KIRA KARACHO/唐長の奏でる唐紙の音

唐紙屋「唐長」唐紙師トトアキヒコが奏でる光りと音…「唐長美術館」への軌跡

砕け散るもまた一興

2009-03-31 23:34:43 | 思い


5メートルの白い壁がある。

今、この壁に企画展用の唐紙をてがけています。
挑戦です。

壁にであったとき、ものごとは、やった人とやらなかった人の2通りです。

当たって砕けろ…なんてことばがありますよね。
砕けるのは壁のほうかもしれません…

砕け散るもまた一興…
砕けたら
欠片を拾い集めたらいい
そんな自分に何かを気付くのでしょう

毎日仕事の合間をみては、この壁を頭に思い描いている。
もうじきこの壁に、新しい唐紙を飾ることになる。


桜舞い散るころ、ここに終いの桜がお目見えする。





3月31日
トト

ブルーバード…雪…星に願いを…インド

2009-03-27 23:58:52 | 思い


トトさん、ブルーバードと雪をコンセプトに唐紙をつくってもらえないでしょうか…


今年に入り何度か交流させていただいている方から、大切な人へのプレゼントにしたいと相談を受けた。
なんだかこの方々との出会いは、何か引き合わせを感じる出会いである。昨年手がけた東京六本木ミッドタウンでの唐長展でのインスタレーションのコンセプトに共鳴されてからというものいろんな話がすすみ、近い将来この方々と、新たなるコンセプトの唐紙のインスタレーションをつくる機会が生まれるやもしれません。
そして、新しくぼくが手がけた黒を基調とした3つ目のバージョンとなる「星に願いを」はこの方との話から生み出されたものでもあり、この唐紙に重ね合わせた色の層が醸し出すあるカタチが、いろんな議論を呼んでおります。

そんななか、依頼されたブルーバード…
日々、頭のなかで雪が舞い散る中青い鳥が飛ぶ空を思い浮かべています。



今日3月27日は、ココン烏丸唐長四条店にて、インドの方へ「星に願いを」が渡りました。
「星に願いを」のモチーフとしている九曜紋の起源は1000年以上前にさかのぼる歴史があり、インド経由で中国にわたり、空海を通じて日本に伝えられたとされています。

ぼくの愛する九曜紋が、この文様の起源となるインドの方へ渡った今日は記念すべき日でもあります。





3月27日
トト


トトのコラム 桜とともに

2009-03-25 23:59:45 | 読書


日々、唐紙を伝えていて思うことは、その美しさや陰影の世界観は、道端に咲く花や空の色、雲の流れや風の匂い、今宵の月や星の煌めき…これら自然にまつわるささやかな幸せを愛でることに他ならないのだということです。
(トト)



このブログを読んでくださった編集長から依頼があり、白川書院発刊の月刊京都4月号の巻頭ページにコラムを書きました。
この号の特集は桜です。京のかくれ桜特集とともに、書店にてご覧ください。





3月25日
トト

勘のさじ加減

2009-03-23 23:59:21 | 思い


隻手音声(せきしゅのおんじょう)ということばがあります。
声無き声を聞く、ということです。
隻手とは片手のことですが、両手を打たなければ音はでないのに、片手から出る音を聞けというのです…つまり、声無き声…音なき音を聞きなさい、と。

理屈や目に見えるだけの現象に捕われていると、難しいことかもしれません。
語られていないもの、聞こえてないもの、見えていないもの、に何があるか…


垂れ流された情報に惑わされぬことです。
世間のニュースや報道なんかもそうです。
語られていることだけに右往左往するのではなく、何が語られていないのか、真はどこになるのかを、これだけ情報過多になった世の中において自ら感じる考えるということは自分の幸せや環境を守る上でますます求められてゆくのでしょう。


生きてゆく上であらゆる気配を感じる能力というのは本来人間に備わっていたはずです。
勘という感覚ですね。
モノづくりをしていると勘のさじ加減というものがひじょうに問われることがあります。
加減…案配…なんとなく…

