近代ボート競技歴史研究所

千葉県でボート(漕艇・Rowing)の競技を歴史研究しています。

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第3章、東京大学入学 「その3、初の国際ボートレース」

2011年08月20日 15時32分00秒 | 小説
それからしばらくはストレンジ先生によるメンバーの選考に時間が費やされたのだが、やがてストレンジ先生によりメンバーの発表が行われた。メンバーはいずれもストレンジ先生から直伝の教えを受けた者ばかりで、それぞれが腕に覚えのあるメンバーであった。
「それでは今度のボートレースにおけるシートポジションを発表しよう。選考は身長体重のみではなく技術力とやる気をあわせて行った。選ばれた者も選ばれなかった者もともに自分ができることをよく考え、オアーズマンシップに則って試合に臨んでもらいたい。
ボートレースは試合に勝つことが真の目的ではない。なによりもジェントルマンとしての素養の育成が目的であるのだから。つまりベストを尽くせということであり、結果はあとから付いてくるものなのだからね。」
一同の割れんばかりの喝采の中、順次メンバーが発表された。
「まず舵手(コックス)はMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ。東京大文学部の学生たちが中心のクラブ)の中から阪倉銀之助君、整調は同じくMBCの日高真実(ひだか・まさね。後に3年間のドイツ留学後、高等師範学校教授兼文科大学教授。明治27(1894)年急逝、後日、高文庫設立)3番もMBCの山口鋭之助君。この3人はともにMBCのメンバーで春季競漕会の選手競漕では日高、阪倉君でよいリズムで漕いでいることから日高君に整調をお願いし、阪倉君には舵が非常に上手なところからコックスの大役をお願いした。また山口君には自慢の体力でしっかりと整調を助けていただき確かなリズムを後ろに伝えていただきたい。
また2番と舳手(じくしゅ。バウ)はともにORCから武田千代三郎君と(後に山口、秋田、山梨の県知事、大阪市立商業高校校長、日本体育協会副会長)、神崎東蔵君(後に弁護士)にお願いしたが、武田君は春季競争の5番レースで坂倉君の舵手で整調を漕いでいるから気心も知れているだろうし、神崎君は武田君に合わせて漕ぐのはお手の物であるだろうからこのメンバーでいくこととした。
なおSRCからは岸君に総務全般ともしもの時の補漕(予備漕手)をお願いしたい。漕手の体重は以下の通りである。(1ポンド=約454g)

整調・日高(134ポンド=約60.8kg)
3番・山口(167ポンド=約75.8kg)(約6尺=180cm)
2番・武田(128ポンド=約58.1kg)
舳手・神崎(129ポンド=約58.6kg)
補漕・岸(138ポンド=約62.7kg)

(正漕手4人の体重平均は、139.5ポンド、約63.3kg)

試合は明治18(1885)年11月3日に「横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)」の外人クルーとクリンカー艇で行われることになった。クリンカー艇とは4人漕ぎで鎧張り(よろいばり。外板が鎧の直垂(ひたたれ)のように少しずつ重なり合ってできている。かなり昔、公園にあった貸しボートの外板と同じような構造)の滑席艇である。
コースは横浜港内で山下町のフランス波止場に立つオリエントホテル前の「ボートハウス」の沖からの1000mであった。したがってYARCから競漕に使う「ペトレル」という名前の艇を借用して、横浜から伝馬船で運ばせて浅草にある井生村楼(いぶむらろう)という料亭の貸し席がある広い縁側を借りてペトレル艇を置かせてもらった。
毎日学校からストレンジ先生は人力車に乗り、漕手たちは歩いて3週間の乗艇練習を厳格にこなしていった。井生村楼に着くとストレンジ先生は漕手全員と艇を運んだ。こういう場合はさすがストレンジ先生であってもコックスの号令にしたがって行動するのがボート部であった。
「両舷(りょうげん)いいかー。両舷、手をかけて。持とう!一、二、三!。」
両舷とは、船尾から船首に向かって右側と左側、つまり右舷「スターボードサイド(starboard side)」と左舷「ポートサイド(port side)」の両サイドを指す。日本のボート競技ではそれぞれ「バウサイド」「ストロークサイド」といわれている。号令の場合は「漕手全員」という意味で使われる。
この号令にしたがってストロークサイドという整調と同じ偶数番号の漕手全員も、バイサイドという1番(バウ)サイドと同じ奇数番号の漕手も、コーチのストレンジ先生であっても艇を水面に出すために艇の下部にあるキールに手をかけて、腰に力を入れ阿吽の呼吸を合わせて一律にきびきびと動いて艇を水面近くに移動した。
したがってオアーズマンシップとは、このように一つの目的に向かって利害を度外視して行動するということなのであり、このことは驚くべきことにその後100年以上経った現在でも美しいトラデショナルとして受け継がれているのである。
「降ろそう、一、二、三!」
応援に来たものも見守る中でコーチとクルー全員でコックスの号令にしたがってきびきびと行動した。それを見ていた清一は心から、レギュラーになりたいと願った。
クルーは号令に従い全員でかなり重いペトレルを持ち上げると静かにポチャン、ポチャンと水に浮かべると絶妙のタイミングで補漕の清一がトップに付けられたロープを手繰って引き寄せた艇を桟橋に固定して押さえた。ペトレルへは各自のポジションの横から順次艇に乗り込んで、両手は両サイドのガンネルを持ちながら片足を桟橋に残したままでコックスのほうを注視する。コックスはクルーの体調と精神状態を満遍なく何気なく注意深く観察して、何事もないことをクルーの表情から確認して号令を発する。
「蹴ろう!一、二、三!」
その号令に従いクルーは息を揃えて桟橋を蹴り出す足に力を込めるのだ。やがて桟橋からすっと蹴り出されてゆらゆらと水面に漂うパトレルが安定を取り戻すころを見計らって、両舷は静かに艇に揺れを与えないように腰を下ろすのであった。さらに、コックスは安全と艇内での練習環境確保のために準備を促す。
コックスはいつも思う。号令は「両舷、良いか!」というもので一辺に済ませばよさそうなものなのに、必ず各ポジションに安全確認を行わなければならないのだ。でもそんな時、コックスはストレンジ先生のボートの基本は安全であるという言葉を思い出して、面倒臭そうな顔をしているクルーに確認を取るのであった。
クルーに向かってコックスは辛い練習においてさらに元気が充満するように、自らの身体を動かせないことによる冷えを隠しながら自らを奮い立たせつつ、高らかに声を張りつつ水面に響き渡るように号令を出すのであった。
「整調、いいか?」「ハイ!」
「3番、いいか?」「ハイ!」
「2番、いいか?」「ハイ!」
「バウ、いいか?」「ハイ!」
元気の良い声で返事をするクルーは上級生、下級生の区別はない。あるのは艇長としてのコックスへの全幅の信頼のみであった。なお練習時におけるストレンジ先生の練習方針は次のとおりであった。

1、オールを見ないで前の漕手の肩を見て漕げ
2、首をふるな
3、クイック、オブ、チェスト(ブレードを素早く反転する)
4、スペースを長く(水中を長く漕ぐ)
5、波のないときは水面より3インチ(約7.62cm)の高さ、波が高いときは5インチ(約12.7cm)より高くするな

