末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

極私的映画論(1)

2015-03-12 17:01:13 | 日々の想い

極私的映画論ー観る立場よりー
「メルヘンの闇」
  またまた変なことを言い始める・・・・・!
「映画は死なない!」とジョゼッペ・トルナトーレが語っていた。

いつの頃からだろうか、映画にエンディングタイトルが出なくなったのは…?
「おわり」「終」「完」「THE END」「Fin」と。

「映画は始まりがあって、終わりがある」これが基本である。例えば、東映の「三角マーク」が現れ、最後は「終り」が現れて終わる。それが映画である。
我々の人生そのもののようでもある。生まれ(始まり)死ぬ(終わる)、誕生日があり命日(亡くなった日)がある。それが人生の基本的な型でもある。映画の形式もそうだと想う。やはり、「終」と云うエンディングがあり、そしてエンディングロールが流れ、その映画の余韻を残し、徐々に館内が明るくなる、それが本当の映画の終わり方である。
一本の映画は上映が終われば死ぬのである。それは映画の宿命でもある。

これはトルナトーレの語る「映画は死ない!」に反するのか?
否、確かに「映画は死なない」と想う。映画をこよなく愛する坊主から云えば,確かに「映画は死なない」である。
それには、もう少し話を進めなければならない。

映画を観る立場からは、もう一点重要な条件がある。それは映画館とその館内の闇である。むろん入場料も重要な用件にもなるのだが。ここでは館内の暗闇を最重要な条件とする。闇とフィルムを通過する光が、 観る立場からすれば 映画の条件でもある。

一本の映画はまた身体でもある。したがって、映画を観る側からすれば、映画は片思いの他者的身体でもある。それは、自分の想いを増幅も出来るし縮小も出来る。これは映画を観る者にとっては、密やかな楽しみでもある。が、その様な身体は抱きしめたり,触れたりすることは出来ない身体でもある。ところが、映画館内は違う。いい映画館,いい映画に出会った時などは、その映画に抱かれているという感覚も捨てたもんではない。これは完全なマザコンである。それだけに映画館の暗闇は重要である。

いずれ,闇とは重要である。映画館に限らず闇は考えざるを得ないのだが…?闇市が活況を呈している時もあったし、文字通り映画館も常に満杯で、常に立見が出るほど盛況な時もあった。しかも薄暗い中で、みんな息を凝らしてスクリーンに向っていたのである。これはこれで、大げさな話かもしれないが?闇と関わったことでもある。高度経済成長期の始まる頃からだろうか?昏い、ネガティブ、後ろ向き、と云うような言葉を嫌う風潮が世間に蔓延してきた。逆に「明るい農村」「明るく前向きに…」「日本の未来は明るい」と云うような言葉がもてはやされた世間的気分である。が、その様な世間的気分に浮かれ過ぎたのか?常に世間は闇を抱えていることを忘れてしまい、その間にその様な闇が醸造され、1900年代の阪神大震災を契機に、オウム教団や一連のサリン事件等世間的闇が露出してくる。オウム教団に関して云えば,個々のそれぞれの闇は、ある意味宗教と関係して、そしてその様な闇が集まり教団を形成し大きな闇にまでなる。そしてその闇の象徴として世間に多くの死者が露出してくる。ある意味それは闇を忘れた世間的気分の問題でもある。

逆説としての闇。闇とはロマンでもある。ジョゼッペ・トルナトーレ曰く「映画は死なない」を言い換えれば「一本一本の映画は明るくなれば死ぬ!がしかし映画館の闇は死なない」になる。「映画は死ぬが,(映画館の)闇は死なない」である。したがって映画と闇は切っても切れない関係である。

生者(明)と死者(闇)。生者の世界を明、死者の世界を闇。映画・もしくは映画館は明と闇の共存する明闇の世界である。つまり、生者と死者の共存の空間でもある。
「生か死か?」確かにこれも重要ではある。が、 最終的な決断は個人的なものであったとしても、 この文言はあまりにも個人の想いに走り過ぎる。これではやはり「~の為に」と「身を投げ出すしかない」自己陶酔型美意識では美しいものであるのかもしれないのだが。三島由紀夫か……?任侠系ヤクザ映画か?

ヤクザ映画のシチュエーションは、ある意味いのちのやり取りをする世界,場所に限定されている。それは生者と死者の混在、あるいはいつでも死者が露出する修羅場を形成する。それがヤクザ映画系(あるいは暴力を扱う映画)のドラマツルギーでもある。そのドラマは,ある意味「明」「生者」的善・悪では解決不能で、「闇」「死者」的なものを入れないと腑に落ちる(その様な映画を理解する)ことは出来ない。

 思議・難思議/不可思議、意識/無意識、意識/業縁、理解/腑に落ちる、顕/冥、
 生者/死者、この世ー墓場ーあの世……、この世ー修羅場ーあの世。

一つの身体に生者と死者が同居しているとは、いつどう転ぶか分からない。これは誰でも同じである。自分もそうだし,貴方もそうだし、彼も彼女もそうである。これが身体的構造であるとすれば、一何処でも修羅場になる可能性を秘めている?だからこそ、死者に対する配慮が、少しくあっても良い。死者に対する配慮とは、他者に対する配慮であり、他者を悼む心でもある。

その様な精神の映画群が、何を隠そう「ヤクザ映画」なのである。
また特筆すべきは大島渚監督の「東京せん争戦後秘話」1970年公開も生者と死者が混在する映画でもある。 つづく