末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

他化自在天・懈慢界

2016-07-19 16:24:03 | 日々の想い

本棚を整理していたら「近代に対する仏教的批判」ー平野修師の仕事とその意義ー(今村仁司講演録)という小誌が出てきた。見開きには平野修先生七回忌法要記念講演・今村仁司とある。
        

この小誌は、お二人の関係へも想いを巡らすことが出来る。
お二人は夫々に、仏教(真宗)と社会哲学という学的には常に内向的にならざるを得ない立場を超えてもなお、他の分野というか他者への好奇心というか、知的探究心大勢で夫々の分野には収まりきれない冒険者?でもあった。
その様な二人が出逢ったのである。面白くないはずはない。

                   

が、平野さんは今村さんと出逢って間もなく胃癌のために入院し、入退院を繰り返し1995年9月30日に亡くなってしまった。
その平野さんの2001年7回忌法要の講演録である。

今村さんは、平野さんの著作や講義録、説法という仕事を通しての出会いから、彼を色々と評価して行くのである。
その評価も色々面白い。今村さん特有の切り方である。
例えば、「平野先生の・・・・・・・・・貫く通奏低音のごとき基本的態度がある。とすれば、・・・・・・・・それは仏教者の生き方、仏教者の時代への態度の取り方であると思われます。仏教者は,ほかならぬ現代社会のただ中に生きている以上は、現代社会が必然的に生み出す際限の無い多様な,それぞれが厄介な性質を持つ現象や問題に対して敏感に反応しなければならない、と平野先生はひそかに考えておられたように私は受け取れるので・・・・・・・・」と評価をする。

確かにその通りである。
寺に住まってお経を読んでる以上は仏教者でもある。しかもほかならぬ、現代社会のまっただ中を生きている、仏教者である。やはり教団や檀家制度に胡座をかいている訳にはいかない。もっと現代社会に対して感性を磨かなくては………?これは平野さん今村さんからの仏教者へのメッセージなのか。

そしてまた、平野さんの比喩(例をあげる)の使い方にも注目し、その現代的センスの良さを評価する。そのセンスとは「現代に対する鋭角的な態度を、つまりは仏教者としての生き方を赤裸々に表出している」と云い。またそれは「例をあげるというごく単純そうにみえる行為の、知的かつ感性的能力が具わっている」と、仏教者としての平野さんの現代的センスを評価している。

その他にも、平野さんに限らず仏教(=教団)及び仏教者は「……自分がその中で生き死ぬであろう『この世界』について確かな知識を持ち、この世界が突き出す難題を引き受け、考え抜くことこそ、現代の仏教者である……」と仏教者の在り方にまで言及して行く、その語り口は今村仁司の独壇場でもある。

平野修の遺稿集に「荒野の白道」がある。

 

その中で彼は、他化自在天、懈慢界、無人の荒野、という仏教用語で現代社会の人間的有り様を語っている。その平野修の仏教的語りから、今村仁司は他化自在天、懈慢界と云う仏教用語を現代社会を根本的に批判する批判用語として,それらの言を語り直すのである。


例えば、この小誌「近代に対する仏教的批判」のIIIー言葉を蘇らせるー 三 現代世界の本質(P40〜  )「………他化自在天はあきらかに他人の労働を搾取して成り立っている社会です………近代資本主義は人間の生産する労働を直接に搾取するのです。資本は単に交換手段としての貨幣ではなくて、労働を商品として買うことで他人の労働を、………広く深く他人の労働を搾取できるような価値体でありそれが資本と呼ばれる。これが近代特有の資本なのです。………」とある、これは今村仁司流の他化自在天理解の敷衍でる。

また、五 欲望の帝国としての懈慢界(P45〜 )で産業資本主義そのものの問題だけではなく、そのうえに築かれる消費社会は懈慢界でもある、とも語る。それは、人間的欲望論にもなっている。で,人間的欲望の問題は、承認欲望(見栄を張る)、虚栄の塊の人間の群れ。
むろんそのような人間的欲望は確かに昔からある。 が,しかし産業資本主義における消費者社会にあっては、虚栄欲望の処理の仕方が違う、それが問題でもある。と云う。


「極論かもしれないが、『人間的』という言葉で理想化されるようなものは、かって一度も現実ではなくて、想像上のものでしかない。
むしろ『人間的なもの』は、現世的人間のことであり、それは希望と期待がいつも挫折させられる生き方であり、餓鬼・畜生・地獄的存在なのだ、と。なぜそうなるのか?それは現世的人間が、虚栄心の塊まりであり、他人との抗争の中で生きるべく余儀なくされているからです。これこそが人間であり、この人間なるものから抜け出すことこそが、我ら人間の希望になっている」と、今村仁司は最終的に結論づけて、この小誌は終わる。


その今村仁司も2007年5月5日に胃癌でなく亡ってしまった。享年65歳であった。

 

                  

平野修、今村仁司も元人間に成ってしまった。

人間が、生者を前提とすれば、死者とは元人間ということにもなる。

とすれば、元人間とは、現世的人間なるものから抜け出し解放された、我ら現世的人間の希望でもある。

死者とは、現世的人間から抜け出し解放された元人間とでも云うのか、、、、、、、。


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