また試合に用いる1分間に漕ぐ本数であるコンスタントレートは毎分27回を指示して、漕いでいる時の掛け声は常に「クイック、オブ、チェスト」であり、バウの後ろにコックスのほうに向かって陣取って座ったストレンジ先生の掛け声に合わせて漕手は厳しい練習を積んでいったのであった。ときには有り余る体力からピッチを一分間に30回以上に上げようものならストレンジ先生からこっぴどく叱られたし、座りなれない動くシートがどこかに飛び出したりしたので内緒でシートをレールに縛り付けて動かないようにしているところを見つかってこれまたひどく叱られたりしていた。
しかし執念というのは恐ろしいものであれほど手こずっていたスライディングシートも何とか漕ぎこなせるようになってきたので試合の数日前にはタイムトライアルを行うと、かなりの好タイムを出したのでストレンジ先生や漕手たちは安心して東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された端舟大競漕会について書かれた記事を呼んだりしながら休養を取っていた。
やがて初の国際試合の当日になったが前日の天候は暴風雨であったため、ストレンジ先生が日頃から荒天時にはレースをするものではないと教えていたので試合は無いものと一同は安心しきっていた。
しかし暫くすると清一が青い顔をしてみんなの元に明治2(1868)年横浜-東京間に開通していた電報を握り締めて走ってきたのであった。
「大変です!大変です!先方は悪天候によらずボートレースを決行するといってきましたよ。どうしましょう。ストレンジ先生には既に知らせておきましたが、急がないと間に合いませんよ。」
「なにー。そりゃあ大変だ。それは急がなければならんぞ。」
一同は大慌てで荷物を作り身支度を整えて陸蒸気の新橋駅まで急行すると、ストレンジ先生は既に到着してにこやかに待っていた。
「ボーイズ。何も心配することは無い。ボートレースは人生と同じで何が起こるか解らないから愉快なんじゃないか。さらに主賓(しゅひん)である私たちが行かなくては、レースは始まらないんだ。ゆっくり行こう。」
ストレンジ先生の話にようやく得心した一同はしばしの旅行を楽しむのだったが、次第に汽車から海が見えるようになってくると海が時化(しけ)ているのがわかるようになってきて一同は自然に無口になるのであった。
横浜駅からレースの会場に急行する前は新聞に取り上げられていることもありかなりの人出を予想していたが、会場には仏国軍艦の軍楽隊が演奏するマーチだけが鳴り響いているだけで意外にも悪条件に災いされ人手は多くなかった。
会場は風こそ少なかったものの、前日の暴風雨のせいでかなり大きくうねっていたが、東京大学のクルーは揃いの浅黄色の帽子を着用したのに対しYARCクルーは紅白の帽子を着用していた。
数回の野次レースのあとはもう本番である。両艇が船首を揃えた所でスタートのゴー!という号令が掛かり、両クルーのレースが始まったのであった。
しかし練習の甲斐なく大きなうねりに翻弄されて東京大のクルーはオールを波にとられたりするので、オールが水にもぐって水圧を受けるので腹部にハンドルが食い込んで漕げなくなり艇速を止めてしまう状態で通称腹きりをする漕手が続出したり、キャッチでオールが水をつかめなかったり、漕ぎ終わってオールが水を出る「フャイナル」でオールが空を切ったりする漕手が続出して全く日頃の練習のいい所が出せなかったのに対し、YARCは日頃から海で練習している地の利を生かした滑らかな漕ぎで順調にトップを占めるレース展開を最後まで繰り広げ4艇身の大差をつけてのゴールであったが、一方の東京大クルーは最後まで良い所なくレースを終了したのであった。
その後あまりの敗北に意気消沈したクルーは応援していただいた皆様に申し訳ないとして、一同頭を丸めて坊主頭になり帰校し教師や学友に陳謝して回ったのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

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【参考】
三重大ボート部Web「ボートの漕ぎ方」
http://sky.geocities.jp/rowingmieuniv/whatsboat-kogikata.html

愛知県東郷町ボート教室


岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その11、For East、もう一つの船出」

2011年08月14日 01時30分00秒 | 小説
明治8(1875)年の初め1人の英国人がロンドンから遥か遠く離れた極東の島国、日本に向かう船のデッキに立っていた。乗っていた汽船は英国のP&O汽船会社の所有するOrissa号であった。
当時はそれまで英国からアジアの国々を経て日本まで旅する場合、アフリカの喜望峰を回っておよそ半年と、気の遠くなるような時間がかかっていた。
しかし明治2(1869)年に地中海とインド洋を結ぶスエズ運河が10年の月日を経てエジプトに完成していたので、その行程は約2ヶ月と大幅に縮小されていた。
この20代前半で立派な口髭を蓄え少し物憂げな青年の名前は、ストレンジ(嘉永5年(1852)頃ロンドン生、身長約5尺7~8寸(約175cm)、体重約17~18貫(約67kg))といった。
汽船の中でストレンジはテームズ川で見たヘンリーレガッタの風景の中で紳士淑女が着飾り、男達は誇らしげにそれぞれ揃いのクラブのネクタイをしたりブレザーの胸に倶楽部や団体ごとのエンブレムを付けていたりすることに憧れを覚えていたことを思い出していた。
そしてそれぞれのクラブごとにブレードの先端部分に異なった色が塗られているブレードカラーを見れば、一目でそのメンバーであるクルーがどこに所属しているのかがわかるし、大会で優勝したクルーはそれぞれ記念のメダルを胸から下げて歩いていたのでどこのクルーが優勝したのかということもすぐにわかった。
またクラブごとにテントを張りブレードカラーと同じ旗を掲げていたので関係者はその旗のもとに集い歓談していたし、それぞれのクルーの父も母も兄弟も皆一様に我がことのように喜色をあらわにしていた。
そして試合で力漕を終えた選手たちは汗に濡れたユニホームのまま誇らしげに会場を歩き回っていた。
ストレンジはそんな中を所在無げに歩き回っていた。
時には見知った顔を見出しても彼らは大学ボート部の選手や卒業生である以上、ボート部の集まっている所にいるので関係者ではない自分が声を掛けるのもはばかられた。
また時にはクラブの先輩達が後輩クルーの力漕と健闘を称えあっているところに出くわすと、ビールが肩にかかってしまうこともあったし優勝したクルーのコックスが恒例行事の一つとして大きな選手によってテームズ川に投げ入れられたときの飛沫(しぶき)がかかることもあった。
しかしストレンジはそれらの事柄を嫌いではなかった。なぜならばヘンリーレガッタの会場はそのまま巨大な英国の社交場であったからで、多くの外国人たちも見物にきていたので広く世界を感じることができたからであった。
ストレンジはレガッタ会場での煌(きら)びやかで華やかなようすを思い出しながら、当時英国を覆い始めていたアスレティシズム思想の強い影響下で受けた授業の中で覚えた、ボートを漕ぐ楽しさや陸上競技での勝利の喜び、時には球技の持つ偶然のスリルなどを懐かしく感じていた。
しかし大学を卒業はしてみたものの、ストレンジにはこれといってなりたい職業もなく大きな夢もなかった。
あるのはただ新聞で読んだ遥か東にある英国と良く似たような小さな島国の日本という国で、英国人たちが神戸や横浜の外国人居留地でローイングクラブを作ってボートを漕いでいるという記事に心を惹かれたことがあったというだけであった。
そこでストレンジは漠然と自分というものの存在意義を探すための旅に出ることにしたのであったが、頼るべき人もいないので特に仲間意識が強く面倒見が良いことで知られているオアーズマン達に横浜のアマチュア・ローイング・クラブへの紹介を依頼してこの船に乗ったのであった。
そして遥かな波頭を越えてストレンジはとうとう東洋の小さな島国の港「横浜」にたどり着いたが、それは明治8(1875)年の3月22日のことであり、やがて岸清一とは運命的な出会いをすることになるのである。
ストレンジの正式な名前はフレデリック・ウイリアム・ストレンジといい、その言葉の意味のようにかなり奇妙で不思議な雰囲気を持つ青年であった。
というのも彼はやがて日本に芽生える近代スポーツの中でも、特に初期に人気が高まったボート競技と陸上競技の恩人と称えられるようになるが、これらの種目がその後の日本人のスポーツに対する考え方にまで大きく影響を及ぼしていくことを今だ知らないからであった。
むしろ彼自身もこれから成すであろうことや、何に対して希望を抱いて日本まで来たのかということについては理解していなかったに違いない。
しかしやがて教師として彼ほど情熱を傾けて日本の学生にスポーツを指導したお雇い外国人はいなかったし、彼ほどここに至るまでの半生を知られていないものも少ない。また意外なことに彼の教えた教科は体育ではなく英語だったのである。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その10、神戸港から横浜へ」

