派の正義によって追放される。もし仮にそれが個人対個人の正義の問題となれば、暴力沙汰にもなる。誰も自分は正義の味方であると想っているし、其れこそ、自分の思い込みは正しいと想っている。

 中々自分の思い込みを破ることが出来ない、それが人間の傾向なのか。

 親鸞の「末燈抄」自然法爾(じねんほうに)の語りに「・・・他力には義なきを義とすとしるべしとなり。・・・」とある。これは、他力とは思議することは不可である、と云う意味でもあるのだが・・・・・。少なくともあまり自分の義(思い込み、正義)に固執するな、と云うことでもあるのか?

 義なきを義とすとは?自然(じねん) ーおのずからしからしむーとは ?

 ある意味、義とは人間存在とイコールなのかもしれない。つまり義が在ってこそ人間でもある。認知症の人は自然(じねん)なのかもしれない?
 とわいえ、義なきを義とす、自然法爾(じねんほうに)とは、人間存在もしくは人間以前なのかもしれない。人間が義を所有すると同時に自然(じねん)は、対象化され自然(しぜん)になり ーみずからしからしむー になる。
 
 自然法爾(じねんほうに)とは、与える力与える働きでもある。人間以前的ー存在ーそのものでもある。が、人間からは非対象でもあり、不在的現前でもある。

 いきているとは「生きてー居る」であり「生きてー在る」と云うことでもある。人間が生きて存在し続けるとは、自然法爾の与える働きを被ってー居るーもしくはー在るーと、感受することでもあるのか。我の「生きてーあるーこと」とは、その与える働きを被って在ることでもある。むろん我は、その与える働きを自覚的に生きているわけではないが、しかし必ず身体的にその原事実を感受しているし、身体に宿しているのでは・・・・・・。

 我が生きてあることは、存在がー与えられてーある、ことである。我は与えられてあると感受しつつーある。我が、現世の中に投げ出されたように存在するか、もしくは阿闍世のように産み落とされることは、様々で色々な物事の中に投げ出されることでもある。
それは良きにつけ悪しきにつけ、他人や物事を情感的に感じるのみではなく、それらと我を含めて全て与える働きであると密かに(無意識のままに)我は感受している。
 ただ問題もある。そのような自然法爾=与える働きは、人間的認識論では論証が不可能でもある。
 その与える働きは、眼に見えず、言葉を持って対象的に言い表すこともできない。
が、にもかかわらず我はその働きを投げ出された存在の中で、またそれを通して感受している。(阿闍世の月愛三昧はこれに近いのでは・・・・・・・)
 存在感情は、存在するものを通して(それに媒介されて)所与存在としての我を感ずるのであるから、与える働きを直接無媒介に感ずるのではない。しかし、存在感情は媒介を受けながらも対象化行為にならず、与える働きを対象化を経ないで感ずることができる。それを、あえて言えば「清浄な感受」である。

 無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然(じねん)とはもうすなり。

 自然とは、義も無く、形も無い。これでは取っ掛かる余地が全くない……のか?自然の与える働きは、義も無く形も無いと同義であるとすれば、これまた取っ掛かる余地がない。与える働きは、言表できないもの、語りえないものであるとすれば、さてどうする。

 ところで、人は常に出会っている。他人や物事、それらを含む環境世界とである。
そのような出会いの中で、人はこの世界を与える働き、あるいは世界の与えられてあることに出会っている。そしてその与える働きの感受が出会いの場でもある。
 与える働きは、言語によって対象化的に表現できないにもかかわらず、やはり出会われている。言い表すことができない何ものかと情感的に出会い、この何ものかを感じることは、人間が現世内に暮らす時の根源的なあり方なのかもしれない。その全体を「清浄な感受」とも言う。

 ところで、存在感情とは気分的意味ではない。つまり、情感、情緒と気分は微妙に違うのでは………。感覚的で微妙な細い話ではあるのだが………。
 確かに、気分もまた情緒ではある。このような情緒=気分は、他人を含め我を取り囲む物事と関わるときの変動である。落ち込む、舞い上がる、退屈する、等々の情緒のあり方は、どちらかと云えば気分の変動である。無論そこに義(思い込み)も絡んでくるので余計厄介なことにもなる。それが、我の周囲世界で出会う人や物事との関わりについての義(思い込み)のあり方でもある。

 ところが存在感情は、気分のような世界との関わりにおける情感ではなく、世界の存在を与える働きの感情である。気分はたとえ漠然としたものであれ、対象的な仕方で事物世界に関係するのに対して、存在感情は対象的な関わりとは別個のレベルの関わり方である。よく人は関わりの存在である、と云われる。であるならば、対象化できる関わりのみならず、非対象的な関わりがあっても不思議ではない。

 自然法爾とは、非対象的であり語り得ないことでもある。が、他力とは義なきを義とすとしるべきなり。と語り得ないことを語っている。それは「不可称、不可説、不可思議」としか語ることができない非対象的な関係もあり得ることなのか、そしてそれは親鸞の存在感情でもあり、世界の与える働きの感受でもあり、出会いの場の本質でもあるのか。

