明治8(1875)年の初め1人の英国人がロンドンから遥か遠く離れた極東の島国、日本に向かう船のデッキに立っていた。乗っていた汽船は英国のP&O汽船会社の所有するOrissa号であった。
当時はそれまで英国からアジアの国々を経て日本まで旅する場合、アフリカの喜望峰を回っておよそ半年と、気の遠くなるような時間がかかっていた。
しかし明治2(1869)年に地中海とインド洋を結ぶスエズ運河が10年の月日を経てエジプトに完成していたので、その行程は約2ヶ月と大幅に縮小されていた。
この20代前半で立派な口髭を蓄え少し物憂げな青年の名前は、ストレンジ(嘉永5年(1852)頃ロンドン生、身長約5尺7~8寸(約175cm)、体重約17~18貫(約67kg))といった。
汽船の中でストレンジはテームズ川で見たヘンリーレガッタの風景の中で紳士淑女が着飾り、男達は誇らしげにそれぞれ揃いのクラブのネクタイをしたりブレザーの胸に倶楽部や団体ごとのエンブレムを付けていたりすることに憧れを覚えていたことを思い出していた。
そしてそれぞれのクラブごとにブレードの先端部分に異なった色が塗られているブレードカラーを見れば、一目でそのメンバーであるクルーがどこに所属しているのかがわかるし、大会で優勝したクルーはそれぞれ記念のメダルを胸から下げて歩いていたのでどこのクルーが優勝したのかということもすぐにわかった。
またクラブごとにテントを張りブレードカラーと同じ旗を掲げていたので関係者はその旗のもとに集い歓談していたし、それぞれのクルーの父も母も兄弟も皆一様に我がことのように喜色をあらわにしていた。
そして試合で力漕を終えた選手たちは汗に濡れたユニホームのまま誇らしげに会場を歩き回っていた。
ストレンジはそんな中を所在無げに歩き回っていた。
時には見知った顔を見出しても彼らは大学ボート部の選手や卒業生である以上、ボート部の集まっている所にいるので関係者ではない自分が声を掛けるのもはばかられた。
また時にはクラブの先輩達が後輩クルーの力漕と健闘を称えあっているところに出くわすと、ビールが肩にかかってしまうこともあったし優勝したクルーのコックスが恒例行事の一つとして大きな選手によってテームズ川に投げ入れられたときの飛沫(しぶき)がかかることもあった。
しかしストレンジはそれらの事柄を嫌いではなかった。なぜならばヘンリーレガッタの会場はそのまま巨大な英国の社交場であったからで、多くの外国人たちも見物にきていたので広く世界を感じることができたからであった。
ストレンジはレガッタ会場での煌(きら)びやかで華やかなようすを思い出しながら、当時英国を覆い始めていたアスレティシズム思想の強い影響下で受けた授業の中で覚えた、ボートを漕ぐ楽しさや陸上競技での勝利の喜び、時には球技の持つ偶然のスリルなどを懐かしく感じていた。
しかし大学を卒業はしてみたものの、ストレンジにはこれといってなりたい職業もなく大きな夢もなかった。
あるのはただ新聞で読んだ遥か東にある英国と良く似たような小さな島国の日本という国で、英国人たちが神戸や横浜の外国人居留地でローイングクラブを作ってボートを漕いでいるという記事に心を惹かれたことがあったというだけであった。
そこでストレンジは漠然と自分というものの存在意義を探すための旅に出ることにしたのであったが、頼るべき人もいないので特に仲間意識が強く面倒見が良いことで知られているオアーズマン達に横浜のアマチュア・ローイング・クラブへの紹介を依頼してこの船に乗ったのであった。
そして遥かな波頭を越えてストレンジはとうとう東洋の小さな島国の港「横浜」にたどり着いたが、それは明治8(1875)年の3月22日のことであり、やがて岸清一とは運命的な出会いをすることになるのである。
ストレンジの正式な名前はフレデリック・ウイリアム・ストレンジといい、その言葉の意味のようにかなり奇妙で不思議な雰囲気を持つ青年であった。
というのも彼はやがて日本に芽生える近代スポーツの中でも、特に初期に人気が高まったボート競技と陸上競技の恩人と称えられるようになるが、これらの種目がその後の日本人のスポーツに対する考え方にまで大きく影響を及ぼしていくことを今だ知らないからであった。
むしろ彼自身もこれから成すであろうことや、何に対して希望を抱いて日本まで来たのかということについては理解していなかったに違いない。
しかしやがて教師として彼ほど情熱を傾けて日本の学生にスポーツを指導したお雇い外国人はいなかったし、彼ほどここに至るまでの半生を知られていないものも少ない。また意外なことに彼の教えた教科は体育ではなく英語だったのである。