2011年08月14日 01時03分00秒 | 小説
「清一。起きろ。神戸港が見えてきたぞ。」
銀之助に起された清一は眠い目をこすりながら飛び起きると、慌てて甲板に上がり船首を目指した。
そこには今まで見たこともないような巨大な蒸気船が黒々と煙突から煙を吐きながら数多く停泊していた。それらの巨船の間を縫って神戸港に近づいていく二人の乗船して来た蒸気船はずっと見劣りがする。また煙突からは絶え間なくもくもくと黒い煙を吐いて、巨船は身体をぶるぶると震わしていた。
よくみるとひどく小さい船がちょこまかと陸とそれらの船の間を漕ぎ進んでいく。
「ははぁ。あれがバッテラだな。なるほどホーランエンヤの櫂伝馬船とよく似ているが船の幅が随分細いし、随分と速いようだ。
しかし船尾の所がとがっておらず舵が付いているから、カッターというものかも知れん。櫂の長さも長いぞ。いまだに櫓で漕いでいる船も結構あるじゃないか。」
「どれどれ。なるほど。それにしても良く解るな。さすがに船大工の所に入り浸っていた奴は違うな。」
そうこうしている間に汽船は岸壁に着き、タラップを下ろした。
二人は他の乗客に揉まれるように降りていくが、常に揺れるタラップに足元がおぼつかない二人の顔は煙突の煤(すす)で真っ黒であり目玉ばかりが白く光っているのだった。
神戸の外国人居留地は明治7(1874)年頃からガス灯が点灯していたが、当時の神戸港はまだ文明開化による電灯の恩恵は受けていなかった。それでもはるかに街は明るく、東洋一といわれた外国人街は美しく国際的な雰囲気に満ちていた。
明朝の早立ちと横浜までの乗船を考え三蟠港(さんばんこう)で女将に聞いてきた港に近い旅館に観光する時間もなく宿を取ったが、銀之助は休むまもなく出かけて行と、帰ってくるなり
「清一、今お女中から面白い話しを聞いてきたぞ。」
「ほう。」
「以前から客の取り合いでしのぎを削っていた三菱と東京帆船会社が、とうとう船賃の値引き競争に加えて乗船してくれれば手拭(てぬぐい)やお土産までくれるということになっているそうだ。
これじゃ、いくら素人が考えても赤字だろう。大丈夫かな。」
「ほう。」
「聞いているのか?どこかおかしいんじゃないのか?」
清一はそれには答えないで、長々と横になった。
「なにか、体がまだ揺れているような感じだ。酒も飲んでいないのに何か変な感じだ。」
「清一お前船酔いになっているじゃないのか。」
「わからん。わからんが変な気分だな。」
「それはやっぱり、船酔いだな。いいから横になっておけ。」
そう言っておいて銀之助はさらに続ける。
「幸い明日、英国の船が出るそうだ。しかもなんと船賃はただだと言うんだぞ。」
「なに、それは本当か。」
起き上がった清一はいつもの癖で、頭を傾げて考え出した。いくらなんでもそれはおかしいだろう。何か理由があるのではないかと考えたからであった。
「へへへ。実はその通り。これには訳があるんだ。つまり英国の船は客船じゃなくて貨物船なんだよ。貨物船。」
「うわっ貨物船だと。いくらなんでも俺達は荷物と同じか。それはいくら貧乏でもひどすぎないか。そんな船に乗って沈没したらどうするんだ。」
「だから訳ありだというんだよ。つまり食事もなし。荷物と一緒。今後のために日本人に恩を売っときたいということだろう。しかもただというのに手数料はいるとこういう訳だ。どうする。」
清一は驚いていた。世の中にそんな商売があるとは。
英国は目先のことに構わずここは静観する振りをして客船という立場で日本の船会社との競争に加わらず、貨物船という例外で固定客を増やそうとしているのだと気が付いたからであった。
また貨物船なら日本の船会社から因縁をつけられても上手く言いぬけ出来ると考えたのだろ。したがって食事も出さない。上手く考えたものだと感心した。
「しかし銀之助、ただだと言うのに手数料がいるとはどういうことだ。」
「さすがだ。よくそこに思いを至らせたな。それはだ、英国がタダだといっても外国船に乗るには役所から許可証を取らなければなんとこういう訳だ。そしてその手続きを代行する所に費用を払わなくてはならない。つまり旅館と英国船の両方が儲かるということだな。
どうする。速く返事をしないと人数がいっぱいになるそうだぞ。」
清一は考えていた。日本の蒸気船にはすでに岡山から乗った。
しかしこれから東京で学ぼうとしている法律の勉強をする法科という学問は、まさにそういう経験が必要になるのではないか。机上の学問ではなく現実にこそ問題があり、現場を知らなければ解決の糸口はつかめないのではないかと考えたからであった。
そして法は人のための法であり、法のために人がいるのではないと父の姿を見て思っていたからであった。
決断は早い。
「よし。乗ろう。乗って経験してやろう。」
そうこなくっちゃと、慌てて走り出した銀之助に声をかけた。
「お女中に、御神酒(おみき)を頼んでくれ。船酔いを直すんだ。」
早朝旅館に外国汽船に乗船する手続きをしてもらい、握り飯を作ってもらってから英国籍の貨物船に乗り込んだ。
船内には横浜まで送られる乳牛という先客がいて、柵の向こうでもくもくと藁を食べていた。
清一と銀之助は顔を見合わせながら隅に筵(むしろ)を引いて横になっていた。やがて汽笛を高らかに鳴らすと、船体をさらにぶるぶると振るわせながら船が出港した。
「うわあ、たまらん。これはたまらん。」
二人は口々に叫びながら慌ててその場を逃げ出し船内を右往左往するのであったが、それは船が傾いたので牛がもうもうと騒ぎ出し、さらには牛の糞尿が揺れにあわせてあちらこちらと押し寄せて来るからであった。
しかし乗ってしまったからには、何を言ってもどうしようもない。
文句を言おうにもただで乗せてもらっている身分であるだけに、タダより高いものはないとひたすら横浜まで我慢するしかなかったのであった。
つまり清一と銀之助がこれから向かおうとしている明治16(1883)年は、新生日本の首都である東京・隅田川に空前のボートレースブームが巻き起ころうとしている正に直前のことだったのである。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その8、高瀬船」

