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金星太郎日記

教室は宇宙船 どこへだって行ける けやきのこずえに続く青空… 谷川俊太郎の詩より 

育成会・PTA2013

2013年07月31日 06時21分36秒 | Weblog

Y小学校区育成会連絡協議会の慰労懇親会に参加した。

この会は8つの単位育成会から構成され、地域の子供を地域で育てるという基本理念の下、ドッジボール大会と「1000万人ラジオ体操」を主な行事として、地道に活動している。今年度も6月に第30回町別児童ドッジボール大会、7月にラジオ体操を実施したので、役員のご慰労という意味での懇親会であった。

 ここ数年のドッジボール大会の企画運営については、会長さんはじめ役員の方々が熱心に話し合い、引き継ぎをしっかりしていただいているお陰で、大会準備や当日の進行が順調に行われ、充実した内容となっている。役員の皆様のご努力に感謝したい。
また、大会当日だけ参加するというのではなく、前もって子どもたちと役員が審判講習会で学んだり、地区別にドッジボール大会に向けて練習したり、それぞれの活動を積み重ねてきているという点にも注目したい。上級生が下級生に自分たちの経験を受け継ぎながら育っていることも忘れてはならない。

懇親会の席で、5年間、K地区で監督をしているというOさんが語っていた。
「今年のチームは6年生が一人もいない。5年生が中心になってパス回しの練習をしてきた。作戦を教えてあげたら、子どもたちはそれを素直に実行してくれた。その結果、6年の強力アタッカー擁する他のチームを退けて優勝することができた。初めて優勝できた。」



 Oさんは今年のPTA新聞にもコメントを寄せている。
「地区ごとの団体競技はこの機会以外には、なかなかないから、楽しいんです。何よりも学年をこえて子どもたちのつながりが強くなるのが実感できます。ぜひ、いろんな子が参加してくれるといいですね。」
(Y小学校PTA新聞「ねんりん」128号より)

さて、この懇親会にO地区の監督を務めるYさんをお誘いした。Yさんはご自身のお子さんが在学する以前からO地区の監督を引き受けておられたというから驚きだ。また、数年前にはPTA会長も経験され、さらに昨年、長野県PTA連合会の会長も務められた。
お仕事は、S工業(株)のT工場長とお聞きした。お忙しい毎日にもかかわらず、こうして子どもたちのために「ボランティア」で、こんなに働いてくださる方は他にはいないのではないか・・・、本当に頭が下がる思いだ。
実は、Yさんをお誘いしようと思ったのは、長野県PTA新聞の以下の記事を読んだことがきっかけだ。


今はもう成人した長男が小学校4年生になる時にクラス替えがありました。当時はクラス替えが1回でした。新しい先生は、臨時採用の経験はありましたが新任で、親たちの反応は様々。おそらく不安の方が大きかったでしょう。
そんな中、6月頃から地域の行事が始まり、先生は地区のドッジボール大会など、クラスの児童が出る行事には欠かさず顔を出し、子どもたちの活躍を見守り続けました。幾つもの地区があったので、大変だっただろうと思います。
これを機に、親たちの先生への見方が変わっていきました。先生と子どもたちが話し合い、30人31脚の大会に出たいと決めたときも親たちは大賛成。練習時間をやりくりし、親たちもバックアップし、6年生まで毎年大会に参加しました。
このクラスに特別支援学級に在籍している子がいて、参加はむずかしいのではないかと思われましたが、子どもたちは「みんなで一緒に走りたい」と言い、最後の大会は全員で走り切りました 県予選2位で全国大会には行かれませんでしたが、後日親たちが県予選会場を貸し切り、再挑戦。自分たちだけのラストランで、予選1位だったチームのタイムを抜きました。親として、いいクラス作りに直接関われてよかったと思っています。
先生と親たちの懇親会は、卒業後8年経っても続いています。次回は成人した子どもたちも一緒に飲む予定です。
現在、いろいろな事情で元気をなくしている先生方がいます。私たちは、仲間である先生方を元気にするため、PTAとしてできることを考えてみませんか。
(長野県PTA新聞 第217号より)

 Yさんはご自身のお子さんが卒業されてもなお、地区のドッジボールチームの監督を引き受けて、今年も指導されている。

「ドッジボールの『ドッジ』は、『逃げる』とか『かわす』という意味ですよね。投げることや捕ることが苦手な子も参加できる良い競技だと思います。いろいろな子どもが参加してくれるとありがたいです。」
と語るYさん。いつまでも名物監督として子どもたちを大勢引き連れて、体育館へ来てほしいものだ。
 YさんからPTA活動の原点・・・我が子のことだけでなく、他のお子さんにも関心を持ち、やがて学級の子どもたちと先生についても関わりを広げていく・・・そして、『子どもたちや先生方を元気にするため』にできることを考えよう! を教えていただいた。


こうして、人と人との関わり方を教えてくださった方々に感謝しながら、懇親会のおいしいお酒をいただいた。

2013,7,30



仏教徒の原点2013

2013年07月02日 22時26分17秒 | Weblog

善光寺大本願で説法会が開催されるというので、出かけた。

講師はインドに渡って47年、ヒンズー教のカースト制度の下で差別されてきた人々を仏教に改宗させ、解放する活動を続けてきたSSさん(77歳)。
演題は「立ち上がれ!日本仏教徒」。

僧侶の説法は昨年の父の葬儀や法事の度に聴いていたが、今回はそれらと異なり、仏教者としての原点から「原子力発電に反対する」という政治的な立場を明確にした講演会であり、行動する仏教、「闘う仏教」という視点で、興味を持って傾聴することができた。
参加者の中には長野1区選出の衆議院議員の方もおられ、熱心に質問されていたが、今(政治家のみならず)さまざまな人々が日本の現状に対して危機感や不安感を抱いて生活していることは否めない。
特に、東日本大震災および東京電力福島原発の事故を契機に、宗教者をも政治的な活動へ向かわせるほど深刻で「放っておけない」日本の現況にモノ申す・・・、そして「立ち上がれ!」と叫びたくなる心境もよくわかる。

S氏の経歴を聞いて驚いた。それは反骨精神、反抗心、闘争心の積み重ねだ。宗教闘争の本場インドで泥と汗と垢にまみれて、傷だらけになって貧しい人々に中で布教してきた精神は何と言うことだろう。原っぱで寝泊まりし、自らを野生の仏と呼ぶ。

では、なぜ? 原発反対か?

