ドクダミの花にホワイトリカーを入れて作る虫刺されのエッセンス。
ドクダミが身近かにある方は、よく作るものですが、花よりガラス瓶と金ザルの影の方が美しいと感じる農婦。
きっと、ひねくれものなのでしょう。何かに対して誰もが美しいと賞賛するなら、殊更自分もその中のひとりになるよりも
あえて他に心配る目を持っていたいと思います。
昔から(いつ?)流行ものがキライで、自分が良いなと思う対象を、他の多くの方が「いいね」と言うようになると
それがキライになるという気の毒な精神を持っているのですが、だからこそ、淡々と地道になるべく中庸の中で歩いていきながら尚、今ないものが生まれることに心惹かれるものがあるのかも知れません。
それでも、ご縁のある方々からいいね。と言っていただけることには心からの感謝と、それに自惚れて地から足が浮かないように大地に足を差して、これからも更に歩いて行けるとありがたいと思います。
昨日、ようやく以前いただいたクワイの苗を田んぼのすみに植えました。いや、埋めました。
土の中に張り巡る根と、光と信頼関係にある葉っぱからも、見習うべきものが多くあります。
酷暑を過ぎたころから、いくつもの火のご恩で生かされるモノたちの作成計画を立て過ぎて、幾人もの方の協力をいただきながらの同時進行。が、まだ続いています。↑これは、愛農かまど。講師のご指導の下、参加者数名で3日間をびっしりかけて積み上げました。すごく良く考えてあって、戦後のモノが少ない時に身近にある材料で作れて、少しの薪で非常に熱効率が良く、煙突からの煙の逆流で時の女性の家事環境の劣悪さを改善しようと設計されたという講師の方のお話に、あたたかな思いやりを感じました。
↑これは、竹炭窯。炭窯作りに精通した方のおかげで、「そこにあるもの」で一緒に作っていて、まだ、制作途中です。竹害と言われるほど、日本中の里山、森や農地で竹の繁殖力の凄まじさに悩む現状にあって、少しでも人の暮らしに有益な炭に生まれ変われるといいなと思います。
大きな木樽をいただいたので、これを所謂、五右衛門風呂ではなく、横に釜を据える形で薪焚きの浴槽にしようと思います。
火のチカラでできることは、本当にたくさんあるのですが、どれも、スイッチひとつで自動で快適な状態にはならない。でも、そんな手間暇を楽しめる心を含めて丁寧な暮らしを求める方々に使ってもらえるように、地道に進んで参ります。
昨日は、若い世代の方々に、背高泡立ち草とヨモギを使っての草木染めを伝えていました。
中々窮屈な空間が解除されないままの日々が、どれほど「元気」の素を萎えさせていくのか。
それがこれからの人生にどう影響していくのか。アタマで考えるだけでは、到底解決できない課題ですが
「やりたい気持ち」があるならば、それを自分に出来ることで実現してもらえることは、自らも救われる思いがします。
緑色の草をたんまりと摘む。自分で自由に模様をつける。暑い中、直火の熱と煙に包まれながら、草の色も心も時間と共に解放されて、Tシャツに自然の色となって移っていく。そんな過程を経て絞めつけていた輪ゴムを解けば、そこに模様が出来る訳ですが、これからの人生で、締め付けられていたところが、くっきりと生きてきた証としての模様になった。くらいの広い心を育んでもらえたらうれしいなと思います。
みなさん、少しは気が晴れたでしょうか。天気も心も、晴れなければカビてきます。
今日はそれぞれの家でTシャツの天日干しくをしていることでしょう。心も晴れますように・・・。
FBと写真がかぶりますこと、ごめんなさい。
「家庭科」が自分の魂の原点にあると思っています。
そのせいか、大学でフランス語の授業があり、今、唯一覚えているのが
「家」は女性名詞ということ。だけ。
それはそうと、この手作りの家、素人仕事でメチャクチャで・・と言いつつ
土台と大枠はプロの確かな仕事があってこそ