2011年08月14日 01時00分10秒 | 小説
出雲街道の勝山の宿に着いた二人は町の賑やかさに驚いていた。松江は海運の町であったが勝山は旭川を利用した水運の町で、鰻(うなぎ)の寝床のように間口は狭いが奥行きのある旅館が軒を連ね、それぞれの旅館では客引きがそれぞれに明朝の船があることを連呼していた。
通りは行き交う人々と華やかさに溢れ、宵の口のおいしそうな匂いが二人を戸惑らせた。
またそれぞれの旅館は口々に岡山までの高瀬船があることをことさらに言い立て、他の旅館とのお客の取り合いのため宿泊していない客は高瀬舟に乗せないと強調していた。
そんな取り決めがあることなど若く世慣れていない二人は知らずにただ戸惑うだけであったが、客引き達はそんなお上りさんの周りから離れない。
初めに銀之助が若い女の客引きに袖を掴まれた。
「清一、清一。助けてくれ。どうしよう。」
「よわった。こんな時、源のさぁがいたら助かったのに。」
若い二人は、初めての経験に上手く客引きを裁けなくて困っていた。客引きも必死である。若い女が言った。
「おや随分とお若いけれど、どちらまで。」
「これから東京まで行くのだが、とりあえず岡山から船に乗るのでどこか泊まる所を探しているのだ。」
清一はそんな銀之助の話を聞いて、はらはらする。あれほど源のさぁから田舎もんらしくするなといわれていたのに。
「東京の大学に勉強に行くのだ。」
聞かれてもいないことを銀之助がべらべらとしゃべり出すと、清一は慌てて銀之助の口をふさぐように言った。
「ところで、お女中。船に乗るのはどうすればいいんだろう。」
清一が自ら旅の初心者であることを告げると客引きの女が口に手をあてがいながら微笑みつつ、袖から手を離していった。
「あらあら、それだったら悪いことは言わないから、うちにお泊まりなさいよ。この辺ではどこも旅館が持ち舟を持っていて、岡山に下がるお客をまとめて高瀬船でお送りするんですよ。ぼやぼやして船の予約をしないと明朝乗せてくれる船なんかありはしないよ。
ねえ、そうしなさいよ。明朝の出立時には起してあげるから。」
おもわず二人は顔を見合わせて以心伝心、ほっとしたように頷(うなず)きあう。ここで船に乗りはぐれたら、再び歩かなくてならないのだった。
客引きは万事心得て粋な所作で、店の奥に声を通す。
「お若い二名様、ごあんなーい!」
やっと通りの喧騒から開放され、部屋に通された二人であった。客引きは女中へと変身し何くれとなく若い二人の面倒を見る。
女中が二人の顔を見比べながら聞く。
「ところで、お食事のときのご酒(しゅ)はどういたします。」
銀之助がわが意を得たりと、酒を注文した。精一は女中の手前黙って聞いていたが、
「お前、源のさぁが酒だけはだめだといっていたじゃないか。」
と咎めると銀之助は気にする様子もなく
「まあ、いいじゃないか。今晩は二人だけだし明日は船旅だ。船の中で寝て行こうじゃないか。気を詰めっぱなしではかえって東京までもたないよ。清一だってホーランエンヤのときはお神酒(みき)を結構飲んでいたじゃないか。」
こういわれてはもともと嫌いじゃない清一は返す言葉がない。
さらに銀之助は止めを刺す。
「東京に行ったら、酒を飲むのも修行のうちだ。学生には学生の付き合いというものもある。父上もそういっていたし、多少は嗜む(たしな)のも芸のうちだ。」
こうして二人は、峠を越えて国を出て来た開放感から楽しいひと時を過ごすのだった。
翌朝は4時ごろに女中が起しに来た。
聞けば既に他の客は船に乗り込んで待っているという。慌てて二人も身支度を整え奥の出口から川沿いの石畳を歩いて船に向かうと、旅館の裏手が旭川の川端で石造りの船着き場となっていた。
石段を降りると他の客は既に思い思いの場所を船の中で占め、中には寝転んで眠っているものもいる。
静かに乗り込んだ二人も先客が身じろいで空けてくれた隙間に、ようやくにして腰を下ろして時を待っていると、やがて空が白々と明けてくるのだった。
こうして若い二人は眠い目をこすりながら移り行く両岸の風景に目を奪われつつ、川面に浮かぶ高瀬船の揺れに心地よく身を任せ、時には両岸の子供に手を振りながら岡山に思いをはせて旭川を下っていったのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その7、見送り」

2011年08月14日 01時00分00秒 | 小説
二人が津田街道にある津田の松原を通って雑賀小学校に曲がる角まで来ると、松の根元に親戚である奥村禮次郎が座って待っていた。
「来たな。二人とも。準備は抜かりないか。」
「お見送りありがとうございます。準備万端整っています。」
二人は声をそろえて返答すると銀之助が聞いた。
「源のさぁは、そんな普段の格好で大丈夫でしょうか。」
清一は天真爛漫な銀之助の問いかけに、慎ましく暮らしている源のさぁを思って顔を少し曇らせたが、それに気づいたのか気づかないのか闊達に禮次郎は答えた。
「なに、四十曲峠ぐらいなんでもないよ。むしろ清一のおかげで口うるさい兄の所から一晩実家に戻ることが出来てのんびりしたよ。
さあ、それより遅くならないうちに行こうか。」
三人は銀之助を先頭にして、禮次郎と清一が並んで歩き始めるのだった。
清一は親戚でありかつては松江中の同級生として共に学んだ、一つ上の禮次郎に多少気後れしている自分を感じていた。
岸家の本家で育った自分とは異なり、若くして小学校の代用教員をしている禮次郎が誰よりも学問に対して情熱を持っていることを知っていたし、成績面でも努力型の自分と違って非凡なものを持っていることを知っていたからであった。
また全てを整えてもらった自分とは違い粗末なものを身につけていても、禮次郎はいつも凛としたものを持っていたので何か打ち解けにくいものを常に感じていたのだった。
やがて八束郡のあたりに来ると、牛を引いて道行く人たちが腰を屈めてお辞儀をしながら声を掛けて行くのだった。
「先生さん、お久しぶりでございます。」
「旦那さん、ごきげんようございます。」
と、若干18歳の禮次郎に声を掛けていくのであった。
慌てて腰を屈めてお辞儀を返した二人は人々が通り過ぎてから、はるかに後ろを振り返って感嘆したように呟いた。
「源のさぁ、すごいもんだなあ。学校の先生と言うのは。こんなふうに大人に話しかけられるなんて。今まで一度だってなかったよ。」
清一も禮次郎の威厳を垣間見たように思い、改めて一つ上の親戚を眩しそうに見るのだった。
禮次郎はそれぞれに一々立ち止まって、腰を屈めて礼を返していく。
「こりゃたまらん、二人とも急ごうぜ。」
禮次郎の呼びかけに若い二人も答えて、歩を早めていった。
やがてその日は米子に宿をとり、食事を取った後は初日の緊張から開放されてただひたすらに明日に備えて寝るのであった。
翌日は出雲街道が日野川沿いに通っていたため、たびたび日野川を越えなければならなかったが、雲州松平候が参勤交代のときに米子から船と人足を呼んで渡船したという日野川を2度わたり、溝口宿では藩候が船を待って休んだと言われるお茶屋で休憩し最初の難関である間地峠(まじとうげ)を3人で声を掛け合い励ましながら登った。
明日に控えている四十曲峠の厳しさを思い、ここを籠で超えた参勤交代の苦労に思いをはせながら峠の一番上に登り着いたが、峠の頂上からは晴れ間に北前船(きたまえぶね)の風待港(かぜまちみなと)であり全国から鉄を購入するために多くの船が訪れている美保関港(みほのせきこう)や船の往来で賑わう日本海がきらきらとはるか遠くに見え、随分と遠くまで来たことを実感するのだった。
最後の日野川を渡し船で越えて、川沿いの松平候の本陣がある根雨の街に宿を取った。
入浴を済ませ夕餉(ゆうげ)までの間に川風に当たりながら、それぞれが足の手入れをしていると禮次郎が話し出した。
「しかし代用教員と言っても初めて16歳で赴任した玉湯村の大谷小学校では、初めの頃はこの村一番の豪農の百姓屋の座敷で教えていたが、村では親方と呼ばれていた60歳過ぎの校長先生と2人だけの先生だった。
そこで寝起きしながら教えていたが、俺の食費は村が校長先生に払っていたのだ。そして少しすると牛小屋を改造した2階でいよいよ教え出したが、下を見ると板の隙間から牛が見える。すると生徒が悪さをして小石を落とすだろう、すると牛がもうもうと鳴き出す。上では生徒がわいわいと騒ぐ、下では牛がもうと鳴く、そんな牛の鳴き声を聞きながら毎日教えていたものだ。
まったくこれで日本の行く末は大丈夫だろうか。このような教育の仕方で、成果が上がるのか本当に心配だったよ。」
足の手入れを止めて、清一が言った。
「それはひどいなあ。そんな環境じゃ勉強も手につかないだろうし、第一不衛生極まりないぞ。」
銀之助も足をさすりながら言う。
「それで、授業が終わったら源のさぁはどうしていたんですか。」
「そうだなあ。まあ明日の下調べをしたりしていたが、授業が終わると本当に楽しかったぞ。近くの田んぼや小川で魚を取ったりメダカを取ったりしていると、近所の人たちが肥料を天秤棒で担いで通りかかり、先生さんご苦労様と挨拶をするだろう。」
銀之助と清一はこの前の禮次郎の威厳に満ちた挨拶を思い出して頷くと、禮次郎がニヤニヤしながら言った。
「いいか二人とも。そこでお辞儀をしている俺はといえば、川に入っているんだから着物がぬれないようにこう尻を端折(はしょ)ってだな。
こう、つまり、褌(ふんどし)を締めた尻丸出しだから情けないこと極まりなかったが、その辺からかな。少なくとも先生の心掛けが解って来たように感じたのは。
つまりらしくすれば良いということだろうな。」
禮次郎が本当に尻を端折って腰を屈めて真似しながら声を上げて照れながら笑うと、二人も釣られて笑い出した。
山間部の夜がくれるのは一段と早い。
ふくろうの鳴き声を聞きながら明日の峠越えを思ってそれぞれ寝床につくのであった。
翌日は最大の難所を控えて十分に足ごしらえをして、宿で用意してくれた熊笹の葉に包まれた握り飯と沢庵を持って気合を入れながら峠に取り付いたのだった。
四十曲峠は名前の通り右に左にとくねくねと蛇行しているので歩きにくいこと極まりない。
暫く登ると木々が鬱蒼(うっそう)としてくるし、青空も見えなくなってきたがその代わり汗が滴り落ちるのを冷やすような日陰がありがたい。
行きかう人もいない。やがて先を行く二人の姿が曲がり道で左右に見え隠れし出した。
いつも饒舌な銀之助もこのときばかりは顎(あご)を出し始めていたが、とうとう立ち止まり腰を落として先を行く二人に声を掛けた。
「源のさぁー、清一、少し待ってくれ。」
清一は先を行く禮次郎の背中に、声を掛けた。
「少し休みましょう。」
「おう。そうしよう。山賊が出るらしいから、ゆっくり休もう。」
あわてて銀之助が立ちあがる。
清一はうまいことを言うものだと感心した。ただだめだというばかりでなく、こんな言い方が人を動かすのかと世慣れた禮次郎にひたすら尊敬の念を抱くのであった。
やがて3人は峠の頂上にようやくの思いでたどり着いた。
はるかに出雲富士が光って見える。
さすがに3人は座り込んで息も絶え絶えに空を仰いで仰向けに倒れこんだ。
暫くして汗も少し引き呼吸も整ってきた頃、清一がごそごそと背中の荷物を解いて梅干の包みを開いて二人にも配った。
「この梅干は一体どうしたんだ。」
「これは隣のおばあさんが峠の上で食べろといって持たせてくれたものだよ。」
「いつもお前達兄弟に庭に実った木の実なんかを分けてくれるありがたいおばあさんだな。」
禮次郎はニコニコと二人の話を聞きながら、身体を拭(ぬぐ)いつつ上半身を起して話し出した。
「あのおばあさんに頂いたもので俺たちまで随分と空腹を助けられたものだったが、本当に有難いことだ。
それはそうと、参勤交代のときはお殿様が峠を越えられるとお使いのものがお城に、殿様がただいまご無事で峠を越しましたと伝令に戻ったと言うから俺もそろそろ戻ることにするか。
親父さんたちには心配するなと伝えておくよ。
ところで二人とも生水には十分気をつけろ。また初めての旅だから油断してきょろきょろしていると悪い奴らに目をつけられて、大切なお金を取られたなどという事がないよう十分気をつけて行ってくれ。
なにしろ生き馬の目を抜くと言って生きたまま目を抜かれた馬が気が付かないと言うぐらいだから、都会の奴らは狡賢(ずるがしこ)く素早いというぞ。
それから夜寝るときも枕探しが出るというから、財布は枕の下なんぞに置かないで腹にしっかり括(くく)りつけて寝るんだぞ。
お前達は酒も飲みたいだろうが、くれぐれも用心して酒は東京に着くまで飲むな。これはきっと約束しろ。
いいな、二人とも。遅れをとって失敗したら腹を切るぐらいじゃあ追いつかないし、家名に泥を塗ることになる。
このことをよく、肝に銘じておけ。
それから俺も少し遅れて、何時になるかわからんが必ず上京するつもりだ。そのときは二人に世話をかけるだろうが、万事よろしく頼むぞ。」
禮次郎は年下の二人に居住まいを正して深々と頭を下げた。
さすがに先生だけあって注意は細かく周到である。
父親達が路銀(ろぎん)を負担してまで見送りを禮次郎に託した理由が今ははっきりと腑に落ちた上で、二人は禮次郎の胸のうちを慮(おもんばか)って、強く頷いていた。
「清一、銀之助。それでは暫(しば)しの別れだ。気をつけて行ってくれ。」
二人はしばしば立ち止まって振り返りつつ禮次郎を見返り、また振り返りつつ少し心細げに峠を下っていったのであった。
この後禮次郎が上京して3人が東京で会うのは、一年後の明治17(1884)年9月のことであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その6、県費補助金の申請」