仏教において信者が守るべき戒律として五戒文がある。
バーナーティパーター ヴェーラマニー スィッカー パダン・サマーディヤーミ。
私は「生き物を殺さない」という戒めを守ります。
アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダン・サマーディヤーミ。
私は「盗みをしない」という戒めを守ります。
カーメース ミッチャーチャーラー ヴェーラマニー スィッカー パダン・サマーディヤーミ。
私は「淫らな行為をしない」という戒めを守ります。
ムサーワーダー ヴェーラマニー スィッカー パダン・サマーディヤーミ。
私は「嘘をつかない」という戒めを守ります。
スラーメーラヤ マッジャパマーダッターナー ヴェーラマニー スィッカー パダン・サマーディヤーミ。
私は「酒や薬物を使用しない」という戒めを守ります。

人の命を殺さない(殺生戒)。命を大切にして慈しむ・・・。
日本列島全体に走る火山帯の存在、その上に危険な「原発」を作ることは人々の命を危険にさらすことだ。いったん事故になれば、とりかえしのきかない事態になることは2年前の東電福島の原発事故が物語っている。
「同心大事」・・・3・11の震災被害に苦しむ人々は自分とは遠く隔たった存在ではなく、尊い命を持ったかけがえのない存在だ。同じ心で祈り続け、拝み続けること。そして、原発に反対することだ。宗派を超えて原発反対を!
と呼びかける。

松本市から参加した僧侶は、
「仏教徒としての『原発反対』の原点は、命を次の世代につないでいくこと。後世の人に『先祖はなんて事をしてくれたんだ!』と言われないように・・・、後世に対する責任を果たすことだ。」
と語る。

私たちは今の便利な生活だけに満足して、いつ襲ってくるかわからない地震や津波、そして原発事故のことを先送りしてしまって良いのだろうか?
そもそも便利さや経済的な発展を優先させて、負の部分や闇の部分を避けて見ないようにすることは、正しい生き方と言えるのだろうか?
そんな素朴な疑問が浮かんだ。

「原発のウラン燃料1個が、1家庭が1年間使う電気を生む――。反原発を訴えた市民科学者、故高木仁三郎さんは、身近な問題としてぴんと来ない人のために、家庭の電力消費と結び付けて説明した。ペレットは、・・・重さ10グラムほどだ。この1個が燃えると、一方で0,33グラムの死の灰を生む。毒性にすると、3万~5万人をがんで死なせる致死量に当たる。電気を消費した分の核のゴミがそれぞれの家庭に残されるようだったら、誰しもそんなものは困ると原発反対の声を上げたでしょう――と高木さん。政府や電力会社がちゃんと安全に処理してくれる、と皆が思っていたという。けれども実際は違っていた。原発から出る使用済み核燃料は、各原発のプールに溜まっている。・・・再処理工場は稼働の見通しが立っていない。・・・再処理工場が動いても、処理後のゴミの行き場は見えない。・・・」(6月28日、信濃毎日新聞「斜面」より)

 津波や原発事故に襲われた人々の話を聞いたり、映像で見たりした時に、人はどんな思いで自分の生き方を問うのだろう? あるいは、問うこと自体を避けるのだろうか?
 それはそれ、自分は自分・・・、と感じるのだろうか?
 仏教徒である前に、人間として何を感じるか?

自宅に戻り、仏壇に手を合わせた時・・・、ふと、そんなことを思いながら、遺影の父に線香をあげた。

2013,7,2

大人も成長2013

2013年06月02日 11時34分17秒 | Weblog


武田信玄の信条とされる言葉に・・・『人は石垣 人は城』がある。
人が作る組織は、会社であろうと役所であろうと、学校であろうと、そして、スポーツチーム・・・我がドッジボールチームこそ、一人一人の存在とその人間関係が大切なのである。
一人一人がどのように育っているか、充実感と満足感、達成感を得て居るか? このことが問われている。

さて、建設会社に勤めるSコーチは、いつもお仕事の後に体育館に来てくださっています。本当にありがたいことだ。最近、会社が所属している上部団体の会報にドッジボールの所見を載せてくださった。
公にされた文章なので、ここで紹介したい。


・・・自分の息子がクラブ活動をしているところに、日ごろの運動不足解消のため軽い気持ちで参加したのがきっかけだが、これがとても大変なスポーツなのである。疲れること疲れること、日ごろ運動していない自分には、ことさら応えた(笑)。子供たちの体力には目を見張るものがあり、それどころか60歳のT先生の体力気力にも付いていけず、先生や子供たちには感心し切りである。もう少しダイエットが必要なことに気付かされてしまった。

・・・最近、テレビやマスコミは体罰に関する件で騒いでいるが、このチームでは一切ない。現在の親御さんは自分の子供を褒めたり叱ったりすることが本当に苦手だ(自分もそうである)。そんな自分が他人の子供を心から褒めたり叱ったりすることをT先生に教わった。
実は数ヶ月参加しているうちにコーチになっていた。最初は○○の父ちゃんだったが、いつの間にか「Sコーチ」になっていた。子供たちに信頼されているのかと思うと、さらに力が入りドッジボールに参加する時間が増えてくる。だが、このチームの基本として仕事優先なので、そちらも疎かにはしない。子供たちが日々上手になっていくのがとても面白い。大会で「全員ドッジ」で頑張る姿、悔し涙を流す姿、勝った時の喜ぶ姿を見て、自然に大人のほうが一喜一憂している。そんな自分がとても面白い。

