近代ボート競技歴史研究所

千葉県でボート(漕艇・Rowing)の競技を歴史研究しています。

横浜ニューグランドホテル

2009年06月19日 00時00分00秒 | 日記
この写真は、大正7年から昭和8年ごろに写されたものです。
タイトルはニューグランドホテル屋上から港内を望むと書かれていました。

小さくて見にくいですが、左のほうに小さく舵付き4が映っています。右のほうには船溜まりがあります。風や嵐を避けるために作られたのが船溜まりです。
横浜アマチュアローイングクラブの艇でしょうか?
残念ながら、クルー名はわかりませんでした。ヨットもみえます。

沖には輸送船でしょうか、タンカーでしょうか?

横浜港でも凪のときには、シェル艇が漕げたのでしょうね。

カラーだったら、ブレード等でなにかわかったのかもしれません。
残念です。

第四高等学校 北辰会メダル

2009年06月18日 00時00分00秒 | 日記
これは昨日の第四高等学校 北辰会メダルの裏側です。

星の下には、二本の横線があります。その下にはこのメダルのタイトルがあり、
さらに2594とあるので、皇紀という年号から年代がわかりました。

先日新聞に、第四高等学校の琵琶湖での事故の時に植えられた桜の前で慰霊する関係者の記事が出ていました。

今でも、その方々をしのんで練習に励んでいるのでしょうか?

早慶レガッタ 第一回大会

2009年06月04日 00時00分00秒 | 日記
記念すべき第一回大会は、明治38年5月8日、隅田川 吾妻橋ー東大艇庫前
1250m 天候 曇りの中対校シックスで行われたそうです。

この写真は、出漕前に料亭植半の玄関前でとられたものです。

中央にいるのが、東大で岸先生とともに優勝した盟友 武田千代三郎氏です。

武田氏は、このあと審判長として審判艇に乗り組んだそうです。

ちょうど、秋田県知事を終了し同年11月から山梨県知事になるので、東京にかえっていたときではないでしょうか。


また、同年10月には『理論実験・競技運動』を著し、「端艇競漕」という章もあります。等研究所で所蔵しているので、改めてご紹介したいと思います。


さらに、面白い記述を見つけました。

1、これに刺激を受けた明治と日大にボート部が誕生した。

2、日大には早稲田をやめた吉沢、日比野が入って端艇部が出来た

3、日大に加藤進がコーチに行った

これは面白い記述です。

日大の創部当時のことは、謎が多いのでこんど調べて見ようと思います。

早慶レガッタ 優勝旗

2009年06月03日 00時00分00秒 | 日記
この旗は、早慶レガッタ50回史にのっていた旗です。

きれいですねえ。裏には年度と優勝校のイニシャルが刺繍されています。

早慶レガッタは、隅田川 荒川 戸田コース 相模湖コースと場所を変えながら
かいさいされてきた様子が、豊富な写真とともに記録されています。

準備をされる関係者のご苦労はいかばかりでしょうか。

また川の場合、カーブもあります。流れもあります。干満もあります。

そういえば、波で艇が破損したということも聞いたことがあります。

みなさまのご苦労によって、こうして会を重ねていくのですね。

伝統に万歳!

早慶レガッタ 五十回史

2009年06月02日 00時00分00秒 | 日記
この本は、早慶レガッタの50回開催を記念して昭和57年11月29日に発行されました。B5の大きさです。328ページにわたって早慶レガッタの歴史が詳細に書かれています。

第50回早慶レガッタ準備委員会からの発行ですね。

見開きには、カラーで優勝旗が映っていますのでご紹介しましょう。

あまりにも綺麗で、惚れ惚れとするような優勝旗です。

記念すべき第一回大会は、明治38年5月8日、隅田川 吾妻橋ー東大艇庫前
1250m 天候 曇りの中対校シックスで行われたそうです。

固定席艇ですね。艇名 早大 いなずま 慶応 いろす

このときの戦績は、一位 早大 タイム不詳 二位 慶応 1と2分の一艇身

で、寸評によれば慶応大学が明治20年、早大が明治37年に創部。両岸を分けた白の慶応、赤の早大の応援はさながら、源平合戦。

先行の早大が一艇身半差で初戦勝利。

したんだそうです。

応援もすごかったでしょうね。しかし、第一回大会は予想以上の反響を呼んだが、翌年から野球の応援過熱ぶりから早慶戦は全面禁止となったため、東大の仲介により昭和5年4月29日に第二回大会が開催されるまで、25年の空白を生じたんだそうです。

また第一回大会出漕直前の記念写真が載っていますが、どーも真ん中に移っているのは武田千代三郎さんのような気がするんですが・・・・・

武田千代三郎さんといえば、岸先生の盟友ですね。