2011年08月14日 00時00分30秒 | 小説
清一の就学上京についての費用について、伴平は家禄奉還金を持って当てる心算をしていたがまだ心もとないものであった。
それは先に上京していた梅謙次郎の父親にいくたびも費用についての相談をし、その費用の大きさに暗澹(あんたん)とした気持ちになっていたからであった。
しかし松江中学の出身で上京遊学の途についた志立鐵次郎(てつじろう)に対して、県から補助金十九円二十銭が下りたとの話を聞き及んで清一のためにも補助金の交付を願い出てみようと決心したのであった。
明治11(1878)年当時の島根県の県令(けんれい、現在の県知事)は、天保7(1836)年長州藩生まれで47歳になる境二郎(旧名斉藤栄蔵)であり、学者肌の性格の上に生真面目で堅苦しいと評判であった。
しかし伴平は我が身を思うとき、長州との戦いを思い出さずにはいられなかった。よりによってその長州の出身者が県令になっているとは、なんと言う悪戯であろうか。散々迷った末に伴平は清一の学校の先生達に口添えを頼むことを思いつき、お伺いを立てたのであった。
幸いにも暫くすると首尾よく先生たちのとりなしもあり境県令からの呼び出し状が届いたが、そこには補助金の交付に当たっての証書を持参の上すぐに殿町の県庁県令室まで出頭するように書かれていた。
伴平は急いで証書を書いた。
一金三十二円五十銭也
岸伴平の次男清一、今般東京大学入校修行の支度を整えましたが、家計不如意のため困却しております。よってご救助の儀を嘆願いたします。右の金額を旅費としてご扶助いただければ誠にありがたき幸せです。また頂いたからには退学や転学した暁には速やかに返納いたします。
証書を持って県庁に行くと既に話が通っているようで、清一と同じ年齢ぐらいの給仕に案内されて大きな県令室に向かった。
ドアを開け室内に入ると背後から光りを受けた境県令が待っていた。
「やあ岸君、話は聞いているよ。ご子息の清一君は大変な秀才と言われているようだし、兄の正明君も中々親孝行のようだね。
ところで補助金の件だが、ありがたくも東京の殿様からもよろしく頼むとの口添えが届いていることもあり、私としても学生の就学についてはぜひ応援させていただきたいと思っていたところだ。
ぜひがんばらせてくれたまえ。また何か困ったことがあったら、家宝の兜を処分したりしないで、いつでも相談に来てくれたまえ。」
境県令は証書を見ることもなく言った。
伴平はありがたく深々と頭を下げると共に、一つの疑問を口にしたのであった。
「誠にありがたいお話で、感謝の言葉もありません。清一にはきっと督励いたします。殿様には感謝の言葉もありません。誠にありがとうございました。
ところで、県令。」
「なにかね、岸君。」
「県令はなぜ兜の話を御存知なのでしょうか。」
「その話か。」
一呼吸おいてから県令は話し出した。
「実は先日、学校の先生方が大挙して県庁に押しかけて参ってな。
絶対言ってくれるなという条件で、兜の件を話して言ったのだ。どこにこんな親子がいるかと言い立ててな。そしてこうも言っていた。松江のみならず、清一に学問を納めさせることは日本のためだとな。
何か懐かしい言葉であったよ。
その昔のことだが。君も知っているだろう高杉さんの話だ。
私が高杉さんと江戸へ遊学の途につくに当たって、何をするにも高杉さんは、これは日本のため、これも日本のためだとよく言っていたものだよ。
もっとも高杉さんの「日本のためだ」という言葉は、遊ぶときの口実のようでもあったがね。
そんなわけで政府としても県庁としても、士族の方々の窮状を考えて胸を痛めていたところだったから、日本のためと言う言葉を出されては、否とはいえないじゃないか。
岸君、君が心配しているような、長州だとか出雲だとかもうそんな時代じゃないんだよ。日本という国のためにもっと大きく世界に目を向けるべきときだとは思わないかね。」
伴平は己の不明を恥じながら、県令室を後にした。さすがに県令は修羅場をくぐってきただけにその言葉には重みがあったし、判平にとって日本のためと言う言葉には新しい深い感動があった。
このような人たちが新しい日本を作っていこうとしているのだろう。めったに松江を出たことのない伴平はこれから東京に行こうとしている清一に少々羨ましさを感じながらも、ありがたいことだと感謝の気持ちをさらに深くしたのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その5、上京就学準備」