改めて子供たちの姿勢を見ていると、道徳やマナー(特に、あいさつ)がしっかりしていることで信頼を得ていることに気が付いた。社会人になってもあいさつができない人をよく見かけるが、子供の頃の純粋な気持ちを思い出して気持ちの良いあいさつを心がけてみたい。
実は、子供たちを教えているつもりが、私自身教えられていることに気が付いてしまった。・・・これからもどんな形であれドッジボールを通じて子供たちの成長に携わっていきたいと思っております。



次の文章は、徳間ドッジボール愛好会で5代目と9代目に監督をしていただいたKH氏の所見。
お子さんが2年生の時に当時の担任の先生が発行してくださった「学級通信」に掲載された文章である。

「子どもの能力は無限大だ!」(H15年10月)

「自分はできない。」と思い込んでいる子どもが、ちょっとしたことがきっかけで能力を発揮してくれることに、ある日ふと気がつきます。
 そのきっかけはどこにもあると思いますが、今、我が家で一番熱い“ドッジボール”での発見です。
 ドッジボールは球をキャッチする、あるいは相手へアタックするという単純なゲームですが、これがいざやってみると簡単な動作でもかなり難しいことに気がつきます。試合に勝てるようになるには、かなり地道な練習が必要です。

 ドッジボールを始めた頃は、球をキャッチできない子、相手に球を投げても届かない子がほとんどでした。「こんな調子では試合もできないなぁ。」とさみしい思いをしていましたが、一人一人がそれぞれ目標を持って練習を続け、気がつくと誰もがすばらしいキャッチ、すばらしいアタックができるようになっていました。
「この子は無理だ。」と決めつけて考える大人の考えが、子どもにはいかに通用しないかということを痛感させられます。今でも多くの子どもたちとドッジボールをしていると、日々新たな感動と発見を子どもから与えてもらっています。まさに、子どもの可能性は無限大です。
 子どもが良い方向に伸びていってくれるよう、背中をちょっと押して、無限に伸びる子どもの、まず一歩をあたえることができたらと思っています。
(ドッジボールが好きなオヤジより)

 お二人とも我が子の関わった「ドッジボール」というスポーツを通じて、少年たちへの接し方や考え方が変わっていったという点で共通しています。
監督やコーチとして、選手と一緒に汗を流し、喜んだり悲しんだり、時には涙を流しながら、本気で取り組んでいただいたからこそではないでしょうか?
愛好会のドッジボール指導法は・・・、誰か経験豊富な偉い人に頼んで教えてもらうのではありません。ごく普通のお父さんたちが試行錯誤を繰り返し、子どもたちと一緒に苦労しながら作り上げていきます。

与えられたものではなく、自ら工夫しながら編み出していくものだと思います。
辛いことや苦しいこともありますが、だからこそ面白いし、やりがいがあるとも言えるのです。

監督・コーチの皆さんのご尽力に感謝しつつ、「おやじキッズ」の奮闘に期待したいです。
今後ともご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

2013,6,2



合掌2013

2013年04月17日 05時58分28秒 | Weblog

徳間ドッジボール愛好会の卒業生の保護者Sさんが急死し、通夜と告別式に参列した。

職場にて脳失血で倒れ、そのまま病院に運ばれて1週間で亡くなった・・・。人生半ばにして、3人のお子さんを残して他界した無念さは計り知れない。
病気の兆候はなく病院にかかったこともなかったため、直前まで元気に働いていたという。
生前に私たちがお世話になったご恩に感謝すると共に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

Sさんはドッジボールの保護者活動に進んで参加し、他の保護者の皆様に声をかけたり誘ってくれたり、いろいろと企画・運営を担ってくださった。
大会での熱心な応援ばかりではなく、普段の練習へのご支援、そして、家に帰ってから遊びに来た子どもたちの面倒も良くみてくれた。

自分のお子さんだけではなく、他のお子さんに対しても我が子のように接し、世話してくださった。
焼肉レクレーションでは中心になって準備し、子どもたちの扱いもとても上手でした。

特に、お母さんたちみんな仲が良く、大人自身が楽しみながら交流するというスタイルを築いていただいたのはこの時期かもしれない。

今日まで愛好会が継続し発展してきたのは、Sさんのお陰と言っても過言ではない。
性格は明るく社交的で、誰にも好かれていた。難しいことは言わず、いつも笑顔で答えてくれた・・・。保護者が集う場の中心には、必ずSさんがいた。

長男のY君がファイヤーキッズ、次男のT君がドリームキッズで活動していたのは、今から12、3年前。
当時の愛好会は選手の数が多く、体育館に入り切れない下級生は石廊下で柔軟体操や筋肉トレーニングをやっていたことを思い出す。

長野市内や北信地域には強豪チームが多く、大会ではなかなか勝てない時期が続いていた。監督コーチはどうしたら勝てるか、いろいろと苦労しながら試行錯誤を繰り返していた時代でもある。
練習試合に出掛けて行ったり強豪チームを招待したりして実践を積み重ね、負けた時は反省会、勝った時は祝勝会、作戦戦術会議と銘打って「飲み会」を頻繁に開催していた。
Sさん宅では、自然に人が集まり・・・、ビデオを鑑賞しながら深夜まで監督コーチ会議が行われていたという。
人が自然に集まる・・・、Sさんの人柄が偲ばれる。

人の一生は平均寿命80歳前後だろうか? 高齢になると、『いつかはこんな日が来る』と、そういう予感を感じる年齢もある。
それにしても、Sさんは早すぎた・・・。遺影のお顔は若々しく生気に満ちている。なぜこんなことに? という思いだけが沸き起こる。


長男のY君は24歳にして喪主を務めることとなってしまった。悲しみをこらえて葬儀の準備や弔問客の接待に走り回るY君の姿を見ていると、逆に頼もしく、長男として一家を支える強い責任感のようなものを感じた。
幸いドッジボールチームの仲間がすぐに駆け付け、励ましてくれていた。
特に、かつてのライバルチームで活躍したK君には入院後から通夜、そして告別式まで誠意を尽くしてお手伝いしてもらったことに感謝したい。

