それからしばらくはストレンジ先生によるメンバーの選考に時間が費やされたのだが、やがてストレンジ先生によりメンバーの発表が行われた。メンバーはいずれもストレンジ先生から直伝の教えを受けた者ばかりで、それぞれが腕に覚えのあるメンバーであった。
「それでは今度のボートレースにおけるシートポジションを発表しよう。選考は身長体重のみではなく技術力とやる気をあわせて行った。選ばれた者も選ばれなかった者もともに自分ができることをよく考え、オアーズマンシップに則って試合に臨んでもらいたい。
ボートレースは試合に勝つことが真の目的ではない。なによりもジェントルマンとしての素養の育成が目的であるのだから。つまりベストを尽くせということであり、結果はあとから付いてくるものなのだからね。」
一同の割れんばかりの喝采の中、順次メンバーが発表された。
「まず舵手(コックス)はMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ。東京大文学部の学生たちが中心のクラブ)の中から阪倉銀之助君、整調は同じくMBCの日高真実(ひだか・まさね。後に3年間のドイツ留学後、高等師範学校教授兼文科大学教授。明治27(1894)年急逝、後日、高文庫設立)3番もMBCの山口鋭之助君。この3人はともにMBCのメンバーで春季競漕会の選手競漕では日高、阪倉君でよいリズムで漕いでいることから日高君に整調をお願いし、阪倉君には舵が非常に上手なところからコックスの大役をお願いした。また山口君には自慢の体力でしっかりと整調を助けていただき確かなリズムを後ろに伝えていただきたい。
また2番と舳手(じくしゅ。バウ)はともにORCから武田千代三郎君と(後に山口、秋田、山梨の県知事、大阪市立商業高校校長、日本体育協会副会長)、神崎東蔵君(後に弁護士)にお願いしたが、武田君は春季競争の5番レースで坂倉君の舵手で整調を漕いでいるから気心も知れているだろうし、神崎君は武田君に合わせて漕ぐのはお手の物であるだろうからこのメンバーでいくこととした。
なおSRCからは岸君に総務全般ともしもの時の補漕(予備漕手)をお願いしたい。漕手の体重は以下の通りである。(1ポンド=約454g)
整調・日高(134ポンド=約60.8kg)
3番・山口(167ポンド=約75.8kg)(約6尺=180cm)
2番・武田(128ポンド=約58.1kg)
舳手・神崎(129ポンド=約58.6kg)
補漕・岸(138ポンド=約62.7kg)
(正漕手4人の体重平均は、139.5ポンド、約63.3kg)
試合は明治18(1885)年11月3日に「横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)」の外人クルーとクリンカー艇で行われることになった。クリンカー艇とは4人漕ぎで鎧張り(よろいばり。外板が鎧の直垂(ひたたれ)のように少しずつ重なり合ってできている。かなり昔、公園にあった貸しボートの外板と同じような構造)の滑席艇である。
コースは横浜港内で山下町のフランス波止場に立つオリエントホテル前の「ボートハウス」の沖からの1000mであった。したがってYARCから競漕に使う「ペトレル」という名前の艇を借用して、横浜から伝馬船で運ばせて浅草にある井生村楼(いぶむらろう)という料亭の貸し席がある広い縁側を借りてペトレル艇を置かせてもらった。
毎日学校からストレンジ先生は人力車に乗り、漕手たちは歩いて3週間の乗艇練習を厳格にこなしていった。井生村楼に着くとストレンジ先生は漕手全員と艇を運んだ。こういう場合はさすがストレンジ先生であってもコックスの号令にしたがって行動するのがボート部であった。
「両舷(りょうげん)いいかー。両舷、手をかけて。持とう!一、二、三!。」
両舷とは、船尾から船首に向かって右側と左側、つまり右舷「スターボードサイド(starboard side)」と左舷「ポートサイド(port side)」の両サイドを指す。日本のボート競技ではそれぞれ「バウサイド」「ストロークサイド」といわれている。号令の場合は「漕手全員」という意味で使われる。
この号令にしたがってストロークサイドという整調と同じ偶数番号の漕手全員も、バイサイドという1番(バウ)サイドと同じ奇数番号の漕手も、コーチのストレンジ先生であっても艇を水面に出すために艇の下部にあるキールに手をかけて、腰に力を入れ阿吽の呼吸を合わせて一律にきびきびと動いて艇を水面近くに移動した。
したがってオアーズマンシップとは、このように一つの目的に向かって利害を度外視して行動するということなのであり、このことは驚くべきことにその後100年以上経った現在でも美しいトラデショナルとして受け継がれているのである。
「降ろそう、一、二、三!」
応援に来たものも見守る中でコーチとクルー全員でコックスの号令にしたがってきびきびと行動した。それを見ていた清一は心から、レギュラーになりたいと願った。
クルーは号令に従い全員でかなり重いペトレルを持ち上げると静かにポチャン、ポチャンと水に浮かべると絶妙のタイミングで補漕の清一がトップに付けられたロープを手繰って引き寄せた艇を桟橋に固定して押さえた。ペトレルへは各自のポジションの横から順次艇に乗り込んで、両手は両サイドのガンネルを持ちながら片足を桟橋に残したままでコックスのほうを注視する。コックスはクルーの体調と精神状態を満遍なく何気なく注意深く観察して、何事もないことをクルーの表情から確認して号令を発する。
「蹴ろう!一、二、三!」
その号令に従いクルーは息を揃えて桟橋を蹴り出す足に力を込めるのだ。やがて桟橋からすっと蹴り出されてゆらゆらと水面に漂うパトレルが安定を取り戻すころを見計らって、両舷は静かに艇に揺れを与えないように腰を下ろすのであった。さらに、コックスは安全と艇内での練習環境確保のために準備を促す。
