もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

予測

2011-11-08 16:44:02 | ブログ
完璧に未来を予測出来る者など居ない。
人は常に刹那的に生きているし、即時判断を繰り返しながら歩む道を決めている。

私は、刹那的な生活をせよ!と言っているのではない。
もっと享楽に耽るべし!と言っているのでもない。

ただ、正確な未来など誰にも見えないということ言いたいだけなのだ。
どれほど高精度の予測を立てても、実際にはその予測と現実との間には微量の差異が存在する。
(仮に、一日先の天気予報は99.999999999%の確率で的中したとしても、100%の的中率ではない以上ズレが生じる、ということ)

理論はあくまで机上でおこなわれるものであり、それを完全に根拠として現実の生活を送ることは誠にばかげている。
現実はカオスなのだから。

「理論」の対義語は「実践」である。
確かにその通りである。

「現実はカオスなのだ」という心づもりで日々生きると、なかなか落ち着いて世の中を眺められるのではないか。

常識

2011-10-29 18:09:13 | ブログ
「常識が身についていない人は、常識を越えられる」

この命題が真であるならば、以下の命題も真であるはずである。

「常識が身についている人は、常識を越えられない」

たしかに、その通りであると思う。
音楽製作にしろ、日々の生活にしろ、学問にしろ、料理にしろ。

曲作りの方法など、全くの手探りで、自分の感覚の思うがままに音を選び、組み合わせ、並べて、構築していった、あの若い頃のハングリー精神は何処へ行ったのか。

「常識的にはこうだから、私がこう思っても、他の人はこう思わないのではないか?」という心理が働き、最近では自分自身で、その衝動にブレーキをかけていると思う。
何故、自分の素直な判断を、感覚を、素直に信じて推し進めてあげられないのか……

そのようなことを強く感じている私は、むしろこの閉塞感を感じられない人々に比べて、まだマシなのではなかろうか。


常識が内面化している人は、それが「常識」であるという客観的な感覚は持つことが出来ないため、自身の判断(即ち、自身の衝動にブレーキをかけるということ)は当然のことである、と思い込んでしまう。
これでは、自分で自分を殺していることと同じだ。
自分の可能性に、自分で蓋を閉じているのだから。
これ以上、愚かなことは他には無い。

嗚呼、あの若かりし頃の衝動の、なんと斬新だったことか。
奇をてらうことに対する羞恥心の無さは、恥ずべき事ではなく、むしろ賞賛すべきことであったのだ。

色々な可能性を全てひっくるめて、自分が信じ、納得した「作品」に仕上げることは、何よりも美しい所行であると私は思う。

対話

2011-10-09 07:50:05 | ブログ
他者と対話をするということは、自分の考えを「伝える」必要性が発生する、ということです。
その時の自分がどのように考えているかを、言語の形へと落とし込まなければなりません。
すなわち、自己を「ありのままの自己」から「客観的にも捉えられる自己」へと変換するプロセスを経ることになります。

私は、「ありのままの自己」は、はっきりと捉えきれないものである、と思っています。
それが、上記の変換において、自己は言語という限定された型枠の中へと押しこめられるのです。

この「自己を枠へ押しこめること」に対して、正直なところ私は耐えられません。
出来る事ならこの「枠」を意識せずに、「ありのままの自己」をありのままの形で「伝え」られたらどんなにか楽なことでしょう。

……枠とは、言語であり、それは言わば世間の常識であり、共通理解であります。
「伝える」という作業を通じて、私は常にこれらと自己との差異を痛感しています。

しかし、この「伝える」ことをせずに生きることは、もっともっと辛いものです。
伝えないと、孤独を感じてばかりの日々になってしまいます。
「ありのままの自己」をそのままの状態で「感じる」のは、自己対話です。
これが芸術の芽生えであり、これを表出させる(すなわち、他者にも捉えられるものにする)ことが創作であります。

そう考えると、芸術作品とは既に作者の「今」の感覚からはズレたものであるといえます。
「あの時、このように感じていた」ということを形にしているに過ぎないのです。
では、なぜ作品を作り続けるのか。

それはやはり、自己との対話をし、その時感じたことを形に残すことで、「自分が過去のその時生きていたのだ」という証拠を積み重ねたい、という欲求が有るがゆえでありましょう。
自己を振り返ることを繰り返し続けないと、今の自己が危うく感じられるのです。

なんとまぁ、不器用で手間のかかる存在なのでしょうか。

念波

2011-09-30 06:14:12 | ブログ
言葉(音声・テキスト両方とも)を遣わずに、相手へ想いを伝えられたら、どんなに楽だろうと思います。

嬉しい想い、楽しい想い、悲しい想い、それらを言葉にしようとしたときに、なぜだか身体はうまく機能してくれません。
涙したり、しゃくりあげたり、声が震えたり、頭がうまく回らなかったり……

言葉に落とし込むときに、様々な障害が立ちはだかり、うまく出てこないのです。

そんな時に、言葉以外の情報で相手に想いを伝えられたら、どんなに楽なことでしょうか。

もちろん、人間は言葉以外にも、動作や表情や様子等から相手の状態を「察する」能力を持っていますので、その情報だけでも十分「伝わる」ことと思います。
しかしながら、発信者側の「伝えたい」が100%達成出来ているか、といえば必ずしもそうとは言えません。