2011年08月14日 00時00分15秒 | 小説
いち早く決心した清一ではあったが、自分の気持ちを父親に話すのは気が重かった。兄もいるし家計の苦しさを十分承知していたせいもあるが、なにより内中原町(うちなかばらまち)にあった赤レンガの松江監獄の司獄官(しごくかん、現在の松江刑務所、警務官)をしていた父はその武術を先の長州征伐で高く評価され、いまだに家宝の兜(かぶと)を床の間に飾っているぐらい厳格でことのほか無口で怖い父親であったからであった。
また子供心にも松江監獄の傍を通ったときには、何も悪いことをしていなくても体を硬くして急ぎ足で通り過ぎたものであった。清一はそんな厳しい父の酒席での手柄話が何より苦手であったし、正座をするのが一番嫌いだったからである。父の書斎に入るときはいつも胸がドキドキして、思うこともうまく話せない情けない自分がいたのであった。
また清一の家には始終多くの人が訪れていたが、そのたびに母がお客に出す料理やご酒の工面に走り回っていた。そして来客は決まって深夜まで大きな声で談笑し時に口角泡を飛ばして議論し、父と共に語り合っていた。
そしてなによりそんな時には決まって酒席に兄と共に呼ばれ、直立不動のまま大きな声で挨拶を何度もさせられることが大嫌いだったのである。
また父は仕事の都合上夜勤も多くたびたび家を留守にしていたので清一は寂しい思いをすることのほうが多く、むしろ小さい頃からあまり父と語り合った経験はなかった。
しかしいつかは切り出さなければならない。
「ただいま帰りました。」
清一が声を掛けると驚いたことに母が玄関で正座をして待っていた。
「父上がお待ちですよ。急いで書斎に伺いなさい。」
母は清一を促すように、荷物を受け取ると書斎に先導していく。清一は不意を衝かれて、動悸が激しくなってくるのを覚えていた。そして珍しく今日は来客がいないようで、父の部屋はしんと静まり返っていた。
「清一が、ただいま帰りました。」
母はそういうとなぜか微笑んで、美しい所作で去っていった。
書斎に入ると父は書物を読んでいたが、ランプの明かりを少し落として振り向きながら腕組みをしたまま清一を招いた。
父の話はいつも短い。
「我が家には幸いにして遊学修行の資金となるべき三百円(約1080万円)と少しがある。かねてより今日の日が来ることを思い、家禄奉還金(かろくほうかんきん)を取っておいたのだ。母上と兄に感謝の気持ちを忘れないように。東京の大学に入ったら身体に気をつけて文武に励めよ。」
伴平はそういうと、くるりと背を向けてランプを明るくした。清一は思わぬ事態に呆然と座り続けていた。
「詳しいことは母上から聞きなさい。」
と声がしたので、思わず畳に額を擦り付けていた。
やがて退室した清一は母の元に走った。
母は夕餉(ゆうげ)の用意をして待っていたが、穏やかに微笑んでいた。
「まず、いただきなさい。お話はそれからでも逃げていきませんよ。」
清一は、箸を取らない。
そのようすを見た母は話し出した。
「かねてから父上は色々な先生方より、あなたの勉強振りや努力を聞いていました。また先生方は口をそろえて我が家にわざわざお出でになり、清一を東京の学校に上げてくれと頼まれていきました。本当にありがたいことです。母も誇りに思いますよ。」
清一は知らないうちに自分の頬(ほお)を熱いものが伝って落ちるのを感じていた。それは尽きることなくしたたり落ちた。自分のどこにこんなに熱いものがあったのだろう。むしろ不思議なものを感じる清一であった。
母は続ける。
「清一は小さかったので解らなかったでしょうが、父上は昔から多くの人の就職問題あるいは夫婦喧嘩まで、時にはお仲間のお仕事上の不始末までご相談に乗ったり、ご近所の揉め事を上手に収めておりましたから随分と人様のお役に立っておりました。
本当に父上の所にはあきれるぐらいの難問が持ち込まれておりましたが、それらの問題を無事に解決することで人様の安堵したお顔を見ることが、なによりお好きだと言っておりました。
清一、人様のお役に立つということは、そういうことだと母は思っています。
しかし父上は司獄官というお役目上あまり出すぎたことも出来ず、かといって頼まれごともそのままにしておけないということで、色々悪く言う人もいましたが、それはこの世の中に生きていく以上仕方がないことでしょう。
また父上の人々に対する優しさはお仕事の性格上、随分甘いと人様から言われることもありましたが、そうすることが人様のためになるという信念からご自分のご気持ちを抑えて今日まで勤めていらっしゃいました。
随分と理不尽なことや、やりきれないことをお感じになったこともあったのですよ。
お勤めの厳しさと苦しさは、何事も家族を守るためには耐え忍ばなくてはなりません。清一もやがては理解することが出来るようになるでしょうが、男子たるもの不平不満と私利私欲に流されず、毅然として生きていかなくてはなりませんよ。」
清一は袴を固く握り締めて初めて聞く父のようすに聞き入った。
「兄上にも感謝の気持ちを忘れてはいけません。二人とも可愛い息子ですが兄上は早くからお家のために働いてくれました。しかも父上に精一の上京を進めていたのも兄上でした。兄上はあなたにご自分の夢も重ねていたのではないでしょうか。
またこれは兄上の木綿の袴と飛白(かすり)の着物を仕立て直したものです。これを着て清一はいつまでも松江藩士の子息であることを忘れず、矜持(きょうじ)を持って東京にお行きなさい。」
清一は生涯この日のことを忘れることはなかった。
それは父が家宝としてあれだけ大切に取り扱っていた、床の間の兜がなくなっていたことの意味に思いが至ったからでもあった。
この出来事が彼の根幹を形作り生涯その気持ちのままを、朋輩(ほうばい)やこれから出会うであろうさまざまな人々との関わりかたに貫き通していくのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その4、宍道湖とカッター」