自由な発想と、あるものでなんとかするという工夫の楽しさが得られていると
自覚しています。
世の中、引かれた線路の上を進むなとか、枠にはまって面白味がないとか
言う場面がある一方で
それに抵抗して、何かで少しでも奇をてらったことをし、それを批判されると
「〇〇の自由だ!」が常套句。
けれども、その自由には、理論に基づいた知識と経験があり
先人の知恵を一足飛びにいただいて
ゆるがない文字通りの土台と枠組みがあるからこそ
その安心感に支えられて自由が与えられていることを
忘れてはならないし、敬意と感謝の気持ちをもって
向き合っていくことが大事だと思うのです。
みなさんのおかげで今があると何度思ったことか。
これからも思い続けて人生の線路を歩いて参ります。
これまでは、IT技術の進化は小さな農家にも恩恵があり、仕組みを作った方々に
感謝しつつ、けれども、平面からでしか伝えられない故に、
どこまで本当の場に近づけるのか・・。と、思っていました。
五感に響くという意味では、視覚と聴覚のふたつしか鳴り響かないではないのかと。
それでも、その限られた条件の中でも、なんとか伝えなくてはならない環境に置かれて
初めて自分がこれまで、どれだけ現場主義でしかなかったのかを思い知らされました。
更には決められた時間割という制限も加わって、これまで使ってこなかった頭脳の領域を
新規開拓している、ここ3か月ほど。
まだまだ学校教育にお世話になっている子どもを育てるひとりの親として、
現場は止まっていても教育は止まることなく、
いえむしろ、机上では伝えられない学びがあると感じてもらいたい。
そんな想いで、昨日は汗を拭きながらパソコンと野の花や葉っぱを総動員して
オンライン授業をしていました。
平面に足らない部分を言葉で補って、これまでの自分の暮らしの在り方を、
これからの生活と環境と教育につなげています。
ありとあらゆることに感謝をしつつ、
やはり酷使して疲れた脳ミソ。
オンラインで作って見せた桜の塩漬けの蒸しパンを、
オフラインでいただきながら
桜の香りと汗をかいた肌に感じる爽やかな風にほっとします。
冬の間、味噌作り教室をしておりました。
1年に1度お会いする方、その方とご縁のある初めましての方。
長い方では23年間、欠かさず来てくださっている方もいて
本当にただただ感謝という言葉以外に伝える術がありません。
味噌作りが終わると少し、ほっとして、それから醤油の絞りと仕込みに入ります。
味噌も醤油も、暮らしの中の日常にあってすぐに手に入るものでありながら
あえて時間と手間をかけて
人と人との温かな交わりを軸に関わってくださる方がいることに
今だからこそ、心底救われる想いがします。
発酵という食に加えて
動物たちの、ただただ生きることが全ての姿にも心満たされ
衣のこともそろそろ再開の芽が出始めました。
もう少ししたらお伝えできると思います。
どうしても、思った色にならないと、宿題の絵を前に納得のいかない様子の娘の話を聞くと
「光のように輝いて透明な感じにしたいのに・・・」
そこには、到底透明と言うには程遠い不透明な水色が、これでもかと画用紙いっぱいに塗りたくられ
もはや、どうにもこうにも進むことも退くこともできない上に、更に絵筆はペタペタと娘の手によって
もてあそばれていました。
息詰まる娘の呼吸を開放させるため、絵のプロの知人に電話をかけ、ことの成り行きを話すと、
透明絵の具の存在を教えてくれました。
そもそも、アタマに描いた色を出すには、選んだ素材そのものが合っていなかったのです。
画材屋さんで透明絵の具を購入し、娘は気を取り直して宿題をやり直しました。
透明ではありませんが、色ひとつに想いを込めるという意味では、重なるものがありそうです。
「栗の花で毛糸を染めよう!」
http://kokokonohatake.p1.bindsite.jp/pg1524.html#季の葉の時間 栗の花で毛糸を染めよう!