仏教の言葉に、「忘己利他(もうこりた)」という命題がある。
己(おのれ)を忘れて、他人の利益ために尽くす・・・。
自分のことは後にして、まず人に喜んでもらうことを行う、それが仏さまの行いであり、そこに幸せがある・・・という教えを思い出す。
人間は欲の塊である。自分の利益のために走るという生身の欲を捨て切れなくても、時として仏の道に気付く瞬間がある。自然に心が震え、身体が動く・・・。
改めて、友だちのためにすぐに行動を起こしてくれたK君をはじめドッジ仲間の皆さんの真摯な姿に感激した。

葬儀の後の「お斎(とき)」の席では、新たな出会いがあった。
それはSさんの職場の社長さん。 なんと、従兄に当たる人が市内の小学校で先生をしていて、ドッジボールチームを指導しているとのこと。
「えっ、あのH小学校の春先生が?!」
奇遇である。

喪主のY君からは、葬儀と初七日法要が無事に済ませたことへの感謝の言葉が語られ、故人を偲んで食事を振る舞うことの趣旨が述べられた。

Y君の落ち着いた口調とちょっと大人びた風格に、改めて社会人としての成長の証を見ることができた。それはたぶん、普段飲食業に従事し、接客という仕事の中で経験し鍛えられ、少しずつ醸成されてきたものかもしれない。

さて、こうして永遠の別れという悲しみと苦難を乗り越えようとする若者に心よりエールを送りたい。なぜなら、子どもも大人も、共にドッジボールというスポーツを通して「真剣に」かつ「楽しく」、人生の大切な一時期を過ごさせてもらったからである。
それは私たち共通の宝物ではないだろうか?
Sさんからいただいた貴重な宝物をこれからも心に温めながら・・・、私たち一人一人がこれからの人生を歩んでいきたい。
Sさん、ありがとう・・・。

合掌


長寿クラブ2013

2013年03月31日 19時33分27秒 | Weblog

7年前に地区の常会長(約80軒)を務めた時からF区長さんと知り合いになり、いろいろと話をする中で親しくなった。

昨年の常会の総会と懇親会の際に
「今年60歳で、やっと還暦です。」
と自己紹介したら、
「では、長寿クラブというのがあるから入りましょう!」
と誘われて、軽い気持ちで入会することになってしまった。
先日、公民館で定期総会があったので、参加してみた。
区全体の会員128名中で60歳の新人は、たった1人。もちろん最年少だ。
「老人クラブの歌」というのもあり、カラオケサークルの部長さんの指揮で斉唱した。


♪同じ仲間だ 輪をつくれ
老人クラブは みんなの広場
一人くよくよ するのはやめて
話し合ったり 励まし合って
ともに明るく さあ生きぬこう♪


なるほど歌詞の通りだ。くよくよしたって始まらない、前向きに生きていこう・・。まずはみんなと話をすること。

「若い世代と手を携えて、地域づくりに・・・、絶えず頭と体を働かせ、健康保持に、・・・進んで社会奉仕活動に参加し、良き相談相手となるように努めます。」(長野県老人クラブ憲章より)

具体的に1年間の活動というと、神社の清掃、古紙回収、研修旅行、運動会や文化祭、保育園や育成会の子どもたちとの世代間交流などである。
ところが、こうした活動はほとんど平日の昼間なので、普段現役で仕事をしている者にとっては参加しにくいのが現状だ。年に2回ぐらいなら何かの活動に参加できるかもしれないな・・・、などと思ったりした。


総会が終わり、余興で日本舞踊が披露された。
演歌がゆったりと流れる中、きれいな着物を身に纏ったご婦人が優雅に踊ってくれた。
どこかの舞踊教室の先生だろうか? 足の運びと指使い、それに姿勢がなんとも言えず古風だった。

さて、懇親会が始まって、乾杯・・。会費1000円の割には良好な折詰が出てきて、酒が150ml瓶で配られる。お隣同士でお酌しながら、酒宴となった。

隣に座ったMさん80歳と会話が弾んだ。
「戸隠の渓流で岩魚釣りをしてきた。岩場で転んで足を負傷してしまった・・。」
「僕も昔、釣り仲間に連れて行ってもらって岩魚を釣ったことがあります。家の物置につり竿があります。」
「岩魚釣りは・・、一人でやるものだ!」
「転んで水没、そのまま天国へ・・・なんてことになったら、危ないじゃないですか?!」
「それなら、それも本望だ。」
なるほど覚悟を決めている人は、それが何よりの幸せなのかもしれない。

隣の隣に座ったご老人は75歳で、ゲートボール部で週3回公民館の裏庭で練習しているらしい。3級審判員の資格保持者だという。スゴイ!
「いっしょにやりませんか?!」
と誘われたが、活動日と時間が合わない・・。

前に座った方は家庭菜園で季節の野菜を作っているとのこと。じゃがいも、ねぎ、枝豆、トマト、ナス、きゅうり、ピーマン、オクラ・・・。
80歳とは思えないほどお顔の血色が良い。やはり太陽の恵みを受けているのは作物だけではなく、当の人間様のようだ。

区のサークルは、囲碁・将棋、俳句、マレットゴルフ、水墨画、マージャンなどがあり、まるで学校のクラブや部活動のようだ。
一人一人が自分らしい趣味を嗜み、興味と関心を持ち続けているところがすごい。それが長生きの秘訣なのだろう。
体の動きやしゃべり方はゆっくりでも、眼光がしっかりしているなと感じた。

年寄りは宝。老人を大切にできない世の中はたぶん衰弱していくのではないだろうか。

永六輔さんの言葉に。

子ども叱るな 来た道だもの  年寄り笑うな 行く道だもの
来た道 行く道 二人旅  これから通る今日の道
通り直しのできぬ道
(出典は浄土真宗の信徒さんらしいが・・。)

若者と子どもと年寄りが手を取り合って、共に歩める世の中に、という願いが込められているのかな?

