末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

7月7日くもりのち・・・・。

2015-07-14 12:42:01 | 日々の想い

                            

平成6年7月7日午後7時に、父親が死者に成って22年になる。

数字的には、平成7年であればもっと良かったのであるが、そうも云ってられないのか。大正3年生まれで行年80歳であった。彼は昭和と云う時代、いわゆる戦前・戦中・戦後を生きた人でもある。むろん寺で生まれ、5人兄弟の長男で住職でもあった。が、復員しての戦後はすぐに私立高校の教員になり,死者に成るまで教員生活の方が長かった。むしろ住職としての面影より教師としてのそれの方が、残された者には深く印象に残っている。

           

いずれ、家族には「あーしろ」「こーしろ」と、うるさく云う人ではなかった。むしろ寡黙な人でもあったのか……?特に自分が兵役に取られた、戦中のことなどほとんど、話したことはなかった。ただ、テレビドラマの「コンバット」「ギャントメン」など「あんなもんじゃない」と云いつつ黙ってみていた。

 

ただ、怒るとメチャクチャ怖かった。彼の血気盛んな頃は、何回ぶっ飛ばされたことか?むろんこっちも悪かったのだが……。かなりの暴力親父でもあった。

 

むろん、晩年はいいお爺ちゃんで、孫ともよく遊んでいた。

          

亡くなる当日の朝に倒れ、その日の夜には逝ってしまった。いささか呆気なかった。倒れた時、救急車をよびそれが駆けつけるまで、倒れた座敷でおかあちゃんが心臓マッサージをした。起きてきた小学生の子たちも、その周りを囲い好奇の目で見ていた。「もうダメだ……」「もうダメだな……」オヤジはいっていた。と、子どもたちは云うのだが,私はあまり記憶にない。

 

 救急車のサイレンが聞こえ、家の前でサイレンが止まる。「隊員を連れてきて」と、お母ちゃん。バタバタと部屋をでて行く子どもたち。一瞬の静寂。心臓マッサージのリズムがその座敷の空間に反響し、その空間が異質な別世界になった様な気がした。

 

7月28日の葬儀はやたら暑かった。それだけは覚えている。

    

 

最近、お寺も世襲性云々とあまり良く云われない傾向にある。確かに、世襲は厄介なところもある。チョトボタンを掛け違えただけで、泥沼に入り、浮き上がることの出来ない事態になる。それはある意味、世襲制に胡座をかきその世界を過剰に評価する自意識過剰な定態でもある。その善し悪しは兎も角、世襲制なり世襲ということに、距離を置きそれをどう生かすのかが問題にもなる。

 

 

後生(ごしょう)と云う言葉がある。一般的には生の後つまり死として解釈されている。が,これは文字通り生のうしろ=背後の空間、と理解することが出来るのでは……。