明日から長崎へ行く。
行き先を地図で調べれば、島原の乱の史跡がたくさん残っている場所だった。
中学の社会科の教科書に載っていた踏み絵や蓑踊りの絵図を思い出すが、
キリシタン迫害が行われた背景については勉強したかどうか覚えていない。
始まりは宣教師が日本にやって来たことだった。
彼らの表の顔はカトリックの布教することであったけれども、
宣教師のもうひとつの顔は武器商人であり奴隷商人であった。
あるいはそのような商人の仲介役をしていた。
キリシタン大名は鉄砲を買い、代わりにさらってきた少女たちを奴隷商人に売った。
火薬一樽で少女50人だったという。
南蛮船に閉じ込められた少女たちは、性奴隷として外国に売り飛ばされた。
その数は50万人とも言われている。
宣教師たちの裏幕には植民地化を狙うヨーロッパ(ポルトガル、スペイン)の国々がいた。
宣教師を送り込み、信者を増やし、ゆくゆくはキリシタンを扇動して国を奪うという
狙いがあったようだ。
キリシタンによって多くの神社仏閣が破壊されたのも事実である。
そして豊臣秀吉がバテレン追放令を出したが、収まることはなかった。
また九州のキリシタン大名が力をつけることを、幕府が見逃すわけにいかなかった。
幕府安泰のためにはキリシタンを追放する必要があった。
当時の島原藩主は冷酷な性格で、キリシタンに対し
宗教改めと称して、熱湯をかけたり、水牢に入れて何日間を放置したり
耳たぶに血抜きの穴をあけて逆さ吊りにしたり、生爪をはいだ。
それらは年輪もいかない少年少女たちにも行われた。
改宗を促すために行われていた拷問は、
単なる斬首よりも、より苦痛を与えて残虐な死をもたらす行為だった。
島原は火山土で収穫が多くなかったのに過重な年貢をかけられていた。
それに拍車をかけたのは全国的な飢饉だった。
年貢を納められない百姓は雲仙岳の火口に放りこまれたという。
キリシタン迫害と百姓の一揆、ふたつが合わさって島原の乱となった。
幕府側の絶対的勢力には対抗できず、最後の砦だった原城はついに陥落した。
そして婦女子みさかいなく3万7千人全員が殺された。
短時間にネットで調べたことなので多くの間違いがあるかもしれない。
歴史を学ぶためには、誰がどう悪かったのかを評価しなければいけないが、
それは移動しながらじっくり考えてみたい。
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縄文人と弥生人の関係知りませんでした。勉強してみます。
我々人間は、過去の歴史を学んで次の時代を築いてきましたが、
教えられた歴史がウソではどうにもなりませんね。
今の時代が平和と言っていいかどうかわかりませんが、
政治に不満を持ちながらも、一応生命を脅かされずに生きていけるのは
多くの不幸な歴史の上に成り立っていることを実感しています。
間違ってアコモさんのコメント消してしまいました。