懇親会は「北信流お盃の儀」が行われて、中締めとなった。
お肴の謡が披露され、酒が酌み交わされる。

地域とのかかわりを見つめ直すと共に、年の取り方を楽しめる貴重な機会となった。

2013,3,31



JDBA理念と体罰問題

2013年02月07日 15時46分44秒 | Weblog


大阪市の高校でバスケットボール部の指導に関わる体罰問題が起こったことがきっかけで、少年スポーツにおける指導はどうあるべきかが、今問われている。

最近、日本ドジボール協会でも、見解を発表している。
「・・・日本ドッジボール協会では設立以来一貫して、『自主性・自己責任・向上心』の3本柱を掲げ、選手一人一人が自ら考え行動することができるよう、選手の気持ちなどを最大限尊重した指導を行うようお願いしているところであります。選手への指導に関し、体罰(程度にかかわらず暴力行為、暴言)による指導を排除することをすべての指導者に強く望みます。」
さらに、
「2013年度から・・・『公認指導者制度』をスタート・・協会理念、指導者としての資質、知識、技能について包括的に研修し・・優れた指導者を養成する・・・インストラクター有資格者を中心に、取得希望者を対象に実施します。」と、述べている。

つまり、JDBAはそもそも体罰とは相容れない「理念」と「指導」を前提としており、その理念の普及が今後「公認指導者」の養成という形で具現化されるということだ。


先日、近隣の小学校体育館をお借りして「ドッジボール交流会」を開催する機会があったので、早速この件で選手の皆さん、そしてチーム指導者の皆さんにお話をさせていただいた。
「皆さんはこうして黄色と黒に配色されたボールを使ってドッジボールをしていますね。ここに日本ドッジボール協会公認球(JDBA)と書かれています。ところで、皆さんがよく知っている通りJDBAルールには『Wパスの禁止』という大事な規定があります。では、どうしてこのルールがあるのでしょうか? 誰か説明できる人はいませんか?」
と聞いてみた。

徳間の副キャプテンK君は、
「人を頼らないで自分でボールを投げなければならない・・・。」
と答えてくれた。
「その通りだね。投げるのが苦手な子でも、自分が手にしたボールは人に渡して代わりに投げてもらうことはできない。内野に居る子は自分の責任で外野へ投げなければならない。つまり、内野同士のパスを禁止しているわけだ。これを『自己責任』と言います。」

「では、『5パスの禁止』のルールはなぜ作られているのでしょうか?何のためにあるのでしょうか?」
・・・・・
「パスばかりしていないで、進んでアタックをしましょう! 試合をしていて、相手がパスばかりして攻撃してこなかったら、皆さんだったらどう感じますか? つまり、進んでプレーしよう!『自主性』ですね。」
「外野選手に許されているワンタッチのルールの意味は?」
・・・・・
「本来のワンタッチの意味は、頑張って努力して手を伸ばしてボールに触れればボールの支配権を得られる・・・、という『向上心』を育てるというのが本来の意味なんです。」
・・・

日常のドッジボールの練習や競技会、そしてチーム経営にあっては、こうした「どんな子どもを育てようとしているか?」「自分はどんな人間になったらよいか?」というJDBAの理念(教育観や人間像)をしっかり理解した上で、指導にあたるべきだ。そのためには、日頃からみんなでこうした話し合いや研修を積み重ねていきましょう!
時間は短くてもいい、人数は少なくてもいい、その方がかえって本音で話し合えるのではないか?!
そんな気がする。

体罰(暴力・暴言)に頼らない指導はどのようにしたらいいか?
選手に『自主性・自己責任・向上心』を育てるにはどのように指導したらいいのか?
みんなで知恵を出し合って、考えていきましょう!

2013,2,7




「目標」と「目的」

2013年01月20日 21時20分14秒 | Weblog



第11回ドッジやろうぜ!杯が開催された。

大会には関東・東北・北信越・東海から55チームがいつもの埼玉県K市の総合体育館に集まった。
この日は朝から冷たい雨が降り、それはやがて霙へ・・・さらに雪へと変わり、昼ごろには猛吹雪となった。
「窓の外を見てごらんよ。まるで長野県で大会をやっているようだよ。」

発達した低気圧が日本の南東海上を接近して通り過ぎたからだ。雪の影響で首都圏でも交通は大混乱。高速道路は閉鎖、新幹線も一時不通となってしまった。
主催者側は「予選リーグ終了後に大会の中止」を提案、チーム代表者会議で了承された。参加選手とチーム関係者の安全な帰還を最優先に考えると、この迅速な対応と判断に感謝したい。ドッジボール大会が中止されたことは残念であるが、私たちにとっては人生に幾度もない貴重な思い出として心に残った。


ところで、「ドッジやろうぜ!杯」を支える精神的な根幹は何か?
それは実行委員会の皆様とこれまで関わってきて痛感することだが、「目標と目的」の違いを明確にしていることではないだろうか。

今年のテーマは・・・、
『踏み出す勇気』(大会パンフレットより)
・・・・・・・
初めてのことがうまくいくわけはない。
必要なのは やろう!という“踏み出す勇気”だけ。
今日一日で何か一つ、新しい挑戦をしてほしい。
・・・・・
だいじょうぶ。
スポーツとしてのドッジボールを始めるとき、
新しい一歩を踏み出せたんだから。
君がふりしぼった“踏み出す勇気”を
ここから見ているよ。
・・・・・
実行委員長のO先生は、アメリカからテレビ電話でドッジキッズたちに熱く語りかけた。


コート上で相手と戦って優勝を目指すことは「目標」である。
しかし、ドッジボール大会の「目的」は勝つことではない。目標に向かって努力する過程で培われる人間自身の成長である。
ドッジやろうぜ!杯では、この目的を毎年の大会スローガンとして具体化してきたのだ。11年間にわたってこうした「揺るがぬ理念」があったからこそ発展してきたとも言える。


さて、大会前日の夜、大人21人が集まり「第11回ドッジ飲もうぜ!杯」がA駅前の某居酒屋で開催された。
明日の大会に向けての抱負、チーム事情、各地域の特産や名物の話から酒豪・下戸の話まで・・・、気の合った仲間感覚で楽しい宴会になった。

