終わりのない片付け仕事をしていたら、積んだままにしてあった耐火煉瓦のすき間からささやかな植物が生えているのを見つけました。
今月は、春から始まっていた竹のようちえん、発酵学校、魔女学校が、順に区切りを迎えていく最中にあるのですが、たくさんのこうした小さな植物、そして動物たちと共に歩いて来た日々をふと振り返りました。
楽々ともいかず、さりとて苦ではなく、積み上げたものが崩れないように常に組み方を変えては地道にこつこつと手間も暇もたくさんかけて、ようやくひとつ積むレンガのような日々に重なるものがあります。
ひとつひとつ積み上げたレンガのすき間から、誰かにとって、こんなささやかな葉っぱが根付いたほどの成果があったなら、良かったなと思います。
よく「いろいろなことをされていますよね。」と言われるのですが
一農婦としましては、ただただ家庭科に関すること。その一点のみをやっているだけに過ぎません。
複合的な、複雑な、見栄えの良い加工を経て完成したものが、簡単に、便利に、すぐに使えるモノとして、世の中の幅を利かせている現状であっても、
経験に基づく丁寧な暮らしを土台に据えて、自然の恵みをいただき、常に何かを工夫し、自らの手とアタマを使って考えに考え、何かを作る喜びを淡々と感じ、それが文字通り家庭につながる時間は、完成ではなく、終わりなき感性の豊かさを磨いていくことになるのだと思うのです。
何十年か前のまだ、農婦がただの小学3年生のどこにでもいるような子どもの時
「同じ年に生まれ、同じところに住んで、同じ教育を受けて、同じ人としか関わらないのは、何の学びにもならない。同級生からは学べない。異業種からしか学べない。」と、生意気なことを心に秘めたまま表向きはフツウに学校生活を送っていました。
今でも、農婦はフツウの人です。