2011年08月14日 00時00分10秒 | 小説
ある日の午後、連れ立って帰る途中で銀之助が話し出した。
「清一、この前の話だがな。」
「何の話だった。」
「ほら、端艇やらバッテーラの事だよ。」
「おお!バッテーラがどうした。」
清一と違って銀之助は世上(せじょう)の話に耳が早い。どこで仕入れてきたのか校内の噂話を語り出した。
「なんでも東京の体操伝習所(後の高等師範学校・現筑波大)の学生達が、初めの頃は体力の向上にという理由で郊外まで遠足をしたりしていたが、今はやりの捕鯨船の中古のバッテーラを手にいれて課外や休みの日に神田川上流の御茶ノ水界隈や隅田川を漕ぎ始めているらしいんだ。それで学校当局も学生の体力向上に役に立つとして、茗渓(めいけい)と昌平(しょうへい)という名の2艇の新艇を建造してだな。おおいに端艇熱が盛り上がっているそうだぞ。」
銀之助は鼻の穴を大きく膨らまして、清一は知らんだろうと得意げに語る。
「しかもだ。その端艇熱が松江にも伝染し師範学校の連中がその端艇をどこで手に入れたのか、軍艦のお古でも調達したのか宍道湖で漕ぎ始める準備をしているというじゃないか。そして中学科でも体育の授業に端艇を取り入れる準備をしているという噂だ。」
清一は驚いた。目玉を見開きいつもの癖でその大きな頭を少し傾げて立ち止まってしまった。銀之助は清一を驚かした事に大満足である。いつもやられっぱなしでは銀之助の立場が悪くなるばかりだからだ。男同士の間柄はいつもこう対等じゃなくちゃいかんと、一人納得する銀之助であった。
「いやあ、驚いたなあ。本当に。」
「そうだろう、そうだろう。」
「銀之助。俺が何で驚いているのかわかっているのか。」
「そりゃあ清一、端艇のことに決まっているじゃないか。」
「そうじゃないよ。それもあるが、その端艇熱がこんなにも早く松江に伝わってきたという事に驚いているんだ。聞けば去年の事だというじゃないか。先生も言っていたよ。俺が驚いたのは、その話の伝わる早さだよ。早さ。文明開化というものの凄さを、今実感したよ。」
負けず嫌いの清一は、簡単には負けを認めず腕組みしたままお城を取り巻く堀川に目をやりながらいったのであった。
「やはり、東京の学校に行きたいものだ。東京で今起こっていることや外国のことをもっと知りたい。今学校で習っている英語は本当に外国人に通じるんだろうか。東京の学校に行って見たいものだ。」
銀之助は黙って聞いていたが、やがて少し考えてから決心したように清一の顔を見つめた。
「清一、実はな。俺は東京の学校に行くことに決めていたんだ。お前も誘おうと思ってはいたんだが、東京に行くにはお金がかかるんだ。それもちょっとやそっとの額じゃ足りんぞ。家は大丈夫か。」
清一は心底驚いて、友達の顔を黙って見つめ返した。こいついつの間にそんな事を考えていたのか。
「よし。決めた。俺も東京に行く。東京の学校に行って端艇を漕ぐ。東京中を騒がしているハイカラだ、端艇だ、といったって、俺達が2年前の5月に見た11年ぶりのホーランエンヤの櫂伝馬船(かいてんません)の漕ぎ方に毛が生えたようなもんだろう。大橋川の水も墨田川の水もそんなに変わるわけじゃなし、水は流れに流れて端艇の本場イギリスにも通じているんだからな。そして中学科の後輩達に東京仕込みの最新式の漕ぎかたを教えてやるんだ。」
これには話した銀之助も驚いた。
確かに清一は目を輝かして城山稲荷(じょうざんいなり)のお神輿(みこし)を追いかけて堀川から大橋川まで走って付いて行ったし、夢中になって数多くの船行列を見ていたことを思い出したからだったがこれほどまでに船というものに強い憧れを持っていたとは。
また確かに今思えば八雲丸の軍艦競争や海軍の話を話題にすることも、このあたりに多い船大工の作業場に出入りしていたのが多かったのはそういう訳だったのかと一人得心していた。
しかしそれにしても銀之助は岸家の台所事情の苦しさも知っていた。また清一の親戚である源のさぁがやはり家計の苦しさから一年遅れで松江中学に入学したものの、一年を待たず県内の八束郡玉湯村(やつかぐんたまゆむら)大谷村小学校の代用教員を月給一円五十銭(約5万4000円)で引き受けた事も知っていたからであった。
そして源のさぁは一年後に出雲市簸川郡(ひかわぐん)の今一という所で郡書記という役人をしていた兄の勧めで、兄の所に寄宿しながら2年間大津小学校の代用教員を月給五円(約18万円)で勤めていた。
銀之助が危ぶむのも無理はなかった。
それは清一と銀之助は教員伝習校内変則中学科の第4期生であったが、1期生はわずか3名しか卒業する事ができなかった上にいずれも郷里で就職した。
また2期生は2名の卒業であったが同じようにそのまま職につき、続く3期生は一人も卒業する事が出来なかったが、入学当初50名であった第4期生は多くの生徒が途中で病気や家計を助けるために就職し学窓を離れたにもかかわらず18名が卒業することが出来たのであった。
しかし中には家計の比較的裕福な志立鐵次郎(しだちてつじろう) ら3名は、岸たちに先駆けて東京に上京していたのであった。
そんな事情もあり清一も内心は上京を望んでいたが、苦しい家計がそれを許すはずもなかった。しかし今の一言で上京することを決意したのではあったが、それはあまりにも困難が伴う道であったのである。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その3、松江大橋を渡って」

2011年08月14日 00時00分02秒 | 小説
卒業を来年度に控えた清一は、相変わらず学問に励んでいた。ときには天神裏に夜相撲の見物に出かけた友人が清一を誘いに来ると、部屋に釣った蚊帳の中で勉強している清一の姿に驚き自らも勉強するために慌てて帰ったというようなこともあった。
また朝は家族を起さないように暗いうちからおきて身支度を整えて家を出ると津田街道から堅町を通り、小学生のころよく遊んだ寺町を過ぎ、天神橋を渡る頃には白々と夜が明けてきて宍道湖の蜆(しじみ)を取る帆架け船が大きく白い帆を膨らませているのを見ると清一はしばしば橋の上からその美しい宍道湖の景色に見とれるのであった。
やがて白潟本町(しらかたほんまち)から松江大橋にかかる頃には物売りの人も忙しく下駄の音をカラコロと鳴らしながら往来するようになり、やがて正面に千鳥城を見ながら内中原町(うちなかばらまち)に出ると内村友輔先生の相長舎に着くのであった。
清一はこの3年間早朝の学習を終えてから学校に行くことを日課としていたが、塾に着く頃には内村先生は既に起きて待っていて一度も待たされたことがなかったし学費を求められることもまた無かった。
勉強を終え朝食を先生と一緒に食べ終わると、必ず先生から今の日本国を取り巻く諸外国の事情や国内の出来事などのお話があり、なにかの宿題が出されるのがいつものことであった。
やがて登校のために門を出るとそこにはいつも同級生の山崎銀之助が待っているのであった。
「おはよう清一。今日の先生のお話はなんだった?」
「おはよう。実は東京でのハイカラについてだった。」
「そりゃまた今日は思いっきり変だな。ところでハイカラって何だ。」
清一は歩きながら先生の話を思い出すように、大きな頭を少し傾げておもむろに話し出した。
「ハイカラって言うのは外国から帰ってきた人たちが皆白いシャツを着ていたというんだが、まあいわゆるホワイトシャツだがそのシャツの襟が着物の襟より高かったんだ。つまりハイ・カラーだろう?そのようすが素敵だと言うので縮めてハイカラというようになったのだそうだ。
まあ、ハイカラはそのぐらいにしてだ。
話は変わるが銀之助も昔、第一八雲丸が遠州灘で行なわれた軍艦競争で一等になった話は知ってるな。」
「おう。それなら、大人たちが何かにつけて松江藩の優秀性を話すときに出る話だから、この辺の子供なら誰でも知っていることだ。」
「その軍艦競争だがペリー提督の来航で日本中がひっくり返るような騒ぎになったことや、ご維新のときには長州藩や薩摩藩が英国の軍艦に負けたことで新政府は海軍力の増強に真剣に乗り出しているらしいぞ。」
「ところで。それと俺達とどんな関係があるんだ。」
銀之助はあくまで屈託なく同級生の話を目を輝かせて聞いていたが、普段は無口な清一がいったん話し出すと、声は格段と大きくなるにつれて自然に仲間が回りに集まってくるとやがては喧々囂々(けんけんごうごう)の大弁論大会になってしまうのであった。
銀之助はそんな日常になれているので
「清一、声がでかいよ。まだ朝が早いんだぜ。」
と慌てていった。すると清一は声を潜めて語り出したが、千鳥城を右手に見てお堀端を歩く二人の脚は軽く声は次第に大きくなっていくのであった。
「つまり中国が外国に支配されてしまったように、この日本も狙われているというのだ。だから海軍を強くするためには兵隊を鍛えければならんと、こういう訳だ。」
「それで、どうした。」
「ところで、銀之助。お前は何をして体を丈夫にしている。」
唐突に清一の話は飛ぶ。虚を疲れて銀之助は口ごもった。
「俺はただ、ただ歩く。そうだ。ひたすらただ歩く。」
すると清一は笑いながらいった。
「それは俺も同じことだ。そう、ただ歩く。しかし何か遊戯をしながら身体を丈夫にすることが東京では今一番流行っているらしいぞ。」
「なんだそれは。じゃあ兵隊さんも学生さんも遊びながら身体を鍛えていると、そういうのか。」
清一は良くぞ言ってくれたといわんばかりに立ち止まった。
「そうだ、東京や横浜では居留地に住む外人たちが何か遊戯をしながら楽しんでいるそうだ。しかも身体も大きく強い。中でも横浜港で行われたバッテーラ競漕は英国と米国が戦ってすごい人気となったそうだ。また去年墨田川で行われた海軍の水兵さんによる短艇競漕は、天皇陛下、皇后陛下のご光臨賜り墨提(ぼくてい)が万余の・・」
「まてまて清一。バッテーラとはなんだ。墨堤とは。短艇ってなんだ。まるでお前の言っていることは理解ができんぞ。」
清一はにわかに気が付いて自分の興奮を抑えるようにいった。
「続きは、また今度だ。」
「なんだよ清一。清一。おーい待ってくれ。」
こうして二人の少年は子犬がじゃれ付くように登校する仲間をかき分けながら駆けて行く。
こうしてまた少年達にとって勉学の日々が過ぎて行くのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その2、源のさぁ」