この席で出会った人で印象深いのは、東京都のH氏。札幌出身で第4回の夏春全国大会に出場経験を持ち、現在は東京の社会人チームでドッジボールを続けながら、小中学生チームも指導している。
「いつでも どこでも 誰とでも そして いつまでも」 日本協会のキャッチフレーズを地で行く青年だった。

いつしかサッカーの話になって盛り上がった。今年度の第91回高校選手権に出場したI県代表のS高校・・・。この高校には徳間小から東北中学、そしてS高校へ進学したIK君が活躍している。
(小学校当時は低学年ドッジボールクラブに所属してドッジボールに親しんでいたこともあり、教室での愛嬌の良い笑顔も忘れられない。)
今大会では、大抜擢されて3回戦、準々決勝でみごとな得点を挙げ、準決勝でも活躍、惜しくも鵬翔高校にPK戦で敗れたものの、IK君の成長した姿をテレビで見ることができて感激した。
H氏がS高校サッカー部を熱く語り、そしてIK君との関わりを語れるのも何かの縁だろう。


さて、帰り道は高速道路が使えないため一般道をノロノロ走った。

カーナビで「一般道優先」の道路検索を試すと、画面と音声の案内が流れたので、その通りに進むことにした。
渋滞を何とか抜けて群馬県に入った頃から緩やかな坂道を上り始めた。
だんだん人里離れていくような気がする・・・。ついに、山道へ。

他の車がほとんど見当たらず、雪道が続く・・・。いつしか日が暮れて猛吹雪・・・あたりは真っ暗。 さらに進むと、除雪車が静かに雪を掻き寄せてくれていた。あたりはスキー場の様相。
ここはどこだ?(埼玉県K市を出たのが3時頃だから、もう6時間以上運転している。)
「長野原」の標識。そして「嬬恋村」。 そうだ!(国道144号線)真冬の高原を走っていたのだ。
相変わらず行き交う車の台数は少ない。心細い・・・。このまま谷底へ転落したら、誰も気づいてくれないのでは・・・? 不安が募る。

鳥居峠を越え、下りの坂道を慎重に運転していくと、上田方面という標識が出て、一安心・・・。
しかし、カーナビは「菅平方面」を案内しているではないか。また山越えか??
さすがにもうこれ以上、山道はごめんだ! と、上田市街地へ下りることにした。
上田菅平のインターの標識が見え、進入を試みると・・・。
「あと5分で開門する。」とのこと。
『あぁー、これでやっと帰れる。』
選手と保護者が乗っているバスに携帯で連絡を取ると、
「まだ碓氷バイパスです。大渋滞でノロノロ運転・・。」

結果的に、カーナビの選択した経路の方が約1時間、早く到着できた。
いったん自宅に戻り、家の中の片付けをしてから徳間小へ。
すでに、お迎えの保護者の皆さんが雪に埋もれた監督コーチの車をきれいに雪かきしてくださっていた。ありがたいことだ。
選手が乗ったバスが到着したのは午前1時半を過ぎていた。

こうして今年の「ドッジやろうぜ!杯」は長い長い深夜の旅で完結した。
何より安全に帰還できたことに感謝したい。




職人気質2012

2013年01月05日 09時45分30秒 | Weblog


父の葬儀、四十九日法要を済ませた。

改めて葬儀列席者の記帳簿を調べてみると、4名の方々の関係が不明だった・・・。
うち2名はすぐに判明し、ご自宅に訪問して丁寧にお礼の挨拶をしてきた。いずれも引っ越す前の住居で大変お世話になった方々であった。すでに先代はお亡くなりになってしまっていたが住居はそのままで、懐かしい思い出話をお聞きして来た。
もう1名は七二会地区の謡(うたい)の会でお世話になった方であった。
失礼は承知で電話にてお礼の言葉を述べさせていただいた。

最期のお一人は、電話でお尋ねすることにした。
「HTさんでしょうか?」
「はい。」
「父とはどんなご関係でしたでしょうか?」
「私はお父様の弟子です。」
・・・・
何と、父の会社の後輩で同じ職場で仕事をしていたそうだ。新聞のお悔やみ欄をご覧になり、葬儀に駆け付けてくださったらしい。

HTさんがおっしゃった『弟子』という言葉が気になり・・・、当時の写真を携えてご自宅を訪ねることにした。
父は写真やビデオ撮影が好きで、会社の宴会や旅行の時によくカメラをぶら下げて行ったらしい。家の物置にたくさん写真が残っていたのをHTさんに見てもらいたくなったのだ。

「これはいつごろの写真でしょうか?」
「職場の仲間でわらび狩りに行った時の写真だね。私も映っています。」
奥様も話に加わり、○○さんが映っている、△△さんもいる・・・、と話が弾んできた時だった。奥様が、
「写真が貼ってあるこの紙は、作業票です。この字は私が書いたものです!」

父は家でもよく広告の裏紙を利用して字を書いていたが・・・、なんと!職場では廃棄された作業票の裏紙を利用して、そこに撮影してきた写真を貼り付け、皆さんに見てもらっていたのだ。HTさんの奥様は当時、その会社の伝票を書く仕事をしていたらしく、ご自分の書いた字を懐かしそうに眺めておられた。今では見ることがない『青焼きコピー』(ジアゾ複写機)の紙だった。
職場に写真を回覧し、それがほしい時はその写真の下に自分の名前を書いていたのだ。
「HYさんも映っているぞ! 彼を誘って必ずお参りに行くからお宅の地図を書いてください。」
と言って、HYさんに電話を掛けてくれた。


『弟子』という言葉が引っ掛かり、数日後に尋ねて来てくれたHTさんとHYさんにお聞きした。
「父は尋常小学校を卒業して、東京に丁稚奉公に出されたと聞いていますが・・・。」
「職場は機構組立係(仕上げ)という部門で、無線機の部品の一部を組み立てる仕事でした。」
「家では、よく船舶の無線機の話をしていました。」
「東京の下町工場で修業されたらしく、その技術は誰も真似できないものでした。」
「・・・・」