そこには、経験値に基づいた勘とそういうのとは別次元の勘のふたつの勘が存在している。





3月23日
トト

からっぽ

2009-03-21 03:17:54 | 思い


今日は次の季刊誌KIRA KARACHOの準備をしています。
昨年開催した「祈りの青」展での11代目夫妻の談話と千田聖二とトトアキヒコの談話のテープおこしをしています。


人さまの話というのは、自分の器をからっぽにして聞くのが一番ですね。

素直に感じることが大事です。



それとお知らせです。
次の唐長サルヤマサロンの企画展は4月下旬に行います。
テーマは、遅咲きの花見。






3月20日
トト

KARACHO at COCON KARASUMA

2009-03-17 23:59:49 | 思い


ココン烏丸にある唐長四条烏丸店。
ディスプレイ変更しました。
店の空気が凛と変わりましたよ。
カードもほぼ全種類総入れ替えしました。

ここ5ヶ月の間に随分と様変わりしました…
ぼくたちがここ数ヶ月、意識的に手がけてきたことは、アイテム数をうんと減らすことと、色バランスを変えること、モノのクオリティを上げること、サービスのクオリティをあげること。
商品バリエーションを増やし選択幅を広げ、価格をさげてゆき、いわゆるマーケットに迎合してゆくこととは全く逆のベクトルに意識を向けました。

5ヶ月前より、商品は半数くらい減らしています。
しかし、店に立つ人間は増えています。


どういうことかというと、モノを減らした分、つくり手も売り手もクオリティを追求しようとしています。しっかりいいモノをつくるのは当然のことながら、わざわざ唐長へ来てくださった方々へ唐紙のいろんな話ができうるような環境を唐長の入口でもあるこのお店で実現しようとしているのです。

人間も出会いですが、唐紙も出会いです。
この時期、この日、この時間に縁があって来てくださった人と、日本に一軒しかない唐長のその日の唐紙との出会いです。

そして、そこで花咲いたお話や人間関係によって、唐長ファンになったり、後日修学院工房へ来てくださることにつながり、ぼくたちと会える機会へと繋がったりもするのです。
唐長の本随はインテリアですから、四条店で出会ったカードや便箋により、やがて室内インテリアに取り入れてくださる日が来たりもするのです…そのためのアンテナショップですここは。

Tさんの探究心と愛嬌。
新しいTさんのたおやかな包み込むやさしさと安堵感。
Iさんの上品さとスマートなお洒落感覚。
そして、ぼくと千田愛子の感覚の意向を一生懸命汲みとろうとひたむきに耳を傾け、一緒に制作に取り組んでくれているこころあるつくり手のSさん。

ぼくたちの目指す店づくりへと近づいているような気がする。





3月17日
トト

金沢21世紀美術館 杉本博司「歴史の歴史」に身をおいて

2009-03-12 23:59:40 | 散歩や美術鑑賞など


写真は、時や場の記憶を刻む。
二度見ることのない世界の「今」を刻むわけだが、撮った瞬間、否、撮りゆくさなかにも「今」は非情にも流れゆくながで、確かにその時間が存在したという証が写真に表れる。
決して捉えることのできない世界、「今」。
まさに、一期一会の世界といえるのだが、一期一会とは、誰かと出会うということだけではなく、すなわち、対象を第三者にする考えだけではなく、一期一会なる世界と向き合う一期一会なる自分を記憶するために、ぼくは写真を撮っているとも言える。

しかし、写真に表れるのは今だけではない。

100年存在したものには100年の時間が表れ、1000年存在したものには1000年の時間が見えない何かとして表れているのだ。
こういうことを考えるに至ったのは、杉本博司氏の作品を見るようになったこともきっかけになっているのだと思う。今回、楽しみにしていた金沢21世紀美術館「歴史の歴史」で、ぼくは杉本博司氏のフィルターを通した歴史時間のまっただ中に身をおき、感じることができた。