【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】
当時はそれまで英国からアジアの国々を経て日本まで旅する場合、アフリカの喜望峰を回っておよそ半年と、気の遠くなるような時間がかかっていた。
しかし明治2(1869)年に地中海とインド洋を結ぶスエズ運河が10年の月日を経てエジプトに完成していたので、その行程は約2ヶ月と大幅に縮小されていた。
この20代前半で立派な口髭を蓄え少し物憂げな青年の名前は、ストレンジ(嘉永5年(1852)頃ロンドン生、身長約5尺7~8寸(約175cm)、体重約17~18貫(約67kg))といった。
汽船の中でストレンジはテームズ川で見たヘンリーレガッタの風景の中で紳士淑女が着飾り、男達は誇らしげにそれぞれ揃いのクラブのネクタイをしたりブレザーの胸に倶楽部や団体ごとのエンブレムを付けていたりすることに憧れを覚えていたことを思い出していた。
そしてそれぞれのクラブごとにブレードの先端部分に異なった色が塗られているブレードカラーを見れば、一目でそのメンバーであるクルーがどこに所属しているのかがわかるし、大会で優勝したクルーはそれぞれ記念のメダルを胸から下げて歩いていたのでどこのクルーが優勝したのかということもすぐにわかった。
またクラブごとにテントを張りブレードカラーと同じ旗を掲げていたので関係者はその旗のもとに集い歓談していたし、それぞれのクルーの父も母も兄弟も皆一様に我がことのように喜色をあらわにしていた。
そして試合で力漕を終えた選手たちは汗に濡れたユニホームのまま誇らしげに会場を歩き回っていた。
ストレンジはそんな中を所在無げに歩き回っていた。
時には見知った顔を見出しても彼らは大学ボート部の選手や卒業生である以上、ボート部の集まっている所にいるので関係者ではない自分が声を掛けるのもはばかられた。
また時にはクラブの先輩達が後輩クルーの力漕と健闘を称えあっているところに出くわすと、ビールが肩にかかってしまうこともあったし優勝したクルーのコックスが恒例行事の一つとして大きな選手によってテームズ川に投げ入れられたときの飛沫(しぶき)がかかることもあった。
しかしストレンジはそれらの事柄を嫌いではなかった。なぜならばヘンリーレガッタの会場はそのまま巨大な英国の社交場であったからで、多くの外国人たちも見物にきていたので広く世界を感じることができたからであった。
ストレンジはレガッタ会場での煌(きら)びやかで華やかなようすを思い出しながら、当時英国を覆い始めていたアスレティシズム思想の強い影響下で受けた授業の中で覚えた、ボートを漕ぐ楽しさや陸上競技での勝利の喜び、時には球技の持つ偶然のスリルなどを懐かしく感じていた。
しかし大学を卒業はしてみたものの、ストレンジにはこれといってなりたい職業もなく大きな夢もなかった。
あるのはただ新聞で読んだ遥か東にある英国と良く似たような小さな島国の日本という国で、英国人たちが神戸や横浜の外国人居留地でローイングクラブを作ってボートを漕いでいるという記事に心を惹かれたことがあったというだけであった。
そこでストレンジは漠然と自分というものの存在意義を探すための旅に出ることにしたのであったが、頼るべき人もいないので特に仲間意識が強く面倒見が良いことで知られているオアーズマン達に横浜のアマチュア・ローイング・クラブへの紹介を依頼してこの船に乗ったのであった。
そして遥かな波頭を越えてストレンジはとうとう東洋の小さな島国の港「横浜」にたどり着いたが、それは明治8(1875)年の3月22日のことであり、やがて岸清一とは運命的な出会いをすることになるのである。
ストレンジの正式な名前はフレデリック・ウイリアム・ストレンジといい、その言葉の意味のようにかなり奇妙で不思議な雰囲気を持つ青年であった。
というのも彼はやがて日本に芽生える近代スポーツの中でも、特に初期に人気が高まったボート競技と陸上競技の恩人と称えられるようになるが、これらの種目がその後の日本人のスポーツに対する考え方にまで大きく影響を及ぼしていくことを今だ知らないからであった。
むしろ彼自身もこれから成すであろうことや、何に対して希望を抱いて日本まで来たのかということについては理解していなかったに違いない。
しかしやがて教師として彼ほど情熱を傾けて日本の学生にスポーツを指導したお雇い外国人はいなかったし、彼ほどここに至るまでの半生を知られていないものも少ない。また意外なことに彼の教えた教科は体育ではなく英語だったのである。
【この話は史実を基にした小説(フィクション)です】