「旋盤やプライス盤で『きさげ』(けずる?)の仕事が得意でしたよ。」
「塚田さんの作る工具を使うと、難しい作業もあっという間にできてしまう。金属を削る作業はミクロンの世界だけれど、それは職人肌だったね。『その工具を真似して作りたいから図面にしてください。』と、お願いしたことがあったが、『図面にはできない!』と断られたことを覚えています。」

「確か、昭和25年頃に会社に入ったようだが、最初は給料をもらっていなかったらしいよ。家が水害で大変なことになって、初めて給料がほしいとお願いしたら、事務所の人が『まだ給料を払ってなかったかい?!』と、答えたと言っておられました。」
「たぶん、東京での丁稚奉公の気持ちで、お金のことは忘れて仕事を教えてもらうのがありがたいと思っていたのでしょうか?」

家でもよく小さな台や棚を器用に作っていた父だが、職場では誰にも真似ができない繊細な工具を発明し、それを使って部品を製作していたのだ。
けして大きな機械ではない・・・、目立たない部品だったかもしれないが、それがないと大きな機械は動かない。小さな部品を丹精込めて作る『職人気質』を感じさせる父だった。

「職場の人の面倒見が良かった。特に、新しく入って来た人にはとても親切に仕事を教えてくれた・・・。私も塚田さんに仕込んでもらった一人です。怒ったところを見た人はいないんじゃないかな? 若い女の人にも人気があった。悪く言う人は一人もいなかった。」


HTさんとHYさんはご自分の若い頃(入社当時)の写真を何度も見返して、思い出話をしてくださった。
白黒写真には作業着姿の凛々しい父の姿が映っていた。
職人気質とは何だろう? 製作した「もの」に心が乗り移ることなのか?
そして、周りの人々にその心が乗り移っていくことなのか?
父の供養のために「弟子」の方々に思い出の写真を数枚ずつお渡しすることにした。
形見分けのように・・・。






葬儀2012

2012年12月16日 06時27分40秒 | Weblog


先月末に父が89歳で永眠し、通夜と葬儀、初七日法要を済ませた。

振り返ってみると、この1年は急激に体力が低下した父を介護するのが正直とても大変だった。しかし、人の一生は人が養い、人を支え、そして人に看取られて・・・、その繰り返しの「命のつながり」なのだと実感した。
自分がしてもらったことを目の前の父に返していく、そういう感謝の介護であった。
N病院の看護師さんたちにも感謝したい。この1カ月余りとてもていねいにやさしく看護してくださったおかげで父は最後の命のともしびを燃やすことができた。
さらに・・・当直の看護師さんはまるで映画「おくりびと」の納棺師さんのように心をこめて全身を拭いたり化粧をしたりしてくれたこと・・深く感銘した。

さらに自宅に戻って通夜の用意、葬儀の段取りをお手伝いくださった法事センターの担当者Tさんにも感謝したい。
Tさんは何と15年前にドッジボールで対戦したライバルチームのA小学校「Sファイターズ」の主将だった。
その年は夏の全国大会へ「徳間元気キッズ」が出場し、春は激戦の北信越大会を勝ち上がった長野県の3チーム(Sビクトリー、Kファイターズ、そしてSファイターズ)が出場した。
Tさんは中学、高校で野球部に所属し甲子園を目指したという。
「体重が90kgあったので、ランニングがきつかった。守備は捕手・・・。」
と、語る彼の体重は現在130kg。大きな身体と太い指で祭壇の細かな仏具を整えている姿、そして優しい眼差しに心打たれた。
高校卒業と共に、志を立てて葬祭業に就いたという。
「故人とご遺族の安らかなお別れを・・・、心からお手伝いしたい。」
彼は葬儀では父の生い立ちや経歴をとても丁寧な文章でまとめ上げ、心を込めて朗詠してくれた。その優しい声に、思わず涙してしまった。
かつてのドッジキッズがこうして社会的貢献している姿に感動した。
このように父の葬儀を通して、私にとっては新たな出会いが生まれた。
父が人との出会いを導いてくれたことに感謝したい。


【お斎での喪主の挨拶】
「S寺」様、「Y寺」様、「J寺」様におかれましては、先ほど丁重なるお経をあげていただき、本当にありがとうございました。御礼申し上げます。

4年前、亡き母「きとえ」の27回忌法要をいたしました。これは「きとえ」の供養であるとともに、残された父(弘之)を元気にする集いでもあると考えました。皆様のお陰様で父はその後、少しずつ気力と体力を回復し、今日まで長らえることができました。
このように父が長生きさせていただいている裏には、今日お集まりのご親戚の皆様方の支えがあったからであります。この意味でご親戚の皆様方に改めて御礼を申し上げる次第です。

私が父(弘之)から学んだこと。
① 雨の日も風の日も毎日毎日、会社に通って家族を支えてくれたこと。
② 母「きとえ」の口癖でありました・・・「情けは人のためならず」・・親戚の方々から頂いたご恩に感謝して、今度は恩返しをする。そうやって周りの方々との関わりを大切にしていたこと。
③ 子どもや孫を可愛がってくれたこと。昨日、孫二人に「どんなおじいちゃんだった?」と聞いてみました。「やさしくて可愛いおじいちゃんだった。」「私が朝シャンをしたいと言ったら、すぐに洗面台にシャワーをつけてくれた。」 みんなを可愛がり、みんなから愛された人情深い人でした。今年は二人目のひ孫も誕生して、とてもうれしそうでした。
このように・・・改めて命のつながり、命のリレーについて感謝の念を抱いております。
父が長生きしている事実は、きっと亡き母が父を取り巻くご親戚の方々を通して母自身が父を支えてくれているのだという気がしてなりません。

用意しましたお料理と飲み物はほんのささやかなものではございますが、どうぞごゆっくりお過ごしください。
そして、皆様がより一層元気に長生きできますように願いまして、ご挨拶とさせていただきます。
本日はありがとうございました。