人とは、なんと不器用で、限定的で、そのうえ情熱的で、わがままな存在なのでしょう。

……
それほどまでに「伝えたいけど、本当に思うがまま伝えられたかどうか、実感が湧かない経験をした」という話です。

楽器

2011-09-18 07:41:53 | ブログ
人間は楽器だ。
厄介なことに、毎回微妙に違う音を奏でる。
これは生ものと一緒。

その生ものを受けとめる器は、しっかりと安定したものでなくてはならない。
器が不安定な状態で、どうしてその作品が完成できようか。

器は、主張しすぎてはならない。
それでいて、どっしりと安定していなければならない。
さらには「え、居たの?」くらいに存在を消すことが必要。

その安定の上に居てこそ、楽器は楽しめるのだ。


我先

2011-09-17 08:54:00 | ブログ
いつからだろう?
表に出て、自己主張をするのが苦手になったのは。

思えば、今よりももっと若い頃は、数百人数千人の前で喋ることは全く平気だったはずなのに。
当時は、「これは自分しか出来ないことなんだ。自分は特別な人間なんだ」という圧倒的な自信を持っていた。
その自信はもうとうに消え失せ、今では、自分の小ささ、無能さを実感する日々である。

それもこれも全て、様々な人が「自分とは違う他者」であることを認識出来るようになったためではなかろうか。

これは「自分は特別な人間」と認識することと同義のようにも思われるが、実は全く違う。
「自分は特別な人間」と思う際には、その裏側に、「自分ではない(以外の)人間は、特別ではない人間」という考えがあるのであり、それは他者の存在の独自性を無視しているといえる。

本来ならば、自分とは違う存在であるから、当然、自分とは違う経験や思いをしてきているわけで、その神聖な過去には本人以外誰一人として、干渉することはできない。

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私はずるい人間だ。
自分が「大した人間ではない」と知っているゆえに、かなり素のままで居られるからだ。
その逆「私は大した人間である」と思える人は、よほど気力が強いか、気付いていないかのいずれかではないか。
私なら自分を保つことは出来ず、苦しい日々を送ることであろう。

音楽

2011-09-16 05:32:00 | ブログ
音楽というものは、「時間」の概念が無いと存在出来ない。
更に言うと、「時間」に「変化」という要素が合わさらなければ、存在出来ない。

その要素なしで、それが音楽であるということを証明することは出来ないのではないか。

もし「無変化」であったなら、それは絵画であり、建築であろう。
しかし、「変化」を備えているのなら、それは生ものであり、まさしくその空間そのものの変化を全身で味わうものなのだ。

これだから音楽はやめられない。

欠伸

2011-09-10 09:35:06 | ブログ
「欠伸」と書いて、「あくび」と読みます。

ふと気づきました。
あくびの「ふぁ~ぁ」には、実はまだ文字化しにくい部分が隠れているのではないでしょうか。

「ふぁ~ぁ……(むにゃむにゃ……んふー……)」

この後半の、「(むにゃむにゃ……んふー……)」はいったい何なんでしょう?
何も食べていないのに、なぜだか口の中で「むにゃむにゃ」してしまう。

・余韻を楽しむため?
・筋肉の緊張をほぐすため?
・あくびの一連の儀式?

これをしないと、あくびし終わった気がしないのではないでしょうか?
ということは、この「むにゃむにゃ」は、「あくび状態」と「非あくび状態」の境界に位置づけられるものとも解釈できます。

何なんでしょう……むにゃむにゃ……

痛痒

2011-09-08 18:10:16 | ブログ
痛痒という言葉があります。

「痛み(いたみ)」と「痒み(かゆみ)」のことです。
例えば、小さい子がワーっとやってきてぽかぽかたたいたりしてきた時などに
「ふん、何の痛痒も感じぬわ!」というふうに使用します。

痛みは、感じなければ、死に関わる為、絶対に必要な感覚であろうと思います。
しかし一方で、痒みは、正直感じたくはない感覚です。

なぜなら、痒いと、ぽりぽりかいてしまうためです。
そのせいで時間も無駄になるし、動作も無駄になります。

もちろん、痒みを感じなければ、身体に起こった些細な、微細な不具合に頓着しなくなり、
その結果、不具合が悪化して、手がつけられなくなる、ということになってなりえます。

頭ではわかっています。
痒みだって、必要があって今日まで残ってきた感覚なのだ、と。
淘汰されてきての、選りすぐりの感覚なのだ、と。

でもとにかく、痒みは感じたくないのです。
「痒みを感じることができない身体」になるということではなく、
追求すべきは、「痒みの原因が発生しない身体」になるということではないでしょうか。

私はこのような結論へとたどり着きました。
さて、どうしたものか……

広がり

2011-08-29 14:09:28 | ブログ
自らの可能性を求めて、出来る限り選択肢を多く持っておきたい、もっともっと広い空間がほしい、と望む気持ちは解らなくはない。
むしろそれは、人の欲求としては自然な流れであるとも、私は思っている。

しかし、こと自分と向き合う作業のような場合には広い空間や多い選択肢は無意味である。
さらに言うならば、そのようなものは自分の可能性を潰しかねないとさえ思っている。

思索や創作をする場合には、広い空間は必要ない。
狭い空間、その制限性からこそ、切迫感や、広がりが生じてくるのだと私は思う。