 だから、自然法爾とは、義=思い込み(邪見でもなく、自大でもなく、邪定でもなく、不定でもなく)ではなく、適当でいい加減な感受=存在感情なのかもしれない。


「青春の親鸞」

2016-11-11 22:01:57 | 日々の出来事

今月末の27~28日は我が寺でも報恩講である。

宗派的に報恩講とは、我が宗派の開祖である親鸞聖人様がお亡くなりになった日、つまり命日に行う行事でいささかウザい行事でもある。ではそんな行事止めちゃえば!がそうはいかないのが世の常である。それが宗派的である……がよけいウザくなる。確かに親鸞は凄い人であるのだが………。

 

そのウザさ解消のため我なりに考え方てみる。

親鸞もまた死者である。その行事を勤めるのは生者でもある。それは言葉を変えて云えば、やはり死者と生者の対面、応答、対話でもある。しかも七八百年前の生者とである。

それは生者と死者を媒介とした、歴史との応答でもある。

報恩とは、死者に対する供養であり、死者を心に刻み語り継ぐことでもある。それは偉い人愚かな人と云う壁を乗り越える、生者の単純な行為でもある。

 

「非僧非俗」とは

 

非僧非俗とは、僧でもなく俗でもない。僧に非ず、俗に非ず。なにこれ!

親鸞の言葉である(教行信証、後序)。

と、非僧非俗について想っていたら? 突然、あるぬ発想が頭の中を過った。

親鸞を主人公に「青春の親鸞」と云うタイトルの映画を作りたい、である。

思いつきでいい加減な物語で、恐縮なのであるが?

 

「青春の親鸞」

 制作意図

非僧非俗について色々調べているうちに、親鸞、法然の伝記、口伝、色々な語り(現代の親鸞についての研究書も含め)を読んでいる中かから、ふと思いついてきたのがこのタイトル「青春の親鸞」である。むろんフィクションである。

その物語の重要な要素として、生者と死者の観点をいれる。それは当時の時代状況での死者への扱いと、死の観念との問題でもある。

 

これはなぜ夢告なのか?とも繋がって来る問題でもある。

(夢告は親鸞理解においては重要であるとされている)

例えば、その時代死者はもっと身近であった。が、その観念は汚れとして最も忌み嫌われていた。京の街は飢饉や災害で飢えた人々が溢れ、野垂れ死にした死者が放置されていた。

そのような街の様子を、叡山で修行中の親鸞は聞き及んでいたのか?--いわば方丈記的世界を知っていたのか?ーである。

 

そのような状況を、親鸞を含め当時の僧侶は知っていた。それを前提に話が始まる。

そのような世界の中で仏教者である僧侶は、度衆生、願作を問題として抱え込まざるを得なかった。世間を憂い、そのような中を生きざるを得ない我を憂う、仏教者の至言、原像を創造してみる。

 

また、法然を始めそこに集まった僧侶達の仏教的活動を考慮する。例えば、吉水を拠点として、京の街での布教活動とか?そんな中での法然、親鸞、玉日、恵信尼等々による吉水での共同生活、つまり日々の暮らし振りをその物語の中に入れる。むろんそれは、恵信尼、玉日、親鸞らは、すでに法然の吉水教団の中に逢ったことを前提にする。そして、そんな中で親鸞と玉日は結ばれ、子どもを授かり、が玉日は死者になり、その死者が媒体になり親鸞と恵信尼の関係も進んで行く。

 

また夢告については、六角堂参籠によって夢告を得、法然の吉水に入室したことになっている、が親鸞の六角堂参籠は、すでに比叡山を下り吉水入室後である。と云うことを前提とする。むしろ三夢記で云えば、最初の夢記である、河内磯長の夢記以降に親鸞は吉水入室をかなり意識したのでは……。さらには、次の二回の夢告は吉水からその場所へ通ったのでは……。例えば、それは親鸞が19歳頃に吉水に入室し法然と出逢ったが、そんな中でも十年弱の間はまだこれで良かったのだろうか?と、迷っている時期も逢ったのでは……?を、前提に物語を構成する。

 

「地獄の世で命を賜る」と云う言葉がある。親鸞と玉日の結婚はこれに等しい。

理由はどうであれ、親鸞と玉日は結婚をする。そして玉日は子を産み亡くなってしまう。

残された親鸞は、玉日の侍女である恵信尼と子育てを含め仏教修行を生きて行く。そんなこんなの中での六角堂参籠である。そこで夢告を得て、改めて法然や念仏の教え吉水入室が間違いではなかった、と親鸞は腑に落ちる。

 

と、粗筋になってしまったが……。ちなみにそれ以降は、流罪(法難),恵信尼との越後での生活、流罪が許され、法然の死である。

 

いずれ、生者と死者の関係でストリーが展開する構成にしたいのだが………?

 

 

主な登場人物 親鸞(19~40歳頃まで)  

       慈円

       法然

       九条兼実

       玉日

       恵信尼

       その他(2~3人)