コックスはいつも思う。号令は「両舷、良いか!」というもので一辺に済ませばよさそうなものなのに、必ず各ポジションに安全確認を行わなければならないのだ。でもそんな時、コックスはストレンジ先生のボートの基本は安全であるという言葉を思い出して、面倒臭そうな顔をしているクルーに確認を取るのであった。
クルーに向かってコックスは辛い練習においてさらに元気が充満するように、自らの身体を動かせないことによる冷えを隠しながら自らを奮い立たせつつ、高らかに声を張りつつ水面に響き渡るように号令を出すのであった。
「整調、いいか?」「ハイ!」
「3番、いいか?」「ハイ!」
「2番、いいか?」「ハイ!」
「バウ、いいか?」「ハイ!」
元気の良い声で返事をするクルーは上級生、下級生の区別はない。あるのは艇長としてのコックスへの全幅の信頼のみであった。なお練習時におけるストレンジ先生の練習方針は次のとおりであった。
1、オールを見ないで前の漕手の肩を見て漕げ
2、首をふるな
3、クイック、オブ、チェスト(ブレードを素早く反転する)
4、スペースを長く(水中を長く漕ぐ)
5、波のないときは水面より3インチ(約7.62cm)の高さ、波が高いときは5インチ(約12.7cm)より高くするな
また試合に用いる1分間に漕ぐ本数であるコンスタントレートは毎分27回を指示して、漕いでいる時の掛け声は常に「クイック、オブ、チェスト」であり、バウの後ろにコックスのほうに向かって陣取って座ったストレンジ先生の掛け声に合わせて漕手は厳しい練習を積んでいったのであった。ときには有り余る体力からピッチを一分間に30回以上に上げようものならストレンジ先生からこっぴどく叱られたし、座りなれない動くシートがどこかに飛び出したりしたので内緒でシートをレールに縛り付けて動かないようにしているところを見つかってこれまたひどく叱られたりしていた。
しかし執念というのは恐ろしいものであれほど手こずっていたスライディングシートも何とか漕ぎこなせるようになってきたので試合の数日前にはタイムトライアルを行うと、かなりの好タイムを出したのでストレンジ先生や漕手たちは安心して東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された端舟大競漕会について書かれた記事を呼んだりしながら休養を取っていた。
やがて初の国際試合の当日になったが前日の天候は暴風雨であったため、ストレンジ先生が日頃から荒天時にはレースをするものではないと教えていたので試合は無いものと一同は安心しきっていた。
しかし暫くすると清一が青い顔をしてみんなの元に明治2(1868)年横浜-東京間に開通していた電報を握り締めて走ってきたのであった。
「大変です!大変です!先方は悪天候によらずボートレースを決行するといってきましたよ。どうしましょう。ストレンジ先生には既に知らせておきましたが、急がないと間に合いませんよ。」
「なにー。そりゃあ大変だ。それは急がなければならんぞ。」
一同は大慌てで荷物を作り身支度を整えて陸蒸気の新橋駅まで急行すると、ストレンジ先生は既に到着してにこやかに待っていた。
「ボーイズ。何も心配することは無い。ボートレースは人生と同じで何が起こるか解らないから愉快なんじゃないか。さらに主賓(しゅひん)である私たちが行かなくては、レースは始まらないんだ。ゆっくり行こう。」
ストレンジ先生の話にようやく得心した一同はしばしの旅行を楽しむのだったが、次第に汽車から海が見えるようになってくると海が時化(しけ)ているのがわかるようになってきて一同は自然に無口になるのであった。
横浜駅からレースの会場に急行する前は新聞に取り上げられていることもありかなりの人出を予想していたが、会場には仏国軍艦の軍楽隊が演奏するマーチだけが鳴り響いているだけで意外にも悪条件に災いされ人手は多くなかった。
会場は風こそ少なかったものの、前日の暴風雨のせいでかなり大きくうねっていたが、東京大学のクルーは揃いの浅黄色の帽子を着用したのに対しYARCクルーは紅白の帽子を着用していた。
数回の野次レースのあとはもう本番である。両艇が船首を揃えた所でスタートのゴー!という号令が掛かり、両クルーのレースが始まったのであった。
しかし練習の甲斐なく大きなうねりに翻弄されて東京大のクルーはオールを波にとられたりするので、オールが水にもぐって水圧を受けるので腹部にハンドルが食い込んで漕げなくなり艇速を止めてしまう状態で通称腹きりをする漕手が続出したり、キャッチでオールが水をつかめなかったり、漕ぎ終わってオールが水を出る「フャイナル」でオールが空を切ったりする漕手が続出して全く日頃の練習のいい所が出せなかったのに対し、YARCは日頃から海で練習している地の利を生かした滑らかな漕ぎで順調にトップを占めるレース展開を最後まで繰り広げ4艇身の大差をつけてのゴールであったが、一方の東京大クルーは最後まで良い所なくレースを終了したのであった。
その後あまりの敗北に意気消沈したクルーは応援していただいた皆様に申し訳ないとして、一同頭を丸めて坊主頭になり帰校し教師や学友に陳謝して回ったのであった。
【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】
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【参考】
三重大ボート部Web「ボートの漕ぎ方」
http://sky.geocities.jp/rowingmieuniv/whatsboat-kogikata.html
愛知県東郷町ボート教室