近代ボート競技歴史研究所

千葉県でボート(漕艇・Rowing)の競技を歴史研究しています。

内外遊戯全書・端艇競漕

2007年11月14日 00時00分00秒 | 日記
この本は明治32年6月に遠山氏によりかかれました。博文館と言う出版社で体育関連のものを多く出しています。

特に注目すべきは、ローロックをクラッチと記述し初期のカタチを図で示していることや、端艇競漕をボートレースとしボートは端艇とよんでいます。 またスライディングシートは滑座とかいてあり、琵琶湖で学校、会社、銀行が参加して一大競漕会ガ開かれていると紹介しています。

琵琶湖では明治28年第1回大日本連合競漕会が岸先生の後輩の野村やさぶろう氏の発案と努力でおこなわれました。

第5回九州鉄道競漕大会

2007年11月13日 00時00分00秒 | 日記
このメダルは明治37年5月に行われた大会のものです。あまりに小さいので拡大しましたが本サイズは1cmぐらいで表面の漕の漢字は赤い七宝で鮮やかに仕上げられています。裏側は登った朝日と桜の花びらです。

多分上部には丸いワッカが付いていたと思われます。前回のメダルデザインは鉄道だけにレールのわぎり、つまりーエーの形でしたね。福岡ですでに端艇が漕がれていたとは、驚きですが協会史がないようで確かめられませんでした。残念です。

隅田川での端艇競走

2007年11月12日 00時00分00秒 | 日記
この写真も残念ながら年代は特定できませんでしたが、隅田川だとすると東京大学の向島艇庫が完成したのが明治20年4月16日に那智・華厳・布引・養老の4艇の進水式を兼ねた大会だったとのことです。

写真は4艇レースですが岸辺に艇庫が建っていますので少なくともこの写真の乗っている絵葉書は通信欄(裏側住所を書くところの下に近況を書く欄のこと)が無い事から、明治20年から明治33年までのものであろうと推察されます。岸清一先生が東京大学予備門に合格を果たしストレンジ先生の指導を受けながらボートを漕いでいたのは明治17年ごろから明治22年にかけてのことで、明治20年には武田千代三郎さん(大日本体育協会副会長)たちと第一回大会で優勝を果たしていますから、もしかしたらこの写真に写っているのかもしれませんね。

写真の下部に隅田川での端艇競走という字が書かれていますから、端艇と言ってはいたが未だ競漕ではなく競走と言っていたのかもしれません。

また当時から大正9年6月1日に東京帝国大学・早稲田大学・明治大学・東京高等商業学校・東京高等工業学校・東京外国語学院・東京高等師範学校の7団体で日本漕艇協会が設立された時にボート関係の用語が統一されるまで陸上は競走・飛行機や綱引きなどは競争と表記されていましたがこのときまではボートも競漕という呼び方(単語)が使われていなかったのかも分かりませんね。

松江城 お掘端

2007年11月09日 00時00分00秒 | 日記
この写真は昭和8年以降の松江城をぐるりと取り巻くお掘端の武家屋敷と松並木の様子です。 松江大橋を渡って、左側は中内原町だと思います。上級士族のお屋敷でしょう。雅賀町の2合半の下級武士の屋敷とは大きさが全然違いますね。

端艇漕法

2007年11月07日 00時00分00秒 | 日記
この本は明治27年に石田羊一郎によってかかれました。彼は仙台出身の漢学者で慶応元年から昭和9年の人で別名、東陵といい漢詩もよくしまし、大東文化学院の教授をしていました。注目すべきは漕艇術のなかでリガーの始まりは1828年木製だったものが2年後、英国ニュウカッスルのクラスバー氏により鉄製がつくられたことや、1857年米国人によりスライディングシートが発明されたという記述以外に日本では漕艇は国民的スポーツでボートは端艇とし、競漕規則も述べていますが最も注目すべきは最近端艇の身を細くするのが流行っているとかかれているところです。

つまり先日の写真以降艇がより細くなっていったことが分かるのです。今度掲載したいと思います。あ、そうそう、米国人の名前は後で出てきます。.