【次女のお手紙】
おじいちゃんと過ごした30年間に、いろいろなことをしてもらいました。おじいちゃんにカレーを作ってもらいました。そのカレーは、じゃがいもがゴロゴロ入っていて、おじいちゃん特製のカレーでした。ニンニク入りの最高の味でした。茶碗蒸しもおいしかったです。ギンナンの入った茶碗蒸し、おいしかったよ。
それから一緒にカラオケもやったね。「矢切の渡し」をよく歌っていましたね。私も少し歌えるようになったよ。
最後の4年間は一緒に暮らしていたから沢山の思い出ができました。沢山お世話になりました。私が父の言うことを利かない時、叱ってくれました。ゴメンナサイ。
おじいちゃんの作った「梅漬け」は塩が効いていて、私好みの味でした。おじいちゃんが梅割りをしている姿は「おじいちゃんらしく」て、とてもカワイかった。
最後の半年は足が痛いと言って、とても辛そうでしたね。その中でも、おじいちゃんは毎日の楽しみをみつけて、テレビで「水戸黄門」を見たり松の手入れをしたり新聞を読んだりしていました。
天国へ行ったら塚田会の親戚も沢山いるから安心です。天国でも私のことを見守ってください。
私はおじいちゃんの分までしっかり生きたいと思います。
さようなら。




いつでも どこでも・・・2012

2012年10月15日 06時06分24秒 | Weblog
インストラクター派遣依頼を受け、S小学校で5,6年生対象のドッジボール教室を実施した。

学校の正しい名称は「S小中学校」。中1は7年生、中2は8年生、中3は9年生というわけだ。小林一茶で有名な長野県北部地域の小さな町だ。
校舎に足を踏み入れると、広い廊下と木の香りに圧倒される。外側は鉄筋コンクリートなのに、内側は木造なのだ。

大きな体育館では中学生たちが部活動をやっていて、小さな体育館にはバレーボールやバスケットボールと同じようにペンキでドッジボールのJDBA公式コートが作成されていた。驚きだ!!

今回ご依頼いただいたM先生はドッジボールクラブの顧問だが、以前には南信地区の小学校でクラスの子どもたちとドッジボールをやっていたことがあるという。
数年前にも中野市立H小学校に勤務していた頃、クラスみんなでドッジボールに取り組み、NTT地区大会を勝ち上がってホワイトリングの県大会へ出場した経歴を持っておられる。

S小中学校ではドッジボールが「部活動」として位置づけられているという。
長野市内では小学校の「部活動」といえば、合唱団とマーチングバンド(吹奏楽団)が一般的だが・・・。先生方の正式な公務分掌として「ドッジボール部」が指導されているのは珍しい(顧問として先生方が3人担当)。行政的条件も恵まれていると感じた。

インストラクターのTさん、およびそのお子さん2人と審判員のSさんとそのお子さんが、自主的に参加してくれたことに厚く感謝したい。
インストラクターとは・・・、子どもといっしょにプレーして、ドッジボールの良さを共有する「ドッジボールの楽しさの伝道者」と言っても良い。


さっそくみんなで準備体操とじゃんけんゲームをやった。高学年の児童なので、ちょっと恥ずかしそうな様子・・。でも、やり始めてしばらくすると表情も和らぎ、笑顔が見え始めた。
ボール運びリレーではグループ別に真剣に競い合って取り組み、盛り上がった。感心したのは、1回の説明で完璧にやり方を理解してくれたことだ。これまで何回もドッジボール教室でやってきたリレーだが、こんなに理解力優秀な児童たちは初めてだ。きっと、真剣に説明を聞いていてくれたからだろう。日頃のM先生のクラブ指導の成果に違いない。

投球法と捕球法の指導はインストラクターのTさんや審判員のSさん、そのお子さんたちに任せた。児童たちはドッジボールの先輩中学生の投げる球の速さやキャッチ姿勢に驚いたようで、その後の意欲に繋がった。
盛り上がったのは「中当てゲーム」。大きな声を掛け合って一列でそろって動けるようになった。「ナイスキャッチ!」と仲間を褒める声も出てきた。

「説明する」→「見本を見せる」→「いっしょにやる」→「励ます」→「自分たちだけでやらせる」→「褒める」のサイクルを繰り返すうちに・・・、だんだんドッジボールらしい動きが身に付いてきた。
「個人の戦術」→「グループの戦術」→「チームの戦術」への発展的な指導はスポーツ一般の鉄則だ。

「あっという間に、もう試合ができるようになりました。」
「気付いたら、もうこんな時間なんですね・・。楽しく練習できました。」
「普段のクラブ活動では、児童のこんな動きは見たことがないです。」
と、クラブ顧問の先生方から率直な感想をいただいた。


ルール説明ではJDBAルールに込められた理念(自主性・自己責任・向上心)の意味を訴えた。ドッジボール普及にとって、その目的と目標の違いが重要だ。
森浩美作詞のSMAPの名曲「オリジナルスマイル」を流して、ドッジボールの目的を説明した。

試合をやってみると、児童たちがルールを良く知っていることに驚いた。普段のクラブ活動で公式ルールをしっかり学んできていることがわかった。
「一列に並んでぇー! 間を詰めてぇー!」
「こい! 1・2・3・4・5!」
「ナイスキャッチぃー!」
元気な声が響いて盛り上がった。

作戦タイムでは自主的に外野やアタッカーを決めて、スムーズに試合が進行していった。
気付くと時計の針が12時を指していた。こうして3時間のドッジボール教室が終わった。
「いつでも どこでも 誰とでも そして、いつまでも」(JDBAのキャッチフレーズ)の通り、どこでもドッジボール教室は開催できるし、少年少女たちはそれを待っている・・・。
次は長野市内のチームとの交流試合をやってみたいという。「誰とでも・・・」いっしょに楽しむことができるのがドッジボールの良さだ。

赤や黄色のコスモスが揺れる秋の風景の中・・・、すがすがしい気分でS小中学校を後にした。
ご当地の特産物のトウモロコシを食べる時間がなかったのが残念・・・、

2012/10/12