2011年08月14日 00時00分01秒 | 小説
岸少年の親戚で同じ町内に住み現在の雑賀小学校より南に約100mのところにある10軒ばかりの集落の中に一歳年上の奥村源之丞が住んでいた。源之丞は幼名であり人々からは「源のさん」あるいは「源のさぁ」と呼ばれていた。
後に若槻禮次郎(わかつきれいじろう)とよばれる源之丞は慶応2(1866)年2月5日生まれで、東京帝国大学佛法科で仏国の法律を学び主席卒業後、大蔵省を経て大臣を経験し二度に渡って内閣総理大臣を務めることになるのだった。
しかし源之丞が生まれた時は運悪く時の藩主が新しく生まれたわが子に源之丞という名前をつけたので、忌み名(いみな)は避けるということから源の字のついていた者は名前を改め奥村源之丞は奥村禮次郎という名に改められたのであった。
また禮次郎は小さい頃から随分とやんちゃで気に入らないことがあると一際大きな声で泣くため有名であったが、その家庭は随分と複雑で実母の夫は若くして二人の男子を残して亡くなっていた。
しかし下級武士である足軽でも少しではあるが禄をもらっていたので、戸主不在で禄が貰えなくなることを避けるために禮次郎の実父である奥村仙三郎が婿入りし家を継ぎ一人の姉と禮次郎が誕生したが実母には先夫との間に10歳以上年の離れていた兄が二人居たのであった。
しかし明治元(1864)年4月22日父が京都に仕事で出かけているとき、11歳の姉と3歳の禮次郎を残して実母が病死したのであった。二人は声を上げて泣いているところを近所の人に見つけられた。急を知らされた祖母が来て世話をされていたが後には姉と共に実父の後妻ヤオに我が子同様に厳しく育てられたのであった。したがって禮次郎は実母の顔を覚えていないが、数年に1度大水が出て家来の禄高も何割か減らされたため内職して乗り切ったことなどを覚えていた。
そして明治6(1873)年、7歳になった禮次郎は寺子屋に入ったが、当時の風習ではまだ帯刀(たいとう)の習慣があったので、幼い禮次郎は1本の木刀を腰に差して毎日通ったのであった。
禮次郎達は並べた机に座り師匠の手本を見ながら草紙に字を書き紙が墨で真っ黒になると外の竿に吊るして干し、次の紙がまた墨で黒くなると乾いた黒い紙と取り替えて字の練習をした。そして最後の仕上げは白い紙に清書して師匠に見てもらい手直しを受けたが、ある時などは(あいうえお)を紙に書くとき、(あ)の字を紙の真ん中に大きく書いてしまい(い)の字を隅に書いて提出し笑われるというような経験もあった。
そのような寺子屋生活を数ヶ月送り、明治6(1873)年4月20日新しく出来た現在の雑賀小学校の前身第七区小学校に8歳で岸清一とともに入学した。当時の小学校は上等小学校と下等小学校に分かれていたので上等小学校を終了してから中学校に進学する仕組みであった。
しかし小学校を卒業したとき兄の意見をいれ中学校には進学せず後の二葉亭四迷も同様に学び影響を受けたといわれている内村友輔先生の相長舎という漢学塾で学んだが、これは貧しい奥村家では他の家庭と同じように働いて家計を助けるために読み書きを学ばせたからであった。
しかし禮次郎は学問への情熱を断ちがたく反対する父を母ヤオと共に一年がかりで説得し、明治13(1880)年7月当時4学年制であった教員伝習校内変則中学科(後の旧制松江中、現松江北高)の試験に合格し入学をはたしたのであったが、やはり学費が続かず1年を待たずに退学すると山に薪を取りに行ったり家事を手伝ったりして失意のままに過ごしていたのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】

岸清一物語 ― 我死して美田を残さず ― 第1章、カラカラ橋を渡って 「その1、巣立ちの時」

2011年08月14日 00時00分00秒 | 小説
一人の青年が宍道湖(しんじこ、島根県)から少し離れた所にある自宅の門の前で、朝霧に包まれて深々と一礼をしていた。
「清一(せいいち)、もう良いのか。」
声を掛けたのは朝霧の中に立ち清一と同じような羽織、袴に草鞋(わらじ)履きで背中に包みを斜めに背負い旅支度をした青年であった。
「おう、銀之助か。夕べのうちに水杯(みずさかずき)で家族と別れの挨拶も済ませておいたからもう大丈夫だ。銀之助はどうだ。」
答えた清一は細いながらも引き締まった身体(からだ)を持ち、頭の形は内包された優秀な頭脳と頑固なまでの意志の強さを示しているように横に大きく張り出していた。
密かに「福助」と渾名(あだな)されているのも無理のないことであったが、銀之助にとってはこの同級生の清一が誰よりも頼りになる存在であることに小さい頃から全幅の信頼を寄せていたのだった。
「清一、実はな。」
「どうした。」
「いや、今日の出発の件だが。実は源のさぁにばれてしまって。父上たちの了解も取り付けてどうしても四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)まで送って行くといって聞かないんだ。」
銀之助は頭を掻きながら下を向いて答えた。
「そうか。そうだろうな。そんなことだと思ったから、御挨拶に伺った時にはっきりと日時はお答えしなかったんだが。
まあ、ありがたくお受けしようじゃないか。」
清一が草鞋の具合を確かめるように、何度か足を踏みしめながら下を向いて四股(しこ)を踏みつつ答えた。にわかにほっとしたような表情を浮かべて、銀之助は胸の中でやれやれ良かった清一の奴は一辺言い出したら何があっても聞かない、妙に頑固なところがあるから本当に心配したがこれで一安心というものだと一人合点していた。
「さあ、急ごうぜ銀之助。」
「おう!」
17歳になった若い二人は互いの心を勇気づけるようにして、家の前を通っている津田街道から旅を始めたのである。
その旅の始まりは松江の津田街道から出雲街道そして西の箱根といわれる中国地方最大の難所である四十曲峠を抜けて、まだ見ぬ東京までの長い道のりであった。
それは明治16(1883)年初夏の5月11日の早朝七つ立ちといわれた午前4時のことであったが、後に日本における近代スポーツの父と呼ばれるようになる岸清一の生まれたのは、慶応3(1867)年7月4日のことで山陰地方の松江市、当時は雲州松江藩と呼ばれていた島根県意宇郡雑賀町(いうぐんさいかまち)1丁目の通称地行場(じぎょうば)という所に、父7代目伴平(ばんぺい)の7人兄弟の次男として誕生したのであった。

【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】