そして、より一層に、唐長の魂のチカラを身に宿す素地ができたのではないだろうか。

ぼくの生きる世界…唐紙にも同じことが言えるのだ。
何百年、何千年と生き続けてきた文様の世界には、歴史を経た時間のチカラが宿っているし、100年、200年と存在してきた板木には、それに相応する時間の概念が宿っているのだ。
だからこそ、その板木を用いてつくる唐紙には、目に見えない歴史のチカラが宿るのである。


唐紙の美しさは、文様の世界観と物語、板木に潜む大切な先人たちの魂をうつしとってこそ、人に何かしら感動を与えるモノとして呼吸しはじめるのです。





3月12日
トト

静かなること

2009-03-10 23:59:50 | 思い


この静けさを必要とする人が必ずいると思う…

今後の唐長の在り方について、今日11代目と話していたときの会話である。


ぼくは、静かなるものに美を感じる。
静かであるというのは、音がないということではない。
黙して語らずということばもあります。
黙っていても伝わることがあり、また、黙らなければ伝わらないこともあります。
沈黙は、何も語らないということではなく、黙の中にある声なき声を聞くのです。


静謐の世界に感じる音。
耳を澄ますと…目をとじると…感じる音があるのだ。

ぼくの手がける唐紙はそういうことを目指している。
心はカタチとなって表れる。
たたずまいを整え、息を整え、見渡して、感じてみよう。
世界はとても素晴らしいのだ。

さすれば、
この唐紙から…
この写真からも…
音が聞こえてくる。





3月10日
トト

九曜紋に呼ばれて

2009-03-06 23:45:37 | 思い


昨日、新しい「星に願いを」の下地を手がける。
南蛮七宝…この見方によっては円の連鎖のようにも、星のつなぎのようにも見えるし、大きくとらえれば、四葉の花や、十字の連なりのようにも見える魅力的な文様である。
時は南蛮貿易のころ…宣教師が身に纏う衣服やマントにこれらがみうけられたとされ、江戸時代、唐長が伝えてきた文様であり、鎖国後はこれらの唐紙が海外にも影響を与えた。
文様は巡り巡って旅をし続けているのである。



今日は、早朝からたくさんの魂とふれあったせいか、身体が熱い。
ほてっている。

お寺のご住職さんに、ある問いをした。
驚いた表情で
「あんた…これがわかるんか」
「これが見えるんか…普通はみんな気づかへんもんやのに…そうか…あんたには、なんか宿ってるんかもしれんな」

その後、ご住職さんは、全てを案内してくださり、普段人目にふれることのない数々の秘宝に触れることができた。
そして、そこで出会ったのは、ぼくが生涯つくりつづけようとしている「星に願いを」に用いている九曜紋…

「あんた、呼ばれてるんとちゃうか…」




3月6日
トト

唐紙の神さま

2009-03-03 08:41:24 | 思い


唐紙の美しさは、文様の世界観と物語、板木に潜む大切な先人たちの魂をうつしとってこそ、人に何かしら感動を与えるモノとして呼吸しはじめるのだ、と常日頃語っている夫は、400年連綿と続いてきた先人たちの魂と会話しつつ、現当主である父の背中を追いかけているのかもしれない…
こういう家業のカタチが、私にとっては、京都の象徴でもある。



千田愛子がココン烏丸のホームページ上で公開されているリレーコラムというところに、コラムを書きました。
人のこころある言葉にはチカラがあり、言霊が宿ります。
それは、上手いとか下手とかそういうことを超えたチカラであり、嘘や取り繕いには言葉の神さまは、宿らないものです。彼女が今回発した言霊が、唐長に、そしてぼくたちに、また新たに何かをもたらすことでしょう。

唐紙も同じだと思います。
唐紙の神さま…
ぼくは、いると思います。
この写真の「星に願いを」にも宿っているのが、見えるでしょう…

見えないのは、
見えないのではなく、
見ようとしない人には、見えないのです。




3月3日
トト