日本に住んでいれば誰でも多かれ少なかれ、何かしら急いで締め切りを視野に入れつつやらねばならないことの多い3月ですが、気が付けばあと10日で新年度だと、吹かなくても飛ぶような小さな農家の農婦もハタと気が付きます。
軽トラに荷物を満載して連日、あちこちに醤油絞りに出向き、そこに集うお仲間と対話しながら同時に手で伝え(だから=手伝うのです。とか言いながら)
1つの樽の中の醤油をみんなで分かち合う喜びを共有し合う時間は、旅のサーカス団さながらの準備と当日と終わっての夜はどれだけぐったりとしていても、翌日次の場所へと向かうエネルギーとなっていることに間違いはありません。
そんな中、吹かなくても飛ぶほどの小さな農家であっても、他の方からすれば一応農家とみなしてくださるのか、どこに行っても、必ず誰かが「お米が高くなってきて・・」と話しかけてくれます。
お米の値段が高くなってきているということは紛れもない事実ですが、その事実に対しての考えや価値観、意見や思いは千差万別。
それは、きっと朝日が昇るのを見るのが、ビルのすき間からなのか、
山からなのか海の水平線からなのか、雨嵐で朝日が昇っていることが見えないだけなのか、ようやく光差す冬の遅い日の出なのか、夏の登った途端に暑くなる元凶なのか。どれも日の出という事実に対し、思うこと、見えるもの、感じることが千差万別と同じような気がします。
話が飛躍するようですが、だから農婦は勝負事が好きではありません。
勝者は喜びのコメントを出しますが、敗者の悔しさを思えば、それが何だと思うのです。もちろん、いつでも立場は入れ替わるし、悔しさをバネに頑張る精神力があるからこそ、次に挑んでいくのが勝負の醍醐味なのでしょうが。
その意味では「参りました」と自らが敗者の宣告をして終わる将棋は素晴らしいと感じています。
異物をくるんで真珠になるアコヤガイと、心の核の悔しさをくるんで愛となる農婦とでは似て非なるものがありますが、「お米が高い」とだれかが言うだけで、こんなにも様々に思考回路が無駄に働きます。
そして、醤油絞りと仕込みの切り替えのすき間時間に日程を合わせて
シルク担い手研修の総決算で長野まで出向き、2日間無心の鶴になって絹の機織りをしてきました。
農婦は皆さんが順に織ったあとのトリでした。(ここでも鳥)
途中では影響が出なかった、糸のねじれや摩耗、張り具合のツケが出て来るためか、1日目は経糸が30回も切れ、その都度、指導をしてくださる方と必死でつないでは切れ、つないでは切れで遅々として進まず。
織り傷もあちこち出て来るので「自分の傷だらけの人生と同じなので気にしませんですー」と言っては笑われましたが、それこそが悔しさ故の傷をくるむ真綿のごとく。
2日目は、経糸は10回くらいしか切れなかったものの、想定外の雪の影響で早くに帰路に着くのはキケンと判断し、あえて手間暇のかかる模様を入れ込みました。
機織りをされたことののない方にとっては、理解しにくいこととお詫びするのですが、経糸1本づつを見極めて増減しながらすくい、形作っていく手法です。
真ん中のピンクの楕円を入れ込むと、そこだけが2重の糸が入るため、両端の糸が空いてきていまします。それを補う意味で両サイドに適度に白色の色を織り込み、均等を保たせて織り進めました。
本当は朝日を織り込みたかったのですが、模様を入れるのを初めてチェレンジしたために円が広がりすぎてしまい、途中から「これは春の繭にすることにしました!」と問題を問題のままにせずに答えに変えました。
毎日違う場所、違う人々との手作り醤油の旅とお米の話題、トラブル続きでも自分で決めて挑んだ手間暇かけた機織り。
どれもが大変、楽しかったし様々に人生考えた有難い時間でした。
あした、いや今日からは新しい手作り醤油仕込みの旅が始まります。
いつもの場所といつもの人たち。新しく出会う場所と新しく出会う人。
縦にも横にも色とりどりに交差して細い糸の幅分づつ織り進んでいくように、
人生進んでいくうちにいつか、だれかの役に立つ長いストールが出来る日が来ると確信しています。